第22話 公爵様からの難しい課題
「先生、そこは違うわ」
「えっ、どこですか?」
「三行目よ。西部の主要産業が織物になっているけれど、あそこは畜産業の方が盛んでしょう?」
「あっ、本当ですね! すみません、資料を写し間違えていました!」
「まったく。先生が間違えてどうするのよ」
ロザリア様は呆れたようにため息をつきながら、私が広げた地図を指さした。
今日の授業は王国の産業について。地域ごとの気候や地形が産業にどう影響するのかを学んでいたのだけれど、どうやら私が用意した資料に一か所だけ誤りがあったらしい。
「でも、よく気づきましたね! きちんと前の授業を覚えていてくださったんですね」
「当然よ。習ったことを忘れるなんて、ありえないもの」
「ふふっ、頼もしいです!」
「……褒めても何も出なくてよ」
そう言いながらも、ロザリア様は少しだけ満足そうだった。
私は訂正した資料を机に置き、授業を続けようとした。そのとき、扉を叩く音が響いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、執事のセバスチャンさんだった。
「エリシア先生、旦那様がお呼びでございます。授業が終わりましたら、執務室へお越しいただけますでしょうか」
「……公爵様が、ですか?」
「はい」
私は思わず背筋を伸ばした。
公爵様から直接呼び出されることは、これまでほとんどなかった。
(えっ、何だろう? もしかして、何か問題でもあったのかな……)
頭の中に、これまでの授業が次々と浮かんでくる。
橋の模型を作ったこと。ロザリア様に給仕を経験してもらったこと。授業の途中で予定を変えて、興味のあることを優先した日もあった。
どれも必要だと思って行ったことだけれど、公爵家の方針から外れていると言われれば、否定しきれない部分もある。
「先生?」
「あっ、はい!」
「どうしたのよ。急に黙り込んで」
「い、いえ! 何でもありません!」
「……そうは見えないけれど」
ロザリア様は不思議そうに私を見つめたものの、それ以上は追及せず、再び教科書へ視線を戻した。
「それより、続きを始めましょう。まだ途中でしょう?」
「そうですね!」
私は慌てて笑顔を作り、授業を再開した。
けれど、いつもより少しだけ、時計の針が進むのを早く感じた。
◇
「失礼いたします。エリシア・ベルフォードです」
「入りなさい」
授業を終え、セバスチャンさんに案内されて公爵様の執務室へ入ると、机の向こうにヴァレンシュタイン公爵が座っていた。
整然と積まれた書類の横には、領地の地図が広げられている。
「掛けなさい」
「はい。失礼いたします」
私は勧められた椅子に腰を下ろし、膝の上でそっと手を重ねた。
公爵様は書類を閉じると、まっすぐ私を見た。
「ベルフォード嬢。君がロザリアの家庭教師になってから、しばらく経つな」
「はい」
「娘の学習状況については、定期的に報告を受けている。成績は申し分なく、以前よりも自分から課題に取り組むようになったそうだ」
「はい! ロザリア様はとても努力家ですから、興味を持ったことには驚くほど集中されるんです」
思わず嬉しくなって答えると、公爵様はわずかに頷いた。
「その点は評価している。しかし、君の教育方針については、まだ判断しかねている」
「……と、おっしゃいますと?」
「給仕体験をさせたそうだな」
「は、はい」
「模型作りにも、随分と時間を割いていると聞く」
「はい。ですが、どちらもロザリア様に必要な経験だと考えておりまして……」
「その意図は理解している」
公爵様は私の言葉を遮るように、静かに続けた。
「だが、娘にはいずれ王太子妃となることを期待している。単に知識が豊富であるだけでも、興味のあることに熱心であるだけでも、その役目は務まらない」
私は口を閉じた。
ロザリア様が置かれている立場を考えれば、公爵様の言うことにも一理ある。
けれど、だからといって、今までの授業が無意味だったとは思わない。
「……公爵様。私は、ロザリア様には自分で考え、判断できる方になっていただきたいと思っています」
「ほう」
「もちろん、礼儀や知識も大切です。でも、それだけでは、初めて直面する問題に対応できないこともあると思うんです」
緊張で声が少し震えたけれど、私は公爵様から目を逸らさなかった。
「だからこそ、失敗しても自分で考え直したり、今まで知らなかった立場の人の気持ちを想像したりする経験を、大切にしたいと考えています」
公爵様はしばらく黙っていた。
やがて、机の上に広げられた地図へ視線を落とす。
「……ならば、その教育がどれほど役に立つのか、確かめてみよう」
「えっ?」
「君に一つ、課題を与える」
公爵様は一枚の報告書を私の前へ差し出した。
「我が領地の北部で、昨年から農作物の収穫量が落ちている。原因はいくつか考えられるが、現地からの報告だけでは判断が難しい状況だ」
「収穫量が……」
「すでに担当者を派遣して調査を進めているが、今度は私自身も現地へ赴く予定だ。ロザリアも同行させる」
私は驚いて顔を上げた。
「ロザリア様も、ですか?」
「ああ。領地を治める一族の者として、机上の知識だけでなく、現実の問題に触れる必要があるだろう」
公爵様はそこで言葉を区切り、改めて私を見た。
「そして、君にも同行してもらう」
「……私も?」
「君は、自分で考え、判断する力を育てたいと言ったな」
「はい」
「ならば、今回の視察を通じて、ロザリアに何を学ばせることができるのか見せてもらいたい」
公爵様の声は穏やかだったけれど、その言葉には明確な重みがあった。
「ただ見学させるだけでは足りない。現地で得た情報をもとに、ロザリア自身に問題を整理させ、領主の一族として何ができるかを考えさせなさい。視察後には、その成果を私に報告してもらう」
「……承知しました」
「もっとも、十一歳の娘に領地の問題を解決させようというわけではない。実際の対応は担当者たちの仕事だ」
公爵様はそう前置きしてから、続けた。
「私が見たいのは、君の指導によって、ロザリアがどのように物事を考えるようになったのかということだ」
私は膝の上で重ねた手に、そっと力を込めた。
(これは、ロザリア様だけじゃなくて、私自身への試験なんだ)
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だね?」
「もし、ご期待に添えなかった場合は……」
公爵様は少しの間、私を見つめていた。
「そのときは、ロザリアの教育方針を改める必要があるだろう」
「……!」
「君の指導が娘に適していないと判断すれば、別の家庭教師を迎えることも検討する」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
家庭教師の仕事を失うかもしれない。
もちろん、それも怖い。けれど、それ以上に、ロザリア様の成長をこれからも見守っていけなくなることが、私には何よりつらかった。
「……わかりました」
私は深く息を吸い、顔を上げた。
「精いっぱい、務めさせていただきます」
公爵様は静かに頷いた。
「期待している」
◇
「先生、お父様は何とおっしゃっていたの?」
執務室を出たあと、私はロザリア様に呼び止められた。
どうやら、ずっと気になっていたらしい。
「実は、近いうちに公爵様が領地の視察へ行かれるそうで、ロザリア様にも同行していただきたいとのことでした」
「……わたくしが?」
「はい。私もご一緒することになりました」
ロザリア様は驚いたように目を見開いたあと、すぐに表情を引き締めた。
「そう。なら、準備をしなくてはいけないわね」
「そうですね。現地の様子を知るためにも、事前に資料を読んでおきましょう」
「当然よ。お父様に恥をかかせるわけにはいかないもの」
ロザリア様はそう言うと、少し考え込んだ。
「それで、視察では何をするの?」
「領地の北部で、農作物の収穫量が落ちているそうなんです。その原因や、現地の人たちが困っていることを調べる予定だと伺いました」
「収穫量が……」
ロザリア様は眉をひそめた。
「だったら、まず過去の収穫量と比較するべきね。天候や土壌の状態も調べないと」
「はい! とても大切なことだと思います」
「ほかにも、作物の種類や栽培方法によって違いがあるかもしれないわ」
ロザリア様は次々と考えを口にしながら、近くの机に置かれていた紙を引き寄せた。
私はその様子を見つめながら、少し迷った。
公爵様から出された課題について、どこまで伝えるべきだろう。
家庭教師の交代が懸かっていると知れば、ロザリア様はきっと必要以上に自分を追い込んでしまう。
(でも、何も知らせないまま進めるのも違うよね)
「ロザリア様。実は、今回の視察について、公爵様から私にも課題が出されているんです」
「先生にも?」
「はい。ロザリア様が現地で何を見て、何を考えたのか。それを最後に公爵様へ報告していただくことになっています」
「……そう」
ロザリア様は紙に向けていた視線を上げた。
「それなら、立派な報告書を作らなくてはいけないわね」
「もちろん、できる限りの準備はしましょう。でも、最初から立派な答えを出そうとしなくても大丈夫ですよ」
「……どういうこと?」
「現地へ行けば、わからないこともたくさんあると思うんです。だから、まずは何が起きているのか、ちゃんと知ることから始めましょう」
ロザリア様は少し不満そうに眉を寄せた。
「でも、お父様に間違ったことを報告するわけにはいかないでしょう?」
「そうですね。だからこそ、わからないことをわからないままにせず、確かめることが大切なんです」
「……ふうん」
ロザリア様はしばらく考えたあと、再び紙へ目を落とした。
「だったら、現地で聞くことを先にまとめておくわ。何も準備せずに行くなんて、時間の無駄だもの」
「はい! 一緒に考えましょう!」
「先生はまず、北部の村の資料を用意してちょうだい」
「わかりました!」
「それから、地図も必要ね。村同士の位置関係がわからないと困るもの」
「はい!」
「……あと、先生自身のためにも、ちゃんと道を調べておいてね」
「えっ?」
「知らない土地で迷子になられたら、わたくしが困るでしょう?」
「うっ……気をつけます!」
ロザリア様は呆れたようにため息をつきながらも、少しだけ口元を緩めた。
◇
その日の帰り道、私は馬車の窓から流れる街並みを眺めていた。
膝の上には、公爵様から渡された領地の資料が置かれている。
北部の村々では、昨年から収穫量が落ちている。原因はまだはっきりしておらず、現地の担当者たちも対応に苦慮しているらしい。
ロザリア様にとっては、初めて領地の問題に直接触れる機会になる。
そして私にとっては、今まで続けてきた授業の意味を、公爵様に示さなければならない機会でもあった。
(……正直、怖いな)
家庭教師になったばかりの頃、ロザリア様は私の言葉にほとんど耳を貸してくれなかった。
それでも、一緒に勉強して、失敗して、少しずつ話をするようになった。今では私の体調を気にかけてくれることさえある。
もちろん、まだまだ課題はたくさんある。使用人への接し方だって、簡単には変わらない。
でも、私はあの子がこれからどう成長していくのか、もっと見ていたい。
(だから、ここで終わるわけにはいかないよね)
私は資料を開き、最初のページに目を通した。
そこには、視察予定地の一つである小さな村について、簡単な説明が記されていた。
人口はおよそ三百人。主な産業は農業で、近年は若い働き手が減っているという。
そして、最後の項目を読んだところで、私は思わず手を止めた。
『村内の初等教育施設は、現在休止中』
「……えっ?」
私はその一文を、もう一度読み返した。
休止中。
つまり、その村では今、学校が使われていないということだろうか。
(どうして……? 教師がいないのかな。それとも、ほかに理由があるの?)
報告書には、それ以上の詳しい説明は書かれていなかった。
私はしばらくその一文を見つめたあと、手帳を取り出し、気になったことを書き留めた。
農作物の収穫量が落ちている村で、学校まで休止している。
この二つの問題に関係があるのかどうか、今の私にはわからない。
けれど、現地へ行けば、何か見えてくるかもしれない。
(ロザリア様にも、ちゃんと見てほしいな。報告書の数字だけじゃわからない、そこに暮らしている人たちのことを)
私は手帳を閉じ、窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの王都は、いつもと変わらず賑やかだった。
その一方で、遠く離れた公爵領には、今も困っている人たちがいる。
そして、私たちはこれから、その場所へ向かうことになる。
公爵様から出された課題は、思っていた以上に難しいものになりそうだった。




