PART.15 彼がいない日 後編
私たちの朝食はカレー、先ほど食べたものだ。でも健也君は今日、食欲が湧かないらしくずっと部屋で寝てしまっている。
これから昼食、夕食と食事をとることになるし、今日の洗濯や掃除、さらにはご飯の買い出しに大学のレポート、探せば切りがない。しかし、私はそのほとんどの家事を健也君に任せることで最近はより仕事にも大学生活にも精が出るようになっていた。
今までは一人で全部やっていたこと。けれど、しばらくとは言えなくとも、洗濯の苦労や掃除の大変さなんかを今更ながら思い出した。
健也君がいない日。
そんな言葉がふと心の中に浮かび上がる。
私はここ一週間程度にあったことを思い出す。
一度凍死した彼を助けた後、部屋で彼を看病することから始まったこの同棲生活。彼が母親に命を狙われたことを知っているし、今では彼の母親は事件を起こした結果会社の利益を大きく損ない、契約が取れなくなった会社は結局破産寸前らしい。彼の母親、というのは長いからこれからは和美ということにする。
和美は再婚相手の丸橋TV社員、岸本裕二に振られ、さらにこの件がきっかけで彼女たちは大手の丸橋TVの支援を受けられなくなり、さらに汚名をかぶることになり、この会社出身のサラリーマンは少なくとも路上生活を余儀なくされるレベルの莫大な借金を抱えたようだ。会社の上層部も部下たるサラリーマンを使い捨てにして給料から勝手に差し引いた値段で借金は返済したらしいが、サラリーマンたちはすでに労働に対する意欲を失ってしまった。
そんなサラリーマンたちは失業し、働く意欲もないまま路上を彷徨っているらしい。そう言えば、健也君はちょっと前に『会社ごと潰す手段を考えています』って言っていた。会社の信用を損なった上で全体的に大打撃を与える手段、それは事件の公表…というわけで、一応自他ともに認める国民的女優の私に会ったことを良いことに全国に広げたというわけね。そう言う意味では、私も利用されていたというわけか…。
…って、何で健也君のことばっかり考えてるの?いや、確かに、私は彼のことが好きだ。まだ、恋愛感情が芽生えているわけじゃないと思うけど、それでも、少しだけ意識してしまう。
そう言えば、健也君の雰囲気もだいぶ柔らかくなってきた。初めはまだ警戒心が解けていないような感じだったし、数日の間は狂信者みたいに私の言ったお手伝いをすべて完璧にこなした。でも、昨日はハグした後、カレーを食べたけど何故か『なぜか、少しから口にしたつもりなのに甘ったるい…。』とボヤいていたから、私に対して何かあるのかもしれない。
…また健也君のことを考えてる。でも、今まで恋したことがないからこの感情が分からない。
お昼時になった。本田記者は彼の代わりに今日の夕飯を作ってくれるそうだ。何でも、彼女自身健也君にメールで料理についての議論的なものを交わしている事もあり、彼に対して好印象を持っているようだ。プライベートで料理を一緒に作ったり、教え合っている感じはどう見ても…。
いや、嫉妬はしてないと思う。でも、いつもは彼が昼ご飯を作ってくれるんだ。彼は今日休みと知っているが、それでも彼のご飯を食べたい、出来れば作り立てを食べたいという欲が出てきてしまう。
本田記者は少しだけ口角を上げて、大きめの皿にピザを乗せてきた。
「今日は影山さんが風邪ひいてしまっているんですし、そんな心配そうな顔をしていたら、彼が申し訳なさそうにしますよ。だから今のうちにジャンクなものを食べちゃいましょう?」
彼女は私を元気づけようとしてくれたのかもしれない。『ありがとう』と一言言ってピザを食べる。
(チーズがちょっとしょっぱい…。でも、たまには良いかも。)
その間黙々と食べ続ける私。水を口に含み、ピザをそのまま食べていく。本田記者も同じくピザを食べている。
一人の時は何にも感じなかったのに、誰かが無言でも、近くで一緒に同じものを食べているだけで少し感情が安らぐだなんて、思いもしなかった。
それでも彼がいないこの日、辛いことに変わりはない。早く明日になって彼が元気になってくれればと思い、ピザの最後の一切れをそのまま食べきった。
そのころコメントはというと…。
『健也、よっぽど好かれてるみたいだな』
『いつもの彼女とは大違いだ』
『健也君早く来てー』
『今北産業。いつもは家での配信でも明るい笑顔なのに、今日はやけに暗い、何故?』
『愛しの専業主夫が体調不良。一緒に配信できない。一緒にご飯食べれない』
『なるほど理解』
『あれ、彼は彼女の好意に気付けているのか?』
『意外と鈍感じゃね?プレイボーイみたいな見た目してるが内面乙女?』
『ロマンチストかも』
『なんだかんだ健也ファン多くて竹』
『ちゃうわ』
『草』
『ルックスにやられたファンでーす』
『草』
『草』
…
……
………
チャット欄はいつも通り平和でした。
暗い部屋、ドアの隙間から漏れる陽の光、痛い頭と冷たい額…。
額には知らないうちにシートが張ってあり、少し喉の渇きが激しくなったような感覚がした。
「友里さん、ありがとう…。」
それと、眠気が酷い…。
「ふにゃぁ…。」
あくび混じりに何かを言った気がするが、取りあえずは無視。マスクをし、手すりに掴まって階段を下りる。食欲は未だにないが、水分補給はしないといけない。朝も昼も何も食べていないし、今日くらいは白湯だけで済ませてしまおうか…。
トンッ、トンッ
上から小さな足音がする。私はピザを食べ、歯を磨き終えた後だった。雑談を始めようとしたタイミングだった。
私は健也君が下りてきたということを視聴者に伝える。するとコメント欄から、
『夫来たな』
『夫じゃん』
『冴島さん嫁?』
とかいうコメントが流れてきて笑う。本田記者もコメントを見てクスクスと笑いを浮かべている。
「いや、彼は夫じゃないですよ。」
そう言おうとした時、健也君があくびをしたのかこう言っていた。
「ふにゃぁ…。」
!?
え?
「あ、友里さん、おはようございますぅ…。」
怠そうで多少ふらつきながらも彼は壁を伝いながら歩いていた。それにどこかほわほわしている。
ほわほわっていう文字が浮かんで見えそうだ。
「あれ…本田さんもいらっしゃるじゃないですか、こんにちは。………………ふにゃぁ。」
やっぱり、彼が『ふにゃぁ…。』って言ってる。え?ちょっと待って、滅茶苦茶かわいいんですけど!これがギャップ萌えってやつですか!?同期の女優さんが『ギャップ萌えサイコー!』とか言っていたから何なのかと思ったら、これ!?分からないとか言ってすみませんでした!ギャップ萌えサイコーです!
そう言えば、彼は絶対に早く寝ることと体調を崩さないように心がけていた。ひょっとして、これの所為?
「お水を飲みに来ました…。…ああ、配信中ですか…。…!?あ、あわわわわわわわわ!?」
いきなり彼は頭を押さえ始めた。
「あああ!?だから体調は崩したくなかったのに!変に気が抜けすぎて『ふにゃぁ…。』とか言うのが嫌だから体調管理徹底してたのに!よりにもよって配信で…。はぁ………………。」
どうやら、体調を崩すと気が抜けすぎてふにゃふにゃになって、『ふにゃぁ…。』という声が出てしまうらしい。
完全に目を醒ました彼はあわあわとしていて絶賛混乱中といったところだ。
「健也君。」
私は彼に声をかける。
「…何でしょう?」
「可愛かったよ。」
「…忘れてください!」
彼はそのまますでに温くなって意味が無くなったシートをゴミ箱に捨てて、コップに水を入れて椅子に座り、水を少しずつ飲み始める。
「…戻らないんですか?」
「あのこと喋るかもしれないじゃないですかぁ…。」
「喋らないよ!心配しないで!」
「…ちょっと不安です。友里さん、ちょっと悪戯とかしそうですし…。」
「しないよ!」
「可愛いって言った…可愛いって言った…可愛いって言った…。」
「ごめんなさい。」
「はい、ちょっと悪戯しました。ごめんなさい。」
「許す…。」
やっぱり、彼との会話は楽しい。でも、ちょっとふにゃふにゃとしてる彼は見ていて楽しい。
コメントでは…。
『イチャコラ…。』
『健也なんか可愛い』
『可愛いって言った…可愛いって言った…可愛いって言った… ワロタ』
『そりゃ一般人でもファン増えるわ』
『二人幸せそう…。』
『名前呼び!?』
『お幸せに。』
『名前呼び…だと…。』
『グハッ尊い』
『尊すぎて死ねる』
『尊死』
『草』
『草』
『草』
盛大に健也たちの会話基無自覚イチャイチャが配信されていた。勿論彼らにそういう意図はない。しかし、周りから見たらイチャついているようにしか見えなかった。
健也君がお客さん用の寝室で再び寝た後、コメント欄を見るとニヤニヤしてしまいそうなコメントが溢れていた。
「ちょっと…『可愛いって言った…』ってあれ面白くて噴きだしそうだったんだからやめてよぉ…!って、色々とコメントありがとう!そうだ、実は彼、私のことは主だと思っているみたいでほとんど私が言ったことばっかりしちゃうんだ。どうやったら彼がもっと自由に出来ると思いますか?実は彼ともう少しだけ仲良くなりたいんですけど…。」
その時私は少しだけ怖かった。誹謗中傷はここまで来るまでに散々浴びせられてきた。でも、彼にまでそれが飛び火するのがとんでもなく怖かった。
『いいですよ。』
『いいですよ。』
『彼が好きだってみんなにバレてますよ』
『気付いてないの彼だけかも』
『週刊誌なんかでは彼とデキてるなんて噂すらありますし…まあ嘘みたいですが』
『彼自身、好印象なのは間違ってないですよ。なんなら、彼のこと好きってファンも多いですし』
『いやぁ、冴島さんに好きな人が出来てよかった!』
そんな温かいコメントが流れてきた。その数々を見ていくうちに、涙がこぼれる。
「でも、私、立場が全然違うし、彼が傷つくのは嫌だし…。それでもいいんですか?」
『ファンは応援してなんぼ』
『ケンヤを好きってやつ多いぜ?』
『ケンヤは大分鈍感みたいだからな』
『健也君自身が貴女を大切だと思っているのは事実』
『問題は距離を急いで詰めようとするのは間違いってこと』
『こういうのはじっくりした方がいい』
『根を詰めすぎても逆効果』
コメントは私たちを叩くことがなく、寧ろ私のことを応援してくれた。
「皆さん、ありがと…ございます。」
『泣かないで』
『泣かないで』
『彼心配で起きちゃいますよ』
『頑張れ』
「はい。頑張ります!」
涙で少し化粧が落ちてしまったが、それでもいい。今は彼といること、彼ともっと仲良くなる方法を探さないといけない。
そこから、二時間くらいずっと彼と仲良くなる方法を探して話し続けていた。
夕飯は本田記者が作ってくれた。買い出しに行って、パエリアを作ってくれた。あれ、作るの結構難しかったはずなんだけど…。でも、とても美味しかった。
私は隣でお粥を作っていた。少しだけ梅を入れて全体に薄く塩をかけた。これで食べやすいはず。
…本当は卵粥を作りたかったけど、私じゃ火を入れ過ぎちゃうかもしれないからやめた。
健也君は目を醒まし、目の前でお粥を食べてくれた。『美味しい』と言って、ゆっくりながらも全部食べてくれた。私が作ったというと、彼は驚きながらも『ありがとうございます』と一言くれた。
その翌日…健也君は無事復活した。そして、一日早いがカメラは本田記者に返却し、またいつもの日常が始まるのだった。




