わざと失敗したはずなのに
出頭の刻限まで、まだ半日ある。
ゼナは自室で、荷造りを始めた。
毛布は二枚とも持っていく。冬用と、夏用と、あと予備の一枚。二枚ではなかった。三枚とも持っていく。
ポットも要る。茶葉も要る。本は厳選して二十冊のつもりが、選別に失敗して三十四冊になった。かまわない。読む時間なら、これから無限にある。菓子の買い置きは全部。
置いていくものも決めてある。執務机と、印章と、肩書き。
幽閉施設に何を持ち込めるかは規則に書いていなかったが、交渉の余地はあるだろう。なにしろ二百年ぶりの解任者だ。前例は自分で作ればいい。
我ながら手際がよかった。軍の転営なら半日かかる支度が、一刻で終わっている。転居の支度がこれほど楽しいのは、行き先が「仕事のない場所」だからである。
呼び出しの理由は、考えるまでもない。あの命令違反だ。解任審査。降格。幽閉。
鏡の前で軍服の襟を正し、神妙な顔の練習を二度する。
(よし。どこから見ても「処分を粛々と受け入れる四天王」ね)
ゼナは玉座の間へ向かった。
「ゼナ」
「はい」
「見事だ」
「…………はい?」
神妙な顔の出番はなかった。
魔王は満面の笑みで、一通の報告書を掲げていた。
「読み上げよう。件の村は魔王軍への抵抗を停止。住民は自主的に、街道の崩落箇所、人類軍の斥候が使う抜け道、安全な補給路を我が軍へ報告。東部方面軍の補給計画は大幅に改善された――」
居並ぶ側近から、ほう、と感嘆が漏れた。斜め後ろの文官など、目を潤ませてさえいる。
この場でひとりだけ、ゼナは報告書の中身を認めたくなかった。
食料を奪われなかった村は、魔王軍への抵抗をやめた。
それだけではなかった。土地の者しか知らない情報を、村人たちが次々と、自分から差し出し始めたという。
武力で村を制圧し、守備兵を置き、反乱を警戒し続ける。その費用に比べれば、軍用食の半分など誤差である。
「恐怖で従わせるのではなく、恩を売って人心を掌握するとは。その発想はわしにはなかった」
「違っ――」
「謙遜するな」
違う、の三文字すら言い終えさせてもらえなかった。
「聞けば、兵站の帳尻まで合わせた上での供与だったそうだな。損害ゼロで民心を買った。これを戦果と言わずして何と言う」
頭の中で、ゼナは素早く検算した。支出、軍用食の半分と医薬品。収入、補給路の情報、民心、村の守備に要したはずの兵と費用。
……黒字である。それも大幅な。
(なんで黒字なの……!?)
誰も困らないように合わせた帳尻が、そっくり戦果へ化けていた。
「褒美だ。東部方面の補給部門も、お前へ任せる」
新しい資料が積まれた。今度はふた抱えある。
さらに列の端から、恰幅のいい魔族が進み出て敬礼した。補給部門の次席だという。
「《氷血の魔女》殿の下で働ける日が来ようとは……! 部門一同、この日を待ちわびておりました!」
目が輝いている。部下が、また増えた。数百人単位で。
「……よろしく」
我ながら葬式の声だったが、感激した次席には歴戦の指揮官の重みと聞こえたらしい。いっそう深く頭を下げられた。
「…………」
ゼナは無言で一礼を返した。
(仕事、増えた……)
頭の中で、手帳の先の頁が音を立ててめくれていく。三戦線に補給部門。次に休日と呼べるものが来るのは、早くて四十日後。いや、五十日か。
今朝まとめた引っ越しの荷物が、部屋で待っている。
(ごめんね、毛布たち。……まだ帰れないみたい)
「それと、だ」
魔王が、一枚の手配書を机へ置いた。
描かれていたのは、金髪の若い女だった。大剣を担ぎ、手配書の中だというのに、屈託なく笑っている。
人類側の勇者――リリア・アステル。
「近ごろ東部へ現れた、人類の新しい切り札だ。各地で魔物の災害を退け、民の人望も厚い。戦場に出れば、まだ後れを取ったことがないという」
添えられた戦歴に、ゼナは目を走らせた。討伐よりも、救援の数が目立つ。魔物の群れから町を守り、水害の村で三日働き、礼金は受け取らなかったとある。
(……真面目な人ね)
自分とは話が合いそうにない、と思った。
魔王の声が低くなる。
「放置すれば、東部の戦況はいずれ動く。次なる任務だ。この勇者を、討て」
ゼナは手配書を手に取った。
勇者。人類最強の戦力。
四天王が正面から敗れたところで、誰も不思議に思わない唯一の相手。
(……勇者に負ければ)
(さすがに、クビよね?)
《氷血の魔女》は恭しく手配書を受け取り、深く一礼した。
側近たちの目には、強敵を前にした闘志と映った。魔王の目には、頼れる腹心の覚悟と映った。
実際にその胸にあったのは、輝かしい退職への希望である。
◇
その夜、ゼナは毛布にくるまり、温かい茶を片手に手配書を眺めた。
傍らでは、例の菓子箱がとうとう開いている。中立都市の焼き菓子は、二度の妨害を乗り越えて、ようやく主の口に入った。退職計画の開始祝いである。
(甘い……。素晴らしいわ……。世界は、こうあるべきなのよ……)
あらためて、手配書の女を見る。
屈託のない笑顔だ。強く、正しく、まっすぐな人類の希望。彼女に敗れる四天王は、さぞ盛大に評判を落とすことだろう。
「……いい人そうじゃない」
主に、負ける相手として。
手配書を枕元へ置き、ゼナは灯りを消した。
負け方の設計は明日からだ。誰も死なせず、綺麗に、派手に負ける。おそらく、勝つより難しい仕事になる。
それでも今夜のゼナは、どんな勝ち戦の前夜より晴れやかだった。




