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魔王軍をクビになりたい四天王、敵の勇者が辞めさせてくれない  作者: たつき


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15/29

天国の、続き

 脱衣所で髪を解き、ゼナは浴場の戸を引いた。


 湯気が、頬に触れた。


 二年ぶりに生き返った湯は、噂に違わず柔らかかった。掛け湯をして、爪先から、膝、腰、そして肩まで、ゆっくりと沈む。


「…………しあわせ」


 声が、勝手に出た。


 湯は柔らかく、石の湯縁はほどよく冷たい。広い浴場に、客は自分ひとり。湯面に夕暮れの色が落ちて、揺れるたび金色に割れる。山の端で、気の早い星がひとつ灯った。

 肩を回す。首を伸ばす。二年ぶんの湯気が、二十六年ぶんの疲労を、ゆっくりと解いていく。戦況も、議題も、復興計画も、湯気の向こうのどこか遠い国の話である。

 アルメリアで入りそびれた温泉に、ようやく、辿り着いた。


(このために、生きてる)


 ゼナは湯縁へ頭を預け、目を閉じた。


「ゼナ様ー! 第二期工程のご確認をお願いしますー!」


 戸の向こうから、ミレーユの声がした。


 懐中時計は持ち込んでいない。だが体内の時計が告げていた。入湯から、およそ五分である。


「…………明日にして」

「ですが、図面が七枚できまして。今夜、発注まで――」


 ゼナは目を開いた。


「今日、私が見なければ湯は止まる?」

「いいえ。どれも第二期の、改良のほうです」

「なら、明日。まず湯守と相談して」


 戸の向こうで、紙をめくる音がした。


「……そうですね。湯は、もう出ていますものね」


 一拍。


「では、ゆっくりお入りください。明日の朝に伺います」

「朝食の後よ」

「はい」


 足音が、離れていった。

 ゼナは戸を見たまま、しばらく待った。戻ってこない。


(……今、明日になった?)


 もう一度、肩まで沈む。

 日暮れの色が湯面から消え、石の灯籠に明かりが入った。指先がふやけたので、縁へ出す。冷たい石に手を置いたまま、何を考えるでもなく、湯の音を聞いた。


 上がろうと思ったときに、上がった。

 戸は、それまで一度も鳴らなかった。


 翌朝、ミレーユが朝食の後に持ってきた図面は、三枚だった。


「七枚では?」

「四枚は、街に要るかどうか、まだ相談中です」


 ゼナは湯上がりに読んでいた本へ栞を挟み、図面を受け取った。


   ◇


 着工から十日目、バーデの湯は全面復旧した。


 宿の暖簾が洗われ、土産物屋の板が外され、避難民の家族が最初の宿場として迎え入れられた。湯守の老人は源泉小屋の前に椅子を出し、通る客へ「よく来なさった」と声をかける。二年ぶりの、彼の日常だった。

 中庭の噴水には、新しい弁と柵が付いた。ミレーユが湯量を調整し、定刻に噴かせる試験を重ねる。再開の日には、もう一つの名物として人が集まった。

 噴き上がる時刻には、子どもらが柵の前で待つ。半分は避難民の子で、半分は街の子である。湯柱が立つと、みんな一緒に歓声を上げた。

 やがて、街道を東から来る湯治客に、魔族だけでなく人の姿が混ざり始めた。「魔王軍が直した街」の噂は、湯気と一緒に街道を伝っていった。


 引き上げの朝、ガルドは街の年寄りたち総出で見送られた。


「また鍛えに来る!」

「来なくていいから、身体を大事にね」

「鍛えることが大事にすることだ!」


 最後まで噛み合わないまま、別れは温かかった。


 出発前に、街の総代たちがゼナを広場へ案内した。真新しい小さな浴場の前に、布のかかった看板が立っている。


「ゼナ様への、感謝のしるしです」


 布が外される。看板には、堂々たる彫り文字でこうあった。


 《氷血の魔女の湯》


「ゼナ様専用の浴場です! いつでもお忍びでお越しください!」


 専用。看板。氷血の魔女の湯。

 看板の出ている場所に、お忍びで来られる者はいない。


(善意で、聖域にしないで……)


 ゼナは礼を述べた。彫り文字を撫でる総代の手は、まだ木屑まみれだった。

 この看板の下を、私服でくぐる自信はない。次に来るときの算段は、立て直しである。


 人垣の後ろで、湯守の老人だけが、少し気の毒そうな顔をしていた。


「……すまんね、嬢ちゃん。わしは止めたんだがね」

「いいの」


 ゼナは小さく答えた。強がりが半分だった。残りの半分は、そうでもなかった。


「……いい街だもの」


 老人は何度か頷いて、それ以上は言わなかった。


(リリアが知ったら、絶対に入りに来る……)


 それだけは、何としても伏せようと思った。


   ◇


 帰りの馬車で、ミレーユは第二期の図面を仕上げ続けた。到着時点で、十九枚になっていた。


(……会議の議題と、同じ数)


 嫌な符合だった。ただし今回は、受け止める関所がバーデにいる。湯守の老人へ、心の中で改めて礼を言った。


 ゼナの鞄にも、バーデの土産が増えていた。湯の花の入浴剤が三袋と、湯気で蒸した菓子がひと箱。入浴剤は自室の湯で使う。五日目の夕暮れと、朝食まで開かずに済んだ図面を、湯気と一緒に思い出せるかもしれない。


 執務室へ戻ると、机の上に一通の通知が待っていた。


 《四天王定期健康診断のお知らせ――医務局》


 日時、三日後。全四天王、受診必須。


 普段のゼナなら、ため息をつく書類である。

 だがこの日のゼナは、通知を手に取ったまま、動きを止めた。


 健康診断。

 診断。

 ……診断書。


 ゼナの目が、静かに光った。

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