第11話 初めての「ありがとう」
「いらっしゃいませ!」
「……いらっしゃいませ」
「ロザリア様、もう少し笑顔で!」
「笑っているでしょう!」
「いえ、どちらかというと怒っているような……」
「エリシア先生!」
「は、はい!」
課外授業が始まって十分。
私は早くも、この計画の難しさを思い知っていた。
喫茶店には招待されたお客様が三組。いずれもクラリスの家と親交があり、今日の実習について説明を受けている方々だ。
もちろん、ロザリア様が公爵令嬢であることも承知している。
それでも、本人はひどく不満そうだった。
「どうして、わたくしがお客様に頭を下げなければならないの?」
「今日は給仕役ですからね」
「わかっているわ! でも、わたくしの方が身分は上でしょう?」
「ロザリア様。お客様をもてなすときは、相手の身分だけで態度を変えない方が素敵ですよ」
「……あなた、また説教?」
「いえ、接客の説明です!」
「同じことじゃない!」
……うう、前途多難だ。
すると、隣で様子を見ていたクラリスがくすっと笑った。
「ロザリア様、よろしければ私がお手本をお見せしますわ」
「……別に、見なくてもできるわ」
「まあ、そうおっしゃらずに」
クラリスは優雅に微笑むと、近くのテーブルへ向かった。
「いらっしゃいませ。本日はお越しいただき、ありがとうございます。ご注文はお決まりでしょうか?」
「ええ。紅茶と、こちらの焼き菓子をお願いできるかしら」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
流れるような所作で一礼し、クラリスは戻ってきた。
「……どうかしら?」
「……普通ね」
「まあ、手厳しいですわね」
クラリスは楽しそうに笑った。
「では、次はロザリア様の番ですわ」
「……ふん。見ていなさい」
ロザリア様は背筋を伸ばし、堂々とテーブルへ向かった。
その姿だけなら、完璧な公爵令嬢だ。
「……ご注文は?」
ただ、声が少し怖い。
お客様の女性は穏やかに微笑んだ。
「おすすめのお茶を教えていただけるかしら?」
「おすすめ?」
「ええ。今日は少し甘いお菓子をいただきたいので、それに合うものがあれば」
ロザリア様は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……紅茶でよろしいのではなくて?」
「どんな紅茶がいいかしら?」
「……それは」
ロザリア様の眉がぴくりと動く。
……あ、まずい。
「ロザリア様、こちらの茶葉は香りが華やかで、甘いお菓子にも合うそうですよ」
私が横からそっと助け舟を出すと、ロザリア様はむっとした顔をした。
「わかっているわ!」
「えっ、あ、はい!」
ロザリア様は改めてお客様へ向き直った。
「……こちらの紅茶がおすすめですわ」
「まあ、ありがとう。では、それをお願いするわね」
「……かしこまりました」
ロザリア様はぎこちなく一礼し、こちらへ戻ってきた。
「……どう?」
「よかったですよ! 最後はちゃんとおすすめできましたね」
「当然でしょう!」
「ただ、お客様の前で私を叱るのは、少し控えた方がいいかもしれません」
「……っ、あなたが余計な口を挟むからでしょう!」
……うん、まだまだ練習が必要そうだ。
◇
「紅茶二つ、焼き菓子三つ……それから、果実水が一つ」
ロザリア様は注文を書いた紙を見つめ、何度も小さく呟いていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫に決まっているでしょう。これくらい覚えられるわ」
「はい。では、運ぶときは気をつけてくださいね」
「わかっているわ!」
そう言ってお盆を持ち上げたロザリア様は、慎重に歩き始めた。
最初のテーブルには、無事に紅茶を置くことができた。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
少しだけぎこちないけれど、ちゃんとできている。
……よかった!
私はほっと胸を撫で下ろした。
けれど、次のテーブルへ向かう途中。
「……あっ」
ロザリア様の足が、わずかに止まった。
お盆の上には、焼き菓子が三つ。
でも、どのテーブルにいくつ運ぶのか、わからなくなってしまったらしい。
「……」
ロザリア様は周囲を見回した。
私と目が合う。
「ロザリア様、注文票を確認してもいいんですよ」
「……必要ないわ」
「でも……」
「わたくしが覚えていないとでも言いたいの!?」
声が少し大きくなった。
近くのお客様がこちらを見る。
ロザリア様ははっとしたように口を閉じた。
「……っ」
そのまま、彼女は焼き菓子を一つ、近くのテーブルへ置いた。
「お待たせいたしました」
「あら?」
お客様の女性が首を傾げる。
「私がお願いしたのは、二つだったと思うのだけれど」
「……え?」
ロザリア様の顔が強張った。
「……そんなはずは」
「ロザリア様、こちらの注文票では二つになっていますね」
私が紙を示すと、彼女は唇をきゅっと結んだ。
「……っ」
そして、小さな声で言った。
「……申し訳、ございません」
……!
思わず顔を上げそうになったけれど、私は何も言わずに見守った。
お客様は優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。まだ一つしか置いていないもの。もう一ついただけるかしら?」
「……はい」
ロザリア様は慎重に二つ目の焼き菓子を置いた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
お客様がそう言うと、ロザリア様は少し驚いたように目を見開いた。
「……え?」
「丁寧に運んでくださったでしょう? ありがとう」
「……」
ロザリア様は何も言えず、ただ小さく頭を下げた。
◇
「……疲れたわ」
休憩時間になり、ロザリア様は控室の椅子へぐったりと座り込んだ。
「お疲れさまです!」
「あなた、よくそんなに元気でいられるわね……」
「えへへ。私も結構疲れましたよ」
「嘘でしょう。ずっと笑っていたじゃない」
「笑っていても疲れるときはありますよ」
「……変なの」
ロザリア様は小さくため息をついた。
すると、クラリスが冷たい果実水を三つ持ってきた。
「お疲れさま。二人とも、よく頑張ったわね」
「クラリス様……」
「ロザリア様、初めてにしては上出来でしたわ」
「……お世辞は結構よ」
「あら、お世辞ではありませんわ。途中で投げ出さず、最後までお客様に対応されていましたもの」
「……それくらい、当然でしょう」
ロザリア様はそう言いながら、果実水を一口飲んだ。
しばらく沈黙が続いたあと、ぽつりと呟く。
「……あんなに、大変だとは思わなかったわ」
「給仕のお仕事ですか?」
「……ええ」
ロザリア様は視線を落とした。
「注文を覚えて、間違えないように運んで、それなのにお客様から別のことを聞かれて……」
「そうですね。覚えることがたくさんありますよね」
「……でも」
ロザリア様は少しだけ顔を上げた。
「最後のお客様、わたくしが間違えたのに、怒らなかったわ」
「はい」
「……それどころか、ありがとうって」
その声は、いつもよりずっと小さかった。
「……変な人ね」
私は思わず微笑んだ。
「そうでしょうか?」
「だって、わたくしは間違えたのよ?」
「でも、ちゃんと直して、最後までお届けできましたから」
「……」
「それに、ロザリア様が頑張って運んでくださったことも、嬉しかったんだと思います」
ロザリア様はしばらく黙っていた。
やがて、ふんと顔を背ける。
「……まあ、悪い気分ではなかったわ」
「そうですか!」
「だから、そんなに嬉しそうにしないでちょうだい!」
……あはは、つい。
◇
課外授業を終え、公爵邸へ戻った頃には、すっかり夕方になっていた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
いつものメイドが玄関で出迎える。
「……疲れたわ。お茶を用意してちょうだい」
「かしこまりました」
「それから、お菓子はいつものものにして。今日は変わったものを食べる気分じゃないの」
「はい。すぐにご用意いたします」
メイドが一礼して廊下を歩いていく。
その背中を、ロザリア様は何となく目で追っていた。
「ロザリア様?」
「……何よ」
「いえ、何でもありません」
「変な先生ね」
そう言って歩き出したロザリア様を、私は慌てて追いかけた。
◇
学習室に戻ってしばらくすると、メイドがお茶を運んできた。
お盆の上にはティーポットとカップ、それからロザリア様が好きな焼き菓子が並んでいる。
「お待たせいたしました、お嬢様」
「……ええ」
メイドは手際よくカップを並べ、お茶を注いだ。
その動きには迷いがなく、最後までお盆が傾くこともない。
ロザリア様はじっとその手元を見つめていた。
「……あなた」
「はい?」
「それ、難しくないの?」
メイドが不思議そうに瞬きをする。
「お茶をお運びすることでございますか?」
「そうよ。カップをいくつも載せて、よくこぼさないわね」
「ありがとうございます。長くお仕事をしておりますので、慣れております」
「……ふうん」
ロザリア様はそれきり黙ってしまった。
メイドが一礼して下がろうとすると、ふと思い出したように口を開く。
「……ああ、待ちなさい」
「はい、お嬢様」
「お茶菓子、今日は少し小さいんじゃなくて?」
「申し訳ございません。本日は厨房で、いつもより小さめに焼き上げたそうで……」
「まったく。どうして勝手に変えるのかしら」
ロザリア様は不満そうに眉をひそめた。
メイドの肩がわずかに強張る。
「次からは、いつもどおりの大きさにしてちょうだい」
「かしこまりました」
それだけ告げると、ロザリア様はカップを持ち上げた。
メイドはほっとしたように一礼し、部屋を出ていく。
私は何も言わず、紅茶を一口飲んだ。
「……何よ」
「え?」
「あなた、また何か言いたそうな顔をしているわ」
「そうですか?」
「そうよ。わたくしのことを見ていたでしょう」
「……今日は、お疲れさまでした」
「話をそらさないでちょうだい!」
ロザリア様はむっとした顔で焼き菓子を手に取った。
……うん。
まだ、急には変わらないよね。
それでも、さっきのロザリア様は、メイドさんの手元をじっと見ていた。
いつもなら気にも留めなかったことが、少しだけ気になったのかもしれない。
◇
その夜、ロザリアは自室で一人、昼間の出来事を思い返していた。
注文を間違えたこと。
お盆を持つ手が震えたこと。
そして、お客様から言われた言葉。
『ありがとう』
「……変なの」
ロザリアは小さく呟いた。
あの程度のことで、どうしてお礼なんて言うのかしら。
給仕は仕事なのだから、きちんとできて当然でしょう?
そう思うのに、あの言葉を思い出すと、少しだけ胸が温かくなる。
「……それにしても」
ロザリアは昼間のメイドの姿を思い浮かべた。
いくつものカップを載せたお盆を、まったく揺らさずに運んでいた。
自分はあんなに苦労したのに、彼女は簡単そうにやってのけた。
「……慣れているだけよ」
小さく呟いて、ロザリアは布団を引き寄せた。
別に、すごいことではない。
あれが彼女たちの仕事なのだから。
……でも。
もし、あのとき自分が注文を間違えたことで、お客様から『使えない』と言われていたら。
「……っ」
ロザリアは眉をひそめた。
「もう、何なのよ!」
考えるのをやめようと、勢いよく布団をかぶる。
けれど、なかなか眠れなかった。
明日になれば、きっと忘れている。
そう思って目を閉じたものの、昼間のお客様の笑顔と、屋敷のメイドが頭を下げる姿が、何度も頭に浮かんできた。




