05 母の日記
レインは震える手で机の上の日記を手に取った。
古びた皮の表紙だ。指でなぞるとかすかに温もりが残っている気がした。
日記には"レインの成長日記"と優しい筆跡で書かれていた。
「……母さん……」
喉の奥がぎゅと締め付けられる。
レインはゆっくりと日記の最初のページを開いた。
[今日、やっと我が子が生まれた!
元気な男の子!名前はレイン!
どうか、元気にすくすく育ってくれますように……]
と母さんの字で書かれてた。
思わず息が詰まりそうになった。
文字の一つ一つから溢れるほど喜びが滲んでいた。
ページをめくる。
[レインが初めてハイハイした!]
[初めてママって呼んでくれた!]
[レインが初めて立った!転んでも諦めずにまた立った!]
[レインが初めて歩いた!ほんの少し2.3歩だったけどちゃんと歩いた!]
どのページにも小さな出来事がびっしり書かれていた。
何気ない日常。けれど、そのすべてが宝物のように綴られていた。
「……こんなに……」
知らなかった。
自分のことをこんなにも見ていてくれたなんて。こんなにも愛してくれていたなんて。
涙が頬を伝い、床に落ちる。
止めようとして止まらなかった。
レインは袖で乱暴に涙を拭いながら、ページをめくり続ける。
やがて、ページが途切れた。
その数ページ後、1枚だけ明らかに違う空気を持つページがあった。
中央に丁寧な字で書かれていた。
『レインへ』
胸が大きく脈を打つ。
レインは大きく息を吸い、震える呼吸を整え読み始めた。
レインへ
これを読んでいるということは、私はもうあなたのそばにいないのでしょう。
ごめんね。あなたを一人にしてしまって。
本当は、もっと一緒にいたかった。
もっと、あなたの成長を見ていたかった。
レインの視界が滲む。それでも止めずにレインは読む。
あなたに伝えなければならないことがあります。
私たちは──精霊の愛し子。
精霊に愛され、その力の一端を扱うことができる存在です。
本来、その力は世界を守るためのもの。けれど、その大きさゆえに、争いの種にもなる。
だから私たちは、その力を隠し、静かに生きてきました。
レインの指がわずかに強く紙を握る。
シルフィから聞いた話と繋がっていく。
けれど、まだあなたが幼い頃。
力が目覚めてしまった。
あなたは無意識に魔法を使ったの。
とても強い力だった。
あの瞬間、確信しました。
「見つかった」と。
レインの心臓が嫌の音を立てる。
アウァリティア教団。
そう名乗る組織が私たちに接触してきました。
目的はただ1つ。精霊の力の利用。
彼らは禁忌とされている闇魔法を使う危険な集団。詳細は分からない。
けど、確実に言えるのは関わってはいけない存在ということ。
レインの脳裏にあの黒いフードの男が浮かぶ。
不気味な笑い。
あの異様な気配。
私は当然誘いは断り続けました。
すると彼らは兇魔を差し向けてきた。
本来操れるはずのない存在を……。
どうやっているのかは分かりませんでした。
けれど、あの者たちは何かを知っている。
レインの拳が震える。
怒りか、恐怖か、自分でも分からない。
いずれ、私は限界を迎えるでしょう。
そのとき、次に狙われるのはあなたよ。
だからお願い。逃げて。
そう言いたい。
でも、あなたはきっと逃げない子だから。
レインの目から大粒の涙が落ちる。
だからせめてこれだけは伝えさせて。
あなたの力は誰かを傷つけるためにあるものじゃない。守るための力よ。
復讐なんて空しいだけ。
どうか──大切な誰かを守れる人になって。
生きて。
生きて、笑って。
幸せになって。
それだけが母さんの願い。
涙で文字がぼやける。
それでも最後まで目をそらさなかった。
私はあなたを世界で1番愛しています。
そして、最後に。
レインが18歳になった時に渡そうと思っていたものがあります。
机の横の木箱に入っています。
誕生日おめでとう、レイン。
母より
日記の最後の一行を見た瞬間、指が止まった。
(……は?)
意味が、入ってこない。
もう一度読む。読めているのに、理解が追いつかない。
喉が、ひどく乾く。
「……なんだよ、これ」
声がうまく出ない。
手が震えて、紙がかすかに揺れる。
視界が滲む。
「……っ……」
声にならない。
次の瞬間。レインは立っていられず、その場に崩れ落ちた。
音が消えた気がした。
膝が床にぶつかった感覚すら遠い。
ただ、胸の奥がぐちゃぐちゃに掻き回されている。
涙が止まらない。嗚咽が漏れる。
悔しさも悲しさも全部が一気に溢れ出した。
「……なんで……」
どうしてもっと早く気づけなかったのか。
どうして自分は守れなかったのか。
拳で床を叩く。何度も何度も。やがて拳から血が滲んだ。それでも止まらない。
日記の中の言葉が頭から離れなかった。
『守るための力』
(誰をだよ……)
『幸せになって』
(どうやって……)
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
──ふと、記憶がよぎる。
「レイン、ちゃんと食べなさい」
少し呆れた母の声。
テーブルに並んだ、少し焦げたパン。
「……いらない」
「だめ。強くなるんでしょ?」
笑いながら、無理やり皿を押しつけてきた。
「ほら、ちゃんと食べたら褒めてあげる」
「……いらない」
——あのときも、そう言った。
(なんで……食べなかったんだよ)
胸が締め付けられる。
(なんで……ちゃんと話さなかったんだよ……)
戻らない。もう二度と。
視界が、現実に引き戻される。
ぼやけたままの世界。
日記を握ったまま、レインは動けなかった。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
気づけば、部屋の中は暗くなっていた。
いつの間にか、窓の外には月が上っている。
窓の隙間から入る風が、紙をわずかに揺らす。
レインは、まだその場にいた。
「……遅すぎだろ」
ぽつりと呟く。
返事はない。
ただ、静かな夜だけがそこにあった。
震える手で木箱に手を伸ばした。
ゆっくり蓋を開けると──中には一振の剣と小さなネックレスが入っていた。
剣は飾りの剣ではない。実践で使われるための、鋭さを持っていた。
ネックレスは淡く光を帯びている。
「……母さん……」
それらを抱きしめて言う。
「……ありがとう……」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま呟いた。
そのとき。ふと、心の奥で声が聞こえた気がした。
(俺なんかに……できるのかな……)
ほんの小さな問だった。
すると──
(あなたならできるわ)
優しい声が聞こえた。
懐かしいあの声が。
「……っ」
顔を上げる。
当然、そこには誰もいない。
けれど──確かに背中を押された気がした。
レインはゆっくりと立ち上がる。
涙を拭う。
まだ震えているが、足は止まらない。
日記を大切に抱え、剣とネックレスを身に付ける。そして、階段へ向かった。
1歩ずつ。確かめるように登る。
これは終わりじゃない。ここからだ。
真実を知り、母の願いを受け取り、自分の意志で進む。その最初の1歩だった。




