第十八話 「兄による出席拒否」
「欠席理由:兄による出席拒否。」
その文字を見た瞬間、高瀬蓮は紙を握りつぶしそうになった。
教室では、まだ出席確認が続いている。
「三十九番、高瀬凛」
「はい」
転入生の凛が返事をした。
担任は出席簿に丸をつける。
「よし。全員いるな」
その言葉に、蓮は思わず顔を上げた。
全員。
今、先生はそう言った。
三十八番の高瀬真は、返事をしていない。
なのに、全員いる。
蓮は教室を見回した。
誰も気にしていない。
クラスメートたちは教科書を開き、隣の席の友人と小声で話し、いつもの朝を過ごしている。
真の名前が読み上げられたことさえ、覚えていないようだった。
蓮は隣を見た。
凛は何事もなかったかのように、教科書を開いている。
「おい」
蓮は小声で言った。
「さっきの紙、どういう意味だ」
凛は教科書から目を離さなかった。
「見たままだよ」
「俺が真を欠席させたって?」
「そう記録されている」
「俺は何もしていない」
「うん」
凛は、ようやく蓮を見た。
「でも、君が真を出席させなかったのは事実だよ」
蓮は言葉に詰まった。
昨日、地下で何が起きたのか。
記憶はある。
真の声も、凛の姿も、あの女性の質問も。
しかし、最後の瞬間だけが曖昧だった。
自分は何を答えたのか。
何を選んだのか。
そして、どうして教室に戻ってきたのか。
凛は、蓮の手元にある紙を指さした。
「それ、捨てないで」
「どうして」
「真の欠席届だから」
「だから?」
「本人が書いたものだよ」
蓮は紙を広げた。
赤い文字の下に、小さな筆跡がある。
今まで気づかなかった。
そこには、こう書かれていた。
僕は欠席を希望していません。
蓮は顔を上げた。
「……真は、欠席したくないのか」
「そうだよ」
凛はうなずいた。
「でも、学校は真を欠席にした」
「なぜ?」
凛は教室の前を見た。
担任が黒板に日付を書いている。
十月十八日。
その下に、今日の授業内容が書かれていく。
凛は小さく言った。
「真が出席すると、僕が欠席になるから」
蓮は、紙を握りしめた。
昨日、地下で会った凛は、真を出席させるために自分が来たと言った。
だが、今の凛は、真が出席すると自分が欠席になると言っている。
どちらが本当なのか。
いや。
どちらも、本当なのかもしれない。
*
昼休み。
蓮は凛を連れて、校舎の裏へ向かった。
人の少ない場所だった。
古い渡り廊下の先に、使われていない倉庫がある。
蓮は扉を閉めた。
「ここなら、誰にも聞かれない」
凛は壁にもたれた。
「何を聞きたいの?」
「全部だ」
蓮は言った。
「まず、昨日のこと。俺は地下でお前に会った。お前は俺の双子の兄だと言った」
「そうだよ」
「それなのに、今朝は転入生として現れた。クラスの人間は、お前が最初からいたみたいに扱っている」
「学校が記録を変えたからね」
「真のこともそうなのか」
「うん」
凛はうなずいた。
「真は、ずっとこの学校にいた。でも、出席簿に名前がなかった。だから、誰も真を覚えていない」
「俺は覚えている」
「そう。君だけがね」
蓮は、凛の顔を見た。
「なぜ俺だけなんだ」
凛は少し考えた。
「君が、最初に真の名前を読んだから」
「出席簿で?」
「そう」
蓮は記憶をたどった。
あのとき。
出席簿の三十八番に、見知らぬ名前があった。
高瀬真。
その名前を見て、蓮は声に出した。
誰も反応しなかった。
しかし、その瞬間から、真は蓮の前に現れるようになった。
「名前を呼ぶと、存在が認められるのか」
「少し違う」
凛は首を横に振った。
「名前を呼ぶことは、記録に触れることなんだ。学校は、誰かが記録に触れると、その人の記憶を使って現実を作り直す」
「じゃあ、俺が真を覚えているのは……」
「君が真の記録に触れたから」
凛は倉庫の窓を見た。
「そして、真も君の記録に触れた」
「どういうことだ」
「真は、君を保護者として登録した」
蓮は、昨日の台帳を思い出した。
高瀬真。
保護者、高瀬凛。
そして、自分の名前が保護者欄に記された出生届。
何かが食い違っている。
「真は、俺を保護者にしたかったんじゃないのか」
「そうだよ」
「でも、どうしてお前が保護者なんだ」
凛は答えなかった。
蓮は、さらに尋ねた。
「お前は、真を出席させたいんだろう?」
「うん」
「それなのに、真が出席したら、お前が欠席になる?」
「そう」
「じゃあ、お前はどうしたいんだ」
凛は、静かに笑った。
「僕は、真を出席させたい」
「自分が欠席になっても?」
「……そうだよ」
蓮は、凛の顔を見た。
昨日の地下で、凛は真を出席させるために蓮を呼んだと言った。
その言葉は、嘘ではなかった。
しかし、凛は何かを隠している。
真を出席させることと、凛が欠席すること。
その二つの間に、まだ知らない条件がある。
「じゃあ、俺は何をすればいい」
蓮は尋ねた。
凛は、ポケットから一枚の紙を取り出した。
古い紙だった。
中央に、黒い文字で書かれている。
兄弟出席確認書。
その下には、二つの欄があった。
兄。
弟。
そして、どちらの欄にも、同じ名前が書かれていた。
高瀬蓮。
凛は紙を蓮に渡した。
「これを、君に書いてほしい」
「何を?」
「兄と弟の名前」
蓮は紙を見た。
「お前は、俺の兄なんだろう」
「記録では、そうなっている」
「じゃあ、俺は弟だ」
「それも、記録ではね」
蓮は顔を上げた。
「記録では?」
凛は、少しだけ笑った。
「僕たちが本当に兄弟なのか、学校はまだ確定していないんだよ」
蓮は紙を見つめた。
兄。
弟。
同じ名前。
それは、単なる書き間違いではない。
誰かが、意図的に二つの欄を同じ名前にしたのだ。
「これを書けば、真が出席できるのか」
「うん」
「それで、お前が欠席になる?」
「……そうなるかもしれない」
蓮は紙を折りたたんだ。
「じゃあ、書かない」
凛は驚いたように顔を上げた。
「どうして?」
「お前も真も、俺に選ばせようとしている」
蓮は言った。
「俺が兄か弟か。誰が出席して、誰が欠席するか。そんなことを、俺一人で決められるわけがない」
凛は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……そうだね」
蓮は紙を返した。
「真に会わせてくれ」
凛は顔を上げた。
「真に?」
「そうだ。俺が直接、真に聞く」
凛は、少しだけ目を細めた。
「君は、真を信じるの?」
「まだわからない」
蓮は答えた。
「でも、真が何を望んでいるのかは、真自身に聞く」
凛は、紙を受け取った。
そして、初めて、少しだけ安心したように笑った。
「わかった」
*
放課後。
蓮は、教室に残っていた。
凛は、先に帰った。
担任が出席簿を職員室へ運ぶため、教卓の上に置いていった。
蓮は、教室の扉を閉めた。
そして、出席簿を開いた。
第三十八番。
高瀬真。
欠席。
その横には、赤い文字で、こう記されている。
兄による出席拒否。
蓮は、ページをめくった。
最後のページに、白紙の欄がある。
兄弟出席確認。
蓮は、鉛筆を手に取った。
兄。
弟。
自分の名前を書こうとした。
その瞬間、教室のスピーカーが鳴った。
ザーッ。
ノイズの後に、声が聞こえる。
『蓮』
真だった。
蓮は鉛筆を置いた。
「真か?」
返事はなかった。
ただ、スピーカーの向こうで、紙をめくる音がした。
そして、真が言った。
『僕は、出席したい』
蓮は、出席簿を見た。
「どうしてだ」
真は、少しだけ間を置いた。
『僕が欠席していると、君が僕を覚えていられなくなるから』
蓮は息を止めた。
「……それだけか?」
『違う』
真の声が、少し震えた。
『僕が出席しないと、凛が僕の代わりに欠席になる』
蓮は、教室の窓を見た。
校庭には、誰もいない。
しかし、白線の中央に、一つだけ机が置かれていた。
その上に、出席簿がある。
真は、続けた。
『凛は、ずっと僕を出席させようとしていた』
「でも、凛はお前が出席すると、自分が欠席になると言っていた」
『そうだよ』
真は答えた。
『だから、僕は出席できない』
蓮は、眉をひそめた。
「どういうことだ」
真は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと言った。
『凛は、僕の兄なんだ』
蓮は目を見開いた。
その言葉は、昨日、地下で聞いたものと違っていた。
凛は、自分が蓮の双子の兄だと言った。
真は、凛が自分の兄だと言った。
では、蓮は。
蓮は、誰の弟なのか。
真は、続けた。
『でも、僕は凛の弟じゃない』
蓮は、出席簿を握りしめた。
「……何を言っているんだ」
『僕は、凛が生まれる前に、欠席したんだ』
その瞬間、教室の時計が止まった。
午後四時四十七分。
蓮は、窓の外を見た。
校庭の机の上に、もう一人の少年が立っていた。
真だった。
真は、こちらを見ていた。
そして、口を動かした。
――僕は、最初の欠席者だ。
蓮は、教室を飛び出した。
*
校庭に出ると、机は消えていた。
真の姿もない。
ただ、グラウンドの白線の中央に、一枚の紙が落ちていた。
蓮は拾い上げた。
白い紙。
赤い文字。
出生届。
その下には、三つの名前が書かれていた。
高瀬蓮。
高瀬凛。
高瀬真。
そして、その隣に。
第一子。第二子。第三子。
蓮は、紙を見つめた。
三人。
双子ではない。
同じ日に生まれた三人。
しかし、三人の出生記録は、同じ日付で、同じ場所に記されている。
そのとき、背後から声がした。
「それ、見ちゃったんだ」
蓮は振り返った。
美月だった。
彼女は、校舎の入口に立っていた。
手には、古い母子手帳がある。
「……美月?」
彼女は、ゆっくりと近づいてきた。
「お母さんが、これを渡してくれたの」
蓮は母子手帳を見た。
表紙は、古びている。
中には、出生記録が記されていた。
佐伯美月。
平成二十年十一月六日。
出生地、東京都都市部。
そして、その下に。
もう一つの名前。
高瀬蓮。
蓮は、息を止めた。
美月は、静かに言った。
「蓮。私、ずっと知らなかった」
彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「私が生まれた日に、あなたも生まれていたんだね」
蓮は、母子手帳を見つめた。
そこには、三人目の名前も記されていた。
高瀬真。
しかし、その名前の横には、別の記載がある。
出生確認前に転出。
蓮は、ゆっくりと顔を上げた。
美月は、彼を見つめていた。
「ねえ、蓮」
彼女は言った。
「私たち、本当に同じ日に生まれたの?」
蓮は答えられなかった。
校舎のスピーカーが、再び音を発した。
ザーッ。
そして、聞き覚えのある声。
『第十一日目、最終出席確認を開始します』
蓮は、母子手帳を握りしめた。
画面に、新しい通知が表示された。
対象者:高瀬真。
確認事項:出生順。
その下に、もう一行。
第一子、高瀬真。
蓮は、息を止めた。
美月が、震える声で言った。
「……じゃあ、蓮は?」
その瞬間、校舎の窓が一斉に開いた。
風が吹き抜ける。
教室の中から、無数の紙が舞い上がった。
その中の一枚が、蓮の足元に落ちた。
紙には、赤い文字で、こう記されていた。
第二子、高瀬蓮。
そして、その下に。
第三子、高瀬凛。
蓮は、ゆっくりと顔を上げた。
校舎の二階。
窓の向こうに、凛が立っていた。
凛は、こちらを見ていた。
そして、口を動かした。
――ごめん。
その瞬間、蓮のスマートフォンが震えた。
通知が一件。
出生記録、再照合完了。
そして、画面の最後に。
欠席者:高瀬真。
蓮は、紙を握りしめた。
真は、第一子だった。
自分は、第二子。
凛は、第三子。
しかし、真は欠席している。
それなら。
蓮は、ふと気づいた。
第一子が欠席しているのに、第二子と第三子が出席している。
そんなことが、あるのだろうか。
いや。
そもそも。
第一子が欠席した場合、第二子は本当に第二子なのだろうか。
蓮は、校舎を見上げた。
凛は、もういなかった。
そして、誰もいない校庭の中央から。
真の声が聞こえた。
『蓮』
蓮は、顔を上げた。
『僕を出席させて』
声は、少しだけ震えていた。
『お願いだから、僕を忘れないで』
――第18話・了。




