第五話 もう一人の高瀬
『高瀬蓮――』
校内放送から、低い男の声が流れた。
『二人います』
その言葉を最後に、放送は切れた。
静寂。
俺は、職員室の机に落ちた写真を見つめていた。
写真には七年前の三年二組。
32人の生徒。
その中に、
俺がいる。
いや。
正確には、
俺と同じ顔をした誰かがいる。
胸元の数字は35。
そして写真の下には、
高瀬蓮
と書かれていた。
「……なんで」
声が出た。
「なんで俺が……」
写真の中の俺は、こちらを見ていた。
笑っている。
俺が普段するのと同じ笑い方。
目の細め方まで同じ。
偶然とは思えない。
でも、
それ以上におかしいことがある。
俺は七年前、
まだ小学生ですらない。
この学校にいるはずがない。
それなのに。
俺は、この写真の中にいる。
*
翌朝。
教室に入った瞬間、
俺は足を止めた。
黒板に文字があった。
⸻
出席者 30名
欠席者 1名
⸻
俺の名前は、
書かれていなかった。
「……」
昨日までなら、ここで恐怖を感じていた。
でも今日は違った。
俺は、
安心してしまった。
自分の名前が「欠席」として書かれていない。
つまり、
今日は俺が「存在している」。
そう思った。
「高瀬」
後ろから声がした。
振り返る。
佐伯だった。
「……佐伯?」
「何だよ、その顔」
「お前……」
「ん?」
俺は佐伯を見つめた。
昨日。
佐伯は消えた。
いや。
消えたはずだった。
その後、俺は一人になった。
なのに今、
普通に教室にいる。
「昨日のこと覚えてる?」
「昨日?」
「職員室」
「……何の話?」
「俺たち二人でいたろ」
佐伯は首を傾げた。
「昨日、お前一人で職員室に行ったんじゃなかった?」
「……」
背中に冷たいものが走る。
「お前は?」
「俺?」
「昨日どこにいた?」
「家だけど」
「本当に?」
「本当だよ」
佐伯は笑った。
「なんだよ。寝ぼけてんの?」
俺は答えなかった。
そのとき、
佐伯の机の上に目がいった。
一冊のノート。
黒い。
昨日見たものと同じ。
「それ……」
「ああ?」
佐伯がノートを見る。
「これ?」
「どこで手に入れた?」
「知らない」
「知らない?」
「朝、机の上にあった」
佐伯はノートを開いた。
最初のページ。
何もない。
二ページ目。
何もない。
三ページ目。
何もない。
「普通のノートじゃね?」
「……貸して」
俺が手を伸ばす。
佐伯は渡した。
ページをめくる。
何もない。
最後のページまで、
何もない。
「変だな」
「何が?」
「昨日まで、文字が書いてあった」
「昨日まで?」
「うん」
佐伯は笑った。
「高瀬」
「何?」
「昨日の俺、どんなだった?」
その質問に、
俺は答えられなかった。
昨日の佐伯。
放送室にいた佐伯。
職員室にいた佐伯。
写真の中にいた佐伯。
全部が、
本物だったのか。
分からない。
「……お前、本当に佐伯か?」
言った瞬間、
教室の空気が変わった。
佐伯は笑っていた。
でも、
笑顔が少しだけ止まった。
「どういう意味?」
「昨日、お前が言ってた」
「何を?」
「『俺の後ろにいる』って」
佐伯の顔から笑みが消えた。
「……俺が?」
「うん」
「そんなこと言ってない」
「言った」
「覚えてない」
「俺は覚えてる」
「高瀬」
佐伯は俺を見る。
「それ、本当に俺だった?」
「……」
「お前が見たのは、俺じゃなかったんじゃないか?」
その言葉が、
妙に引っかかった。
*
一時間目。
数学。
教師が黒板に問題を書いている。
俺は授業を聞いていなかった。
机の中には、
昨日拾った写真がある。
七年前の三年二組。
35番。
高瀬蓮。
俺は写真をもう一度見た。
今度は細部まで確認する。
背景。
校舎。
制服。
生徒の顔。
黒田先生。
32番。
34番。
そして、
35番の俺。
何かがおかしい。
俺は写真を拡大した。
35番の胸元。
名札。
そこには、
高瀬蓮
と書かれている。
でも、その横。
小さな文字があった。
今まで気づかなかった。
拡大する。
⸻
転入 9月30日
⸻
「……転入?」
七年前の9月30日。
俺が?
あり得ない。
俺の出生記録を考えれば、
この時点で俺はこの学校に通っている年齢ですらない。
なら、
この「高瀬蓮」は誰だ?
俺は写真をさらに拡大した。
35番の生徒の足元。
机の影に、
何か書かれている。
⸻
原本では名前が違う。
⸻
心臓が跳ねた。
「……原本?」
そのとき、
「高瀬」
教師の声。
「はい」
「問題、解けるか?」
「……すみません」
「珍しいな。今日はぼーっとしてるぞ」
クラスから笑い声。
俺も笑った。
でも、
頭の中では別のことを考えていた。
原本では名前が違う。
だったら、
この写真は加工されている。
誰かが、
元の名前を「高瀬蓮」に書き換えた。
なぜ?
*
昼休み。
俺は図書室へ向かった。
目的は一つ。
七年前の学校新聞を探す。
学校の出来事なら、
何か記録が残っているかもしれない。
図書室の奥。
古い新聞を年代順に探す。
2019年。
9月。
10月。
11月。
ファイルを取り出す。
ページをめくる。
文化祭。
体育祭。
校外学習。
部活動の大会。
どれも普通の記事。
しかし、
9月30日の翌日。
10月1日。
一面に小さな記事があった。
⸻
「三年生徒一名、転校」
⸻
俺は記事を読む。
名前は、
黒く塗られていた。
学校名も、
一部が破られている。
ただ、
一文だけ残っている。
本人の希望により、詳細は公表しない。
そして、
記事の隅に、
小さな写真。
俺は目を疑った。
そこに写っていたのは、
35番の生徒。
七年前の「高瀬蓮」。
その隣には、
黒田先生。
そしてもう一人。
――宮下。
「……え?」
宮下は、
七年前の写真にも写っている。
もちろん、
今の宮下と同じ顔ではない。
年齢が違う。
それでも、
顔立ちは明らかに同じだった。
記事の下には、
小さな文字。
⸻
「生徒の転校後、クラス内で一部生徒の記憶に混乱が生じたため、学校側が確認を行った。」
⸻
記憶の混乱。
俺はその言葉を見つめた。
今の状況と同じ。
宮下が消えた。
佐伯の記憶が変わった。
俺だけが覚えている。
七年前にも、
同じことが起きている。
そして、
その中心にいるのが、
35番。
高瀬蓮。
*
「探してるもの、見つかった?」
背後から声。
俺は飛び上がった。
振り返る。
司書の先生だった。
「……びっくりした」
「ごめんね」
先生は笑う。
「七年前の資料?」
「はい」
「珍しいね」
「少し調べたいことがあって」
「そう」
先生はファイルを見る。
そして、
何気なく言った。
「この年代なら、地下書庫に原本があるよ」
「地下書庫?」
「新聞の原本とか、古い出席簿とか」
「見てもいいですか?」
「先生に許可を取ればね」
「……誰に?」
「黒田先生」
俺は固まった。
「黒田先生は今どこに?」
「え?」
司書の先生が首を傾げる。
「黒田先生?」
「はい」
「……誰?」
まただ。
同じ反応。
「三年二組の担任の黒田先生です」
「三年二組?」
「はい」
先生は困ったように笑った。
「ごめんなさい。三年二組の担任は――」
そこで、
先生の顔から笑みが消えた。
「……誰だったかしら」
俺は何も言えなかった。
「ちょっと待って」
先生は職員室へ電話をかけた。
「もしもし?」
少し話す。
そして、
「三年二組の担任って、誰でしたっけ?」
電話の向こうから声が聞こえる。
先生の顔が青くなる。
「……はい」
電話を切る。
「高瀬君」
「はい」
「三年二組の担任は、佐藤先生だそうよ」
「……」
「黒田先生という先生は、この学校にはいないって」
俺は、
何も言えなかった。
*
午後。
俺は一人で廊下を歩いていた。
佐伯を探した。
教室にいない。
部室にもいない。
体育館にもいない。
スマホに電話する。
出ない。
メッセージを送る。
既読がつかない。
校舎を一周したところで、
俺は気づいた。
廊下の掲示板。
クラス名簿が貼ってある。
昨日までは、
三年二組。
31人。
今日は、
30人。
俺の名前は、
そこにある。
佐伯もある。
宮下は、
ない。
俺は名簿を撮影した。
その瞬間、
スマホの画面が暗くなった。
電池切れ?
いや。
残量は78%。
画面が勝手に点く。
カメラが起動していた。
そして、
画面には、
俺の後ろが映っていた。
廊下。
誰もいない。
……いや。
一人いる。
遠く。
廊下の端。
男子生徒。
制服。
胸元に、
35
俺は振り返った。
誰もいない。
再びスマホを見る。
そこには、
男子生徒が立っている。
しかも、
少しずつ近づいている。
俺は画面を見たまま、
一歩下がった。
画面の中の男が、
一歩近づく。
俺も、
一歩下がる。
さらに。
近づく。
近づく。
そして、
画面いっぱいに顔が映った。
俺と同じ顔。
35番。
そいつは、
スマホ越しに笑った。
そして、
口を動かした。
声は聞こえない。
でも、
何と言っているか分かった。
――「思い出した?」
画面が暗くなった。
*
その日の放課後。
俺は一人で帰ろうとした。
昇降口。
靴箱を開ける。
靴。
いつもの靴。
その下に、
一枚の紙が入っていた。
拾う。
古い紙。
出席確認表。
七年前のもの。
名前が並んでいる。
32。
33。
34。
35。
そして、
35番の名前だけ、
黒く塗り潰されている。
俺は紙を光に透かした。
薄く、
元の文字が見えた。
一文字目。
「高」
二文字目。
「瀬」
三文字目。
「蓮」
……違う。
その下に、
もう一つの名前が重なっている。
紙を裏返す。
透けて見える文字。
俺は読んだ。
⸻
「高瀬蓮」
「宮下美緒」
⸻
二つの名前。
重なっている。
そして、
その間に小さく、
「交換」
と書かれている。
「交換……?」
誰と誰を?
何を?
俺は紙を握った。
その瞬間、
背後から声がした。
「それ、見つけたんだ」
振り返る。
佐伯。
「……どこにいた?」
「ずっと探してた?」
「うん」
「ごめん」
佐伯は笑う。
「ちょっと先生に呼ばれてた」
「どの先生?」
「黒田先生」
俺は黙った。
「……黒田先生?」
「うん」
「どこにいる?」
「旧校舎」
「何をしてた?」
「知らない」
佐伯は、
少し考えてから言った。
「ただ」
「何?」
「お前の話をしてた」
「俺?」
「そう」
佐伯が一歩近づく。
「先生が言ってた」
声を落とす。
「『高瀬は、まだ自分を高瀬だと思っている』って」
心臓が止まりそうになった。
「……それ、どういう意味?」
「知らない」
「先生は何て?」
「それだけ」
「本当に?」
「うん」
佐伯は笑った。
「じゃあ帰ろうぜ」
「……佐伯」
「ん?」
「お前、本当に佐伯か?」
佐伯は、
少しだけ黙った。
「またそれ?」
「答えて」
「俺は俺だよ」
「証明できる?」
「……」
「何か一つでいい」
佐伯は考えた。
「じゃあ――」
ポケットからスマホを取り出す。
「これ」
「何?」
「俺の中学の卒業写真」
写真を見せる。
佐伯が写っている。
俺も写っている。
確かに、
俺たちだ。
「これでいい?」
「……うん」
俺は写真を見た。
だが、
すぐに違和感に気づいた。
「佐伯」
「何?」
「この写真」
「うん」
「何人いる?」
「……」
写真には、
俺たち二人。
そして、
クラスメイト。
全部で34人。
その中に、
一人だけ。
顔が黒く塗り潰されている。
「これ誰?」
佐伯は、
しばらく画面を見た。
「……知らない」
「本当に?」
「うん」
俺は写真を拡大した。
黒く塗り潰された顔。
胸元には、
小さな名札。
そこに、
35
と書いてある。
そして、
その下。
俺は息を止めた。
名札の名前は、
高瀬蓮
だった。
*
家に帰る。
部屋に入る。
鞄を置く。
制服を脱ぐ。
いつも通りの動作。
でも、
何もかもが嘘に見える。
鏡を見る。
自分の顔。
普通。
目。
鼻。
口。
全部、
俺。
……本当に?
俺は机に座った。
今日集めたものを並べる。
七年前の写真。
出席表。
学校新聞。
スマホ。
そして、
黒いノート。
ノートを開く。
昼間は白紙だった。
しかし、
今は違った。
一ページ目に、
文字がある。
⸻
高瀬蓮について
本人の記憶は信頼できない。
⸻
二ページ目。
⸻
高瀬蓮は、2019年9月30日に学校へ転入した。
⸻
俺は息を呑んだ。
三ページ目。
⸻
ただし、転入したのは現在の高瀬蓮ではない。
⸻
四ページ目。
⸻
現在の高瀬蓮は、2019年9月30日に「作られた」。
⸻
「……作られた?」
意味が分からない。
ページをめくる。
五ページ目。
⸻
記憶の移植に成功。
人格の再構成に成功。
名前の変更に成功。
⸻
六ページ目。
⸻
旧・高瀬蓮
→ 35番
→ 消去済み
⸻
俺は手を止めた。
「旧・高瀬蓮……?」
だったら、
今の俺は誰だ?
七ページ目。
そこには、
たった一行。
⸻
「高瀬蓮は、最初から高瀬蓮だったわけではない。」
⸻
俺はページをめくった。
八ページ目。
何もない。
九ページ目。
何もない。
十ページ目。
何もない。
最後のページ。
そこだけ、
赤い文字があった。
⸻
「今夜、午前零時に思い出す。」
⸻
時計を見る。
午後11時43分。
あと17分。
俺はノートを閉じた。
そのとき、
スマホが鳴った。
着信。
知らない番号。
出る。
「もしもし?」
無音。
そして、
男の声。
『高瀬蓮』
「誰?」
『君は、今から重要なことを思い出す』
「誰なんだ?」
『その前に、一つだけ確認したい』
「……何?」
『君は今、自分の部屋に一人でいる?』
「そうだけど」
『本当に?』
俺は、
ゆっくり部屋を見回した。
ベッド。
机。
窓。
クローゼット。
誰もいない。
「いる」
『そう』
男は言った。
『じゃあ、鏡を見て』
俺は、
鏡を見る。
自分が映っている。
当然だ。
でも、
何かがおかしい。
鏡の中の俺が、
笑っていた。
俺は笑っていない。
俺は、
鏡の中の自分を見つめた。
鏡の中の俺が、
ゆっくり口を開く。
声は電話から聞こえた。
『やっと気づいたね』
「……」
『君は、今まで一度も鏡を見ていない』
そんなはずはない。
毎朝。
顔を洗うとき。
髪を整えるとき。
何度も見ている。
なのに。
考えてみる。
俺は、
昨日まで一度も、自分の顔を思い出せなかった。
鏡の中の俺が、
さらに笑う。
『午前零時まで、あと――』
時計を見る。
11時59分。
秒針が進む。
59。
60。
午前零時。
その瞬間、
部屋の電気が消えた。
真っ暗。
スマホの画面だけが光る。
着信は切れている。
画面には、
新しい通知。
⸻
記憶の復元を開始します。
⸻
次の瞬間。
頭の中に、
知らない記憶が流れ込んできた。
学校。
七年前。
教室。
32番。
33番。
34番。
35番。
黒田先生。
宮下。
佐伯。
そして――
俺。
いや。
違う。
俺ではない。
誰かが、
俺の目の前に立っている。
その人物の顔は、
俺と同じ。
そいつが言う。
「名前を交換しよう」
俺は答える。
「嫌だ」
「そうしないと、君は消える」
「誰が?」
「君じゃない」
その人物は、
後ろを指差す。
そこには、
宮下。
佐伯。
黒田先生。
そして、
32番。
全員が立っている。
その中で、
一人だけ泣いている。
――俺。
今の俺とは違う、
もう一人の俺。
「彼を助けるには」
誰かが言う。
「別の誰かを高瀬蓮にするしかない」
そこで、
記憶が途切れた。
「……!」
俺はベッドから飛び起きた。
時計。
午前0時3分。
息が荒い。
頭が痛い。
でも、
何かを思い出した。
いや。
正確には、
思い出したのではない。
誰かに、
思い出させられた。
机を見る。
黒いノート。
最後のページに、
新しい文字が浮かんでいた。
⸻
第一段階終了。
記憶復元率――23%。
⸻
そして、
その下。
⸻
次は、佐伯の番。
⸻
俺はスマホを取った。
佐伯に電話する。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
四回。
五回。
六回。
突然、
通話がつながった。
「佐伯?」
返事はない。
「おい、佐伯」
無音。
そして、
遠くから、
佐伯の声。
『……高瀬』
「いるのか?」
『いる』
「どこ?」
『学校』
「今から行く」
『来るな』
「なんで?」
長い沈黙。
そして、
『高瀬』
「何?」
『俺、今思い出した』
「何を?」
電話の向こうで、
佐伯が震える声で言った。
『俺は七年前――』
ノイズ。
『お前を殺す役だった。』
通話が切れた。
俺は、
しばらく動けなかった。
やがて、
窓の外を見る。
午前0時。
静かな街。
その向こう。
学校の方向に、
ぽつんと一つだけ明かりがついていた。
そして、
スマホに新しいメッセージ。
⸻
「第五日目」
「欠席者 4名」
「出席者 29名」
「高瀬蓮――二名」
「佐伯直人――二名」
⸻
最後に、
一行。
⸻
「明日の朝、二人の高瀬のうち一人が消える。」
――第五話・終――




