私の休日が……
「リリア。西側の人たちを広場へ。あなたの顔で誘導して。笑顔で、ゆっくり歩きながら」
「分かった!」
次に、一番近くの警備隊員を呼び止める。
「南の路地を封鎖。魔族側は市場通りへ分散させて。合流させなければ、押し合いは起きない」
「し、指示はありがたいですが、あなたは一体……民間の方の命令では動けません!」
「魔王軍実務担当、ゼナ・クロウ。明日の会談の当事者よ」
隊員の顔から血の気が引いた。氷血の。魔女。目の前の、猫型クッションを抱えた私服の女性が。
「こ、この件は上に」
「報告は収束後に。今ここで怪我人が出たら、明日の会談は延期。この街は、両軍の板挟みのまま」
一拍。
「あと、私の休日が、もう一日消える」
「……協力します!」
理由の後半が効いたのかどうかは、分からない。
◇
そこからの半刻を、後に中立警備隊は「教練で再現不能」と記録している。
ゼナは人の流れを、戦場の部隊運用と同じ精度で読んだ。どの路地を塞げば流れが割れるか。どこに水売りの屋台を動かせば、人が自然と足を止めるか。感情が高ぶった一団と、ただの野次馬を、服装と足の運びで見分けて別々に流す。
リリアは前に出た。名指しで怒鳴っていた男に笑顔で手を振り、子どもを抱えた母親へ先に道を空けさせた。
魔族の一団の先頭には、傷痕だらけの老兵がいた。人類への譲歩が許せない、と顔に書いてある。リリアはその正面へ歩いて行き、何かを二言三言。老兵は目を見開き、それから若い連中を追い立てて市場通りへ引き上げていった。
「何を言ったの」
「『あなたの若い衆を、こんなくだらない喧嘩で挙げさせたくない』って」
「……あなた、敵陣の人心掌握が上手すぎない?」
「勇者だから」
説明になっていない説明だった。
日暮れ前に、通りは元の夕市に戻った。怪我人、ゼロ。逮捕者、ゼロ。
群衆の大半は最後まで、「本当にあれが《氷血の魔女》なのか」と半信半疑のままだった。正体を確信できたのは、現場の警備隊と、遠くから一部始終を見ていた自治評議会の老議長だけである。
老議長は、隣の書記に小さく言った。
「……停戦の実務は、あの二人に任せるのがよさそうだ」
◇
「終わったわね!」
リリアが額の汗を拭う。
ゼナは、無言だった。
視線の先、石畳の上。
群衆整理の途中で置いた菓子の箱が、誰かに踏まれて潰れていた。
「ゼナ?」
返事がない。代わりに、さっき人垣を割ったときより濃い何かが、静かに立ちのぼっていた。
「……今日一番怒ってない?」
「限定だったのに……」
四つ目は、明日の自分への経費だったのに。
「か、買い直しましょう? 私も出すから」
「《本日まで》だったの」
「…………」
「来年まで、ないの」
リリアは、潰れた箱へ手を伸ばした。中身は助からない。蓋だけでも閉じ、近くの店主に処分を頼んで頭を下げた。
そこへ、警備隊員が帳面を抱えて戻ってきた。
「お二人に、経緯の報告をお願いしたく。明朝の会談にも関わることですので、今夜中に――」
ゼナの手が、いつものように帳面へ伸びかけた。
リリアが先に受け取った。
「私がまとめます。現場での聞き取りも、今から付き合います」
「勇者殿お一人で?」
「二人でやったことだから、私にも書けるでしょう」
ゼナは手を引いた。
「私が指示した人数と、路地の位置。そこは明朝、確認させて」
「うん。分からないところは、印を付けておく」
「あと、深いお考えは書かないで」
「起きたことを書くわよ」
「それが一番、困るのよね……」
リリアは答えず、警備隊員と通りへ戻った。市場の屋台が元の位置へ戻ったことを確かめ、最初に口論が起きた場所を帳面へ描いている。
ゼナは残った荷物を持ち直した。
◇
宿へ戻る途中、湯屋の前まで行った。
《本日の受付は終了しました》。
札の向こうで、最後の客が髪を拭いていた。
ゼナは、札を一度だけ見て帰った。ケーキに続いて、湯まで失った。買った本も、まだ鞄に入れたままだった。
宿で遅い夕食を終えるころ、リリアが戻ってきた。脇に書きかけの報告書を抱えている。
「温泉は?」
「終わってた」
「……そっか」
ゼナは猫型クッションの耳を直した。
鞄から、一冊を取り出す。
「今から、部屋で読む」
「その本?」
「今日買ったのに、まだ一頁も読んでないの」
リリアは、報告書を自分の脇へ挟み直した。
「どれくらい?」
「まず三十分。次の予定を考えずに」
リリアは壁の時計を見た。
「八時半までね。警備隊から何か来たら、私が受ける。宿の人にも言っておく」
「あなたも来ないで」
「……はい」
その返事を聞いてから、ゼナは部屋の扉を閉めた。
帽子を脱ぐ。猫を膝へ載せる。本を開く。
恋愛小説だった。旅先で身分を隠している女が、初対面の男に正体を知られて困っていた。
(他人事だと、楽しいわね)
廊下で、短い話し声がした。
「クロウ様に、確認を一つ――」
「私が聞きます。数字なら、こっちにも控えてあるので」
足音が遠ざかった。
ゼナは顔を上げかけ、それから次の頁をめくった。
茶を飲む。二頁戻って、気になった台詞を読み直す。時計を見ないまま、章が一つ終わった。
八時半を過ぎても、扉は鳴らなかった。
ゼナは栞を挟まず、そのまま次の章へ進んだ。
◇
翌朝、ゼナはリリアの報告書を確かめた。
南の路地の名を一つ直し、警備隊へ渡す分に署名した。怪我人の数も、指示を出した順序も、書かれたとおりだった。
「昨日の続き、読めた?」
「一章と、少し」
「よかった」
「でも、ケーキは来年よ」
「……覚えておく」
そして、停戦予備会談が始まった。
人類側の外交官は、リリアの意見書に加えて、警備隊の確認を経た現場報告を正式資料に載せていた。
《中立都市における両種族衝突の未然収束について――死傷者ゼロ。指揮:ゼナ・クロウ氏、リリア・アステル氏》
さらに自治評議会からは、両名を今後の継続窓口にと望む要望書まで届いていた。
そして会談の途中、魔王から通信が入った。
「聞いたぞ、ゼナ。休暇中にもかかわらず勇者と協力し、人と魔族の衝突まで防いだそうだな」
「……発端は、その勇者です」
「ちょっと」
「なるほど。敵方の勇者すら巻き込み、和平の支持基盤を作ったか」
「作ってません」
「見事!」
(嫌な予感)
的中した。
魔王はその場で、ゼナを《対人類和平担当・全権特使》へ正式に任命した。今後、定期的な外交会談への出席が決まった。
人類側の軍事窓口は、言うまでもない。
「これからよろしくね」
「よろしくない」
「次にここへ来たら、湖はどう? 船が出てるの」
「行かない」
「じゃあ、お茶だけ」
「報告書を持ってこないなら、考える」
「それ、少し進んだわね」
「考えるだけよ」
ゼナは手帳を開いた。
会談日程を書き込む。その隣に、喫茶店の名前だけ、小さく記した。日付は入れなかった。
さらに宿へ戻ると、手紙が一通届いていた。差出人は自治評議会。
《次回の共同視察のご相談について》
ゼナの目から、光が消えた。
「…………私の休日が」
手紙には、候補日が三つ並んでいた。どの日も、手帳では白かった。




