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第17話 湯上がりのフルーツ牛乳と、アルド特製スパイスカレー

「待たせたな。マチルダ特製の、湯上がりの一杯だ」


 アルドがウッドデッキのテーブルに置いたのは、表面にびっしりと霜がついた、手のひらサイズのガラス瓶だった。その中には、淡いオレンジ色やピンク色が混ざったような、パステルカラーの液体がなみなみと注がれている。


「これは……?」


 マチルダが用意した水色のルームウェアに身を包むシルヴィアは、湯上がりで上気した頬のまま、不思議そうにそのガラス瓶を見つめた。


「『フルーツ牛乳』っていうらしい。お風呂から上がった後、こいつを腰に手を当てて一気に飲み干すのが、至高の作法だそうだ。マチルダの受け売りだがな」


 アルドが軽く肩をすくめて言うと、ホログラムのマチルダがポンと横に現れた。


『その通りよ! お風呂で温まった身体と乾いた喉に、この甘さと冷たさが最高に効くんだから! さあシルヴィアさん、遠慮せずにグイッと行っちゃって!』


「腰に手を当てて、一気に……」


 近衛騎士団の副団長たる自分が、そんなはしたない真似をできるはずがない。そう思いつつも、シルヴィアの喉はカラカラに乾いており、キンキンに冷えた瓶から漂う微かな甘い香りが、彼女の理性を激しく揺さぶっていた。


 意を決し、シルヴィアはそっと左手を腰に当て、右手でガラス瓶を持ち上げた。

 そして、冷たい縁に唇を当て、喉を鳴らして一気に流し込む。


「んんっ……!」


 シルヴィアの翠緑の瞳が、驚きで丸く見開かれた。

 口の中に広がったのは、複数の果実――まろやかなバナナ、甘酸っぱいベリー、そして爽やかなオレンジなど――のフレッシュな甘みと、驚くほど濃厚でコクのあるミルクの味わいだった。

 それが氷点下ギリギリまで冷やされた状態で、温泉で火照りきった全身の熱を、甘く冷ややかに鎮めながら喉の奥へと滑り落ちていく。


「ぷはぁっ……! な、なんという美味しさ……!」


 シルヴィアは空になった瓶をテーブルに置き、思わず感嘆の声を漏らした。

 微炭酸のような刺激はないが、その分だけ果実とミルクの優しい甘さが、極度の疲労と緊張から解放されたばかりの彼女の心を、ふんわりと柔らかく包み込んでくれるのだ。


「あはは、いい飲みっぷりだ」


 アルドが満足げにうなずくと、シルヴィアはハッとして顔を真っ赤に染め上げた。


「し、失礼した! 喉が渇いていたもので、つい浅ましいところを……!」


 慌てて取り繕おうとする彼女の足元で、「きゅ〜ん」という甘えた鳴き声がした。

 黄金色の子犬・レオだ。

 レオは短い前足をシルヴィアの膝にちょこんと乗せ、小さな鼻をヒクヒクと動かしている。ぽわぽわの尻尾を左右にブンブンと振り回し、「ぼくもほしい!」と言わんばかりに無邪気に見上げてくる。


「あぁ……レオも喉が渇いたのか? だが、これは私が飲んでしまったから……」


 シルヴィアが困ったように微笑むと、マチルダのアームがスッと伸びてきて、レオ用の小さな浅いお皿を床に置いた。


『はい、レオちゃんには特製の栄養満点子犬用ミルクよ!』

「わふっ!」


 レオは嬉しそうに顔を突っ込み、ぴちゃぴちゃと音を立ててミルクを飲み始めた。あっという間にお皿を空にすると、口の周りに白いヒゲのようにミルクをつけたまま振り返り、満足げに「くふぁ〜」と小さな欠伸をする。その姿があまりにも愛くるしい。

 シルヴィアは思わず顔をほころばせ、しゃがみ込んでその柔らかな背中を撫でた。


 平和な時間が流れる。

 だがその時、静寂を破るように「きゅるるるぅぅ……」という、決して小さくない音が響き渡った。


「…………っ!?」


 シルヴィアは全身をビクッと硬直させ、顔から火が出るほどの勢いで自分のお腹を押さえた。


「ああ、そういえば」


 アルドは立ち上がり、軽く肩を回しながら言った。


「あんた、お風呂に直行したから、まだ夕飯を食べていなかったな。部下たちはドワーフの宴会でたらふく肉を食っているが、あんたはどうする? 王都から7日間もまともなメシを食ってないんだろう」


「い、いや! 私は騎士だ、これしきの空腹など……!」


 強がるシルヴィアだったが、温泉で究極のリラックスを味わい、フルーツ牛乳で胃袋が完全に目覚めてしまった今の彼女の身体は、限界まで栄養を欲していた。再び「きゅるぅぅ……」という正直すぎる音が鳴り、彼女は羞恥で俯いてしまった。


「無理するな。今から俺が、湯上がりにぴったりの夜食を作ってやる」


 アルドはそう言うと、作業用エプロンを身に着け、ログハウスのキッチンへと向かった。

 シルヴィアは誘われるように立ち上がり、キッチンのカウンター越しにアルドの作業を見つめる。


「湯上がりには、ガツンとスパイスの効いたカレーが一番だ」


 アルドは手慣れた手つきで、いくつもの小さな小瓶を並べた。王都を出る時に持ち出した、アルドの宝物とも言えるスパイスの数々だ。


 スキレットにたっぷりの油を敷き、まずはホールスパイスを投入して火にかける。


 ――パチパチパチッ!


 熱せられた油の中でマスタードシードが軽快にはぜる音が鳴り、クミンシードが細かな泡を立てる。その瞬間、鼻を突き抜けるような、異国情緒あふれる強烈で複雑な香りがキッチンに立ち込めた。


「すごい香りだ……。宮廷の厨房でも、このような匂いは嗅いだことがない」


 シルヴィアが目を丸くする。


 アルドはスパイスの香りが油に十分に移ったところで、みじん切りにした大量の玉ねぎを投入した。強火で一気に炒め、玉ねぎが濃いあめ色になるまで焦がさないように木べらを動かし続ける。

 そこに、すりおろしたニンニクと生姜、トマトのペーストを加え、さらに粉末状のコリアンダー、ターメリック、チリパウダーなどのパウダースパイスを一気に振り入れた。


「ここでスパイスの粉っぽさを完全に飛ばし、旨味のベースになる『カレーの素』を作るんだ」


 アルドの手際の良い調理プロセスは、無駄が一切なく、見ているだけで引き込まれるような一種の芸術性を帯びていた。


「マチルダ、頼んでいた具材はできているか?」

『ええ、完璧よ! 私の生体プリンターで極上の牛すじの成分を寸分違わず合成して、超高圧調理器で三日間煮込んだのと同じ柔らかさにしておいたわ!』


 マチルダのアームから渡されたボウルには、プルプルに透き通ったゼラチン質と、濃い赤身が混ざり合った合成の牛すじ肉がたっぷりと入っていた。

 アルドはそれをスキレットに投入し、特製のブイヨンスープを注ぎ込んで煮立たせる。

 グツグツという心地よい音とともに、スパイスの刺激的な香りと牛すじ肉の濃厚な旨味が混ざり合い、抗いがたい凶悪なまでの食欲をそそる匂いとなってシルヴィアの胃袋を激しくノックした。


「よし、完成だ。ライスの代わりに、今日はマチルダが焼いた焼きたての『ナン』を添えるぞ」


 アルドがカウンターに差し出したのは、深めのお皿にたっぷりと盛られた漆黒に近い濃厚なスパイスカレーと、ふっくらと膨らみ、表面にバターが塗られてテカテカと光る巨大なナンだった。


「さあ、冷めないうちに食ってくれ」

「い、いただきます……!」


 シルヴィアは震える手でナンをちぎり、熱々の牛すじカレーにたっぷりと浸して、大きな口を開けて頬張った。


「ッ…………!!」


 一口噛み締めた瞬間、シルヴィアの脳天に衝撃が走った。

 まず味蕾を襲うのは、幾重にも重なり合った複雑なスパイスの鮮烈な香り。そしてピリッとした心地よい辛味が舌を刺激する。しかしその直後、あめ色玉ねぎとトマトの深い甘み、そして口の中でとろけるほど柔らかく煮込まれた牛すじ肉の圧倒的な旨味が、怒涛の勢いで押し寄せてきたのだ。


「美味しい……! なんだこれは、ただ辛いだけではない、信じられないほど奥深くて濃厚な味わいだ……!」


 シルヴィアは額にじんわりと汗をにじませながら、騎士の作法など完全に忘れ去り、無我夢中でナンをちぎってはカレーを口へと運び続けた。


「熱くて辛いだろう。こいつを飲みながら食え」


 アルドがスッと横に差し出したのは、氷が浮かんだ白い液体――ヨーグルトベースの冷たい『ラッシー』だった。


 シルヴィアがラッシーを一口飲むと、ヨーグルトの爽やかな酸味と優しい甘さが、口の中に蓄積していたスパイスの熱を優しく中和し、一瞬でさっぱりとさせてくれた。

 そして不思議なことに、口の中がリフレッシュされたことで、さらにまた強烈にあのカレーの刺激と旨味を欲するようになるのだ。


 熱く刺激的なスパイスカレーと、冷たく爽やかなラッシー。

 そして合間にちぎる、ほんのり甘くて香ばしいバターナン。

 シルヴィアのスプーンは止まることを知らず、彼女はかつてないほどの幸福感に包まれながら、あっという間に特大のカレーを平らげてしまった。


「……ふぅっ」


 最後の一滴までラッシーを飲み干し、シルヴィアは大きく息を吐いて背もたれに寄りかかった。

 お腹ははち切れそうなほど満たされ、身体の芯からはスパイスの効果でポカポカとした熱が生まれている。


「どうだ、口に合ったか?」


 アルドが後片付けをしながら笑いかけると、シルヴィアは頬を赤く染めて何度もうなずいた。


「ああ……本当に、素晴らしかった。私がこれまで王宮で食べてきた豪華な晩餐会など、この一皿のカレーの足元にも及ばない。アルド殿、貴殿は魔導工学師であると同時に、天才的な料理人でもあるのだな」

「ただの趣味さ。だが、そう言ってもらえると作り甲斐がある」


 グラスの縁を指でなぞりながら、シルヴィアは夜空を見上げた。

 源泉かけ流しの極上のお風呂。身体を満たす、温かくて美味しい食事。そして、足元でスースーと寝息を立てて眠る可愛い子犬のレオと、どこか不器用だが底抜けに優しいアルドという男。


(王都に戻れば、待っているのは下水まみれの城と、権力闘争に明け暮れる浅ましい貴族たち。……それに比べて、ここはなんて満ち足りた場所なのだ)


 近衛騎士の副団長たる自分が、本来であれば明日にでも部隊を率いて王都へ帰還し、この開拓地に反逆の意図がないことを報告しなければならない。

 しかし、シルヴィアの心はすでに、王都の泥水まみれの現実へと戻ることを強烈に拒絶していた。


(いや、待てよ。アルド殿に反逆の意思がないことは明白だが、ここは未知のオーバーテクノロジーと、強大な魔力を持つ神獣の子犬が存在する特異点だ。もし悪意ある第三者がこの領地を狙えば、王国にとっても大いなる脅威となり得る)


 シルヴィアは心の中で、ものすごいスピードでもっともらしい言い訳を構築し始めた。


(そうだ。私以外の部下20名は、明日の朝一番で王都へ帰還させよう。彼らに『アルド・アークライトに反逆の意思なし。しかし辺境には危険な古代遺物が存在するため、副団長たる私が単独で監視および護衛任務に当たる』とジルク大臣に報告させれば、これ以上の討伐隊が送られてくるリスクも防げるし、アルド殿への迷惑もかからない!)


 副団長としての理知的な思考力と責任感をフル回転させ、シルヴィアは「自分だけがここに居座るための完璧な作戦」を確立し、ホッと安堵の息をついた。

 もはや彼女の瞳に、王都へ帰るという選択肢は一ミリも残っていない。


「アルド殿。その……折り入って、相談があるのだが」

「ん? なんだ、まだ食い足りないのか?」

「違う! そうではなく……明日の朝、部下たちを王都へ帰還させる手はずを整えたい。その上で、私単独によるこの領地の『治安維持』と『専属護衛』について、前向きに提案したいことがあるのだ!」


 顔を真っ赤にしながら必死に言葉を紡ぐ氷の姫君を見て、アルドはすべてを察したように優しく微笑んだ。

 完璧な「風呂上がりセット」がもたらした破壊力は、かくして王都が誇る最強の騎士から矜持を奪い去り、彼女をこの辺境の開拓地に永遠の虜として縛り付けることに成功したのだった。

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