その形式上が大事なの!
第七砦は、静かだった。
人類軍の先鋒が、城門の手前で足を止める。
門は、開いていた。
「……罠だな」
「罠だろう」
「罠以外に何がある」
斥候が三度調べた。伏兵はいない。矢の一本も飛んでこない。落とし穴も、仕掛けもない。
「へ、兵舎が……掃除されています」
「毛布まで畳んであります」
「井戸の水質検査の結果まで貼ってあるぞ」
「……余計に怖いわ」
あるのは、開け放たれた門と、掃き清められた中庭と――その中央に立つ、黒い軍服の女がひとり。
まとめた黒髪。鋭い目。噂と寸分違わぬ姿だった。
「魔王軍四天王、《氷血の魔女》ゼナ・クロウ!」
リリアが大剣を構えて前へ出た。昨夜のうちに口上は用意してある。あなたの時代は今日で終わる、人類の犠牲はもう十分だ――そこまで言って、斬りかかる予定だった。
「そうよ」
予定は、無人の砦と共に崩れた。斬りかかる相手の後ろに、守るべき兵が一人もいない。
「これは……罠?」
「違う」
「じゃあ、何」
「敗北」
リリアの構えが、二割ほど緩んだ。
用意した口上の、出しどころが完全に消えた。
「この砦は今日からあなたたちのもの。私は負けた。以上」
「以上!?」
リリアは剣を下ろしきれないまま、砦の中を検分して回った。何か企みの痕跡があるはずだった。ゼナは、なぜか後ろをついてくる。
「ここが兵舎。寝具は置いていくから、そのまま使って」
「…………」
「こっちが食堂。竈は去年改修したばかりだから、状態はいいわ」
「物件の案内!?」
「井戸の水質は問題なし。結果は柱に貼ってある」
「さっきから何なのよ、この砦!?」
企みの痕跡は、どこにもなかった。あったのは、次の住人への配慮だけだった。
人類軍の副長が、槍を構えたまま声を落とす。
「勇者殿。あの女は単身です。捕らえれば、砦どころか戦争そのものが動きますぞ」
「駄目」
リリアは即答した。
「敵の大将が、逃げも隠れもせずに突っ立ってるのよ。罠がないわけないでしょう」
「しかし勇者殿、四天王の身柄ですぞ。捕虜交換なら砦が十、いや講和の切り札に……」
「その計算ができる相手が、計算させる形で立ってると思う?」
副長は槍を握り直し、そして下ろした。理屈が通っていたからである。
罠は、ない。
ただし、捕まってやるつもりもない。四天王が捕虜になれば、機密は流出し、指揮系統は乱れ、部下には巨大な後始末が残る。ゼナが世界で最も嫌う種類の失敗である。
だから砦の裏手には脱出用の馬と後衛を伏せ、退路は三本引いてある。単身に見えるのは、単身に見せているだけだ。
(罠はない。逃げ道はある。……まあ、その警戒は態度として正しいから、いいわ)
敵が勝手に深読みして手を出してこないおかげで、丁寧に設計した逃走計画は、出番がなさそうだった。
◇
そこへ、砦の外から蹄の音が近づいた。
魔王軍の軍装。ただし、若い。少年の面影を残した士官が、小隊を連れて現れた。鞍の左右に軍学書を詰めた鞄を提げている。行軍中も読むからである。
四天王最年少、ルカ。軍学と戦史を愛し、ゼナを心から尊敬する後輩。今日は事前命令どおり、兵の退去を確認しに来ただけの部下である。
ただの確認要員の、はずだった。
ルカは無人の砦を見た。それから、短く綺麗に引き直された魔王軍の新しい防衛線を見た。
目の色が変わった。
「……なるほど。そういうことですか」
(何も「そういうこと」じゃないのよ)
「維持費だけが膨らんでいた突出拠点を敵へ譲り、我が軍は一兵も失わずに戦線を短縮……」
「ルカ。そこまでは分かってて」
「しかも人類軍へ『四天王に勝った』という実績を与えることで、彼らの面子を立て、無理な追撃の理由まで消している……これは、停戦の下地作りですね!?」
「そこまでは狙ってない」
「この場で即座に読み切れず、申し訳ありません!」
「謝る場所が違う」
周囲の魔王軍兵から感嘆の息が漏れた。困ったことに、人類軍側からも漏れた。
「さすがゼナ様……」
「あの魔女、そこまで考えて……」
ルカが部下を振り返る。
「今のやり取り、全部記録しておけ。教材にする」
「はっ!」
「しないで」
「ご謙遜も記録しておけ」
「はっ!」
ルカ自身は、もう鞍の上で何かを書き始めていた。
「何を書いてるの」
「解説報告書です。この戦線整理の意義を、全軍が正しく理解すべきかと! 完成したらぜひご一読を」
「読まないし、出さないで」
「謹んで提出します!」
「話を聞いて」
「だから、砦は取られたの。私の敗北なの」
「形式上は」
「その形式上が大事なの!」
誰も聞いていなかった。
◇
納得していないのは、リリアだった。
「待って。あなた、一度も剣を抜いてないでしょう」
「砦は取られた」
「そうだけど!」
「なら私の負け」
「こんな勝ち方、気持ち悪いのよ!」
ゼナは考えた。真剣に考えて、譲歩案を出した。
「じゃあ、私を一発殴って帰る?」
「どうしてそうなるの!?」
噛み合わない。初対面から、絶望的に噛み合わない。
人類最恐と恐れられた魔女との対話は、リリアの想像とあらゆる方向で違っていた。
そのとき、東の空で鳥の群れが散った。
人類軍の伝令が駆け込んでくる。
「ほ、報告! 北東の森から魔物の大群! 数はおよそ三百! 両軍のものではありません、野生です! 進路の先に――村が!」
魔王軍のものでも、人類軍のものでもない、ただの災害。
そしてその進路の先にあるのは、人の村だった。徒歩なら半日。魔物の脚なら、日暮れ前に着く。
睨み合っていた両軍が、同時に同じ方角を見た。
リリアが真っ先に駆け出そうとして、止まった。土地勘がない。村までの最短路を知っていそうな相手は、この場にひとりしかいない。
敵である。ついさっきまで、討伐対象だった。
「……ねえ、あなた!」
「谷沿いに西。ついてきて」
聞くより先に、答えが来た。
戦争を、している場合ではなくなった。




