第23話 公爵令嬢、初めて領地を訪れる
「先生、こちらの資料と、先ほどの報告書で数字が違うわ」
「えっ、どこですか?」
「昨年の小麦の収穫量よ。こちらには前年より二割減ったと書いてあるのに、こっちでは一割程度になっているでしょう?」
視察を三日後に控えた午後、ロザリア様は机いっぱいに広げた資料を指さしながら、不満そうに眉を寄せた。
公爵様から課題を出されて以来、私たちは授業の時間を使って北部の村々について調べていたのだけれど、報告書を読み進めるほど、わからないことが増えている。
「本当ですね。集計した時期が違うのかもしれません」
「それなら、そう書いておくべきでしょう。これでは正しい判断ができないわ」
「そうですね。では、現地で確認する項目に加えておきましょうか」
「ええ。それから、学校が休止している理由もね」
ロザリア様は手元の紙に、丁寧な文字で項目を書き加えた。
農作物の収穫量、土壌の状態、農具の不足、村の人口、学校の休止理由。最初は数行しかなかった質問事項が、今では紙を二枚使うほどになっている。
「……先生」
「はい?」
「本当に、これを全部調べるつもりなの?」
「できる範囲で、ですね。視察の日程もありますから」
「だったら、優先順位を決める必要があるわ」
ロザリア様はしばらく考えたあと、収穫量の項目に印をつけた。
「まずは農作物の問題よ。お父様が調査されるのも、そのためでしょう?」
「はい。私もそう思います」
「学校については、そのあとね」
私は頷いたものの、少しだけ気になった。
(学校の問題も、できれば詳しく知りたいけど……今はロザリア様の課題が優先だよね)
何より、今回の視察には私自身の家庭教師としての評価も懸かっている。
ロザリア様が無理なく学べるよう、私もしっかり支えなくてはならない。
◇
三日後。
私たちは早朝に公爵邸を出発し、北部の村へ向かっていた。
公爵様は先行する馬車に乗り、私とロザリア様は別の馬車で移動している。護衛の騎士たちも同行しており、窓の外には王都とは違う景色が広がっていた。
「わあ……! 見てください、ロザリア様! あちら一面、麦畑ですよ!」
「見ればわかるわよ」
「でも、すごく広いですよ! あんなに遠くまで続いているなんて!」
「先生、少しは落ち着きなさい。窓から身を乗り出したら危ないでしょう?」
「あっ、すみません!」
私は慌てて座り直した。
ロザリア様は呆れたようにため息をついたけれど、本人も窓の外をじっと眺めている。
公爵領については授業で何度も学んできたものの、こうして実際に訪れるのは初めてらしい。
「……思っていたより、家が少ないのね」
「そうですね。村と村の間が離れていますから」
「王都なら、もう少し人がいるでしょう?」
「ええ。でも、その分、農地を広く使えるんだと思います」
「なるほど……」
ロザリア様は小さく頷き、膝の上に置いた手帳へ何かを書き込んだ。
(ふふっ、ちゃんと自分で気づいたことを記録しているんだ)
そんな様子を見ていると、私まで嬉しくなってくる。
けれど、村に近づくにつれて、窓の外の景色は少しずつ変わっていった。
青々とした畑の間に、ところどころ作物がまばらにしか育っていない土地が見え始めたのだ。
「……先生」
「はい?」
「あの畑、何かおかしくない?」
ロザリア様が指さした先には、背丈の低い麦が不揃いに生えていた。
「そうですね。あちらの畑と比べると、ずいぶん育ち方が違います」
「でも、すぐ隣でしょう? 天候だけが原因なら、同じように育つはずではなくて?」
「……確かに」
私は改めて畑を見比べた。
同じ村の中でも、作物の育ち方に大きな差がある。
(これ、報告書には書いてなかったな……)
ロザリア様は手帳を開き、素早く何かを書き加えた。
「現地の人に聞いてみる必要があるわね」
「はい。そうしましょう!」
◇
村へ到着すると、広場には数人の村人と、領地を管理する役人たちが集まっていた。
公爵様が馬車から降りると、一同は深々と頭を下げた。
「遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます」
代表して挨拶したのは、四十代ほどの男性だった。
村長だと紹介された彼は、緊張した面持ちで公爵様を迎えている。
「早速だが、畑の状況を確認したい」
「はい。こちらへご案内いたします」
公爵様が歩き出すと、ロザリア様も背筋を伸ばして後に続いた。
私は少し後ろを歩きながら、周囲の様子を観察する。
家々は古いものが多く、道の端には荷車が何台か停められていた。広場の片隅では、小さな子どもたちがこちらを遠巻きに眺めている。
(あの子たち、学校には通っていないのかな……)
気にはなったけれど、今は視察の途中だ。
私は子どもたちに軽く微笑みかけ、ロザリア様の後を追った。
案内された畑では、村長が作物の状態について説明を始めた。
「昨年から、こちらの畑では収穫量が大きく落ちております。肥料を増やしたり、種を変えたりもしたのですが……」
「原因はわかっているのか?」
公爵様の問いに、村長は困ったように首を振った。
「はっきりとは。ただ、雨の降り方が以前と変わったことも関係しているのではないかと」
公爵様は同行していた役人にいくつか質問し、土壌の調査結果について確認し始めた。
その隣で、ロザリア様は真剣な顔で畑を見つめている。
「……先生、少しいいかしら」
「はい?」
「さっき馬車から見えた畑は、もっとよく育っていたわよね?」
「そうですね」
「なのに、ここはこんなに違う。どうしてかしら」
「それは……私にも、まだわかりません」
私がそう答えると、ロザリア様は少し驚いたようにこちらを見た。
「先生にも?」
「はい。実際に見てみないとわからないことって、たくさんあるんですよ」
「……そう」
ロザリア様は再び畑へ視線を向けた。
「だったら、調べるしかないわね」
「はい!」
私たちは村長の説明に耳を傾けながら、気づいたことを手帳に書き留めていった。
◇
昼過ぎ、視察の一行は村の集会所へ移動した。
公爵様と役人たちが今後の対応について話し合っている間、私とロザリア様は別室で休憩を取ることになった。
「……思っていたより、難しいわね」
椅子に腰を下ろしたロザリア様が、ぽつりと呟いた。
「何がですか?」
「領地の問題よ。資料を読んだときは、もっと簡単に原因がわかると思っていたの」
「そうですね。実際には、いろいろなことが関係していますから」
「それに、村長の話だけでは、まだわからないことも多いわ」
ロザリア様は手帳を開き、眉を寄せた。
「畑によって育ち方が違う理由も、はっきりしなかったし……」
私はその横顔を見つめながら、少し考えた。
(せっかく現地に来たんだし、もう少し別の人の話も聞けたらいいんだけど……)
そう思っていたところで、扉の向こうから小さな声が聞こえてきた。
「……だから、去年の数字じゃ駄目なんだって」
「でも、今年の分はまだ全部まとまってないだろ」
どうやら、集会所の廊下で誰かが話しているらしい。
私は思わず顔を上げた。
「……先生?」
「すみません。少し声が聞こえたので」
そのとき、扉の外で何かが倒れる音がした。
「わっ!」
私は慌てて立ち上がり、扉を開けた。
廊下には、小さな木箱がひっくり返り、中に入っていた紙や帳簿が散らばっていた。
その前で、一人の少年が困ったように立ち尽くしている。
年齢は十歳くらいだろうか。日に焼けた顔に、少しくたびれた服を着ていた。
「あっ、大丈夫?」
私が声をかけると、少年はびくっと肩を震わせた。
「す、すみません!」
「謝らなくていいよ。怪我はない?」
「……ない、です」
「よかった。じゃあ、一緒に拾おうか」
私はしゃがみ込み、床に散らばった紙を集め始めた。
すると、背後からロザリア様の声がした。
「先生、何をしているの?」
「あっ、ロザリア様。ちょっと箱が倒れちゃったみたいで」
「……そう」
ロザリア様は少年を見て、少し眉をひそめた。
「あなた、集会所の仕事をしているの?」
「は、はい……父ちゃんに頼まれて」
「だったら、もっと気をつけなさい。大事な書類だったらどうするの?」
「す、すみません……」
少年はますます小さくなってしまった。
私は慌てて間に入ろうとしたけれど、その前にロザリア様が床の紙を一枚拾い上げた。
「……先生、これ」
「はい?」
「収穫量の記録みたいだけれど、途中から書き方が変わっているわ」
差し出された紙には、村の収穫量らしき数字が並んでいた。
最初の方は作物の種類や畑ごとの収穫量が細かく整理されているのに、途中からは数字だけが並ぶ簡単な記録になっている。
「……あれ?」
私は思わず首を傾げた。
「確かに、途中からずいぶん簡単になっていますね」
すると、少年が小さな声で答えた。
「……先生が、いなくなったから」
「えっ?」
私とロザリア様は同時に少年を見た。
「どういうこと?」
ロザリア様が尋ねると、少年は少しためらったあと、ぽつぽつと話し始めた。
「前は学校の先生が、父ちゃんたちの計算を手伝ってくれてたんだ。でも、学校が閉まってから、先生もいなくなっちゃって……」
「計算を?」
「うん。畑ごとの収穫をまとめたり、去年と比べたりするのを手伝ってくれてた。父ちゃんたちも字は読めるし、数も数えられるけど、細かい計算は難しいんだって」
私は思わず手元の紙を見つめた。
(なるほど……。村の人たちが文字を読めないわけじゃなくて、記録を整理するのを先生が手伝っていたんだ)
「その先生は、どうしていなくなったの?」
私が尋ねると、少年は困ったように視線を落とした。
「……学校を続けるお金が足りなくなったんだって。去年から畑の収穫が悪くなって、村のみんなも大変だったから」
「そうだったんだ……」
「先生がいなくなってから、父ちゃんたちも困ってる。数字をまとめるのに時間がかかるし、前みたいにちゃんと比べられないって」
ロザリア様は紙を見つめたまま、眉を寄せた。
「……それなら、村の役人が計算すればいいのではなくて?」
「役人さんもやってるよ。でも、村の人が出した数字が合わなくて、何度も聞きに来るんだ」
「……そう」
ロザリア様はしばらく考え込んだ。
私はその横顔を見ながら、ふと気づいた。
(もしかして、事前に読んだ報告書の数字が違っていたのも……)
もちろん、まだそうと決まったわけではない。
けれど、村の記録が以前ほど細かく整理されなくなったのなら、報告書を作る段階で数字に食い違いが生じてもおかしくない。
「教えてくれてありがとう。大事なことがわかったよ」
私がそう言うと、少年は少し不思議そうな顔をした。
「……大事なこと?」
「うん。学校の先生がいなくなったことで、子どもたちの勉強だけじゃなくて、村の人たちも困っているんだね」
「……うん」
少年は小さく頷いた。
「俺も、また学校に行きたい。前は、先生がいろんなことを教えてくれたから」
その言葉に、私は胸の奥が少し痛くなった。
「……そっか」
私は少年の目を見て、ゆっくり頷いた。
「今すぐ学校を再開できるとは約束できないけど、どうして閉まってしまったのか、ちゃんと調べたいと思ってる」
「……本当?」
「うん」
少年は少しだけ表情を明るくし、木箱を抱え直した。
「ありがとう!」
そう言って、少年は廊下の向こうへ走っていった。
「……あっ、走ると危ないよ!」
慌てて声をかけると、少年は振り返って小さく手を振った。
その姿を見送りながら、私はそっと息を吐いた。
◇
「……先生」
「はい?」
ロザリア様が、いつになく真剣な表情でこちらを見ていた。
「わたくし、さっきの子が言っていたこと、もう少し詳しく知りたいわ」
「……はい」
「学校が閉まったことと、収穫量の記録が合わないことは、関係があるのかしら?」
「可能性はあります。でも、まだ決めつけることはできません」
「そうね。まずは村長や役人に確認する必要があるわ」
ロザリア様は手帳を開き、何かを書き加えた。
「それに、学校を続けるお金が足りなくなったという話も気になるわ。収穫量が落ちたからといって、すぐに学校を閉めるものなの?」
「……どうなんでしょう」
私は少し考えたあと、首を振った。
「私も、この村の学校がどうやって運営されていたのか、まだ知らないんです」
「先生にもわからないのね」
「はい。だから、調べてみましょう」
ロザリア様は小さく頷いた。
「……わかったわ。まずは、さっきの記録について確認するところからね」
その声には、いつもの強気な響きが戻っていた。
けれど、今度はただ正しい答えを出したいだけではないように思えた。
私はロザリア様の隣に座り、手帳を覗き込んだ。
公爵様から出された課題は、領地の問題について学ぶこと。
けれど、私たちが今日見つけたのは、報告書の数字だけではわからない、もう一つの問題だった。
(……これは、思っていたよりずっと大きな話になりそうだな)
私は少年が歩いていった廊下へ、もう一度目を向けた。




