生涯最高の目覚め
療養初日。朝食の後、ガルドは城門の脇で待っていた。
「いい朝だ! 山がよく見える!」
「見えるだけにして」
ゼナは、処方箋の写しを上着の内側に確かめた。
だがガルドが歩き始めたのは、山のほうではなかった。城壁に沿った、平らな遊歩道である。
歩幅が小さかった。
いつもなら三歩で先へ行く背中が、今日はずっと隣にいる。
「遅くない?」
「お前の速さだ」
ゼナは黙って歩いた。
十五分ほど行ったところで、ガルドが足を止める。
「戻るぞ」
「もう?」
「往復で三十分だ。ここで三十分歩いたら、帰りはどうする」
正しかった。こちらが言うために、用意してきた理屈だった。
◇
城へ戻る途中、風で倒れた木が道の半分を塞いでいた。二人の兵が縄をかけ、引く向きを相談している。
「そちらから引くより、枝を――」
「座ってろ」
ガルドが道端の長椅子を指した。
「指示も、仕事だ」
ゼナは口を閉じ、腰を下ろした。
ガルドが幹を抱え上げる。兵のひとりが縄を外し、もうひとりが通り道を空けた。
座っているうちに、終わった。
礼を言われたのはガルドで、帰ってから出す作業の報告も、兵が引き受けた。
(……私、何もしてない)
膝の上には、開く書類もない。
ガルドは手についた木屑を払い、残りの道をまた小さな歩幅で歩いた。
◇
昼食は、城の裏庭だった。
ガルドの焼いた肉と、パンと、湯気の立つスープ。ゼナは日陰の席へ座り、二杯目のスープをよそった。
「うまいか!」
「……普通よ」
「二杯目だな!」
「数えないで」
皿が空いたころ、ガルドが立ち上がった。
「俺は鍛錬へ行く。お前は休め」
「連れていかないの?」
「今日は、休むところまでが処方だろう」
ゼナはポケットの紙を出しかけて、やめた。
「疲れてないのに休むのは、もったいないんじゃなかった?」
「お前は、もう疲れてる」
返す言葉を探しているあいだに、巨躯は鍛錬場へ走っていった。
残された卓には、温かい茶のポットがあった。
ゼナは部屋へ戻り、持ってきた小説を開いた。
一章読んで、眠くなったので閉じる。枕元の時計を見た。まだ午後だった。
そこで、扉が鳴った。
「ゼナ様。確認をお願いしたい書類が――」
ゼナの手が、寝台の縁にかかった。
廊下の声が、もう一つ増える。
「お預かりします。三日間の決裁は、こちらへ」
副官だった。
紙が擦れる音がして、二人の足音が遠ざかる。
ゼナは、伸ばしかけた足を毛布の中へ戻した。
次に目を開けたときは、夕食の時間だった。
◇
二日目も、朝食の後に三十分歩いた。
帰り道でガルドが肩を回しながら、裏山を見た。
「今からなら、二往復できるな」
「お一人でどうぞ」
「任せろ!」
何を任せたのかは分からなかったが、ゼナは帰室した。
午後には読みかけだった小説が一冊終わった。夜は、続巻を開く前に灯りを消した。
三日目の朝。
目が、勝手に開いた。
頭の芯が澄んでいる。肩が軽い。いつもなら枕へ押しつけている頬を、今朝は自分から離せた。
(……腹立たしいほど、いい朝だわ)
食堂で会ったガルドが、こちらを見て笑った。
「よく寝た顔だ!」
「……そうね」
認めたのが意外だったのか、ガルドは一拍置いて、それからいっそう大きく笑った。
声は、もう少し小さくしてほしかった。
三日目の散歩も、三十分で終わった。
午後には医務局で、もう一度測定を受けた。
◇
数日後、医務局の所見が届いた。
《経過良好。ストレス数値、改善。次回の診断まで、週に一度、睡眠と休養の記録を提出すること》
「…………提出」
添付の用紙には、七日ぶんの小さな枠が並んでいた。
ゼナは別紙を出した。睡眠時間、業務の終了時刻、休養の取り方。関連する数値を並べれば――。
その前に、用紙の裏を見た。
軍医の字で、一行あった。
《休めた日は丸を付けるだけで結構。報告のために夜更かしをしないこと》
ゼナは、まっさらな別紙を引き出しへ戻した。
三日ぶんの枠に、丸を付ける。どれも、自分の手で書けた。
来週の欄は、まだ白かった。
ゼナは予定表も開き、空いていた午後の端へ、小さく《散歩》と書き入れた。
余った時間には何も書かなかった。
その日の便で、もう一通、封書が届いていた。
アルメリア経由。差出人の名はないが、字で分かる。リリアである。
湖の誘いだろう、と封を切った。リリアの手紙は、いつも候補が多い。湖、船、その次は対岸の市場。どれか一つと返せば、どれを最初にするかという相談になる。
文面は、三行だった。
《近いうちに、話したいことがあります。
会談とは、別に。
――リリア》
湖の「み」の字もなかった。遊びの予定を軍事作戦のように並べる女の手紙に、予定がひとつも書かれていない。
いつもの手紙より、ずっと短かった。
ゼナは手紙を机に置いた。
猫型クッションを引き寄せ、毛布にくるまり、それでも目は手紙から離れなかった。
やがて、もう一度取り上げた。




