地下へ
これでは街に点在する目的地を渡り歩くことが目的であるかのようだ。用がないので、本屋に来ても時間を潰せず、すぐに出た。図書館に行き着くも、やはり本棚の前をうろつきながら、たまに蔵書を端末で検索するだけだった。最近の俺は読書に対する興味を失っている。エラーともいえるようなどうでもいい読書体験が続いて、トライが虚しくなっていた。どんな本が俺を楽しませるのか今でもわからない。
十七時を回った所で予定よりも早く夕食を買いに行った。百円くらいの安いゼリー飲料を探して、コンビニとスーパーをまた渡り歩いた。腹持ちのいい夕食ではないが、腹八分目でも動き回れば俺の胃袋は根を上げる。
落ち着いて座って食える場所を探してうろつき、ゼリー飲料のパックを捨てるゴミ箱を探してさまよい、いよいよ自分自身に何をしているのかと虚無感を込めて尋ねたくなってきた。そして、十八時も迫っていた。
ゆるい坂道がある住宅地を歩きながら、いらぬ誤解を避けるためにゼリー飲料のパックを折り畳んでポケットに隠した。ライブハウスは飲食物の持ち込みが禁じられているはずだ。
十八時を目前にして、俺は本当の目的地に足を踏み入れた。ここはライブハウスに違いないのだが、地味な外観からはなんの店なのか判断できない。窓ガラスの類がないので、かなり閉鎖的な印象を受けた。ライブハウスであると主張しているものは、多分ない。控えめな看板に書かれているのは店名だけだ。どういうわけかライブハウスの名前が音楽との関連を示唆させるケースはほとんどないように思える。
厚く重たい防音ドアを押し開けると、長くはない階段が地下に伸びていた。壁が隔てた空間からドラムの音がこもって聞えてきた。自分が緊張したのがわかった。同時にニヤニヤしている。階段を下りた先で二つ目の防音ドアを開けた。音との距離が一気に縮まった。
出迎えてくれたのは、今回のセッションイベントを取り仕切っているカミイさんだった。腰の低い好青年で、そばでドラムが鳴っていなければ声を張って話すタイプではないのかもしれない。俺は、ネットに掲載された彼の写真を見ていたので、顔を知っているつもりだったが、実際に会うとずいぶん大人びていた。そういった理由からか、妙に親近感が湧いてしまった。案の定、道に迷わなかったかと聞かれたので、大丈夫だったと答えた。
セッションイベントに見学で参加させて欲しいとカミイさんに伝え、参加料を払い、ワンドリンク券を受け取った。いつの間にかドラムはやんでいた。参加者はまだ五人くらいしかいなかった。
ステージは四人編成のバンドが動くのに過不足ないといった感じの広さで、すでにドラムやギターアンプが配置されている。テーブルとソファが並ぶ客席を挟んだ向かい側に琥珀色のバーカウンターがある。ここには低い天井の裏側にある日常的な街並みの面影はない。埃っぽい照明に照らされた空間を、俺はとても気に入った。
カミイさんが緊張してきたと言うので、俺もわざとらしく腹を押さえて、具合が悪いと冗談を言ってみた。半分は本気だったのだが。そんなことをしている内に新しい参加者が徐々にやって来た。
誰かがドラムセットに座り、ベーシストがアンプにベースをつないで音を作り始めた。いよいよステージを温めようというムードが高まる。だが、ギタリストがいない。
ここで俺に白羽の矢が立ってしまった。ギターを弾けないわけではないが、他人と音を合わせた経験はない。ましてや、セッションなんて何をすればいいのかわからない。それでも、カミイさんの「初心者でも、間違えてもいいから」という甘くも強い押しに負けた俺は、低いステージに上がった。
触れたこともない大型アンプのセッティング方法がわからず、途方に暮れる思いだった。他の人にセッティングをお願いして、まさかアンプの使い方も知らなかったなんて、と自分を嘆いた。借り物のエレキギターを肩に下げる。立って弾きたいのはやまやまだが、ミスが怖いので椅子に座って堅実に弾くことにした。傷、曇り、サビでみてくれが悪くなっているギターは、高音が効いた尖った音を出した。大型アンプで音を鳴らすのは、音源と自分に距離があって不思議な感覚だ。自分の演奏がアンプからフィードバックされていることが嘘くさい。
各々の準備が整ったのを確認したドラマーがカウントを始めた。キーすら決めずに。
もう自棄になったという他ない。ドラムとベースが何をしようが、耳に入らない。思いつくコード進行をやみくもに、脈絡もなく弾いた。コードチェンジにもたついては、別の進行に変え、ミスが減らないなら音を減らしてしのごうとする。
ここでドラマーがストップをかけた。俺が弾いていたリフを知っていたのだ。それで行こう、とやっとセッションにルールのようなものが出来た。
あとは慣れた演奏をするだけだった。それでもミスは絶えず、手の力が弱まって弦を押さえ損ねる。
俺は、反復していたリズムを崩し、速いストロークで変化を加えた。明らかにドラムに触発されての、ミスを恐れない大胆なストロークだった。もやはミスさえも緩急を伴った表現に聴こえる。そして、拍の頭で強烈に噛み合うギターとドラム。
終わりが近いのがわかった。ドラムがフィニッシュに向かうタム回しをキメる。長いエンディングをベースと共に締めくくった。