17 旅立ち
朝の空気は、驚くほど静かだった。
窓の外、森の緑は穏やかに揺れている。あの黒い霧も、歪んだ気配も、今は感じられない。
「……消えたわけじゃない」
ベッドに腰掛けたまま、レインは小さく呟いた。
腕には包帯。身体のあちこちに鈍い痛みが残っている。目を閉じれば、あの光景がすぐに蘇る。
苦しむ精霊。そして、消えていった光。
扉を開けて外に出た瞬間、レインは足を止めた。
「……いたのか」
少し離れた木陰にカイルが立っていた。
昨日と同じ格好のまま。壁にもたれ、腕を組んでいる。
その腕には、黒い侵食の痕がまだ残っていた。
「帰ったと思ったか」
「思ってた」
「残念だったな」
淡々としたやり取り。
レインは小さく息を吐く。
「……いつからだ」
「夜のうちに戻った」
「中に入らなかったのか」
「必要ない」
短い答えだったがレインはそれ以上聞かなかった。視線だけが、カイルの腕へ向く。
「……それ、大丈夫なのか」
「問題ない。時間が経てば引く」
「引かなかったら?」
「その時はその時だ」
軽い言い方だった。だが、その奥にあるものは軽くない。
レインは小さく舌打ちする。
「無茶してんのはお互い様か」
「自覚があるならいい」
「褒められてねえな、それ」
扉が開く音がする。
「朝から静かじゃないわね」
シルフィが外に出てくる。
レインに一瞬視線を向け、次の瞬間カイルの存在に気づいた。
「……」
ほんのわずかに、空気が止まる。
シルフィは何も言わず、カイルを見た。
視線は腕へ。
黒い侵食。
ほんの一瞬だけ、目が細くなる。
(……侵食されてる?普通じゃない……)
だが、それ以上は踏み込まない。
「……その人」
静かに、レインへ向けて言う。
「一緒に行くの?」
「ああ」
短い返事。
シルフィはもう一度だけカイルを見る。
「……そう」
シルフィはそれ以上は何も言わなかった。
一歩、レインに近づき、じっと顔を覗き込む。
「顔色は……まあ昨日よりマシね」
「一応寝たからな」
「一応ね」
レインは視線を逸らす。
「……大丈夫だって」
「あなたの大丈夫は信用してないの」
間髪入れずに返される。
レインは苦笑した。
ふわり、と光が揺れる。
『おはよう』
ルミナスが、レインの隣に浮かぶ。
「……寝たのか?」
「寝てない。寝なくても平気」
シルフィの視線が、ゆっくりとルミナスに向く。
わずかに、空気が変わる。
だがすぐに元に戻る。
「……相変わらずね」
『……?』
「でも、そのままでいい」
ルミナスはよく分からないまま、光を揺らした。
風が、静かに吹く。
シルフィはゆっくりと口を開いた。
「……レイン」
「なんだ」
「その子、ちゃんと守りなさい」
視線はルミナスに向いている。
「絶対に」
レインは迷わず答えた。
「分かってる」
「……本当に?」
「分かってるって」
その声は、はっきりしていた。
シルフィは小さく頷く。
「じゃあ、行く」
レインが言う。
止める者はいない。
カイルが先に歩き出す。レインがその隣に並ぶ。ルミナスがその間をふわりと漂う。
数歩進んだところでシルフィが声を出す。
「レイン」
レインは足を止める。振り返らないまま答える。
「なんだ」
「……死なないで」
小さな声だった。
だが、確かに届いた。
レインは軽く笑う。
「努力する」
「努力じゃ足りないのよ」
「じゃあどうしろって」
「絶対に生きて帰るって言いなさい」
レインは静かに言う。
「……戻る」
短い言葉だったがシルフィは嬉しそうに目を細めた。
「最初からそれ言いなさい」
「うるさいな」
「帰ってきたら殴るわ」
「それは勘弁してくれ」
それが、最後のやり取りだった。
レインは振り返らずに歩き出す。カイルも止まらない。
ルミナスだけが、少しだけ後ろを見た。
『……またね』
小さな声でシルフィに言う。
シルフィは静かに頷いた。
三人の背中が、ゆっくり遠ざかる。
やがて見えなくなる。
風だけが残った。
シルフィはその場に立ち尽くしていた。
しばらく、動かない。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……行ったわね」
誰に言うでもなく一人呟く。
その視線は、すでに先ほどまでのものとは違っていた。
柔らかさは消え、研ぎ澄まされたものに変わっている。
「……同じ流れ」
小さな声。
風が、わずかに揺れる。
「……やっぱり……同じだわ」
目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、過去。
止められなかった光。壊れていった存在。
「……灰の王」
その名だけが、静かに落ちる。
わずかに、指先が震えた。
「……あなたを止められなかった」
かすかな後悔。
だが、それは一瞬で消える。
シルフィは目を開いた。
「でも、今度は違う」
はっきりと言い切る。
視線が、遠くを向く。
「……あの子は、まだ壊れてない」
ルミナスの光が脳裏をよぎる。
「だから、お願いよレイン」
シルフィは未来に思いを馳せる。




