第三話 黒板の名前
黒板に書かれた文字を、俺はしばらく理解できなかった。
「本人は、まだ自分が本人だと思っている。」
意味が分からない。
いや。
意味は分かる。
分かるからこそ、気持ちが悪かった。
「……高瀬?」
佐伯の声が聞こえる。
「何?」
「お前、顔色やばいぞ」
「そう?」
「うん」
俺は自分の頬を触った。
冷たい。
手のひらが異様に冷えている。
教室には三十一人の生徒がいる。
いつも通り。
朝のホームルーム前。
騒がしい。
眠そうな奴。
スマホをいじる奴。
友達と話している奴。
全部、昨日までと変わらない。
ただ一つだけ。
俺の名前が、
黒板に書かれている。
欠席者 高瀬蓮。
「先生に言ったほうがいいんじゃね?」
佐伯が言った。
「……うん」
俺は黒板へ近づいた。
チョークを手に取る。
そして、自分の名前を消そうとした。
――消えない。
何度擦っても、
白い文字が残っている。
「なんだこれ……」
強く擦る。
粉が舞う。
それでも、
高瀬蓮
だけが消えない。
「貸して」
佐伯がチョーク消しを奪った。
「俺がやる」
ゴシゴシと擦る。
消えない。
「……何これ」
佐伯の声が小さくなった。
クラスメイトが集まってくる。
「マジで消えないじゃん」
「誰かペンキで書いた?」
「いや、チョークだろ」
「高瀬、昨日何かやった?」
「やってない」
「じゃあ誰が書いたんだよ」
「知らない」
そのとき。
「何してるの?」
宮下が教室に入ってきた。
黒板を見る。
そして、
立ち止まった。
「……やっぱり」
「やっぱり?」
俺が聞く。
宮下は答えなかった。
「宮下?」
「昨日、言ったよね」
「何を?」
「図書室にいたあなたのこと」
「ああ」
「私が見たのは……」
宮下は黒板を見た。
「今のあなたとは、少し違った」
「どういう意味?」
「顔とかじゃない」
彼女は考えるように言葉を選んだ。
「雰囲気」
「雰囲気?」
「うん」
そして、
「昨日のあなたは、私のことを知らなかった」
俺は黙った。
「どういうこと?」
「図書室で会ったとき、あなたは私を見て……」
宮下は俺の目を見る。
「『君、誰?』って言った」
背中に寒気が走った。
「俺が?」
「そう」
「でも俺は、宮下のことを知ってる」
「今のあなたはね」
「……」
「だから怖いの」
教室が静かになった。
そのとき。
廊下から足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
一定の間隔。
黒田先生だった。
教室に入ってくる。
先生は黒板を見る。
そして、
俺を見る。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
先生が安心したような顔をした。
「……よかった」
その言葉が聞こえた。
「先生?」
「いや」
先生はすぐに表情を戻した。
「誰がこれを書いた?」
「分かりません」
「消していい」
「消えません」
「……」
先生は黒板に近づいた。
指で文字を擦る。
白い粉がつく。
それでも文字は消えない。
先生の顔から血の気が引いた。
「先生」
俺は聞いた。
「俺、昨日の放課後に何してました?」
「……」
「覚えてますよね?」
「高瀬」
「はい」
「昨日の放課後、お前は学校にいない」
「でも――」
「帰ったんだ」
即答だった。
「俺が?」
「そう」
「本当に?」
「本当だ」
俺は佐伯を見る。
佐伯も首を傾げている。
「じゃあ、俺のスマホは?」
「何?」
「昨日の放課後、俺のスマホに録音が残ってました」
先生の動きが止まった。
「録音?」
「俺自身の声です」
「……どんな内容だ?」
「『23分間を忘れる』って」
先生は黙った。
教室の空気が変わった。
「先生」
俺はもう一度聞いた。
「23分って何なんですか?」
先生は答えなかった。
代わりに、
「一時間目の準備をしろ」
と言った。
逃げた。
明らかに。
俺は確信した。
先生は知っている。
32番のことを。
*
一時間目は数学だった。
黒板には問題が並んでいる。
教師が説明している。
いつもなら眠くなるような時間。
でも今日は、何も頭に入ってこない。
ノートの端に、
俺は数字を書いた。
23
その横に、
32
さらに、
7年前
そして、
12:16
最後に、
00:00
四つの数字を並べた。
共通しているのは何だ?
23分。
32番。
七年前。
12時16分。
午前零時。
考えているうちに、
妙なことに気づいた。
俺は「23分間の記憶がない」と思っている。
でも、
そもそも、
23分間の記憶がないことを、俺はどうやって知った?
記憶がないなら、
その長さも分からないはずだ。
23分。
誰かに教えられた。
いや。
黒板に書かれていた。
そして放送でも言われた。
つまり、
俺自身が23分間を確認したわけじゃない。
誰かが、
「お前には23分間の空白がある」
と教えているだけだ。
だったら。
もし23分という数字そのものが嘘だったら?
俺は突然、ノートを閉じた。
「……」
嫌な汗が出た。
そのとき、
机の中でスマホが震えた。
通知。
知らない番号。
昨日と同じ。
メッセージは一件。
⸻
「気づくのが早いね。」
⸻
俺は画面を見つめた。
続けてメッセージが届く。
⸻
「でも、23分じゃない。」
⸻
さらに一件。
⸻
「正確には、22分47秒。」
⸻
俺の指が止まった。
22分47秒。
なぜそんな細かい数字を知っている?
そして、
最後のメッセージ。
⸻
「その差は、誰が作ったと思う?」
⸻
俺は顔を上げた。
教室を見回す。
三十一人。
誰もこちらを見ていない。
授業を聞いている。
スマホを触っている奴もいる。
眠っている奴もいる。
普通の教室。
なのに、
一人だけ。
窓際の宮下が、
俺を見ていた。
目が合う。
宮下は首を横に振った。
違う。
何が違うのかは分からない。
ただ、
「そのメッセージを誰にも見せるな」
そう言っているように見えた。
*
昼休み。
俺は宮下と二人で屋上へ続く階段にいた。
屋上は立入禁止なので、途中の踊り場までしか行けない。
人は来ない。
「メッセージ見た?」
宮下が聞いた。
「なんで知ってる?」
「顔」
「顔?」
「朝からずっと何か考えてる顔してた」
「……」
俺はスマホを見せた。
宮下は画面を読む。
22分47秒。
彼女はしばらく黙っていた。
「これ、誰からだと思う?」
「分からない」
「学校の人間?」
「たぶん」
「どうして?」
「学校のことを知りすぎてる」
宮下はスマホを返した。
「私も一つ、見せるものがある」
制服のポケットから紙を出した。
折りたたまれている。
開く。
古いコピー用紙。
学校の出席簿らしい。
「これ……」
「七年前のもの」
「どこで?」
「昨日の夜、家で見つけた」
「家?」
「うちのお父さん、昔この学校で働いてたから」
俺は紙を見る。
名前が並んでいる。
三年二組。
七年前。
そして、
32番。
その名前は、
黒く塗り潰されている。
「誰?」
「分からない」
「お父さんに聞けば?」
「聞いた」
「なんて?」
宮下は一瞬ためらった。
「そんな生徒はいなかったって」
「……」
「でも」
紙の下を見る。
担任の欄。
そこには、
黒田修一
と書かれていた。
「……黒田先生?」
「うん」
俺は紙を見つめた。
七年前。
黒田先生は、
この学校で三年二組の担任をしていた。
「じゃあ先生は、最初から……」
「そう」
宮下は頷いた。
「32番のことを知ってる」
*
放課後。
俺たちは職員室へ向かった。
黒田先生は席にいなかった。
「どこ行ったんだ?」
佐伯が言う。
「探そう」
学校中を探す。
教室。
体育館。
職員室。
図書室。
保健室。
いない。
最後に、
旧校舎へ向かった。
現在はほとんど使われていない建物。
老朽化しているため、普段は立入禁止になっている。
廊下には、
「関係者以外立入禁止」
という札がある。
その奥から、
何か音が聞こえた。
ガサッ。
「先生?」
返事はない。
俺はドアを開けた。
埃っぽい空気。
暗い廊下。
壁には古い掲示物が残っている。
俺たちはスマホのライトをつけた。
少し進む。
すると、
一つの教室があった。
プレートには、
3年2組
と書かれている。
「……ここ?」
「七年前の教室じゃない?」
ドアを開ける。
中には古い机が並んでいた。
黒板。
教卓。
カーテン。
何もない。
と思った。
黒板の隅に、
小さな文字がある。
近づく。
⸻
出席番号32番
⸻
佐伯が息を呑んだ。
「またかよ……」
俺は黒板を見た。
その下には、
もっと小さな文字。
⸻
「名前を消してはいけない」
⸻
「誰が書いた?」
「知らない」
「これ、最近の文字じゃね?」
確かに。
チョークの白さが新しい。
俺は黒板の前に立った。
そのとき、
教室の後ろから物音がした。
ガタン。
「誰だ!」
佐伯が振り返る。
机が一つ、
倒れていた。
その机の中から、
一枚の写真が落ちている。
俺は拾った。
集合写真。
七年前の三年二組。
学校史で見たものと同じ。
31人。
いや。
違う。
この写真には、
32人いる。
「……いた」
佐伯が呟いた。
写真の中央。
生徒たちの間に、
一人の男子生徒が立っている。
顔も見える。
制服も着ている。
そして胸元に、
32
の数字。
「これが32番?」
「たぶん」
俺は写真を裏返した。
裏には日付。
2019年9月30日
そして、
一行だけ。
⸻
「明日、この子を消す。」
⸻
「……消す?」
その言葉を見た瞬間。
廊下から、
足音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かが近づいてくる。
「先生?」
佐伯が声を出した。
足音が止まる。
教室の入口に、
人影が現れた。
黒田先生だった。
「……何をしている」
声が低い。
「先生こそ、ここで何を?」
「帰れ」
「七年前の写真です」
俺が写真を見せる。
「32番って、この人ですか?」
先生は写真を見た。
そして、
目を閉じた。
「帰れ」
「先生」
「今すぐ帰れ!」
怒鳴り声が旧校舎に響いた。
佐伯が怯む。
俺も一瞬、言葉を失った。
だが、
先生は怒っているのではなかった。
泣きそうな顔をしていた。
「先生」
「……」
「この人、誰なんですか?」
長い沈黙。
そして先生は、
小さく言った。
「……俺の生徒だ」
心臓が跳ねた。
「名前は?」
先生は答えなかった。
「教えてください」
「……」
「この人は、どうなったんですか?」
先生は写真から目を離した。
「死んだ」
教室の空気が止まった。
「事故ですか?」
「違う」
「じゃあ?」
先生は答えなかった。
俺はさらに聞いた。
「殺された?」
先生の顔が歪んだ。
「……そうだ」
佐伯が息を呑む。
「誰に?」
先生は、
ゆっくり俺を見た。
「それを調べるために、お前たちは32番を探しているんだろう」
「はい」
「違う」
「え?」
「お前たちが探しているのは、32番じゃない」
先生は写真を指差した。
「32番を殺した人間だ。」
*
帰り道。
俺たちは誰も喋らなかった。
駅までの道を歩く。
夕方の街。
車の音。
信号。
コンビニ。
いつもの景色。
なのに、
全部が少し違って見える。
「なあ」
佐伯が言った。
「何?」
「黒田先生、変じゃなかった?」
「うん」
「七年前に生徒が殺されたなら、警察とかニュースとかになってるよな?」
「……そうだな」
「でも俺、そんな事件聞いたことない」
「俺も」
「だったら」
佐伯は立ち止まった。
「なんで先生は『殺された』って言ったんだ?」
俺も立ち止まった。
「……分からない」
そのとき。
スマホが震えた。
また知らない番号。
今度は画像だった。
開く。
七年前の集合写真。
さっき見たもの。
32人いる写真。
だが、
画像には赤い線が引かれている。
32番の生徒ではない。
別の人物。
写真の端にいる、
一人の教師。
その顔に、
赤い丸。
そして、
メッセージ。
⸻
「黒田先生は嘘をついている。」
⸻
次のメッセージ。
⸻
「32番は殺されていない。」
⸻
さらに、
⸻
「死んだことにされた。」
⸻
俺は画面を見つめた。
そして最後の一文。
⸻
「本当の名前を思い出せ。」
⸻
写真をもう一度見る。
32番の生徒。
顔は分かる。
しかし、
名前が分からない。
学校史にも、
出席簿にも、
名前がない。
黒く塗り潰されている。
俺は拡大した。
写真の隅。
体育館の時計。
そこに、
小さな数字が表示されている。
12:16
昨日と同じ時間。
俺は気づいた。
23分間の始まり。
12時16分。
そして、
俺が最初に「32番」を見た時間。
すべてが、
同じ時間から始まっている。
*
翌日。
朝。
教室に入ると、
黒板に文字が書かれていた。
昨日と同じ。
俺の名前。
その下に、
新しい名前が一つ増えている。
⸻
宮下美緒
⸻
その横には、
欠席
の二文字。
「……え?」
宮下本人が、
教室の入口に立っていた。
自分の名前を見ている。
「私……いるよね?」
誰も答えなかった。
宮下はゆっくり教室に入る。
そして、
自分の机を見る。
机の上に、
黒いノートが置いてあった。
「開けて」
俺が言った。
「嫌」
「でも」
「高瀬くん」
宮下が俺を見る。
「昨日、私が言ったこと覚えてる?」
「どれ?」
「図書室で見たあなた」
「うん」
「私、昨日のあなたは私を知らなかったって言ったよね」
「うん」
「違った」
「……何が?」
宮下はノートを開いた。
一ページ目。
白紙。
二ページ目。
白紙。
三ページ目。
そこに、
一つの名前が書かれていた。
⸻
宮下美緒
⸻
その下に、
⸻
「この人物は、昨日から存在していない。」
⸻
「……」
宮下の手が震えた。
「私、ここにいるよね?」
俺は答えようとした。
けれど、
声が出なかった。
なぜなら、
教室にいる全員が、
宮下を見ていなかったからだ。
誰も、
彼女の存在に気づいていない。
佐伯に聞く。
「なあ」
「何?」
「宮下、どこ?」
佐伯は、
怪訝そうな顔をした。
「……誰?」
俺の背中が凍った。
「いや、宮下だよ」
「誰それ?」
「お前のクラスメイトだろ」
「……高瀬」
「何?」
「三年二組に、宮下なんていないぞ」
俺は教室を見回した。
三十一人。
俺。
佐伯。
その他のクラスメイト。
そして――
宮下。
確かにいる。
なのに、
誰も彼女を見ていない。
宮下は泣きそうな顔で俺を見る。
「高瀬くん」
「……」
「私のこと、覚えてる?」
「覚えてる」
「本当に?」
「うん」
宮下は少しだけ笑った。
「よかった」
そして、
黒いノートを閉じた。
「じゃあ」
彼女は言った。
「私、まだ32番じゃない」
「どういう意味?」
「この学校では」
宮下は教室の後ろを指差した。
そこに、
新しい机があった。
名札には、
32
と書かれている。
その机の上に、
もう一冊。
黒いノート。
宮下はそれを見つめながら、
静かに言った。
「32番になる前に、誰か一人が消える」
その瞬間、
校内放送が鳴った。
『三年二組の欠席者をお知らせします』
全員が放送に耳を傾ける。
『本日の欠席者は――』
ノイズ。
そして、
名前。
『宮下美緒』
宮下の顔から、
血の気が引いた。
放送は続く。
『欠席理由――』
少しの沈黙。
『存在しないため。』
ブツッ。
放送が切れた。
誰も喋らない。
宮下は自分の腕を見た。
そこに、
何かを探すように指を這わせる。
「……あれ?」
「どうした?」
「私……」
宮下が顔を上げる。
「昨日まで、ここに傷があったよね?」
俺は腕を見る。
何もない。
「どんな傷?」
「小さい頃についた傷」
宮下は笑った。
でも、
その笑顔は明らかに怯えていた。
「私のことを証明できるもの、何もないかもしれない」
俺はスマホを取り出した。
写真。
昨日までの写真。
宮下が写っている。
――はずだった。
写真を開く。
文化祭。
弓道部。
教室。
集合写真。
全部。
宮下だけが、
消えていた。
俺は息を止めた。
昨日まで確かにあったはずの写真から、
彼女だけが、
最初から存在しなかったように消えている。
「高瀬くん」
宮下が言った。
「お願い」
「何?」
「私がいなくなる前に――」
そこで、
宮下の声が途切れた。
俺は顔を上げる。
「……宮下?」
彼女が、
いない。
さっきまで目の前にいた。
なのに。
教室には、
俺と三十人の生徒しかいなかった。
佐伯が俺を見る。
「どうした?」
「宮下は?」
「だから誰だよ」
俺は机を見た。
宮下の机。
そこには、
何もない。
名前も。
教科書も。
筆箱も。
昨日まで確かにあったものが、
全部消えている。
そして黒板。
そこには、
俺の名前と、
もう一つ。
新しい名前が書かれていた。
⸻
高瀬蓮 欠席
宮下美緒 存在せず
⸻
その下に、
黒い文字が追加されていた。
⸻
32番まで、あと一人。
⸻
俺は黒板を見つめた。
そして、
ようやく気づいた。
昨日の黒いノートに書かれていた、
あの一文。
「本人は、まだ自分が本人だと思っている。」
あれは俺のことじゃなかった。
――宮下のことだった。
いや。
違う。
もっと恐ろしいことに気づいた。
この文章が、
誰について書かれたものなのか。
まだ、
俺には分からなかった。
そのとき。
教室の後ろから、
ページをめくる音がした。
誰もいない32番の机。
そこに置かれた黒いノートが、
ひとりでに開いていた。
ページには、
新しい文章。
⸻
第四日目
欠席者 二名
高瀬蓮
宮下美緒
⸻
そして、その下に。
⸻
「次に消えるのは、佐伯。」
――第三話・終――




