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灰と光の調律者  作者: 廣風
3章 水の都リヴィエラ
20/30

20 下層水路

水路を下るほど、空気は重くなっていった。

石畳は崩れ、建物は傾き、街の色が少しずつ死んでいく。


「……ひどいな」


レインが呟く。

上層とは明らかに違う。人の気配はあるのに、活気がない。

ただ、沈んでいる。


「ここが一番進んでる場所よ」


ミリアが淡々と言う。


「水質の悪化、空気の淀み、症状の進行速度。全部ね」


カイルが周囲を見渡す。


「……隔離もされてないのか」


「できるわけないでしょ」


ミリアは即答する。


「この規模よ? 上が見捨ててるの」


その言葉に、わずかな苛立ちが混じる。

レインは黙って歩く。

そのときだった。


『……あそこ』


ルミナスの声。

レインの視線が自然と向く。

路地の奥。崩れかけた壁の影に、小さな影があった。

子供が膝を抱え、うずくまっている。


「……っ」


レインは足を止めた。


「どうした」


カイルが言う。

レインは答えず、そのまま歩き出す。

子供の元へ。


「大丈夫?」


声をかける。

反応はない。

近づくと、分かった。

呼吸が浅い。肌は異様に青白い。

そして腕に、うっすらと黒い筋が浮かんでいる。


「……灰か」


カイルが低く言う。

ミリアもしゃがみ込み、冷静に観察する。


「初期症状ね」


脈を取る。瞳を見る。呼吸を測る。

すべてが無駄のない動きだった。


「……助かるのか」


レインが聞く。

ミリアは、ほんの一瞬だけ間を置いてから答えた。


「そのままなら死ぬ。進行が早いわ。数時間ってところね」


ルミナスが、小さく震える。


『……つらそう』


レインの拳が、わずかに握られる。


「方法は?」


短く聞く。

ミリアはレインを見る。

その目は、感情を排していた。


「二つある」


ミリアは指を二本立てる。


「一つは、浄化」


空気が、わずかに張る。


「多分だけど、あなたのそれならできるでしょ」


レインは何も言わない。


「ただし、その場合、この子は消える。存在ごと、ね」


カイルは腕を組んだまま言う。


「もう一つは?」


「薬を探す」


ミリアはあっさり答える。


「ただし成功率は低い」


「どれくらいだ」


「一割あるかどうか。しかも時間がない。間に合わない可能性の方が高い」


レインは子供を見る。

小さく震えている。

呼吸が、どんどん浅くなっている。


「……選びなさい。どっちにするの?」


ミリアが言った。


『この子……消えちゃうの』


カイルが口を開く。


「時間はないぞ」


冷静な声。


「迷ってる間に死ぬ」


ミリアも続ける。


「非効率ね」


冷たい言葉だった。


「確実に終わらせるか、低確率に賭けるか」


レインの呼吸が、わずかに重くなる。


(またか……)


脳裏に、森の光景がよぎる。

苦しむ精霊。消えていった存在。


(……選べってか)


子供の小さな手が、わずかに動いた。


「……やだ……くるしいよ……」


レインの心臓が強く鳴る。

ミリアの声が、冷静に落ちる。


「時間はないわ。浄化するなら今。探すなら今すぐ動きなさい」


カイルが低く言う。


「迷ってる時間はないぞ」


ルミナスが、静かに揺れる。


『消えちゃうのは……いや』


小さな光が、弱く揺れる。

レインは目を閉じる。


(……一割)


低い成功率だ。

間に合わない可能性の方が高い。

それでも子供の手が、かすかに動く。


「……たすけて……」


その一言で、レインの心は決まった。

レインは一瞬だけ目を閉じる。

そしてゆっくりと、息を吐いた。

再び目を開く。


「……薬を探す」


はっきりと言った。

空気が一瞬、止まる。

ミリアの眉がわずかに動く。


「……非効率ね」


予想通りの反応だった。


「成功率は低い。時間も足りない。それでも可能性があるのなら、俺はそっちを選ぶ」


ミリアは数秒だけ沈黙する。

そして、ため息を吐いた。


「……いいわ。じゃあ、その非効率に付き合ってあげる」


カイルが小さく笑う。


「物好きだな」


「観察よ。あなたたちがどこまでやれるのかのね」


そしてすぐに切り替える。


「必要なのは三つ。解毒草、浄水触媒、安定剤」


「場所は?」


レインが聞く。


「分かれてる。解毒草は市場近くの倉庫。触媒は水路の奥。安定剤は……ここから一番遠い」


「時間は?」


「もって十五分」


短い。

明らかに足りない。

カイルが舌打ちする。


「全部回るのは無理だな」


ミリアが頷く。


「だから分担する」


ミリアは即座に指示を出す。


「私は触媒を取りに行く。場所を知ってるから最短で行ける」


「俺は?」


カイルが聞く。


「安定剤」


「一番遠いだろ」


「あなたなら間に合う可能性がある」


迷いのない判断だった。

カイルは一瞬だけ考え、頷いた。


「……いいだろう」


レインを見る。


「俺は?」


「解毒草」


「一番近い。でも数が必要」


レインは頷く。


「分かった」


ルミナスが、強く光る。


『私も行く。探すの、手伝える』


レインは小さく頷いた。


「頼む」


ミリアが最後に言う。


「失敗したら終わりよ。その子は死ぬ」


レインは答えない。

ただ走り出した。

湿った空気を切り裂くように走る。

崩れた道。滑る石畳。


『……こっち』


ルミナスの声が導く。

レインは迷わず倉庫に飛び込む。

中は荒れていた。

箱が倒れ、物資が散乱している。


「……くそっ」


手当たり次第に探す。


「違う……これじゃない……!」


ルミナスが言う。


『緑の……やわらかいの』


視界の端。

倒れた棚の下。


「……あった!」


引き抜く。

束になった薬草。


「足りない」


量が少ない。


「……まだいる!」


時間がない。

焦りが募る。


(どこだ……!)


視線を走らせる。


「……上か!」


崩れた棚の上部に、残りがある。

レインは踏み込み、よじ登る。

バランスが崩れる。


「っ……!」


落ちかけるが、無理やり掴む。

引き抜く。


「……これで足りる!」


飛び降りる。

そのまま走る。

戻る途中に水路の横を駆け抜ける。

そのとき。


『何か……来る!』


ルミナスの声。

直後、水が弾けた。

黒く濁った何かが飛び出す。

水生の魔物。

歪んだ身体に濁った目。


「チッ……!」


レインは剣を抜く。

時間がない。


「どけっ!」


一閃。浅い。


(硬い……!)


傷口が再生されていく。


「邪魔だ……!」


踏み込み、連撃を叩きこむ。

無理やり道をこじ開ける。

一体、崩れる。

だが遅い。

時間が削られていく。


(くそ……間に合え……!)


レインは走る。ただひたすらに走る。

元の場所に戻った。

子供はまだ、息がある。


「……っ!」


レインが膝をつく。


「持ってきた!」


その瞬間、ミリアも戻る。

息一つ乱していない。


「触媒、確保」


ほぼ同時に。


「……間に合ったか」


低い声。

カイルが現れる。

手には小瓶。

肩で息をしている。

腕の黒が、少し広がっていた。


「……安定剤だ」


投げ渡す。

ミリアが受け取る。


「……ギリギリね」


すぐに動く。

薬草を刻む。

触媒と混ぜる。

安定剤を加える。

一切の無駄がない。


「口を開けさせて」


レインが支える。

子供の口に、流し込む。


「……っ……!」


子供の体が大きく震える。


「が……っ……!」


苦しみ呼吸が乱れる。

レインの手に力が入る。


「大丈夫なのか……!?」


ミリアは冷静に答える。


「ここからが運よ」


無慈悲な言葉。

黒い筋が、蠢く。

押し戻すように。

せめぎ合う。

ルミナスが、静かに光る。


「……がんばって」


届くはずのない声。

それでも、そっと子供に寄り添う。


「……っ……!」


子供の呼吸が、ゆっくりと整っていく。

黒い筋が、薄くなる。

完全ではない。


「……止まった」


ミリアが言う。


「進行が」


レインの肩から力が抜ける。


「……助かったのか」


ミリアは首を振る。


「まだ分からない」


現実的な答え。


「でも、生きる可能性は残った」


レインは小さく息を吐く。

カイルが言う。


「……無茶したな」


「お前もな」


レインが返す。

ミリアが立ち上がる。

レインを見る。

その視線は、いつもと違っていた。


「……非効率」


ぽつりと呟く。


「でも」


ほんの一瞬だけ、言葉が止まる。


「……ゼロじゃなかったわね」


レインは答える。


「最初からゼロじゃない」


ミリアの目が、わずかに揺れる。


「……そう」


短く返す。

ルミナスが、やわらかく光る。


『……よかった』


小さな声がレインの中でだけ響く。

だが子供の腕には、まだ黒が残っていた。

完全ではない。

救いきれていない。

それが現実だった。

ミリアが静かに言う。


「これが選んだ結果よ」


レインは、その言葉を受け止める。

何も言わない。

ただ、子供を見る。

生きている。

それだけが、今の答えだった。




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