第二話 二十三分間
午前十一時五十九分。
教室の時計が、突然、午前零時を示した。
誰も動かなかった。
誰も声を出さなかった。
ただ、教室の中央に立っていた黒田先生だけが、時計を見上げていた。
「……おかしい」
小さな声だった。
「先生?」
誰かが呼びかける。
先生は返事をしない。
視線は時計に固定されている。
俺も時計を見た。
デジタル表示は確かに、
00:00
になっている。
しかし、窓の外は明るい。
昼休みなのだから当然だ。
それなのに、時計だけが夜中を示している。
「電池切れじゃない?」
誰かが言った。
「さっきまで普通だったじゃん」
「故障だろ」
「先生、これ直したほうが――」
「触るな」
黒田先生が遮った。
教室が静かになる。
先生は時計から目を離し、俺たちを見た。
「誰も時計に触るな」
「なんで?」
「……いいから」
その声には、いつもの教師らしい落ち着きがなかった。
俺は黒田先生を見つめた。
先生は怖がっている。
間違いなく。
そして俺は、その理由を知りたかった。
「先生」
「……何?」
「この時計、前にもこうなったことありますか?」
先生の表情が変わった。
「ない」
「本当に?」
「ない」
「じゃあ、なんでそんなに――」
「高瀬」
初めて、先生が俺の名前を強く呼んだ。
「この件には関わるな」
「でも」
「関わるな」
その言葉だけが、妙に重かった。
*
昼休みが終わった。
時計はいつの間にか正常に戻っていた。
12時01分。
何事もなかったように。
誰かが時計を確認すると、
「直ってるじゃん」
と笑った。
さっきまでの緊張が、少しだけ緩む。
けれど俺は笑えなかった。
教室の一番後ろ。
そこには、まだ机が一つ残っている。
32番。
誰も片付けようとはしなかった。
そして、その机の上に置かれていた黒いノート。
黒田先生が預かったはずなのに、
いつの間にか戻っている。
「……おかしくない?」
俺が言うと、佐伯が振り返った。
「何が?」
「ノート」
「ああ」
「先生が持っていったよな?」
「うん」
「なのに、なんでここにある?」
佐伯は答えなかった。
教室の誰も、そのノートを見ようとしない。
まるで、
最初からそこにあるのが当然
だと思っているようだった。
「なあ」
俺は佐伯に聞いた。
「お前、あのノートが戻ってきたの、今気づいた?」
「……」
「どうした?」
「いや」
佐伯は眉を寄せた。
「俺さ」
「うん」
「最初からここにあった気がする」
「は?」
「先生が持っていったっていう記憶が、なんか……」
佐伯は頭を押さえた。
「うまく思い出せない」
俺は黙った。
嫌な感覚だった。
自分の記憶なのに、自分で確信が持てない。
俺は黒いノートを見た。
表紙には何も書かれていない。
けれど、さっきと違う。
よく見ると、表紙の隅に、
白い数字があった。
23
「……23?」
俺が呟いた。
「何?」
「これ」
佐伯が近づく。
「23分?」
「分からない」
俺は時計を見る。
午後1時03分。
さっき時計が00:00になった。
そして現在は1時03分。
だとすれば――
「なあ、昼休みって何分だった?」
「50分」
「じゃあ、俺たち……」
俺はスマートフォンを確認した。
12時40分。
昼休みの途中で撮った写真が残っている。
写真には、教室のみんなが写っている。
撮影時刻は、
12:16
そして次の写真。
撮影時刻は、
12:39
その間は23分。
何も問題ない。
普通なら。
でも、
写真の内容がおかしかった。
「……これ」
俺は画面を佐伯に見せた。
12時16分。
教室の後ろには、
32番の机がない。
12時39分。
ある。
「いつ置いた?」
「知らない」
「誰かが置いたんだろ」
「じゃあ、誰が?」
俺たちは教室を見渡した。
誰も答えない。
そのとき。
「高瀬」
宮下が声をかけてきた。
「何?」
「その写真」
「うん」
「私、ここにいる?」
宮下が指差した。
12時16分の写真。
そこに宮下はいなかった。
「……え?」
「私、12時16分に教室にいた?」
俺は答えられなかった。
「いたはずだろ」
佐伯が言う。
「いや」
宮下は首を振った。
「私、その時間……」
そこで言葉が止まった。
「何?」
「……図書室にいた」
俺たちは顔を見合わせた。
「なんで?」
「分からない」
「じゃあ、12時39分は?」
「……ここにいる」
宮下は写真を見る。
「私、ここにいる」
写真には確かに宮下が写っていた。
「じゃあ、その23分間に何があった?」
誰も答えられなかった。
*
放課後。
俺たちは図書室へ向かった。
宮下が言ったことを確かめるためだ。
図書室はほとんど人がいなかった。
司書の先生に聞くと、
「今日?」
「はい。昼休みです」
「宮下さんは来てないと思うけど」
「本当に?」
「記録を見れば分かるよ」
貸出記録を確認する。
12時16分。
宮下の名前はない。
12時39分。
もちろんない。
「じゃあ、私はどこにいたんだろ」
宮下が呟いた。
その瞬間。
図書室の奥から、
カタン。
という音がした。
三人とも振り返った。
本棚の奥。
誰かが本を落としたような音だった。
「誰かいる?」
佐伯が聞く。
返事はない。
俺たちは奥へ進んだ。
本棚と本棚の間。
床に一冊の本が落ちていた。
古い学校史だった。
表紙には、
『創立五十周年記念誌』
と書かれている。
「なんでこんなのが落ちてるんだ?」
佐伯が拾った。
そのとき、
宮下が言った。
「それ……」
「何?」
「開かないほうがいい」
「なんで?」
「分からない」
宮下は本を見つめていた。
まるで、その本を以前見たことがあるように。
「……でも」
俺は本を開いた。
学校の歴史。
創立。
校舎の変遷。
歴代校長。
卒業生。
ページをめくる。
何もない。
さらにめくる。
すると、
七年前のページで手が止まった。
「……これ」
集合写真。
当時の三年二組。
その下に、
在籍32名
と書かれている。
「また32人……」
佐伯が呟く。
俺は写真を見た。
一人ずつ顔を確認する。
三十一人。
やっぱり。
写真には三十一人しかいない。
なのに記録では32名。
「一人足りない」
俺が言った。
「誰が?」
宮下が聞く。
「分からない」
写真を拡大する。
右端。
体育館の入口。
そこに誰かが立っている。
顔は見えない。
まただ。
あの黒い影。
「これ……」
佐伯が写真を指差した。
「昨日の写真と同じじゃない?」
「うん」
「じゃあ、この人が32番?」
俺は答えなかった。
そのとき、
宮下が写真を見て呟いた。
「……違う」
「何が?」
「この人じゃない」
「じゃあ誰?」
「分からない」
「でも、知ってるんだろ?」
「違う」
宮下は首を振った。
「私は、この人を見たことがある」
俺たちは黙った。
「いつ?」
「……昨日」
「どこで?」
「教室」
宮下は自分の胸元を押さえた。
「でも、顔が違った」
「顔が?」
「昨日見たときは……」
宮下がこちらを見る。
「高瀬くんの顔だった」
心臓が跳ねた。
*
その日の帰り。
俺は一人で教室に戻った。
忘れ物をしたからだ。
夕方の校舎は静かだった。
部活動の声が遠くから聞こえる。
廊下の窓から夕日が差し込んでいる。
教室のドアを開ける。
誰もいない。
俺は机の中からノートを取り出した。
そして、
32番の机を見た。
黒いノート。
まだ置かれている。
俺は手を伸ばした。
開く。
昨日と同じ白紙。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
そして最後。
昨日とは違う文章があった。
⸻
第二日目
欠席者 0名
記録上の生徒 31名
実際の生徒 32名
⸻
その下に、
小さな文字。
⸻
23分間を覚えている者は、32番ではない。
⸻
「……23分間?」
その瞬間、
教室の時計が止まった。
午後五時二十三分。
秒針が動かない。
俺は時計を見たまま固まった。
そして、
後ろから声がした。
「高瀬くん」
振り返る。
誰もいない。
「……誰?」
返事はない。
もう一度。
「高瀬くん」
今度は、
自分の声だった。
教室の後ろ。
32番の席から聞こえた。
俺はゆっくり近づいた。
机の上に、
スマートフォンが置いてある。
俺のものではない。
古い機種だった。
画面が点灯する。
ロック画面。
日付。
9月30日
そして時刻。
12:16
俺は息を止めた。
23分前の記録ではない。
今日の昼休みの時刻。
つまり、
このスマートフォンは、
今この瞬間に、
12時16分を表示している。
俺が画面を触る。
写真フォルダが開いた。
一枚だけ写真が入っている。
教室。
12時16分。
さっき見た写真と同じだ。
だが、
違う。
俺のスマートフォンに残っていた写真には、
宮下がいなかった。
こちらの写真には、
宮下がいる。
しかも、
32番の机の前に立っている。
そして写真の隅。
教室の時計。
そこには、
11:59
と表示されていた。
俺は画面を見つめた。
「……これ、どういうことだよ」
すると、
スマートフォンに新しい通知が表示された。
⸻
録音データがあります。
再生しますか?
俺は迷った。
それでも再生を押した。
ノイズ。
しばらく無音。
そして、
俺の声が聞こえた。
『もしこれを聞いているなら、俺はまだ何も知らない』
俺は息を呑んだ。
自分の声。
間違いない。
『今から23分間のことを忘れる』
録音の中の俺が言う。
『だから、これを残す』
ノイズ。
『32番を探すな』
数秒の沈黙。
そして最後に、
『32番は――』
音声が途切れた。
画面に、
再生終了
と表示される。
「……なんだよ」
俺はスマートフォンを置いた。
すると、
教室のドアが閉まった。
バタン。
俺は振り返る。
誰もいない。
ドアに近づく。
ノブを回す。
開かない。
「……嘘だろ」
もう一度回す。
開かない。
窓を見る。
夕方だったはずなのに、
外が暗くなっている。
街灯がついている。
時計を見る。
00:00
まただ。
午前零時。
俺は後ずさった。
すると、
教室の一番後ろから、
椅子を引く音がした。
ギィィ……。
誰かが、
32番の席に座った。
俺は見ないようにした。
見てはいけない気がした。
けれど、
視界の端に、
そいつの足が見える。
制服。
黒い靴。
そして、
ゆっくりと立ち上がる。
足音が近づいてくる。
一歩。
二歩。
三歩。
俺の目の前で止まった。
「……」
顔を上げる。
そこにいたのは、
俺だった。
自分とまったく同じ顔。
ただ、
そいつの胸元には、
32
と書かれていた。
「お前……誰だ」
そいつは答えなかった。
代わりに、
俺の手にあるスマートフォンを指差した。
画面には、
新しいメッセージが届いていた。
⸻
23分間が終わるまで、ここから出るな。
⸻
「23分って……」
俺が呟いた瞬間、
そいつが初めて口を開いた。
「違う」
俺と同じ声だった。
「これは23分じゃない」
「……何?」
「お前たちが失ったのは、23分じゃない」
そいつは笑った。
「23分だと思い込まされたんだ。」
そこで、
教室の照明が消えた。
*
翌朝。
「高瀬!」
誰かに肩を揺さぶられた。
目を開ける。
教室だった。
俺は自分の机に突っ伏していた。
「……何?」
「何じゃねえよ。寝てたのか?」
佐伯だった。
「今、何時?」
「八時二十五分」
「……朝?」
「当たり前だろ」
俺は立ち上がった。
教室を見る。
三十一人。
32番の机はない。
黒いノートもない。
昨日のことが、
夢だったように感じた。
「佐伯」
「何?」
「昨日の放課後、俺……」
「昨日?」
「うん」
「何かあった?」
「いや……」
俺は言葉を止めた。
佐伯の顔を見る。
本当に何も覚えていないようだった。
そのとき、
黒板に目がいった。
誰かが書いたらしい。
白いチョークで、
一つの数字。
23
俺は近づいた。
その数字の下に、
小さな文字がある。
⸻
「昨日、君は23分間いなかった。」
⸻
俺は凍りついた。
そして、
教室の後ろを見る。
そこには、
三十一個の机。
何もない。
何もないはずだった。
なのに。
窓際の机の横に、
小さな名札が落ちていた。
拾い上げる。
そこには、
俺の名前が書いてあった。
高瀬蓮
その下に、
赤い文字。
⸻
欠席:23分
⸻
俺はその文字を見つめた。
すると、
背後から宮下の声がした。
「高瀬くん」
「……何?」
「昨日の昼休み」
「うん」
「私ね」
宮下は少し黙ってから言った。
「あなたを見たよ」
「どこで?」
「図書室」
「俺が?」
「うん」
俺は首を振った。
「俺、昨日図書室なんか行ってない」
「……そうだよね」
宮下は言った。
「だから怖いの」
「何が?」
宮下は俺を見た。
「昨日、図書室にいたあなたは――」
そこで、
校内放送が鳴った。
キーン。
ノイズ。
そして、
女の声。
『三年二組の欠席者をお知らせします』
教室が静まる。
『本日の欠席者は――』
少しの沈黙。
『……高瀬蓮』
全員が、
俺を見た。
俺は教室にいる。
ここにいる。
確かにいる。
なのに。
校内放送は続いた。
『欠席時間――』
ノイズ。
『二十三分間。』
放送が切れる。
誰も喋らない。
そして、
教室の一番後ろ。
誰も座っていない場所から、
椅子を引く音がした。
ギィィ……。
俺は振り返った。
そこには、
昨日まで存在しなかった机が一つ。
机の上には、
黒いノート。
その表紙には、
新しい文字が書かれていた。
⸻
第三日目
欠席者 一名
高瀬蓮
⸻
そして、その下に、
昨日までなかった一文。
⸻
「本人は、まだ自分が本人だと思っている。」
――第二話・終――




