第二十二話「二人目の高瀬蓮」
「僕?」
少年は、暗闇の中で静かに笑った。
「君が、最初に欠席させた高瀬蓮だよ」
蓮は、その言葉の意味を理解できなかった。
目の前にいる少年は、自分とまったく同じ顔をしていた。
髪型も、制服も、身長も。
そして、声までも。
まるで鏡の中から、もう一人の自分が出てきたようだった。
「……何を言ってる?」
蓮が尋ねる。
少年は首をかしげた。
「覚えてないの?」
「……何を?」
「僕のこと」
蓮は答えられなかった。
少年は、ゆっくりと一歩近づいた。
「僕は、ずっと待ってたんだよ」
「……」
「君が僕の名前を呼んでくれるのを」
蓮は後ずさった。
その瞬間、教室のスピーカーから雑音が流れた。
ザザッ。
ザザザッ。
『出席番号二番』
『高瀬蓮』
少年が答える。
「はい」
すると、出席簿がひとりでに開いた。
白紙だったページに、文字が浮かび上がる。
『高瀬蓮 出席』
その下に、もう一つの名前。
『高瀬蓮 未確認』
蓮は息を止めた。
同じ名前が、二つ。
一人は出席。
もう一人は未確認。
少年は、出席簿を見て微笑んだ。
「やっと、僕の方が先になった」
蓮は、震える声で尋ねた。
「……先?」
「うん」
少年は言った。
「今までは、君が先だった」
「……」
「でも、今回は違う」
少年は、蓮をまっすぐ見つめた。
「今度は、君が二人目の高瀬蓮なんだ。」
その瞬間。
地下室の時計が、午前零時を指した。
1 繰り返される零時
蓮は時計を見上げた。
さっきまで、午前零時二十七分だった。
なのに、今は午前零時。
秒針が、ゆっくりと動き始めている。
「……時間が戻った?」
田島修一は、壁際に立ったまま動かなかった。
「田島さん!」
蓮が呼ぶ。
田島は、ようやく顔を上げた。
「……まずいことになりました」
「何がですか?」
「二回目の出席確認が、成立してしまった」
「……」
「同じ名前を持つ二人が、同時に出席簿へ登録されたんです」
蓮は少年を見た。
少年は、教卓の前に立っている。
何も恐れていない。
むしろ、楽しそうだった。
「……それが、どうしたんですか?」
田島は答えた。
「この学校は、同じ名前を持つ二人を、同じ日に出席させることができません」
「……」
「どちらか一人を、正式な在籍者として確定する必要がある」
蓮は息を止めた。
「……じゃあ、俺か、あいつか」
「そうです」
田島はうなずいた。
「ですが、今回は少し違います」
「……何が?」
田島は出席簿を指さした。
「先に返事をした方が、優先されるんです」
蓮は少年を見た。
少年は笑っていた。
「……つまり」
田島は、静かに答えた。
「このままでは、あなたの記録が取り消されます」
蓮は、出席簿を見つめた。
『高瀬蓮 出席』
『高瀬蓮 未確認』
少年が言った。
「ねえ、蓮」
「……何だよ」
「そんなに怖がらなくてもいいんだよ」
「……」
「僕は、君を消したいわけじゃない」
蓮は眉をひそめた。
「じゃあ、何がしたいんだ?」
少年は答えた。
「元に戻したいだけ」
「……何を?」
「僕の人生を」
その言葉に、蓮は何も返せなかった。
少年は続けた。
「君は、僕の名前を使って生きてきた」
「……」
「僕がいるはずだった場所で、僕の代わりに」
蓮は首を振った。
「そんなこと、知らない」
「うん。知ってる」
少年は静かにうなずいた。
「君は、何も覚えてないんだよね」
「……」
「だから、僕が教えてあげる」
少年は、教室の黒板を指さした。
そこには、いつの間にか文字が書かれていた。
『平成二十年十一月六日』
『第37観察室』
『記録番号000』
少年は言った。
「全部、あの日から始まったんだ」
2 名前を与えられた子ども
少年は、教卓の引き出しから一枚の写真を取り出した。
そこには、二人の子どもが写っていた。
一人は、幼い蓮。
もう一人は、見覚えのない少女だった。
少女は、蓮と同じ顔をしていない。
だが、どこか懐かしかった。
「……誰だ?」
蓮が尋ねる。
少年は答えた。
「佐伯美月」
蓮は息を止めた。
「……美月?」
「そう」
少年はうなずいた。
「でも、君が知ってる美月とは違う」
蓮は写真を見つめた。
「……どういうことだ?」
少年は続けた。
「この写真に写ってる美月が、最初の美月なんだ」
「……」
「そして、隣にいるのが僕」
蓮は写真を見つめた。
「……じゃあ、俺は?」
少年は静かに答えた。
「このとき、君はまだいなかった」
蓮の心臓が大きく跳ねた。
「……何?」
「君が生まれたのは、このあと」
「……」
「正確には、生まれたんじゃない」
少年は言った。
「登録されたんだ」
蓮は頭を抱えた。
また、記録。
また、名前。
また、自分の存在を否定する言葉。
「……もう、いい加減にしてくれよ」
蓮はつぶやいた。
少年は首をかしげた。
「何が?」
「俺は、ここにいるだろ」
「うん」
「俺には記憶がある。学校に通って、友達もいて、家族もいて……」
「知ってるよ」
少年は答えた。
「だって、それは僕の記憶だから」
蓮は言葉を失った。
少年は続けた。
「君の中にある思い出は、もともと僕のものだった」
「……」
「君は、僕の記憶を使って生きてきたんだ」
蓮は、写真を見つめた。
少女。
少年。
二人の子ども。
その写真には、日付が記されていた。
平成二十年十一月五日。
蓮は眉をひそめた。
「……待てよ」
少年が顔を上げる。
「何?」
「俺たちは、二〇〇八年十一月六日生まれなんだろ?」
「……うん」
「じゃあ、なんで前日に子どもの写真があるんだ?」
少年は黙った。
蓮は続けた。
「しかも、赤ん坊じゃない。普通に歩ける年齢だ」
少年の表情が、わずかに変わった。
蓮は写真を指さした。
「この写真、おかしいだろ」
少年は、ゆっくりと笑った。
「……やっぱり、気づくんだね」
「……何?」
「君は、いつもそこに気づく」
蓮は息を止めた。
少年は続けた。
「でも、今回はもう遅い」
その瞬間。
写真の中の少女が、ゆっくりと顔を上げた。
3 写真の中の美月
蓮は写真を落としそうになった。
「……動いた?」
写真の中の少女が、こちらを見ていた。
さっきまで、少年の方を向いていたはずだ。
だが今は、正面。
蓮と、目が合っている。
少女は、口を動かした。
声は聞こえない。
しかし、何かを伝えようとしている。
蓮は写真を近づけた。
少女の唇が、ゆっくりと動く。
「……に……」
蓮は眉をひそめた。
「……何?」
少女は、もう一度口を動かした。
「……に……げ……」
蓮は息を止めた。
逃げて。
そう言っている。
その瞬間、少年が写真を奪い取った。
「見なくていい」
蓮は顔を上げた。
「おい!」
少年は写真をポケットにしまった。
「その子は、もう関係ない」
「関係ないって……」
「君が知ってる美月とは違うんだ」
蓮は、少年を見つめた。
「……お前、何を隠してる?」
少年は答えなかった。
そのとき。
教室の後ろから、女性の声がした。
「隠してるのは、あなたでしょう」
蓮が振り返る。
そこには、佐伯美月が立っていた。
いつもの制服。
長い髪。
落ち着いた表情。
だが、その目は少年をまっすぐ見つめていた。
「……美月?」
蓮が呼ぶ。
美月はうなずいた。
「蓮。大丈夫?」
「……お前、どこにいたんだよ」
「ずっと、ここにいた」
「……は?」
美月は、教室の窓を指さした。
「向こう側に」
蓮は窓を見た。
さっきまで、そこには別の教室があった。
だが今は、普通の校庭が広がっている。
美月は続けた。
「蓮。あの子の話を信じないで」
少年が笑った。
「また、それ?」
美月は少年を見た。
「あなたは、本当の高瀬蓮じゃない」
少年の表情が変わった。
「……何?」
美月は言った。
「あなたは、記録番号038」
蓮は息を止めた。
「……038?」
少年は黙った。
美月は続けた。
「前に、001を名乗っていた人と同じ番号」
蓮は思い出した。
三十六人の高瀬蓮。
その先頭にいた少年。
001を名乗りながら、実際には038だった。
「……じゃあ、こいつは」
美月はうなずいた。
「同じ人」
少年は、ゆっくりと拍手した。
パチ。
パチ。
パチ。
「すごいね、美月」
美月は答えなかった。
少年は続けた。
「でも、それを知ったところで何が変わるの?」
「……」
「僕が038でも、037より先に出席したことは変わらない」
蓮は出席簿を見た。
確かに、そこには二つの名前がある。
一人は出席。
もう一人は未確認。
美月は、静かに言った。
「変わるよ」
少年が首をかしげた。
「何が?」
「あなたには、まだ出生記録がない」
少年の笑顔が消えた。
美月は続けた。
「だから、正式な在籍者にはなれない」
蓮は息を止めた。
少年は、低い声で言った。
「……誰に聞いたの?」
美月は答えた。
「田島さん」
その瞬間。
少年の表情が、完全に変わった。
「……あの人、まだそんなことを」
4 記録番号038の正体
田島修一は、教室の隅で黙っていた。
美月が彼を見た。
「田島さん。もう説明してください」
田島は、ゆっくりと顔を上げた。
「……何をですか」
「038が、何のために作られたのか」
蓮は田島を見た。
「……何のため?」
田島は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「記録番号038は、事故の再発を防ぐために用意された存在です」
少年は笑った。
「用意された存在、ね」
田島は続けた。
「同じ名前を持つ二人が出席した場合、学校は矛盾を修正しようとします」
「……はい」
「そのとき、どちらか一方が記録から消える」
蓮はうなずいた。
田島は言った。
「しかし、それでは同じ事故が繰り返される」
「……」
「そこで、第三の記録を用意したんです」
蓮は眉をひそめた。
「……第三?」
田島は少年を見た。
「038は、二人の高瀬蓮の代わりに、矛盾を引き受けるための存在です」
蓮は息を止めた。
「……代わりに?」
「そうです」
田島はうなずいた。
「本来、038は出席してはいけない」
少年が、静かに笑った。
「でも、僕は出席した」
「……」
「それが、そんなに悪いこと?」
田島は答えなかった。
少年は続けた。
「僕だって、名前がある」
「……」
「僕だって、記憶がある」
「……」
「僕だって、ここにいる」
蓮は、少年を見つめた。
その言葉は、さっき自分が言ったことと同じだった。
自分は、ここにいる。
記録がどうであれ。
記憶がどうであれ。
存在している。
少年は蓮を見た。
「ねえ、037」
「……何だよ」
「君なら、わかるでしょう?」
蓮は答えられなかった。
少年は続けた。
「僕は、ただ出席したかっただけなんだ」
その声は、今までと違っていた。
挑発するような声ではない。
本当に、寂しそうだった。
蓮は、少しだけ迷った。
だが、美月が口を開いた。
「蓮。気をつけて」
「……?」
「その人は、出席したいだけじゃない」
少年の表情が変わった。
美月は続けた。
「あなたの記録を、上書きしようとしてる。」
5 上書きされる記憶
その瞬間。
蓮のスマートフォンが鳴った。
【記録統合処理を開始します】
対象:記録番号037/038
優先記録:038
統合進行率:5%
蓮は息を止めた。
「……何だよ、これ」
田島が駆け寄った。
「まずい」
「何がですか!」
「二つの記録が、統合され始めています」
「……統合?」
田島は答えた。
「あなたの記憶が、038の記憶に置き換わっていく」
蓮はスマートフォンを見つめた。
統合進行率、12%。
その瞬間。
頭の中に、見知らぬ光景が浮かんだ。
病院の廊下。
白い壁。
窓の外に降る雨。
そして、誰かの声。
『蓮』
蓮は振り返った。
そこには、美月がいた。
幼い少女。
少女は笑っていた。
『一緒に帰ろう』
蓮は、なぜかその言葉を知っていた。
だが、実際にそんな出来事を経験した記憶はない。
「……何だ、これ」
統合進行率、21%。
今度は、別の記憶。
中学校の教室。
友人たち。
文化祭。
放課後。
その中に、見覚えのない少年がいた。
自分と同じ顔。
その少年は、友人たちと笑っていた。
蓮は頭を抱えた。
「……やめろ」
統合進行率、34%。
自分の記憶が、少しずつ曖昧になっていく。
中学時代の担任の顔。
高校の入学式。
最初に美月と出会った日。
思い出そうとしても、別の光景が割り込んでくる。
少年が言った。
「ねえ、037」
蓮は顔を上げた。
少年は、静かに微笑んでいた。
「僕の記憶、どう?」
「……お前」
「懐かしいでしょう?」
「……」
「だって、もともと同じ名前なんだから」
蓮は、震える声で言った。
「……俺の記憶を返せ」
少年は首をかしげた。
「返す?」
「……」
「どれが君の記憶なの?」
蓮は答えられなかった。
少年は続けた。
「君が覚えてる学校生活」
「……」
「家族」
「……」
「友達」
少年は静かに言った。
「それが本当に君のものだって、証明できる?」
蓮は唇をかんだ。
証明できない。
だが、だからといって、奪われていいはずがない。
「……証明なんか、できなくても」
蓮は言った。
「俺が経験したことは、俺のものだ」
少年の表情が変わった。
「……へえ」
蓮は続けた。
「お前の記憶も、お前のものだろ」
「……」
「だったら、俺の記憶を奪う必要なんてないじゃないか」
少年は黙った。
蓮は言った。
「俺とお前は、別の人間なんだよ」
その瞬間。
スマートフォンの画面が止まった。
【記録統合処理:41%】
【矛盾を検出】
【処理を一時停止します】
少年は目を見開いた。
「……何?」
田島も、驚いた表情で画面を見ていた。
「……まさか」
蓮は顔を上げた。
「……何ですか?」
田島は、静かに言った。
「あなたが、自分と038を別の存在だと認識したことで、統合条件が崩れたんです」
蓮は息を止めた。
少年は、ゆっくりと笑った。
「……面白いね」
その笑顔は、先ほどまでとは違っていた。
どこか、安心したようにも見えた。
「やっぱり、君は僕とは違うんだ」
6 消えた三十六番
そのとき。
教室の後ろの扉が開いた。
一人の少年が入ってきた。
高瀬凛だった。
「……凛!」
蓮が呼ぶ。
凛は、蓮を見てうなずいた。
「間に合った」
「……何が?」
凛は、教卓の上に一冊の出席簿を置いた。
「これを見て」
蓮は出席簿を開いた。
そこには、三十六人の名前が並んでいた。
佐伯美月。
高瀬凛。
高瀬真。
そして、残りの生徒たち。
だが、一つだけおかしなところがあった。
出席番号36番が、空白だった。
蓮は眉をひそめた。
「……三十六番がない?」
凛はうなずいた。
「そう」
「どうして?」
凛は答えた。
「最初の事故で、三十六番だけが記録から消えたんだ」
蓮は息を止めた。
「……でも、事故では三十六人が……」
「それは、記録の読み違い」
凛は言った。
「生存確認一名っていうのは、三十六人が消えたって意味じゃない」
「……?」
「事故直後に、存在を確認できたのが一人だけだったってこと」
蓮は、出席簿を見つめた。
「……じゃあ、他の生徒たちは」
「まだ、わからない」
凛は答えた。
「でも、一つだけ確かなことがある」
「……何?」
凛は、空白の三十六番を指さした。
「この名前だけは、誰も思い出せない。」
蓮は息を止めた。
「……誰も?」
「そう」
凛は続けた。
「田島さんも、真も、美月も」
蓮は美月を見た。
美月は、静かにうなずいた。
「……私も、覚えてない」
蓮は、空白の欄を見つめた。
出席番号36。
氏名、空白。
出席状況、未確認。
そして、備考欄。
そこには、小さな文字が書かれていた。
『当該生徒の氏名は、事故原因に直接関係するため非表示』
蓮は顔を上げた。
「……事故原因?」
凛はうなずいた。
「そう」
「……じゃあ、三十六番が事故を起こしたのか?」
凛は答えなかった。
代わりに、出席簿の裏表紙を開いた。
そこには、古い写真が挟まっていた。
教室の集合写真。
三十七人の生徒。
一人の教師。
蓮は、写真を見つめた。
そして、気づいた。
最後列の右端。
以前は、高瀬蓮が立っていた場所。
そこに、今は誰もいなかった。
「……消えてる」
凛は言った。
「そう」
「……じゃあ、三十七人目は」
「最初から、そこにいなかったのかもしれない」
蓮は眉をひそめた。
「……何?」
凛は続けた。
「写真には、三十七人写っていた」
「……うん」
「でも、三十六人しか名前がない」
「……」
「そして、三十六番が空白になっている」
蓮は、ゆっくりと考えた。
人数が合わない。
写真が変わる。
出席簿も変わる。
だが、もし。
「……待てよ」
蓮は言った。
「三十六番の名前が消えたんじゃなくて」
凛が顔を上げる。
「……?」
「最初から、三十六番だけ別の名前だったんじゃないか?」
凛は黙った。
蓮は続けた。
「誰かが、その名前を高瀬蓮に書き換えた」
「……」
「だから、人数も名前も合わなくなった」
田島の表情が変わった。
「……先生」
蓮は田島を見た。
「……何ですか?」
田島は、震える声で言った。
「それ以上、調べない方がいい」
蓮は眉をひそめた。
「……どうしてですか」
田島は、空白の三十六番を見つめた。
「その名前を思い出したら」
短い沈黙。
「今までの出席確認が、すべて無効になる可能性があります。」
7 最後の名前
教室の時計が、午前零時三十分を指した。
蓮は、出席簿を閉じなかった。
「……それでも、知りたいです」
田島は黙った。
「俺は、もう誰かの言葉だけを信じて動くのは嫌なんです」
「……」
「自分で確かめたい」
田島は、ゆっくりとうなずいた。
「……わかりました」
蓮は顔を上げた。
田島は言った。
「では、最後の名前を確認しましょう」
田島は、教卓の下から小さな箱を取り出した。
黒い箱。
鍵穴がある。
蓮は、手元の鍵を見た。
036。
「……これで開くんですか?」
田島はうなずいた。
「そうです」
蓮は鍵を差し込んだ。
カチリ。
箱が開いた。
中には、一枚の名札が入っていた。
古いプラスチック製。
裏返しになっている。
蓮は、ゆっくりと手を伸ばした。
名札を取り出す。
表側を見る。
そこには、名前が書かれていた。
だが、文字がかすれている。
最初の一文字。
佐
二文字目。
伯
蓮は息を止めた。
「……佐伯?」
美月が顔を上げた。
「……え?」
蓮は、残りの文字を読んだ。
真。
名札には、こう書かれていた。
佐伯真。
教室が静まり返った。
「……佐伯、真?」
蓮はつぶやいた。
美月は、ゆっくりと口元を押さえた。
「……そんな」
凛も、動けなくなっていた。
田島は目を閉じた。
そして、038だけが、静かに笑っていた。
「……やっと、見つかったね」
蓮は038を見た。
「……知ってたのか?」
038はうなずいた。
「うん」
「……じゃあ、佐伯真って誰なんだ?」
038は答えた。
「高瀬真の、本当の名前」
蓮は息を止めた。
「……何?」
038は続けた。
「真は、最初から高瀬真じゃなかった」
「……」
「佐伯真だったんだ」
蓮は、名札を見つめた。
佐伯真。
佐伯美月。
同じ名字。
「……じゃあ、美月と真は」
038はうなずいた。
「兄妹だよ」
美月は、ゆっくりと首を振った。
「……違う」
蓮は美月を見た。
「……美月?」
美月は、震える声で言った。
「真は、私の兄じゃない」
038は首をかしげた。
「……どうして?」
美月は答えた。
「だって、私には兄なんていない」
「……」
「私には、弟が一人だけ」
蓮は息を止めた。
「……弟?」
美月は、ゆっくりと蓮を見た。
そして、言った。
「高瀬蓮。あなたが、私の弟なの。」
8 姉と弟
蓮は、何も言えなかった。
「……俺が?」
美月はうなずいた。
「そう」
「……でも、俺は」
「わかってる」
美月は静かに言った。
「今まで、いろんな記録を見てきたよね」
「……」
「私が母親だったり、同じ日に生まれたことになっていたり」
蓮はうなずいた。
美月は続けた。
「でも、それは全部、役割の記録だった」
「……」
「本当の関係とは違う」
蓮は、名札を見つめた。
佐伯真。
佐伯美月。
そして、自分。
高瀬蓮。
「……じゃあ、俺の本当の名字は」
美月は答えた。
「佐伯」
蓮は息を止めた。
「……佐伯蓮?」
美月はうなずいた。
「そう」
蓮は、ゆっくりと名前を口にした。
「……佐伯蓮」
不思議だった。
初めて聞いたはずの名前なのに、どこか懐かしかった。
その瞬間。
頭の中に、一つの光景が浮かんだ。
小さな家。
夕方の台所。
窓から差し込む光。
そして、少女の声。
『蓮、ご飯できたよ』
蓮は振り返った。
そこには、美月がいた。
今より少し幼い。
笑っている。
『早く来ないと冷めちゃうよ』
蓮は、その声を知っていた。
確かに、知っていた。
「……美月」
蓮はつぶやいた。
美月は、静かにうなずいた。
「思い出した?」
蓮は、ゆっくりと首を振った。
「……少しだけ」
美月は微笑んだ。
「それでいい」
だが、そのとき。
038が、静かに口を開いた。
「ねえ、美月」
美月が顔を上げる。
「……何?」
038は、名札を指さした。
「じゃあ、佐伯真は誰なの?」
美月は黙った。
038は続けた。
「君の兄じゃない」
「……」
「蓮の兄でもない」
「……」
「でも、君たちと同じ名字」
美月は、何も答えなかった。
038は、ゆっくりと笑った。
「おかしいよね」
蓮は038を見た。
「……何が言いたい?」
038は答えた。
「佐伯真は、君たちの家族じゃない」
「……」
「でも、君たちの記憶には、ずっといた」
蓮は息を止めた。
038は続けた。
「それって、どういうことだと思う?」
蓮は答えられなかった。
038は、静かに言った。
「佐伯真は、君たちの家族になろうとしたんだよ。」
9 家族になりたかった少年
その瞬間。
教室のスピーカーから、声がした。
『……もう、やめて』
真だった。
蓮は天井を見上げた。
「……真?」
『お願いだから、それ以上調べないで』
038が笑った。
「どうして?」
『……』
「本当のことを知られたくないの?」
真は答えなかった。
038は続けた。
「佐伯真」
その名前を呼ばれた瞬間。
スピーカーから、大きな雑音が流れた。
ザザザッ。
そして、真の声。
『その名前で呼ばないで』
蓮は息を止めた。
038は、静かに言った。
「どうして?」
『……』
「本当の名前なのに」
真は、震える声で答えた。
『僕は、もうその名前じゃない』
038は首をかしげた。
「じゃあ、何?」
短い沈黙。
そして。
『高瀬真』
真は言った。
『僕は、高瀬真なんだ』
蓮は、スピーカーを見つめた。
「……真」
『……蓮』
「お前、何がしたかったんだ?」
真は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
『家族が欲しかった』
蓮は息を止めた。
『僕には、誰もいなかった』
「……」
『だから、美月と蓮の家族になりたかった』
蓮は、美月を見た。
美月は、目を伏せていた。
真は続けた。
『でも、僕には名前がなかった』
「……」
『佐伯真っていう名前は、僕が勝手に名乗ってただけだった』
蓮は、名札を見つめた。
佐伯真。
それも、本当の名前ではなかった。
真は続けた。
『だから、先生にお願いしたんだ』
「……先生?」
『うん』
『僕にも、出席簿に名前を書いてほしいって』
蓮は息を止めた。
『でも、先生は断った』
「……どうして?」
真は答えた。
『僕が、あの教室の生徒じゃなかったから』
蓮は、何も言えなかった。
真は続けた。
『僕は、ただ教室の外から見ていただけだった』
「……」
『みんなが名前を呼ばれて、返事をしてるのを』
その声は、今までで一番静かだった。
『羨ましかったんだ』
蓮は、目を閉じた。
真は続けた。
『だから、僕は考えた』
「……何を?」
『どうすれば、僕も出席できるのか』
短い沈黙。
そして。
『誰かが欠席すれば、僕がその席に座れるんじゃないかって。』
蓮は目を見開いた。
「……まさか」
真は答えなかった。
038の笑顔が消えた。
美月も、凛も、動けなくなっていた。
真は、静かに続けた。
『あの日、僕は一人の名前を消した』
「……誰の?」
真は、長い沈黙のあと、答えた。
『高瀬蓮』
蓮は息を止めた。
『でも、それは今の蓮じゃない』
「……」
『最初の先生の名前だった』
蓮は、教卓を見た。
記録番号000。
最初の教師。
高瀬蓮。
真は続けた。
『先生の名前を消せば、僕が先生になれると思った』
「……」
『そうすれば、僕が出席を取れる』
蓮は、ゆっくりと理解し始めた。
真は、生徒になりたかった。
だが、生徒として認められなかった。
だから、教師の名前を消した。
教師になれば、自分で出席簿を管理できる。
自分の名前も、書ける。
だが。
「……それで、事故が起きたのか」
真は答えなかった。
代わりに、スピーカーから小さな声が聞こえた。
『……ごめん』
蓮は、何も言えなかった。
10 最初の欠席者
教室の時計が、午前零時三十五分を指した。
田島は、ゆっくりと出席簿を開いた。
「……これで、ようやく説明がつきます」
蓮は顔を上げた。
「……何がですか?」
田島は答えた。
「最初の事故が、なぜ起きたのか」
「……」
「そして、なぜ出席確認が繰り返されてきたのか」
蓮は、出席簿を見つめた。
田島は続けた。
「真は、最初の教師の名前を消した」
「……」
「その結果、教師の存在が確認できなくなった」
「……」
「学校は、教師の記録を修復しようとした」
蓮はうなずいた。
田島は言った。
「ですが、真は教師として登録されていた」
「……」
「同じ役割を持つ二人が、同時に存在できなくなった」
蓮は息を止めた。
「……だから、何度も高瀬蓮を作った?」
田島はうなずいた。
「そうです」
「……」
「教師として戻そうとすると、真と衝突する」
「……」
「生徒として戻そうとすると、元の記録と一致しない」
蓮は、出席簿を見つめた。
三十七人の高瀬蓮。
三十八番目の高瀬蓮。
そして、自分。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
田島は答えなかった。
そのとき。
038が、静かに口を開いた。
「簡単だよ」
蓮は038を見た。
「……何が?」
038は、出席簿を指さした。
「最初の教師を、出席させればいい」
蓮は眉をひそめた。
「……でも、教師は」
「名前を消されただけ」
038は言った。
「存在そのものが消えたわけじゃない」
田島の表情が変わった。
「……038」
038は続けた。
「だったら、名前を戻せばいい」
蓮は息を止めた。
「……どうやって?」
038は、ゆっくりと笑った。
「最初の出席簿を使うんだよ」
その瞬間。
教室の黒板に、文字が浮かび上がった。
『原本出席簿 再登録手続』
『登録対象:記録番号000』
『必要条件:現担任教師の承認』
蓮は、スピーカーを見た。
「……真の承認?」
038はうなずいた。
「そう」
「……じゃあ、真が承認すれば」
「最初の教師が戻る」
蓮は息を止めた。
美月が言った。
「でも、それだけじゃない」
蓮は振り返った。
「……何?」
美月は黒板の下を指さした。
そこには、小さな文字が浮かんでいた。
『注意:旧担任教師の復帰に伴い、現担任教師の登録は解除されます。』
蓮は、動けなくなった。
「……解除?」
田島が答えた。
「真は、教師ではなくなります」
「……」
「そして、生徒としての登録もありません」
蓮は息を止めた。
「……じゃあ、真は」
田島は、静かに答えた。
「再び、出席できない存在になります」
スピーカーから、真の声が聞こえた。
『……そうだよ』
蓮は顔を上げた。
『だから、僕はずっと怖かった』
「……真」
『先生が戻ってきたら、僕の居場所がなくなる』
蓮は何も言えなかった。
真は続けた。
『でも、もういいんだ』
「……え?」
『僕、疲れちゃった』
その声は、かすかに震えていた。
『何度も出席を取って、何度も記録を書き換えて』
「……」
『それでも、誰も僕を本当の生徒だって認めてくれなかった』
蓮は、スピーカーを見つめた。
真は続けた。
『だから、蓮』
「……何だよ」
『先生を、戻してあげて』
蓮は息を止めた。
『僕が、承認するから』
その瞬間。
黒板に、新しい文字が浮かび上がった。
『現担任教師:高瀬真』
『旧担任教師復帰申請:承認』
『処理を開始します』
蓮は、思わず叫んだ。
「待てよ、真!」
スピーカーから返事はない。
「お前は、どうなるんだよ!」
短い沈黙。
そして、真の声。
『……わからない』
蓮は、唇をかんだ。
『でも、蓮』
「……」
『一つだけ、お願いしていい?』
蓮は答えた。
「……何だよ」
真は、静かに言った。
『僕の名前を、忘れないで。』
その瞬間。
教室の照明が、すべて消えた。
暗闇の中で、出席簿が開く音がした。
一枚。
二枚。
三枚。
そして、最後のページ。
そこに、新しい名前が浮かび上がった。
『担任教師:高瀬蓮』
『登録完了』
蓮は、息を止めた。
「……戻った?」
田島は、静かにうなずいた。
「……そのようです」
だが。
次の瞬間。
出席簿に、もう一つの文字が浮かび上がった。
『欠席者:高瀬真』
蓮は、動けなくなった。
真は、また欠席者になった。
最初と同じ。
何も変わっていない。
そう思った、そのとき。
出席簿の下に、小さな文字が現れた。
『欠席理由:本人の意思による退学』
蓮は息を止めた。
「……退学?」
田島が、ゆっくりと顔を上げた。
「……これは」
美月も、凛も、出席簿を見つめていた。
そして、038だけが、静かに笑っていた。
「……やっと、終わったね」
蓮は038を見た。
「……何が?」
038は答えた。
「最初の出席確認」
蓮は眉をひそめた。
「……最初?」
038はうなずいた。
「そう」
そして、静かに言った。
「今までの二十二話分は、全部、最初の出席確認だったんだよ。」
蓮は、何も言えなかった。
その瞬間。
教室の黒板に、大きな文字が浮かび上がった。
『第一回出席確認 終了』
『第二回出席確認 準備中』
そして、最後の一文。
『次回より、欠席者の選定を開始します。』
蓮は、ゆっくりと出席簿を閉じた。
その表紙には、今までなかった文字が刻まれていた。
『午前零時の出席簿』
その下に、小さな文字。
『第一部 完』
だが、蓮は気づいていなかった。
出席簿の裏表紙。
そこに、一つだけ名前が残されていたことに。
『次回欠席予定者:佐伯美月』
第二十二話「二人目の高瀬蓮」――終
第二十三話「第二回出席確認」へ続く。




