今日はゼナじゃありません
奇跡は、前触れなく起こるものらしい。
中立都市アルメリア。人類領と魔族領の境に浮かぶ自治都市であり、明日はここで停戦の予備会談が開かれる。魔王軍側の実務責任者は、当然のようにゼナである。
到着は昼。会場の設営確認は夕方まで――の予定だった。
「設営、警備動線、席次、通訳の手配、すべて確認済みです」
「……全部?」
「ゼナ様の手順書どおりに進めましたので」
「そう」
自分の書いた手順書が、自分の仕事を消していた。
こんなことも、あるらしい。
「では、何かあれば宿へ」
「お休みのところへは、何があってもお呼びしません」
副官は敬礼して去った。話の通じる男である。今度の人事査定で必ず報いよう、とゼナは思った。
つまり。
今日はこれから、何の予定もない。
手帳を三度見た。今日の欄は、白い。
(……休日だわ)
(出張先の、誰も私の顔を知らない街での、完全な休日だわ)
ゼナは即座に動いた。作戦立案より速かった。
軍服を脱いで、旅行鞄の底へ丁寧にしまう。髪留めを外す。黒髪が背に落ちる。柔らかな私服に、つばの浅い帽子。
姿見の前で、一回転して全身を確認する。
(よし。どこから見ても、休暇中の一般魔族女性ね)
本日の作戦を、頭の中で組む。
(まず書店。新刊を三冊。それから菓子店で限定のケーキ。雑貨を見て、夕方は温泉。宿に戻って、湯上がりに読書をしながらケーキ)
完璧だった。昨晩の会談資料より、三倍の精度で練り上げた。
アルメリアは、ゼナが世界で二番目に好きな場所である。一番は自室のベッドの中。
魔王領では手に入らない菓子。三階建ての書店。湯が柔らかいと評判の温泉。人と魔族が同じ通りで、同じ屋台の串焼きを買う街並み。戦争が二十年続く世界で、ここだけ時間の流れが違う。
ゼナは身分を隠して、この街を訪れるのを密かな楽しみにしていた。頻度は年に一度あるかどうか。それが今日、突然転がり込んできたのである。
◇
書店で新刊を三冊――のつもりが五冊になった。誤差である。
内訳は、恋愛小説が二冊、紀行文が一冊、料理の本が一冊、猫の画集が一冊。兵法書は、ゼロ。仕事の本を休日に読む人がいるとしたら、頭がどうかしていると思う。
通りへ出ると、屋台から香ばしい匂いがした。串焼きを一本だけ買い、歩きながら食べてみる。
(……歩きながら、食べてる)
軍では絶対に許されない行儀の悪さである。誰も自分を知らない街でだけできる、ささやかな犯罪だった。おいしい。
次の菓子店で、ゼナはショーケースの前から動かなくなった。
季節限定、桃のケーキ。《本日まで》の札。
戦況図を読むときと同じ目で、彼女はショーケース全体を検討した。定番の焼き菓子は宿でも買える。だがこの桃は、今日を逃せば来年までない。補給計画は明白だった。
「おいくつになさいます?」
「三つ」
一拍。
「……四つ」
(明日の私も働くんだから、四つ目は経費よ)
「贈り物用にお包みしますか?」
「全部自分用です」
堂々たる回答だった。店員は少し笑って、箱を二重にしてくれた。いい店である。来年も来よう。
箱を提げて、次は雑貨屋。棚の奥で、猫の形のクッションと目が合った。
しばらく見つめ合った。
(枕の予備は、あって困るものではないし。遠征先で首を痛めると業務に支障が――)
言い訳の途中で、手が先に伸びていた。
(……やめましょう、言い訳は。可愛いから買うのよ)
幸い、この街に彼女の顔を知る者はいない。
いない、はずだった。
「ゼナ?」
硬直した。
ケーキの箱を持ったまま、ゆっくり振り返る。
金髪。よく知る屈託のない顔が、通りの真ん中で目を丸くしていた。
勇者リリア・アステル。
(なんで、いるの)
リリアの側も、二度見していた。見間違いだと思ったのである。あの《氷血の魔女》が、ケーキの箱を提げ、猫のクッションを抱えているはずがない。
だが、目つきが完全に一致していた。
「人違いです」
「絶対ゼナでしょ」
「違います」
「その目つきで分かるわよ」
「今日はゼナじゃありません」
「どういうこと!?」
「休日なので」
「肩書は休日にならないのよ」
完璧な理屈だと思ったのに。
「だいたい、その荷物は何!?」
「……補給物資です」
「猫の形の補給物資があるの!?」
「あなたも、明日の会談?」
「立会人として。あなたは?」
「実務担当」
「じゃあ、明日は敵同士ね」
「今日は?」
「…………」
「…………」
二人とも、すぐには答えが出なかった。戦場では敵。会談では交渉相手。では、菓子屋の前では何なのか。規則のどこにも書いていない。
聞けば、リリアも軍事側の立会人として一日前に到着したのだという。考えることは両陣営とも同じだった。
「それより、ちょうどよかった!」
リリアが、嫌な明るさで自分の手帳を取り出した。
「あなた、今日一日、空いてるのよね?」
ゼナは無言でケーキの箱を抱え直した。
嫌な予感の的中率だけは、戦場の外でも下がらない。




