敗北計画よ
深夜の執務室。
壁には、金髪の女が屈託なく笑う手配書が貼ってある。勇者リリア・アステル。魔王から下った新しい任務、その討伐対象である。
そして机の上には、任務とまったく関係のない一枚の紙があった。
表題、《簡単にクビになる方法》。
軍議の資料と同じ丁寧さで、候補が書き並べてある。天才軍師の本気だった。
案一、補給倉庫を燃やす。
重大な損害。解任規定に確実に届く。ただし、再建までのあいだ補給兵は徹夜になる。前線の兵は硬い保存食を齧る羽目になる。
(却下)
案二、無断欠勤。
その間の決裁は、すべて副官へ流れる。あの生真面目な男は、十日で倒れる。倒れる日まで一言も文句を言わないところまで想像できる。
(却下)
案三、作戦情報を敵へ流す。
(論外。人が死ぬ)
案四、魔王へ暴言を吐く。
(たぶん「疲れているのだな」って心配されて終わり。……いえ、心配ついでに休暇をくれるなら、あり?)
考えてから、首を振った。あの魔王である。休暇の代わりに「気分転換になる新しい仕事」をくれるに決まっている。
案五、辞表を毎日出し続ける。
(人事のあの人の胃に、穴が開く)
却下。あの担当者は数少ない、話の通じる魔族である。
ゼナは紙を丸めた。
「どうして失敗するだけで、こんなに面倒なの」
「失敗とは、通常そういうものでは……?」
差し向かいの副官が、恐るおそる正論を述べた。
認めたくない結論が、そこにあった。
自分は、誰かへ後始末を押しつけるだけの「無意味な失敗」が、どうしてもできない。性格の問題だった。矯正するには、二十六年ぶん手遅れである。
なら、条件を変えればいい。
誰も死なず、誰も大きく困らず、それでいて規則の上では、誰が見ても明白な敗北。
顔を上げると、壁の手配書と目が合った。
勇者。人類最強の戦力。四天王が正面から敗れて、誰ひとり不思議に思わない唯一の相手。
その勇者が、いま東部戦線へ来ている。
つまり今回の任務は、討伐の相手ではない。
最高の条件で負けられる、二百年にひとりの好敵手である。
(この機会を逃したら、次の勇者は何年後になるか分からない)
ゼナは新しい紙を出した。書き込む速度が、明らかに上がっていた。
◇
翌日の作戦室で、ゼナは地図の一点を指した。
「決戦地は第七砦」
副官の眉が困惑に寄った。
「……あの砦は、確かに規則上は重要拠点ですが」
「そうよ。重要拠点」
「維持費ばかりかさんで、実際の戦略価値は」
「規則上は、重要拠点」
ゼナは同じ文を、句読点の位置まで同じに繰り返した。軍において上官が同じ言葉を二度使った場合、それは議論の終了を意味する。副官は口を閉じた。
第七砦。二十年前の会戦では確かに要衝だった。だが戦線が北へ動いた今は、前線から突き出し、守るだけで金を食い、周辺に住民もほとんどいない。撤収の検討が三年前から議題に上がっては、「四天王の砦を手放すのは威信に関わる」という理由だけで先送りされてきた。
規則の上では重要拠点。実際にはただの金食い虫。
それを誰より正確に理解した上で、ゼナはそこを選んだ。
「恐れながら、本来の任務は勇者の討伐では」
「討伐しに行って、負けるの」
「…………」
「戦いには行くわ。任務は半分果たす」
「どの半分ですか」
答えはなかった。
(この砦なら、失っても誰も困らない。そして書類の上では、四天王が勇者に重要拠点を奪われたことになる)
立案は一晩で終わった。
守備兵は三日かけて段階的に後方へ移す。兵器と機密資料は演習の名目で回収する。周辺の住民には、万一に備えて避難経路を先に整えておく。
そして砦そのものは、掃除までして綺麗なまま残す。
人類軍が来る。誰もいない。旗を立てる。
それで「四天王ゼナから砦を奪った」が成立する。
味方の死者、ゼロ。敵の死者、ゼロ。損害は、維持費ばかり食っていた砦がひとつ。
「作戦名はいかがいたしますか」
「《円満退社》」
「は?」
「……《戦線整理》でいいわ」
最終の読み合わせは、通常の作戦と同じ精度で行われた。
「撤収は三日、演習名目。住民の避難経路は東の二本。砦は清掃の上で明け渡し……あの、この『井戸の水質検査』という項目は」
「次に使う人が困るでしょう」
「使うのは敵ですが」
「困るのは変わらないでしょう」
副官は、それ以上聞かないことにした。聞くほどに、この計画が敗北から遠ざかっていく気がしたからである。
「ここまで被害を出さない敗北計画を、私は初めて見ました」
「褒めないで」
「いえ、その……『敗北計画』という言葉を、人生で初めて口にしたもので」
「私も初めて作った」
どこか誇らしげなのが、副官には解せなかった。
◇
同じころ、人類軍の前線駐屯地。
「《氷血の魔女》が、第七砦に出るらしい」
噂は行軍より速く走る。焚き火を囲む兵たちの声には、隠しきれない怯えが混じっていた。
「一万の兵が死んでも、眉ひとつ動かさないそうだ」
「部下も駒扱いだと聞いた」
「魔王より冷酷だという話だぞ」
尾ひれは、泳ぎながら育つ。誰もそれを疑わない程度には、彼女の戦績は完璧すぎた。
輪の少し外で、金髪の女が大剣の手入れをしながら聞いていた。
勇者、リリア・アステル。
魔物の群れから三つの町を守り、水害の村で三日間泥を掻き、礼金を全部置いて帰った女である。兵たちの怯えた噂話を、彼女は遮らずに最後まで聞いた。
それから砥石を置き、立ち上がった。
「よし」
決めるときは、いつも一言で足りる。
「明日は私が先頭に立つから、みんなは後ろにいて。眉ひとつ動かさない魔女が相手なら――」
大剣を軽々と担いで、笑う。
「眉が動くまで、私がやる」
兵たちの顔に、ようやく血の気が戻った。この人が前にいるなら、と誰もが思う。そう思わせるのが、彼女の強さの半分だった。
「なら、私が止める」
誰にも聞こえない声で、リリアはそう付け足した。




