その馬車は、誰のもの
人類側外交官は、護衛費の欄を指でなぞった。
「当方も費用を負担する形では」
「本日、支出の決定はできますか」
「通商上の取り決めは、この場で決められます。ただ、新たな支出は、本国への照会が要ります」
相互免税は承認済み。追加の護衛費は、これから。
ゼナは手元の権限一覧を閉じた。
「それなら、まず当方の負担で始めましょう。御者を宿で待たせる日を、増やすことはありません」
天幕の外で、車輪が石を噛む音がした。
通行税を納め終えた商隊が、人類側へ抜けていく。護衛区間は、もう後ろである。
ゼナは護衛案の末尾を確かめた。
新しい軍務への支出。敵の商隊だけへの無償提供。随行官も事前協議の欠如を記録した。
砦を渡したときと違って、既存の支出は減らない。護衛の勘定には、自分で増やした費用が残る。
(まずは、査問まで)
解任へ届くかは、その先の話だ。軍務局の封筒を開ける前から、毛布を畳むのはやめた。前回までに学んだことである。
「一つ、いい?」
リリアが、手を上げた。
「護衛を頼む商隊が、お金の代わりに荷を運ぶのは?」
ゼナは署名欄から目を上げた。
「今朝の倉庫。関所の修理に使う板があったでしょう。市場からここまでなら、帰りの道と一緒よ」
リリアが、朝の視察図を引き寄せる。
指先が市場と関所のあいだを、一度だけ往復した。
「空の馬車が戻ってくる。軍は、その道を運ぶ馬車を雇おうとしてる。なら、両方を一台でできる」
随行官が、膝の上の鞄を開いた。関所に着いてから受け取った輸送見積もりを探している。
(そっちから来たか)
ゼナは、卓に載りかけた紙を指で押さえた。
「その馬車は、誰のもの?」
「商人の――」
「外交官の部下ではないでしょう。空いているからといって、国が勝手に使う約束はできない」
リリアが口を閉じた。
「帰りに別の荷を積む日もある。板を載せれば、馬も疲れる。荷役を待てば、その日の宿も変わる」
ゼナは輸送見積もりを、随行官の前へ戻した。
「承諾していない相手の働きは、対価に数えられません」
外交官が、書きかけた文に線を引いた。
リリアも自分の帳面を見下ろした。色の付いた書類は、どれも開かなかった。
「……そうね。今のままじゃ、頼めない」
あっさり認めた。
ゼナは、わずかに眉を動かした。もう少し食い下がってくると思っていた。
「だから、聞いてくる」
リリアは椅子から立ち上がった。
「まだ関所に、朝の人たちがいる。十五分だけ、休憩をもらえますか」
問いかけた先は、人類側外交官だった。
外交官は懐中時計を見た。
「条件がまとまれば検討する。国からの追加支出と、商人への参加強制は約束できない」
「分かってます」
記録席で、椅子が鳴った。
「私も行く」
ギデオンが羽根ペンを置いていた。
「勇者の名で、断れぬ頼みをしていないか確かめる」
「助かります。無理なら無理って、言ってもらいたいから」
二人が天幕を出ていく。
ゼナは、開いた布の向こうを見送った。
(十五分で、民間の契約まで組む気?)
商人が困る条件を、自分が見逃すと思っているのなら、それは甘い。
ゼナは新しい紙を一枚、手元へ引いた。
◇
十二分後、リリアが戻ってきた。
後ろにはギデオンと、二人の商人。朝、空の馬車を走らせていた御者もいる。
「帰りの便だけ。運ぶ量を決めて、積み下ろしは軍がする。それなら引き受けるって」
卓へ出された紙には、商会の印と、便の日付が並んでいた。
ゼナはそれを読み、二人の商人へ顔を向けた。
「ご自分の商売の荷が出た場合は」
「そちらを先に積みます。余った場所だけ、お貸しする話で」
「では、ここにある量を運べない日もある」
商人が頷いた。
ゼナは紙を、リリアへ返した。
「護衛は毎日出す。輸送は、空いていたら。これでは、雇う馬車を減らせない」
リリアは紙を受け取らず、もう一度、商人を見た。
「空いている分、じゃなくて、先に約束できる分はある?」
「積み荷を減らしてまでということなら――」
「無理に減らさなくていい」
言ったのは、ゼナだった。
リリアの目が、こちらへ戻る。
ゼナは声を落とした。
「私に勝つために、あの人たちを困らせないで」
リリアは、少しだけ唇を結んだ。
それから、自分の紙の「三十日間」に線を引いた。
「うん。そこは、あなたの言うとおり」
新しい余白へ、御者の持っていた運行帳を並べる。
「全部の日を、まとめるのをやめる」
ゼナの手元にも、軍の輸送予定表があった。
リリアは、その表と運行帳のあいだに指を置いた。
「運べる日と、欲しい日だけ、合わせさせて」
ゼナは、二つの表を見た。
運行帳の三日後の欄に、空で戻る予定の便がある。こちらの輸送予定は、その翌日だった。
「三日後なら、板材の検収を前へずらせるわ」
リリアが顔を上げた。
ゼナは自分の表を、そっと引き戻した。




