第20話 第一王子は目立ちたくない
王宮の東棟にある執務室は、昼間でもどこか静かだった。
窓から差し込む陽光が机の上の書類を照らし、開け放たれた窓からは庭園の木々が風に揺れる音が聞こえてくる。
「殿下、こちらが本日届いた報告書でございます」
「ああ、ありがとう。そこに置いてくれるかな」
アルベルト・アステリアは書類から顔を上げ、年配の侍従に穏やかに微笑んだ。
十六歳という若さながら、彼の机には王都の財政報告や地方行政に関する資料が積み上がっている。ただし、それらの多くは正式な政務として任されたものではなく、彼が自分の勉強のために取り寄せたものだった。
第一王子という立場にありながら、アルベルトには国政に関わる機会がほとんど与えられていない。
現国王の長男である彼は、本来なら王位継承の有力候補であるはずだった。しかし、王妃が産んだ第二王子レオンハルトが王太子に定められてからというもの、宮廷の関心はそちらへと集中していた。
アルベルトの母は王妃ではなく、すでにこの世を去っている。
その死について宮廷では様々な噂が囁かれていたが、真相を知る者は少なく、アルベルト自身も口にすることはなかった。
「……また、地方からの陳情が増えているんだね」
報告書を読みながら、アルベルトは小さく呟いた。
「はい。特に北部の農村では、昨年の不作による影響が続いているようでございます」
「税の軽減については?」
「すでに担当部署へ申し入れがあったようですが、まだ結論は出ておりません」
「そうか……」
アルベルトは資料に目を落とし、しばらく考え込んだ。
王子という身分があっても、正式な権限を与えられていない彼にできることは限られている。
下手に意見を出せば、王太子の立場を脅かそうとしていると受け取られる可能性さえあった。
(余計なことはしない。それが、ここで生きていくための一番確実な方法だ)
そう自分に言い聞かせながらも、困っている人々の報告を読むたび、何もできないことへのもどかしさが胸に残った。
◇
「兄上、失礼します」
控えめな声とともに扉が開き、金色の髪をした少年が顔を覗かせた。
「レオンハルト。どうしたんだい?」
「少し、お話ししたいことがありまして」
第二王子レオンハルト・アステリアは、アルベルトより四歳年下の十二歳。
王太子として厳しい教育を受けている彼は、まだ幼さの残る顔立ちながらも、礼儀正しく落ち着いた振る舞いを身につけていた。
「先日の交流会のことなのですが……」
「ああ、ヴァレンシュタイン公爵家のお嬢様が来ていたんだったね」
「はい。ロザリア嬢です」
レオンハルトは少し嬉しそうに頷いた。
「彼女は橋の模型を作っているそうです。とても興味深い話を聞かせてもらいました」
「橋の模型?」
「ええ。重さを支えるために、形を工夫しているそうなんです。今度、実物を見せてもらえたらと思って」
「それは面白そうだね」
アルベルトは穏やかに答えた。
王太子としての立場を考えれば、レオンハルトには政治的な意味を持つ交流も多いだろう。それでも、今の彼は純粋に同年代の少女の話を楽しんでいるように見えた。
「兄上も、そういうものはお好きでしょう?」
「そうだね。機会があれば見てみたいな」
「では、いつかご一緒に……」
そこまで言いかけたレオンハルトは、ふと口を閉じた。
アルベルトはその理由を察し、何でもないことのように微笑んだ。
「僕のことは気にしなくていいよ。君が楽しめたなら、それで十分だ」
「……はい」
レオンハルトは少し申し訳なさそうに頷いた。
兄弟の仲が悪いわけではない。
ただ、二人の間には本人たちの意思とは関係のない事情があり、レオンハルトも幼いながらにそれを理解し始めていた。
「そういえば、兄上」
「うん?」
「最近、少し楽しそうですね」
「僕が?」
「はい。何か良いことでもあったのですか?」
アルベルトは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……どうしてそう思うんだい?」
「以前より、よく笑っていらっしゃる気がします」
「そうかな」
曖昧に答えながら、アルベルトはふと先日の庭園を思い出した。
迷子になっていた少女が、楽しそうに勉強の話をしていたこと。
知らないことがあるからこそ、これからが楽しみなのだと笑っていたこと。
(あの子の話を思い出すと、確かに少し気持ちが軽くなる気がする)
「ちょっと、面白い話を聞く機会があってね」
「面白い話、ですか?」
「うん。大したことじゃないよ」
アルベルトがそう答えると、レオンハルトはそれ以上追及せず、小さく微笑んだ。
「それなら、よかったです」
◇
レオンハルトが帰ったあと、アルベルトは再び机に向かった。
しかし、先ほどまで読んでいた報告書に目を通しているうちに、ふと別のことが気になり始める。
(ヴァレンシュタイン公爵家の家庭教師……だったね)
庭園で出会った少女は、確かそう名乗っていた。
エリシア・ベルフォード。
十五歳で王立学院の初等課程を卒業し、大学に進むために家庭教師として働いているという、少し珍しい経歴の持ち主だ。
「……セドリック」
「はい、殿下」
部屋の隅に控えていた侍従が、静かに頭を下げた。
「王立学院の図書館には、地方の教育制度についての資料もあるのかな?」
「学院の図書館でございますか?」
「うん。最近、地方の学校について少し調べていてね」
「それでしたら、教育制度に関する文献はかなり充実しているかと存じます。王宮の書庫にはない資料も所蔵されているはずです」
「そうか。ありがとう」
アルベルトは小さく頷いた。
王立学院の図書館は、一定の資格を持つ者であれば卒業後も利用できる。
王族であるアルベルトにとって、そこへ足を運ぶこと自体は難しいことではない。ただし、あまり頻繁に外出すれば、余計な注目を集めることになるだろう。
(図書館か……)
アルベルトは窓の外へ視線を向けた。
庭園の木々は、今日も変わらず風に揺れている。
あの日、エリシアが目を輝かせながら話していた姿が、ふと脳裏に浮かんだ。
(彼女なら、こういう資料にも興味を持つのかな)
そんなことを考えた自分に、アルベルトは少しだけ苦笑した。
ほんの短い時間話しただけの相手なのに、どうしてこんなに印象に残っているのだろう。
「殿下、学院へのお出かけをご希望ですか?」
セドリックの問いかけに、アルベルトは少し考えてから答えた。
「そうだね。近いうちに、一度行ってみようかな」
「承知いたしました。必要な手配を進めておきます」
「ああ、頼むよ」
アルベルトは再び報告書に目を落とした。
地方の教育制度について調べたいというのは本当だったし、学院の図書館に行けば、今まで知らなかったことを学べるかもしれない。
(まだ知らないことがあるって、それだけ楽しみが残っている、か)
エリシアの言葉を思い出しながら、アルベルトは静かにページをめくった。
いつもと変わらないはずの午後だったけれど、今日は少しだけ、次の外出が楽しみに思えた。




