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第16話 氷の姫君、源泉かけ流し露天風呂に散る

 小高い丘での視察を終え、アルドたちが拠点に戻ってきた頃には、空はすでに美しい茜色に染まり始めていた。


 結界の内側へと足を踏み入れたシルヴィアは、目の前の光景に思わず立ち尽くした。

 そこには、王都の威信を背負ってきたはずの近衛騎士団の面々が、ドワーフの職人兄弟・ガズとバルを中心とした大宴会に見事に巻き込まれていたのだ。

 テーブルには、アルドが昼間に振る舞ったスパイシーな豚肉料理の残りに加え、マチルダが急遽合成した山盛りのローストビーフや、リーリャが育てた新鮮な野菜スティックが並べられている。そして騎士たちの手には、霜のついた特大のジョッキが握られていた。


「おいおい王都の騎士様方! そんなちまちま飲んでないで、もっと豪快に空けろ! この『微炭酸エール』はアルド親方の拠点特製だぞ!」

「ぷはぁーっ! う、美味すぎる……! 7日間泥水しか飲んでいなかった喉に、この冷たい炭酸が痛いほど沁み渡ります!」


 極限の飢えと渇きに苦しんでいた騎士たちは、アルドへの敵対心などとうの昔に忘れ去り、涙を流しながらドワーフたちと肩を組んで美味い飯と酒を貪っていた。


「……なんという体たらくだ。近衛騎士の誇りはどこへ行ったのだ」


 シルヴィアは額を押さえて深いため息をついたが、その口調には怒りよりも深い安堵が滲んでいた。

 彼らが飢えと渇きから解放され、安全な場所で心からの笑顔を見せている。指揮官として、部下たちの無事を確認できたことは何よりも大きかった。


「部下たちにまで、これほど手厚いもてなしを……。アルド殿、本当に我々を恨んではいないのだな」


 シルヴィアは、賑やかな宴会の輪から少し離れた場所に立つアルドに向かって、深く頭を下げた。


「恨む理由がないからな。俺はただ、自分のやりたいように生きる場所を変えただけだ。それに、命令でこんな死の大地まで歩かされたあんたたちも、ある意味では上層部の無茶振りに巻き込まれた被害者だろう」


 アルドは腕を組み、穏やかなトーンで応えた。


 誤解は解けた。アルドが国家反逆を企てているなどというジルク大臣の言葉は、完全なでっち上げであるとシルヴィアも確信している。

 だが、近衛騎士団副団長としての彼女の表情は、依然として硬く、張り詰めた緊張感を保っていた。


 いくらアルドに敵意がないとはいえ、ここは王都の管理下から外れた未知の領域だ。圧倒的な武力を持つ鉄の獣が背後に控え、いついかなる事態が起きるか分からない。指揮官たる自分が、一瞬たりとも気を抜くわけにはいかないのだ。


 そんな、鎧を着込んだまま全身を強張らせているシルヴィアを見て、アルドは小さく息を吐いた。


「シルヴィア副団長。あんた、王都を出発してからまともに休んでいないだろう。顔色がひどいぞ」

「っ……! 騎士たるもの、任務中に泣き言は漏らさん。これしきの疲労、強靭な精神力でいかようにも……」

「強がるな。砂埃と汗で、その自慢の銀の甲冑もドロドロじゃないか。疲労困憊の頭じゃ、いざという時にまともな判断も下せないぞ。部下たちもあんな調子でくつろいでいるんだ。あんたもひと汗流してこい。俺の自慢の露天風呂を貸してやる」


 アルドの提案に、シルヴィアはビクッと肩を震わせた。


「ろ、露天風呂……? な、何を馬鹿な! この敵地……いや、視察先において、無防備に鎧を脱いで湯に浸かるなど、近衛騎士の誇りにかけて絶対にあり得ない!」


 シルヴィアは顔を真っ赤にして固辞した。

 温泉。その甘美な響きは、7日間の過酷な死の行軍で冷え切り、泥にまみれた彼女の身体にとって、悪魔の誘惑にも等しかった。だが、ここでその誘惑に負ければ、自分の中で保ってきた「氷の姫君」としての規律が完全に崩れ去ってしまう気がしたのだ。


「頑固だな、あんたは。誰もあんたを襲ったりしないって」


 アルドが呆れたように肩をすくめた、その時だった。


「わふっ!」


 足元から、元気で愛らしい鳴き声が響いた。

 黄金色の毛玉――神獣の子犬であるレオだ。

 レオは小さな口に、マチルダが編み上げたふかふかのバスタオルと花の香りがする石鹸、そして特殊な布地で作られた衣服が入った小さなカゴを、器用にくわえていた。


 トテトテ、と短い足で不器用なステップを踏みながらシルヴィアの前に歩み寄ると、レオはカゴを彼女の足元にポトリと置いた。

 そして、小さな尻尾をふりふりと忙しなく揺らしながら、お座りの姿勢をとる。

 レオは、澄んだ潤んだ瞳でシルヴィアを真っ直ぐに見上げ、こてんと可愛らしく首を傾げた。


「きゅ〜ん……?」

(お風呂、いかないの……?)


 まるでそう言っているかのような、殺傷力が高すぎる上目遣い。

 これには、王国の誇る氷の魔剣士もなす術がなかった。


「っ……!!」


 シルヴィアの鉄壁の表情筋が、ピクピクと痙攣を引き起こす。

 彼女は元来、可愛い動物やふわふわしたものが大好きなのだ。王都では厳格な副団長としての威厳を保つため、その嗜好をひた隠しにして生きてきたが、目の前で圧倒的な愛嬌を振りまくレオの姿は、彼女の心の奥底にある防壁を物理的に打ち砕く威力を持っていた。


「あ、あぁ……なんという……愛らしさ……」


 シルヴィアはわなわなと震える手を伸ばし、レオのふわふわの頭をそっと撫でた。レオは嬉しそうに目を細め、彼女の金属のガントレットにすりすりと頬を寄せてくる。


「……負けた。降参だ。アルド殿、その……お言葉に甘え、少しだけ、湯を借りてもよろしいだろうか」


 シルヴィアは完全に毒気を抜かれた声で、力なく敗北を宣言した。


「ああ、ゆっくり温まってこい。着替えと湯着は、レオが持ってきたそのカゴに入ってる」


 アルドは、レオの頭を撫でながら崩れ落ちる副団長を見て、堪えきれずに吹き出しそうになるのを必死に堪えた。


★★★★★★★★★★★


 マチルダが古代樹の成分から組み上げた脱衣所は、足を踏み入れた瞬間から清浄な木の香りに満ちていた。

 シルヴィアは重い銀の甲冑を外し、泥と汗で張り付いたインナーを脱ぎ捨てる。

 カゴの中には、ふかふかのタオルとともに、マチルダが合成した「湯着」が用意されていた。水に濡れても決して肌が透けない特殊な絹糸で織られた、ワンピースタイプの可愛らしい湯着だ。これなら、拠点に男性陣がいる環境でも安心して湯を浴びることができる。


(あの鉄の機械が用意したというのか? 専属の仕立屋すら凌駕する見事な品質と配慮だ……)


 驚愕を隠せないまま、シルヴィアは湯着に袖を通し、洗い場へと進んだ。花の香りのする石鹸で全身の汚れを丁寧に洗い流すと、すりガラスの引き戸を開け、露天風呂の空間へと足を踏み出す。


「…………っ」


 シルヴィアの口から、声にならない感嘆の息が漏れた。

 夕闇が迫る空の下、間接照明の優しいオレンジ色の光に照らし出された、広大な岩風呂。

 獅子の頭を模した巨大な彫刻の口から、とくとくとくと、透明で柔らかなお湯が絶え間なく注がれ続けている。風に乗って鼻をくすぐるのは、微かな硫黄の香りと、周囲の森から漂うハーブの匂い。


 シルヴィアは、美しい玉砂利が敷き詰められた湯船の底にそっと足を踏み入れた。


「あ……っ」


 お湯の熱さは、冷え切った身体の芯を優しく解きほぐすような、まさに絶妙な湯加減だった。

 つま先から足首、ふくらはぎ、太ももへと、ゆっくりとお湯に身体を沈めていく。


 チャプン、と肩までお湯に浸かった瞬間。


「はぁぁぁぁぁぁ…………っ」


 シルヴィアの口から、近衛騎士にあるまじき、だらしなくも至福に満ちた長い長い吐息が漏れ出した。

 死の大地を7日間かけて強行軍してきた、鉛のような筋肉の疲労。

 王都のインフラ崩壊による終わりの見えない対応と、上層部からの理不尽な重圧。

 そして、常に気を張っていなければならない「氷の姫君」としてのプレッシャー。


 長年彼女が背負い続けてきた分厚い氷の鎧が、この源泉かけ流しのお湯に浸かった途端、内側からじんわりと溶かされ、跡形もなく崩れ去っていくような感覚に陥った。


(いけない……私は、騎士だ。こんな所で気を抜いては……敵地で、隙を……)


 シルヴィアの残された僅かな理性が、必死に警報を鳴らそうとする。

 しかし、アルドの超精密な魔力回路によって一切の狂いなく調整された熱水と、マチルダが形成した究極のリラクゼーション空間は、そんなちっぽけな理性をあっさりと押し流してしまった。


(あぁ……もう、どうでもいい……。お湯が、優しく身体を包み込んで……まるで天国みたいだ……)


 完全に目がトロンと泳ぎ始め、シルヴィアは湯船の縁の滑らかな岩に後頭部を預けた。

 夜空には、煌びやかな星々が一つ、また一つと瞬き始めている。

 静寂の中、遠くで虫の鳴く声と、お湯が波打つ水音だけが、耳に心地よく響く。


 もはや、彼女の中にアルドを疑う気持ちなどひとかけらも残っていなかった。

 こんなにも完璧で、人を幸せにする優しい空間を創り出せる男が、国に仇なす悪党であるはずがない。

 王都で権力闘争に明け暮れ、泥水にまみれて絶叫している大臣たちと、この辺境で仲間たちと共に極上の温泉に浸かっているアルド。

 どちらが本当に豊かな人生を歩んでいるかは、比べるまでもなく明白だった。


「……負けた。完全に、私の負けだ……」


 シルヴィアはぽつりと呟き、ふわりと微笑んだ。

 それは、氷の姫君の仮面が完全に剥がれ落ち、年相応の一人の女性としての素顔が露わになった瞬間だった。

 王国の精鋭を率いる凄腕の魔剣士は、一太刀も交えることなく、アルドの作り上げた『至高の温泉』の前に、その戦意を完全に喪失し、陥落したのだった。


★★★★★★★★★★★


 すっかり日が落ちた頃。

 ログハウスの広々としたウッドデッキでは、アルドが夜風に当たりながら、グラスの中で氷をカランと揺らしていた。

 少し離れた庭のテント周辺では、騎士たちとドワーフたちの宴会がまだ賑やかに続いている。


 カチャリ、と背後のガラス戸が開く音がした。


「……アルド殿。その、長湯をしてしまって、すまない」


 振り返ると、そこには見違えるような姿になったシルヴィアが立っていた。

 脱衣所に用意されていた、淡い水色のゆったりとしたルームウェアに身を包んでいる。お湯の熱で上気した白い肌はほんのりと桜色に染まり、洗い立てのプラチナブロンドの髪からは、ふわりと良い香りが漂っていた。


 鋭く冷たかった眼光はすっかり鳴りを潜め、どこか恥ずかしそうに視線を彷徨わせているその姿は、もはや威厳ある騎士団副団長には全く見えない。


 アルドはグラスをテーブルに置き、ふっと口角を上げた。


「気にするな。あんたは働きすぎだったんだ。憑き物が落ちたみたいに、いい顔になってるぞ」


「い、いい顔って……そ、そういう軽口は!」


 シルヴィアは慌てて顔を赤くし、そっぽを向いた。しかし、その声に以前のような棘はない。


「風呂上がりには、水分補給が必要だ。こっちに来て座れ」


 アルドが隣の椅子を勧めると、シルヴィアは大人しくコクリと頷き、ウッドデッキの椅子に腰を下ろした。

 温泉という最強の武器によって、氷の姫君の警戒心は完全に溶け去った。

 だが、アルドの「おもてなし」はまだ終わっていない。風呂上がりといえば、欠かせない至高のセットが控えているのだ。


「待たせたな。マチルダ特製の、湯上がりの一杯だ」


 アルドがテーブルに置いたのは、キンキンに冷えたガラス瓶に入った、淡いフルーツ色の液体だった。

 それを見たシルヴィアの喉が、無意識にゴクリと鳴る。

 辺境の夜は、まだまだ長く、そして底抜けに平和な時間が続いていく。

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