第一話 欠席者
その日、三年二組には、三十一人の生徒がいた。
担任の教師も、そう思っていた。
生徒たちも、そう思っていた。
教室の机も三十一人分。
ロッカーも三十一個。
出席簿に記載されている名前も三十一人。
だから、誰も気づかなかった。
――本当は、三十二人いることに。
*
午前八時二十七分。
俺は校門をくぐった。
九月の終わりだというのに、朝から妙に蒸し暑かった。
空は曇っている。
雨が降るかもしれない、と天気予報では言っていた。
「眠……」
隣を歩いていた佐伯があくびをした。
「昨日何時まで起きてたんだよ」
「二時」
「何してた?」
「動画」
「受験生が?」
「だから眠いんだよ」
「自業自得じゃん」
くだらない会話だった。
いつも通りだった。
昇降口では、上履きに履き替える生徒が列を作っている。
廊下には、文化祭の名残がまだ残っていた。
壁に貼られたポスター。
剥がし忘れた飾り。
黒板の隅に残った絵の具。
そして、三年二組の教室の前。
そこに、見慣れない紙が一枚貼られていた。
「なんだこれ」
佐伯が立ち止まった。
紙には、黒い文字でこう書かれていた。
⸻
本日の欠席者
三年二組 出席番号17番
理由:死亡
⸻
「……は?」
佐伯が笑った。
最初は俺も笑った。
誰かの悪ふざけだと思った。
「怖っ。誰だよ、こんなの貼ったの」
「出席番号17って誰だっけ」
「えーっと……」
俺はクラス名簿を頭の中で思い浮かべた。
17番。
女子だった気がする。
確か――
「……宮下?」
「そうそう。宮下」
「いや、宮下普通に来てるだろ」
「え?」
俺たちは教室の中を見た。
窓際。
前から三列目。
そこに女子が座っていた。
宮下美緒。
スマートフォンをいじっている。
いつも通りだった。
「ほら」
「じゃあ誰だよ、これ」
「知らね」
佐伯が紙を剥がした。
その瞬間だった。
「何してるの?」
背後から声がした。
振り返る。
担任の黒田先生だった。
「それ……」
先生は紙を見た。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、顔が固まった。
「どこに貼ってあった?」
「ここです」
「誰が貼ったか、見た人は?」
「いや、誰も」
「そう」
先生は紙を受け取った。
そして、妙に丁寧な動作で四つ折りにした。
「これは先生が預かる」
「悪ふざけですよね?」
佐伯が聞いた。
「そうだと思う」
先生は笑った。
ただし、目は笑っていなかった。
「気にしなくていい」
そう言って、職員室へ向かっていった。
俺はその背中を見送った。
そして教室に入った。
「おはよー」
「おはよ」
「昨日の数学やった?」
「やってない」
いつも通り。
本当に、いつも通りだった。
だから俺は、そのとき気づかなかった。
宮下がこちらを見ていたことに。
いや。
正確には――
宮下が俺ではなく、
俺の後ろを見ていたことに。
*
午前八時四十分。
ホームルームが始まった。
黒田先生が教壇に立つ。
いつも通り出席を取る。
「相田」
「はい」
「石川」
「はい」
「上野」
「はい」
一人ずつ名前が呼ばれていく。
俺は頬杖をつきながら聞いていた。
「宮下」
「はい」
宮下が返事をする。
先生は名簿に丸をつけた。
「森」
「はい」
「山下」
「はい」
そして最後。
「渡辺」
「はい」
出席確認が終わった。
先生は名簿を閉じる。
「今日は連絡が三つ――」
「先生」
誰かが言った。
教室の後ろ。
佐伯だった。
「何?」
「今日、全員いますよね?」
先生の手が止まった。
「……どういう意味?」
「いや、さっき廊下に貼ってあったじゃないですか」
教室がざわついた。
「あー、あれ?」
「見た」
「宮下が死んだとかいうやつ?」
「怖かったんだけど」
宮下本人は黙っていた。
黒田先生は教室を見渡した。
「その件はもういい。誰かのいたずらだ」
「でも」
「いいから」
少し強い口調だった。
佐伯が黙った。
先生は話を続ける。
「今日は午後から――」
そのとき。
教室の後ろから、
カタン。
という音がした。
全員が振り向いた。
一番後ろ。
壁際に並んでいるロッカー。
そのうちの一つが開いていた。
誰のロッカーか。
すぐに分かった。
17番。
宮下のロッカーだった。
「……?」
宮下が立ち上がった。
「私、閉めたよ」
「風じゃね?」
「ロッカーの中じゃん」
誰かが笑った。
宮下はロッカーへ向かった。
そして、
「……何これ」
小さく呟いた。
俺も立ち上がって見に行った。
ロッカーの中には、
一冊のノートが入っていた。
黒い表紙。
何の文字も書かれていない。
宮下が取り出した。
「私のじゃない」
「名前書いてない?」
「ない」
佐伯が横から覗き込んだ。
「開いてみようぜ」
「嫌だよ」
「なんで?」
「なんか気持ち悪い」
宮下はノートを持ったまま固まっていた。
そのときだった。
黒田先生がこちらへ歩いてきた。
「どうした?」
「これ、ロッカーに入ってました」
宮下がノートを渡す。
先生は表紙を見た。
そして――
顔色を変えた。
「……どこにあった?」
「ロッカーです」
「いつ?」
「今です」
「誰が触った?」
「私と佐伯くんと……」
先生はノートを開いた。
一ページ目。
そこには、何も書かれていなかった。
二ページ目。
何もない。
三ページ目。
何もない。
ページをめくっていく。
十ページ。
二十ページ。
三十ページ。
すべて白紙。
「なんだよ、これ」
佐伯が笑う。
先生は答えなかった。
さらにページをめくる。
そして、最後のページ。
そこにだけ、
文字が書かれていた。
⸻
9月30日
三年二組
欠席者 一名
⸻
「……」
誰も喋らなかった。
黒田先生がノートを閉じた。
「これは先生が預かる」
「先生」
俺は言った。
「何ですか?」
「今日って、九月三十日ですよね」
「そうだけど」
「だったら……」
俺はノートを指差した。
「なんで今日の日付が書いてあるんですか?」
先生は答えなかった。
*
午前九時十五分。
一時間目の授業が始まった。
教室は静かだった。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、全員が黒板を見ている。
俺も授業を聞こうとした。
けれど、どうしても気になった。
あのノート。
そして、廊下の紙。
さらに、先生の反応。
偶然にしては出来すぎている。
俺はスマートフォンを机の下で開いた。
グループチャット。
クラスのグループにメッセージが飛んでいた。
「誰かあのノートについて知ってる?」
「知らない」
「先生なんか隠してね?」
「ていうか17番って宮下じゃん」
「宮下いるのに欠席って意味わからん」
そこで一人が書き込んだ。
「そもそもさ」
「今日って本当に9月30日?」
既読が一気に増えた。
俺は窓の外を見た。
校庭。
体育館。
時計。
全部、いつも通り。
だから何も疑わなかった。
そのとき。
前の席の女子が、後ろを振り向いた。
「ねえ」
「ん?」
「今日って何曜日?」
「水曜じゃね?」
「……違うよ」
「え?」
彼女はスマートフォンを見せた。
カレンダーには、
9月30日 火曜日
と表示されていた。
「……あれ?」
俺は自分のスマートフォンを見る。
火曜日。
確かに火曜日だった。
なのに。
朝、俺は佐伯と話しながら、
「今日水曜だから一時間目から面倒だな」
と言った気がする。
佐伯もそう言っていた。
俺は佐伯を見る。
佐伯は俺を見た。
「……俺たち、今日が水曜だと思ってたよな?」
「うん」
彼は答えた。
そして、
「でも昨日、月曜だったよな?」
俺たちは黙った。
昨日が月曜日なら、
今日は火曜日。
当たり前だ。
ただ。
その「当たり前」が、妙に怖かった。
*
午前十時三十二分。
二時間目が終わった。
休み時間。
俺は教室を出た。
廊下には誰もいない。
窓から入る風で、掲示物が揺れている。
俺は何となく、教室の前に立った。
さっき紙が貼られていた場所。
もう何もない。
ただ、
画鋲の跡だけが残っている。
四つ。
紙を固定するには多すぎる。
俺は指で跡をなぞった。
そのとき。
違和感があった。
画鋲の跡の下。
壁に、
小さな傷がある。
爪で引っ掻いたような傷。
よく見ると、
文字になっていた。
誰かが壁を削って書いたらしい。
かなり小さい。
俺は顔を近づけた。
そこには、
こう書かれていた。
⸻
32
⸻
「……32?」
何の数字だ。
クラスは31人。
出席番号も31まで。
なのに、
32。
俺は指で触れた。
すると。
教室の中から、
声がした。
「何してるの?」
振り向く。
宮下だった。
「いや、この傷」
「……」
宮下は壁を見た。
そして、顔を強張らせた。
「それ、消したはずなのに」
「え?」
「去年もあった」
「去年?」
宮下は慌てて口を閉じた。
「……何でもない」
「いや、今なんて――」
「何でもないって」
彼女は教室に戻っていった。
俺はその背中を見ながら考えた。
去年もあった。
なら、誰かが去年からずっと、
この「32」という数字を残していることになる。
しかし。
去年の三年二組にも、
そんなものがあったという話は聞いたことがない。
そもそも、
俺たちは去年、この教室を使っていない。
去年の三年二組は、
別の場所だった。
*
昼休み。
佐伯と購買へ向かった。
「なあ」
「何?」
「さっきの32って数字、どう思う?」
「知らん」
「宮下が去年もあったって」
「去年?」
「うん」
佐伯はしばらく考えた。
「去年の三年二組って、この校舎の四階じゃなかった?」
「そう」
「じゃあ、なんで今の三年二組の壁に残ってんの?」
「……だよな」
購買へ向かう途中。
俺たちは階段を下りた。
二階。
一階。
そこで、佐伯が突然立ち止まった。
「……なあ」
「今度は何?」
「掲示板」
階段横の掲示板。
そこに、
古い写真が貼られていた。
学校祭の写真だった。
去年のもの。
俺たちが二年生だった頃の写真。
体育館。
文化祭。
部活。
クラス写真。
何気なく眺めていた。
その中に、
去年の三年二組の集合写真があった。
「これ、去年の三年二組?」
「そうだな」
「何人いる?」
「……」
佐伯が数え始めた。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
……
三十一。
俺も数えた。
三十一人。
普通だ。
だが。
写真の右端。
誰もいないはずの場所に、
黒い影が写っていた。
「……これ」
「人?」
「分からん」
写真を近づけて見る。
影は、
教室のドアの横に立っていた。
顔は見えない。
身体だけ。
制服のようなものを着ている。
そして、
その人物の胸元に、
白い数字が見えた。
32
俺の背中が冷たくなった。
「おい」
「何?」
「この写真……」
「うん」
「去年の写真だよな?」
「そうだけど」
「じゃあ、なんで」
俺は言葉を止めた。
写真の下に、小さなキャプションがあった。
⸻
三年二組 32名
⸻
「……」
佐伯の顔から笑いが消えた。
「三十一人しかいないのに?」
「そう」
「これ、誰が書いた?」
「知らない」
「じゃあ……」
その瞬間。
校内放送が鳴った。
キーン、というノイズ。
続いて、
女の声。
『三年二組の生徒へ』
俺たちは顔を見合わせた。
昼休みの放送予定なんてない。
『本日の欠席者をお知らせします』
ノイズ。
そして。
『三年二組』
『出席番号――』
一瞬、音声が途切れた。
次に聞こえたのは、
低い声だった。
『……32番』
ブツッ。
放送が切れた。
校舎が静まり返った。
佐伯が呟いた。
「32番なんて……」
俺は答えなかった。
階段の上。
三階へ続く踊り場を見ていた。
そこに、
誰かが立っていたからだ。
制服姿。
こちらを見ている。
顔は見えない。
ただ、
胸元だけが見えた。
白い数字。
32
「……誰?」
俺が声を出した瞬間。
その人物が、
ゆっくり階段を上っていった。
一段。
二段。
三段。
そして三階の角を曲がる。
「待て!」
俺は走った。
階段を駆け上がる。
角を曲がる。
誰もいない。
廊下は真っ直ぐ続いている。
左右には教室。
窓。
トイレ。
階段。
隠れる場所なんてない。
「……消えた?」
佐伯が追いついた。
「お前、見たよな?」
「見た」
「人だった?」
「分からない」
俺たちは廊下を歩いた。
三年二組の教室が見える。
その前に、
黒田先生が立っていた。
先生はこちらを見るなり、
顔色を変えた。
「……お前たち」
「先生」
俺は聞いた。
「三年二組に、32番ってありますか?」
先生は黙った。
「出席番号32番」
もう一度聞く。
「そんな生徒、いませんよね?」
黒田先生は、
しばらく俺を見つめていた。
そして、
小さな声で言った。
「……いない」
「じゃあ、さっきの放送は?」
「聞き間違いだ」
「でも」
「聞き間違いだ」
先生の声が震えていた。
俺は気づいた。
先生が怖がっている。
俺たちよりも。
ずっと。
「先生」
佐伯が言った。
「去年も、32番ってありました?」
先生は答えなかった。
代わりに、
教室の扉を開けた。
「二人とも、中へ入りなさい」
「何で?」
「いいから」
俺たちは教室に入った。
すると、
クラス全員がこちらを見た。
誰も喋らない。
黒板には、
いつの間にか文字が書かれていた。
⸻
本日の欠席者
32番
⸻
その下に、
さらに一行。
⸻
まだ一人足りない。
⸻
誰かが、
「……これ、誰が書いたの?」
と言った。
誰も答えなかった。
黒田先生は黒板を見つめている。
そのとき。
俺のスマートフォンが震えた。
通知。
知らない番号からだった。
メッセージは一件。
開く。
⸻
「やっと気づいた?」
⸻
その下に、
写真が一枚添付されていた。
俺は写真を開いた。
そこには、
今いる三年二組の教室が写っていた。
黒板。
机。
窓。
俺たち。
そして――
教室の一番後ろ。
本来なら誰も座っていないはずの席に、
一人の生徒が座っていた。
顔はこちらを向いていない。
机の上には、
黒いノート。
そして、そのノートの表紙に、
白い文字。
⸻
三年二組 32番
⸻
俺は写真を拡大した。
そこで気づいた。
その写真は、
今撮られたものじゃない。
黒板に書かれている文字が、
今とは違う。
そして何より。
写真の隅に表示されていた時刻は、
午前0時00分。
俺たちが学校にいるはずのない時間だった。
俺は写真を閉じた。
もう一度、教室を見る。
全員いる。
俺もいる。
佐伯もいる。
宮下もいる。
黒田先生もいる。
――三十一人。
そのはずだった。
なのに。
俺はふと、
教室の後ろを見た。
一番後ろ。
窓側。
そこに、
机が一つあった。
朝にはなかった机。
誰のものでもない机。
机の横に貼られた名札には、
こう書かれていた。
32
そしてその机の上には、
一冊の黒いノートが置かれていた。
表紙を開く。
一ページ目。
そこには、
たった一行だけ書かれていた。
⸻
「明日、最初に死ぬのは――」
⸻
文章は、
そこで終わっていた。
俺は息を呑んだ。
そして、
ページの下に小さく書かれていた文字を見つけた。
⸻
※このノートを読んだ人間は、三十二人目として数える。
⸻
その瞬間。
教室の時計が、
カチッ、
と音を立てた。
針が一つ進む。
午前十一時五十九分。
まだ昼休みの途中だった。
なのに。
時計の表示だけが、
0:00
になった。
そして教室の照明が、
一つずつ、
消えた。
前から。
後ろへ。
最後の照明が消える直前、
俺は見た。
窓ガラスに映った教室。
三十一人の生徒。
一人の教師。
そして、
俺たちの後ろに立つ、
三十二人目の生徒。
その顔は、
俺と同じ顔をしていた。
そして、
そいつが口を動かした。
声は聞こえなかった。
けれど、
唇の動きだけは読めた。
⸻
「次は、お前が欠席する。」
――第一話・終――




