第15話 王宮交流会と第二王子殿下
「エリシア先生! そこのリボン、曲がっていなくて?」
「えっ、どこですか?」
「右側よ、右側!」
「あっ、本当ですね。少し直しますね」
交流会当日の朝。
ヴァレンシュタイン公爵邸では、早くからロザリア様の身支度が進められていた。
淡い水色のドレスに、銀糸で刺繍された小さな花模様。銀色の髪は丁寧に結い上げられ、青い宝石の髪飾りがきらきらと輝いている。
……うん、すごく綺麗。
「ロザリア様、とてもお似合いです!」
「……当然でしょう。わたくしのために仕立てたものだもの」
そう言いながらも、ロザリア様は鏡の前で何度も角度を変えていた。
「……本当に、おかしくない?」
「はい。どこから見ても素敵ですよ」
「……そう」
ロザリア様は小さく頷き、ようやく鏡から離れた。
けれど、その指先はドレスの裾をぎゅっと握っている。
……緊張しているんだろうな。
「ロザリア様」
「何よ」
「今日は、練習してきたことを全部完璧にやろうとしなくても大丈夫ですよ」
「……は?」
「もちろん、礼儀は大切です。でも、交流会ですから、少しは楽しんできてくださいね」
「……あなた、簡単に言うわね」
ロザリア様は少しだけ眉をひそめた。
「わたくしが失敗したら、お父様とお母様に何と言われるか……」
「……」
「……いえ、何でもないわ」
ロザリア様は首を振り、背筋を伸ばした。
「行きましょう、エリシア先生」
「はい!」
私は笑顔で頷き、彼女のあとを追った。
◇
「……わあ」
王宮の正門をくぐった瞬間、思わず声が漏れた。
高い白壁に囲まれた広大な敷地。噴水のある庭園の向こうには、白亜の宮殿がそびえ立っている。
……すごい。
ゲームの背景で見たことはあったけれど、実物は想像以上だ。
「エリシア先生」
「はい?」
「口が開いているわ」
「……あっ!」
慌てて口を閉じると、ロザリア様は呆れたようにため息をついた。
「まったく。あなたまで緊張してどうするのよ」
「す、すみません……」
「それに、絶対に一人で歩かないでちょうだい」
「はい! ちゃんと覚えています!」
「……本当かしら」
ロザリア様は疑わしそうに私を見た。
……うう、信用がない。
宮殿の入口では、王宮の侍従が私たちを迎えてくれた。
「ヴァレンシュタイン公爵家の皆様、ようこそお越しくださいました」
公爵夫妻が先に案内され、ロザリア様と私は別の侍従に従って控室へ向かう。
磨き上げられた床に、天井から下がる大きなシャンデリア。
廊下の壁には歴代の王族の肖像画が並んでいて、つい目を奪われてしまう。
「エリシア先生、前を見なさい」
「は、はい!」
……危ない危ない。
今日は絶対に迷わないって決めたんだから。
◇
交流会の会場は、王宮の東側にある大広間だった。
色とりどりの花が飾られ、窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。
すでに多くの貴族の子どもたちが集まっていて、あちこちで楽しそうな会話が交わされていた。
「……」
ロザリア様は入口で一度立ち止まり、小さく息を吸った。
そして、いつもの堂々とした表情を浮かべる。
「エリシア先生」
「はい」
「わたくし、行ってくるわ」
「はい。楽しんできてくださいね」
「……ふん。言われなくても」
そう言って、ロザリア様は会場へ足を踏み入れた。
私は侍従に案内され、会場に隣接する控室で待機することになった。
……さて。
ここからは、ロザリア様を信じて待つしかない。
私は窓際の椅子に腰を下ろし、そっと息を吐いた。
◇
しばらくして、会場から小さなどよめきが聞こえてきた。
「レオンハルト殿下のご入場です」
侍従の声に、私は思わず顔を上げた。
……レオンハルト殿下。
乙女ゲーム『花冠の誓い』に登場する、第二王子。
ロザリア様の婚約者候補であり、将来の王太子として期待されている人物だ。
……いや、正確には、すでに王太子に指名されているんだったかな。
私は控室の扉の近くへ移動し、会場の様子をそっと覗いた。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。
十二歳とは思えないほど落ち着いた雰囲気をまとった少年が、数人の侍従を従えて歩いている。
……あ。
ゲームで見た姿に、少し似ている。
もちろん、今はまだ幼いけれど。
レオンハルト殿下は集まった貴族たちに挨拶を交わしながら、ゆっくりと会場を進んでいった。
そして、ロザリア様の前で足を止める。
「ヴァレンシュタイン公爵家のロザリア嬢だね」
「はい。ロザリア・ヴァレンシュタインでございます」
ロザリア様は優雅に一礼した。
「本日はお招きいただき、誠に光栄に存じます」
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
レオンハルト殿下は穏やかに微笑んだ。
「君のことは、父上からも聞いているよ。とても優秀な令嬢だそうだね」
「……恐れ入ります」
ロザリア様の声は落ち着いている。
……よかった。
練習したとおりにできている。
「最近は、どんな勉強をしているの?」
レオンハルト殿下が尋ねた。
……あっ。
これは、練習した質問だ!
ロザリア様は一瞬だけ考え込んだ。
「最近は、歴史や外交について学んでおります。それから……」
少しだけ言葉を止める。
「……橋の構造についても、興味を持っております」
……!
私は思わず笑顔になった。
ロザリア様、自分の好きなことを話してくれたんだ。
「橋の構造?」
レオンハルト殿下は少し驚いたように目を瞬かせた。
「それは珍しいね。どうして興味を持ったの?」
「……家庭教師の先生と、橋を作る授業をいたしまして」
「橋を?」
「はい。小さな模型ですけれど、重さに耐えられるように工夫するのが、とても面白かったのです」
ロザリア様は少しだけ頬を赤くした。
「……もちろん、遊びではなく、構造を学ぶための授業ですわ」
「なるほど。面白そうだね」
レオンハルト殿下は興味深そうに頷いた。
「僕も一度、見てみたいな」
「……えっ?」
「君が作った橋だよ。どんな工夫をしたのか、気になる」
ロザリア様は驚いたように目を見開いた。
けれど、すぐに嬉しそうな表情を浮かべる。
「……はい! 機会がございましたら、ぜひ!」
……よかった。
私はほっと胸を撫で下ろした。
ロザリア様、ちゃんと楽しそうに話している。
それが何より嬉しかった。
◇
交流会が始まって一時間ほど経った頃。
私は控室で、少しだけ困っていた。
「……お手洗い、どこだろう」
……いや、ちゃんと案内は受けたんだけど。
さっきまで一緒にいた侍従さんが、急な用事で席を外してしまったのだ。
もちろん、戻ってくるまで待てばいい。
……でも。
「……ちょっとだけなら、大丈夫かな」
私は控室の扉を開け、廊下へ出た。
確か、右に曲がって、二つ目の角を左だったはず。
……うん、覚えてる。
私は慎重に歩き始めた。
右に曲がって。
二つ目の角を左。
……あれ?
「……ここ、どこ?」
目の前には、見覚えのない廊下が続いていた。
……おかしいな。
さっき通った場所と、少し違う気がする。
私は慌てて振り返った。
……けれど。
後ろにも、同じような廊下が続いている。
「……うそ」
……やってしまった。
あれだけ注意されたのに。
私は王宮で、見事に迷子になってしまったのだった。
◇
「……どうしよう」
私は小さく呟きながら、廊下を歩いていた。
誰かに道を尋ねようにも、なかなか人が見つからない。
……というか。
さっきから、どんどん静かな場所に来ている気がする。
「……あれ?」
ふと、廊下の先に明るい光が見えた。
近づいてみると、そこには庭園へ続く扉があった。
……庭園。
ロザリア様から、絶対に一人で入らないように言われていた場所だ。
「……」
私はしばらく扉を見つめた。
……でも、ここで立ち止まっていても仕方ない。
誰か、庭師さんでもいないかな。
そう思って、そっと扉を開けた。
目の前には、色とりどりの花が咲く美しい庭園が広がっていた。
「……わあ」
思わず声が漏れる。
整えられた生け垣に、白い石畳の小道。
中央には小さな噴水があり、その向こうには薔薇の花が咲いている。
……すごく綺麗。
私はしばらく見惚れてしまった。
そのとき。
「……君、そこで何をしているの?」
突然、背後から声がした。
「ひゃっ!?」
驚いて振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
年齢は、私と同じくらいだろうか。
黒髪の落ち着いた雰囲気の、端正な顔立ちをした少年だった。
……えっと。
誰だろう?
少なくとも、見覚えはない。
「……あの」
私は慌てて姿勢を正した。
「す、すみません! 実は、少し道に迷ってしまいまして……」
「……道に?」
「はい。控室に戻ろうと思ったんですけど、気づいたらここに……」
少年は少しだけ目を丸くした。
そして、ふっと小さく笑った。
「……なるほど。迷子か」
「……はい」
……うう。
恥ずかしい。
私は思わず俯いた。
けれど、少年はそれ以上笑うことなく、穏やかに言った。
「この庭園は、初めて来た人には少しわかりにくいからね」
「……そうなんですか?」
「うん。僕も、昔はよく迷ったよ」
「えっ、本当ですか!?」
「……まあ、少しだけね」
少年は小さく微笑んだ。
「よかったら、案内しようか?」
「……いいんですか!?」
「もちろん。どこへ戻りたいの?」
「東側の大広間の近くにある控室です!」
「……なるほど」
少年は少しだけ考え込んだあと、頷いた。
「それなら、こっちだよ」
「ありがとうございます!」
私は慌てて頭を下げた。
……よかった。
親切な人に出会えて、本当に助かった。
私は少年のあとを追いながら、ほっと息を吐いた。
……このときの私は、まだ知らなかった。
目の前の少年が、どんな立場の人物なのか。
そして、この出会いが、これからの私の人生にどんな影響を与えるのかを。




