第六話 消える名前
午前0時。
高瀬蓮は、スマートフォンの画面を見つめたまま動けなかった。
第五日目
欠席者 4名
出席者 29名
高瀬蓮――二名
佐伯直人――二名
明日の朝、二人の高瀬のうち一人が消える。
最後の一行を何度読み返しても、意味は変わらない。
「二人の高瀬」。
自分以外に、もう一人いる。
七年前の写真に写っていた少年。
35番。
自分と同じ顔をした少年。
そして――
「俺を殺す役だった」
佐伯の声が頭の中に蘇る。
高瀬はスマートフォンを握り直した。
佐伯に電話をかける。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
もう一度。
出ない。
メッセージを送る。
今どこにいる?
既読にならない。
高瀬は窓の外を見た。
午前0時を過ぎた住宅街は、異様なほど静かだった。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
佐伯からではない。
知らない番号。
高瀬は一瞬ためらってから、
通話ボタンを押した。
「……もしもし」
返事がない。
ただ、微かに音がする。
ザー……
ザー……
まるで古いカセットテープを再生しているような音。
そして。
「――高瀬蓮」
女の声。
高瀬は息を止めた。
「誰だ?」
「あなたは、どちら?」
「……何?」
「高瀬蓮は、どちらですか?」
電話の向こうで、
誰かが笑った。
「32番?」
「それとも――」
一拍。
「35番?」
通話が切れた。
⸻
翌朝。
午前7時32分。
高瀬は学校へ向かった。
ほとんど眠れなかった。
教室に入る。
いつもの教室。
机。
椅子。
黒板。
時計。
何も変わっていない。
――ように見えた。
しかし、
教室に入った瞬間。
高瀬は違和感を覚えた。
生徒たちが、
自分を見ている。
昨日までとは違う。
今度は、
誰も目を逸らさない。
全員が高瀬を見ている。
そして。
誰かが言った。
「……二人いる」
高瀬の心臓が跳ねた。
「何が?」
男子生徒が、
高瀬の後ろを指差した。
「高瀬が」
高瀬はゆっくり振り返った。
誰もいない。
「……誰もいないだろ」
「いるよ」
別の女子生徒が言った。
「そこに」
「どこに?」
「高瀬の後ろ」
高瀬は窓を見る。
ガラスに映る自分。
その背後に――
少年が立っている。
35番。
高瀬と同じ顔。
「……!」
振り返る。
誰もいない。
再び窓。
いる。
少年は高瀬を見つめている。
そして、
右手を上げた。
その手には、
古い出席簿があった。
少年が口を動かす。
声は聞こえない。
だが、
高瀬には分かった。
「見つけた」
その瞬間。
窓の反射から少年が消えた。
「高瀬?」
クラスメイトの声。
高瀬は振り返った。
全員がこちらを見ている。
「……今、見えなかった?」
「何が?」
「俺の後ろ」
「何もないよ」
高瀬は何も答えなかった。
黒板を見る。
昨日までなかった文字がある。
白いチョークで、
大きく。
32番は、消える。
その下に、
小さく。
35番は、残る。
⸻
「高瀬」
休み時間。
佐伯が声をかけてきた。
高瀬は振り向いた。
「……佐伯」
「昨日の電話」
「電話?」
「俺、してない」
「え?」
「昨日の夜、お前に電話してない」
高瀬の顔から血の気が引く。
「じゃあ、あれは……」
佐伯は答えない。
そして、
ポケットから一枚の紙を取り出した。
古い紙。
学校の出席簿のコピーだった。
日付は、
2019年9月30日。
そこには、
32番から35番までの名前が並んでいる。
32 ???
33 宮下美緒
34 佐伯直人
35 高瀬蓮
高瀬は目を疑った。
「35番……俺?」
「そう」
「じゃあ32番は?」
佐伯が紙を裏返す。
そこには、
鉛筆で一言だけ書かれていた。
32番は、最初から存在しなかったことにする。
高瀬は紙を握った。
「これ、誰が書いた?」
「分からない」
「お前が持ってたんだろ?」
「朝、机の中に入ってた」
「……」
「それだけじゃない」
佐伯はもう一枚、紙を出した。
そこには、
33 宮下美緒
34 佐伯直人
35 高瀬蓮
そして、
32 高瀬蓮
と書かれている。
高瀬は固まった。
「……なんで俺が二人いるんだ」
佐伯は静かに言った。
「昨日からずっと考えてた」
「何を?」
「俺たちが『二人いる』んじゃない」
「じゃあ?」
「名前が二つあるんじゃないか。」
高瀬は佐伯を見る。
「人間じゃなくて……名前?」
「そう」
佐伯は紙を机に置いた。
「七年前、何かが起きた」
「名前を交換した」
「誰かが消えた」
「でも、人間そのものが消えたわけじゃない」
高瀬は黙っている。
佐伯は続けた。
「だから学校の記録だけがおかしくなってる」
「……」
「写真も、出席簿も、記憶も」
「全部?」
「全部」
佐伯は、
最後の一枚を取り出した。
そこには、
現在のクラス写真が印刷されていた。
高瀬。
佐伯。
そして――
宮下。
「……宮下」
高瀬は呟いた。
「いる」
「そう」
「でも、みんなの記憶から消えたはずだ」
「だからおかしいんだ」
写真の中の宮下は、
こちらを見て笑っている。
ただし。
その顔の横に、
誰かが鉛筆で番号を書いていた。
33。
その下に、
さらに薄い文字。
現在の宮下美緒は、三人目。
高瀬の指が止まった。
「三人目……?」
佐伯は答えなかった。
⸻
二時間目。
教室には教師が入ってきた。
見たことのない教師だった。
「今日からこのクラスを担当する佐藤です」
高瀬は立ち上がった。
「先生」
「何?」
「黒田先生は?」
教室が静かになる。
佐藤先生は首を傾げた。
「黒田?」
「黒田修一先生です」
「知らないな」
「このクラスの担任だったはずです」
「高瀬君」
佐藤先生の表情が変わった。
「このクラスの担任は、最初から私です」
高瀬は言葉を失った。
「……最初から?」
「そう」
「じゃあ、昨日までいた先生は?」
「昨日?」
「黒田先生です」
佐藤先生は名簿を開いた。
「この学校には、黒田という教師は在籍していない」
その瞬間。
教室の後ろで、
ガタッ。
机が動いた。
全員が振り返る。
誰も座っていない。
だが、
一番後ろの机に、
黒いノートが置かれていた。
高瀬は立ち上がった。
「触るな」
佐伯が言った。
「でも……」
「昨日のノートだ」
「分かってる」
「じゃあ、触るな」
高瀬は机に近づかなかった。
すると、
黒いノートが、
ひとりでに開いた。
ページがめくれる。
パラ。
パラ。
パラ。
そして止まる。
全員が見ている前で、
文字が浮かび上がった。
出席確認を開始します。
佐藤先生が顔をしかめた。
「誰がこんなものを……」
次のページ。
32番。
誰も返事をしない。
32番。
教室の時計が、
12時16分を指した。
まだ午前10時だった。
高瀬は時計を見た。
「……まただ」
佐伯が小声で言う。
「何が?」
「時間」
12時16分。
放送室で見た数字。
あのときも、
すべての時計が12時16分を示していた。
そして、
高瀬は気づいた。
時計の秒針が、
動いていない。
⸻
黒いノートに、
新しい文字。
32番。欠席。
続いて、
33番。
教室の後ろから、
女の声。
「はい」
高瀬が振り返る。
誰も口を開いていない。
なのに、
確かに聞こえた。
宮下の声だった。
「宮下……?」
誰も反応しない。
ノート。
33番。出席。
次。
34番。
「はい」
今度は、
佐伯の声。
だが、
佐伯本人は黙っている。
佐伯の顔が青ざめた。
「俺じゃない」
「分かってる」
34番。出席。
そして。
35番。
教室の後ろ。
誰かが、
小さく笑った。
「はい」
高瀬は振り返った。
そこに、
少年が立っていた。
35番。
自分と同じ顔。
しかし、
昨日までと違う。
今度は、
全員が見えている。
「……お前」
少年は高瀬を見る。
「やっと会えた」
声も、
高瀬と同じだった。
「誰だ」
「それを思い出すために、ここまで来たんだろ?」
「お前が35番なのか?」
少年は笑った。
「違う」
「じゃあ何なんだ」
「35番は番号だよ」
「名前は?」
少年は、
一瞬だけ黙った。
そして、
答えた。
「――高瀬蓮」
教室の空気が凍った。
高瀬は一歩下がった。
「……俺と同じ?」
「違う」
「何が?」
少年は自分の胸元を指差した。
35番。
「お前が俺と同じなんだ」
高瀬は理解できなかった。
少年は続ける。
「七年前、俺が高瀬蓮だった」
「……」
「そして、お前が俺になった」
⸻
その瞬間。
高瀬の頭の中で、
何かが弾けた。
雨。
校門。
救急車。
泣いている宮下。
怒鳴っている佐伯。
そして、
黒田先生。
「名前を交換する」
誰かが言っている。
「そうすれば、記録から消える」
「でも、その人は?」
「別の名前になる」
「じゃあ記憶は?」
「移す」
「本当にできるの?」
黒田が答える。
「学校という場所では、人間は名前で管理されている」
「出席番号」
「名簿」
「写真」
「成績」
「名前が変われば、周囲の認識も変わる」
そして、
誰かが言う。
「じゃあ、俺は誰になる?」
黒田先生が答える。
「高瀬蓮」
⸻
高瀬は床に手をついた。
頭痛。
吐き気。
記憶。
知らないはずの記憶が、
次々と流れ込んでくる。
七年前。
9月30日。
午後12時16分。
教室。
32番。
33番。
34番。
35番。
そして、
一人が消えた。
違う。
消された。
名前を。
記憶を。
写真を。
存在そのものを。
高瀬は顔を上げた。
「……宮下は?」
35番の少年が答える。
「まだ探してる」
「何を?」
「本当の宮下を」
「……どういう意味だ」
少年は笑わなかった。
「今のお前なら分かるはずだ」
そして、
指を一本立てる。
「宮下美緒は一人じゃない」
二本目。
「佐伯直人も一人じゃない」
三本目。
「そして――」
高瀬を見る。
「高瀬蓮も一人じゃない」
⸻
突然、
校内放送が入った。
ザーッ。
全員が顔を上げる。
スピーカーから、
あの声が聞こえた。
「出席確認を終了します」
一拍。
「本日の出席者――29名」
教室を見回す。
生徒は30人以上いる。
それなのに。
放送は続けた。
「欠席者――4名」
高瀬の心臓が跳ねる。
「高瀬蓮」
「宮下美緒」
「佐伯直人」
そして、
最後。
「――黒田修一」
高瀬は顔を上げた。
「黒田先生……?」
スピーカーから、
最後の言葉。
「なお、黒田修一は本日をもって――」
ノイズ。
ザーッ。
声が途切れる。
教室中の時計が、
一斉に動き出した。
12時17分。
12時18分。
12時19分。
現実の時間に戻っていく。
だが。
一つだけ、
動かない時計があった。
教室の一番後ろ。
35番の少年の頭上。
そこだけ、
12時16分。
少年が時計を見上げる。
そして、
高瀬に言った。
「分かった?」
「何が?」
「22分47秒」
高瀬は息を呑んだ。
「……あれは時間じゃない」
少年が頷く。
「そう」
「記憶が消えた時間でもない」
「そこまではまだ違う」
「じゃあ、何なんだ?」
少年は、
少しだけ笑った。
「二人の人間が、一人になるまでに必要だった時間。」
高瀬は凍りついた。
「二人……?」
少年は答えなかった。
代わりに、
教室の黒板を指差した。
いつの間にか、
新しい文字が書かれている。
32番――欠席
その下。
35番――出席
さらに。
次に確認する名前――
高瀬は目を細めた。
そこには、
自分の名前が書かれていた。
高瀬蓮。
だが、
その横に番号が二つある。
32 / 35
高瀬は息を止めた。
少年が、
耳元で囁く。
「明日、どっちの名前を残す?」
そして、
少年の姿が消えた。
教室には、
高瀬だけが立っていた。
誰も、
何も覚えていない。
いや。
一人だけ。
佐伯が、
震える手で机を握っていた。
「高瀬……」
「何?」
佐伯は、
泣きそうな顔で言った。
「俺……思い出した」
「何を?」
「七年前に消えたのは――」
佐伯の言葉が止まる。
視線が、
教室の窓へ向く。
そこには、
三人の姿が映っていた。
高瀬。
佐伯。
そして、
宮下。
しかし。
教室には、
高瀬と佐伯しかいない。
窓の中の宮下が、
ゆっくりこちらを向く。
そして、
口を動かした。
高瀬には、
はっきり読めた。
「私を消したのは、あなた。」
その瞬間。
窓ガラスに、
一本の亀裂が入った。
――パキッ。
高瀬は動けなかった。
亀裂は、
まるで文字を書くように伸びていく。
そして最後に、
ガラスいっぱいに、
こう浮かび上がった。
第六日目
欠席者――5名
まだ、誰も本当の名前を思い出していない。
第六話・終




