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午前零時の出席簿  作者: セキマツ


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17/23

第十七話 「双子の欠席届」

 午前零時。

 その時刻を境に、学校は別の場所になった。

 廊下の照明は点灯している。窓の外には校庭がある。壁には掲示物が貼られ、教室の扉にはクラス名が表示されている。

 何も変わっていない。

 それなのに、高瀬蓮は、自分がもう知っている学校には戻れないのだと感じていた。

『今度は、あなたが欠席する番です』

 スピーカーから聞こえた高瀬真の声は、もう途切れていた。

 資料室には、蓮と佐伯美月、そして美月の母親が残されている。

 机の上には古い台帳。

 その最後のページには、三つの名前が並んでいた。

 高瀬蓮。

 高瀬真。

 高瀬凛。

 蓮の名前の隣には、保護者という文字がある。

 真と凛の名前の隣には、出生児という文字がある。

 そして、ページの一番下には、こう書かれていた。

 保護者本人の出生記録は未確認。

「……欠席する番って、どういう意味ですか」

 蓮は、母親と呼ばれた女性に尋ねた。

「俺が欠席したら、どうなるんですか」

 女性は、すぐには答えなかった。

 代わりに、台帳を閉じようとした。

 蓮はその手を止めた。

「待ってください。もう、何も知らないまま進むのは嫌なんです」

 女性の手が止まる。

「俺は、自分が何者なのかもわからない。真が誰なのかも、凛が誰なのかもわからない。美月がどうして俺の母親として登録されているのかも、あなたが俺と同じ顔をしている理由も」

 言葉を重ねるたび、胸の奥にたまっていたものがあふれてくる。

「なのに、学校は勝手に俺の記録を書き換えていく。俺が何かを選ぶ前に、全部決めてしまう。そんなの、おかしいでしょう」

 女性は蓮を見つめた。

 そして、静かに言った。

「そうね。おかしいわ」

 予想外の返事だった。

「あなたの言うとおりよ」

 女性は台帳から手を離した。

「だからこそ、あなたには知る権利がある」

 美月が顔を上げた。

「お母さん。私にも、教えて」

 女性は娘を見た。

「私のことも、蓮のことも。高瀬凛っていう子のことも」

 美月の声は震えていたが、目はそらさなかった。

「私は、もう知らないふりをしたくない」

 女性は長い間、二人を見つめていた。

 やがて、引き出しから一枚の古い写真を取り出した。

「これは、あなたたちが生まれた日に撮影された写真よ」

 蓮は写真を受け取った。

 白黒に近い、色あせた写真だった。

 古い病院の一室。

 ベッドの上に横たわる若い女性。

 その腕の中に、小さな赤ん坊が二人いる。

 写真の裏には、日付が記されていた。

 平成二十年十一月六日。

 蓮は、写真を見つめた。

「二人……?」

「ええ」

 女性は答えた。

「その日に生まれた子供は、二人いたの」

 美月が写真をのぞき込んだ。

「この人が……私のお母さん?」

「そうよ」

 写真の女性は、今よりずっと若い美月の母親だった。

 そして、彼女の腕の中には、確かに二人の赤ん坊がいた。

 片方の赤ん坊には、小さな白い布が巻かれている。

 もう片方には、何も巻かれていない。

 写真の右下には、鉛筆で名前が書かれていた。

 第一子 佐伯美月。

 その隣には、名前の記載がなかった。

 ただ、黒く塗りつぶされた跡が残っている。

「もう一人は……」

 蓮は言いかけた。

 女性はうなずいた。

「高瀬凛」

 蓮の手から、写真が滑り落ちそうになった。

「でも、さっきの台帳には、凛の保護者が俺だと……」

「その記録が正しいとは限らないわ」

 女性は写真を拾い上げた。

「むしろ、あの記録は、あなたを混乱させるために作られた可能性がある」

「誰が、そんなことを?」

 女性は答えなかった。

 ただ、写真の裏面を蓮に見せた。

 そこには、表側にはなかった文字が記されていた。

 第二子、出生確認後に転出。

 そして、その下に、別の筆跡で小さく書き足されていた。

 転出先、記録なし。

     *

 蓮は、何度も写真と台帳を見比べた。

 写真には二人の赤ん坊がいる。

 台帳には、高瀬真と高瀬凛の名前がある。

 しかし、写真に写っている子供が、本当にその二人なのかはわからない。

「高瀬真って、どこから出てきたんですか」

 蓮は尋ねた。

「写真には、真の名前がありません」

「ええ」

「それなのに、台帳には真の名前がある。しかも、俺が保護者になっている」

 蓮は、ある可能性に気づいた。

「もしかして、真と凛は同じ人物なんですか?」

 美月が息をのんだ。

 女性は、わずかに目を細めた。

「どうして、そう思ったの?」

「二人とも、俺に関係する記録に現れるからです。凛は出生児。真も出生児。なのに、凛の記録は途中で消えている」

 蓮は台帳を指さした。

「真は、最初から出席簿に名前がなかった。凛も、名前が消されている。もし同じ人物なら、記録が変わるたびに名前だけが入れ替わっている可能性がある」

 女性は黙っていた。

「違いますか?」

 長い沈黙の後、女性は答えた。

「その可能性はあるわ」

 蓮は目を見開いた。

「でも、確かめる方法はないのですか」

「あるにはある」

「何ですか?」

 女性は、写真を裏返した。

「双子の欠席届」

 その言葉を聞いた瞬間、資料室の壁が小さく震えた。

 遠くから、紙をめくる音が聞こえる。

 一枚。

 また一枚。

 まるで、誰かが巨大な出席簿をめくっているようだった。

 女性は立ち上がった。

「この学校には、通常の出席簿とは別に、欠席届を保管する場所があるの」

「保健室ですか?」

「違うわ。もっと古い場所よ」

「どこですか」

 女性は、資料室の床を見た。

「この建物の地下」

 蓮は足元を見下ろした。

 床には、木目のついた古い板が敷かれている。

 しかし、その中央に、一か所だけ不自然な四角い跡があった。

 まるで、そこに扉があるかのように。

「地下なんて、学校案内にもありませんでした」

「当然よ。あそこは、生徒が入る場所ではないから」

 女性は机の下から、古い鍵を取り出した。

「でも、あなたは行かなければならない」

「どうして俺なんですか」

「あなたの名前が、保護者の欄にあるからよ」

 蓮は鍵を受け取った。

 冷たかった。

「それが、地下の扉を開ける鍵なんですか」

「そう。ただし、ひとつだけ約束して」

 女性の声が強くなった。

「地下で自分の名前を呼ばれても、絶対に返事をしてはいけない」

「……名前を呼ばれる?」

「ええ」

 女性は、蓮の目を見た。

「そこには、あなたが生まれる前から、あなたを知っている人がいる」

     *

 地下への入口は、資料室の床下にあった。

 蓮が板の四隅を押すと、中央部分がわずかに浮き上がった。

 鍵を差し込み、回す。

 カチリ。

 板が開いた。

 その下には、下へ続く階段があった。

 暗闇の奥から、冷たい空気が流れてくる。

「私も行く」

 美月が言った。

 母親は首を横に振った。

「あなたはここに残りなさい」

「どうして?」

「地下に入ると、あなたの記録が確定するかもしれない」

「でも、私は……」

「美月」

 女性は娘の肩を抱いた。

「あなたは、まだ選べるの」

 美月は唇をかんだ。

 蓮は二人を見た。

「俺が行けば、何かわかるんですね」

「ええ」

 女性は答えた。

「ただし、ひとつだけ覚えておいて」

 彼女は蓮の手を握った。

「地下にある記録は、すべてが過去のものとは限らない」

 蓮は階段を見た。

 暗闇の中に、何かが置かれている。

 白い紙。

 その紙には、赤い文字が書かれていた。

 欠席届。

 蓮は階段を下り始めた。

 一段。

 二段。

 三段。

 背後で、美月の声が聞こえた。

「蓮!」

 振り返る。

 美月は、泣きそうな顔でこちらを見ていた。

「絶対に戻ってきて」

 蓮はうなずいた。

「約束する」

 そして、階段を下りきった。

 そこは、細長い地下通路だった。

 壁には古い蛍光灯が並び、床には薄く埃が積もっている。

 通路の両側には、無数の扉があった。

 それぞれの扉には、名前が書かれている。

 佐藤。

 田中。

 山本。

 知らない名前ばかりだった。

 しかし、どの扉にも共通していることがあった。

 名前の下に、小さく日付が書かれている。

 そして、その日付の横には、必ず同じ文字があった。

 欠席。

 蓮は一番近くの扉に手を伸ばした。

 鍵穴の横に、細いプレートが取り付けられている。

 そこには、こう書かれていた。

 昭和六十三年度 欠席者保管室。

 昭和六十三年。

 一九八八年から一九八九年。

 蓮が生まれる約二十年前だ。

 そのとき、通路の奥から声がした。

「……蓮」

 少年の声だった。

 聞き覚えがある。

 真の声ではない。

 もっと幼い声。

 蓮は立ち止まった。

「蓮、こっちだよ」

 声は、通路の一番奥から聞こえてくる。

 蓮は歩き出した。

 しかし、女性の言葉を思い出した。

 地下で自分の名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。

 蓮は唇を結び、声のする方向へ進んだ。

 通路の突き当たりには、一枚の扉があった。

 扉には、何も書かれていない。

 ただ、中央に小さな窓がある。

 蓮は窓をのぞき込んだ。

 部屋の中には、机が一つ。

 椅子が二つ。

 そして、机の上に置かれた出席簿。

 椅子の片方には、少年が座っていた。

 黒い制服。

 短い髪。

 蓮によく似た顔。

 少年は、蓮を見て笑った。

 そして、口を動かした。

 ――やっと来たね。

 蓮は、扉の取っ手に手をかけた。

 鍵はかかっていない。

 扉を開くと、少年が立ち上がった。

「久しぶり」

 少年は言った。

 蓮は答えなかった。

「覚えていないんだね」

 少年は、少しだけ寂しそうに笑った。

「まあ、無理もないか。あのときの君は、まだ小さかったから」

 蓮は少年を見つめた。

「……お前は誰だ」

 少年は目を丸くした。

「え?」

「名前を言え」

 少年は、ゆっくりとうつむいた。

 そして、机の上にあった出席簿を開いた。

「僕の名前は、ここに書いてあるよ」

 蓮は出席簿を見た。

 最初のページには、古い日付が記されている。

 昭和六十三年十一月六日。

 その日の出席者名簿には、たった一人の名前があった。

 高瀬蓮。

 蓮は息を止めた。

「……俺?」

「そう」

 少年はうなずいた。

「君は、もう一度生まれる前から、ここにいたんだよ」

 蓮は首を横に振った。

「そんなはずがない。俺は平成二十年に生まれた」

「それは、君が覚えている記録だろ?」

 少年は、出席簿のページをめくった。

「でも、こっちの記録では違う」

 次のページには、同じ日付が書かれていた。

 昭和六十三年十一月六日。

 出席者。

 高瀬蓮。

 欠席者。

 高瀬凛。

 蓮は少年を見た。

「凛……?」

 少年は、ゆっくりとうなずいた。

「そう。僕が、凛だよ」

 蓮の頭の中で、何かが崩れた。

「でも、凛は……」

「君の妹だと思っていた?」

 少年は首を横に振った。

「違うよ」

 そして、静かに告げた。

「僕は、君の双子の兄だ」

     *

 蓮は、しばらく言葉を失っていた。

 少年――凛は、蓮と同じ顔をしていた。

 いや、正確には、同じ顔ではない。

 目元も、鼻筋も、輪郭も似ている。

 しかし、凛の顔には、蓮にはないものがあった。

 左の眉の上に、小さな傷がある。

 蓮は、無意識に自分の眉に触れた。

 傷はない。

「……双子なら、同じ日に生まれたはずだ」

「そうだよ」

「でも、俺は平成二十年生まれだ」

「君がそう信じているからね」

 凛は椅子に座った。

「この学校では、出生記録が変わることがある。名前が変わることもある。生まれた日が変わることだってある」

「じゃあ、俺の誕生日も……」

「本当かどうか、確かめてみればいい」

 凛は出席簿を蓮に差し出した。

 蓮は受け取らなかった。

「信じられるわけがない」

「そうだろうね」

 凛はうなずいた。

「僕だって、最初は信じられなかった」

「最初?」

「僕も、最初からここにいたわけじゃない」

 凛は、出席簿のページを指でなぞった。

「僕は、君と同じように生まれた。でも、僕だけが欠席になった」

「どうして?」

「わからない。ただ、気づいたときには、君の名前だけが残っていた」

 蓮は、机の上の出席簿を見た。

 昭和六十三年。

 平成二十年。

 二つの年代に、同じ名前が記されている。

 まるで、二人の人生が、時間を越えて重なっているようだった。

「お前は、俺に何をさせたいんだ」

 蓮は尋ねた。

「真を出席させることか?」

 凛は首を横に振った。

「真?」

「高瀬真。お前のことを知っていると言っていた」

 凛の表情が変わった。

「……ああ」

 その反応を見て、蓮は確信した。

 凛は、真を知っている。

「真は何者なんだ」

「僕にも、全部はわからない」

「嘘だ」

「本当だよ」

 凛は、出席簿を閉じた。

「でも、一つだけわかることがある」

「何だ」

「真を出席させると、誰かが欠席になる」

 蓮は眉をひそめた。

「それは、もう聞いた」

「違う」

 凛は、まっすぐに蓮を見た。

「欠席になるのは、君じゃない」

 蓮は息を止めた。

「……どういう意味だ」

「真が出席するために必要なのは、保護者の承認だ。でも、その承認をする人間は、君じゃない」

「じゃあ、誰なんだ」

 凛は答えなかった。

 代わりに、出席簿の最後のページを開いた。

 そこには、今まで見たことのない名前が書かれていた。

 高瀬真。

 その隣には、保護者の欄。

 そこに記されていたのは、意外な名前だった。

 高瀬凛。

 蓮は顔を上げた。

「お前が、真の保護者なのか?」

「そう記録されている」

「でも、お前は俺の双子の兄だと言った」

「そうだよ」

「じゃあ、どうして真の保護者になっているんだ」

 凛は、少しだけ笑った。

「それを確かめるために、君に来てもらったんだ」

 蓮は後ずさった。

「……お前、俺を利用したのか」

「違う」

「じゃあ、何なんだ」

 凛は立ち上がった。

「君にしか、できないことがある」

「何を?」

 凛は、出席簿の一番最後のページをめくった。

 そこには、白紙の欄があった。

 氏名。

 生年月日。

 出生地。

 保護者。

 すべてが空欄だった。

 その下に、赤い文字で一文が記されていた。

 第十一日目、最終出席確認。

「この欄を埋めてほしい」

 凛は言った。

「誰の名前を?」

 蓮が尋ねると、凛は答えた。

「君自身の名前だよ」

     *

 そのとき、通路の奥から足音が聞こえた。

 一人ではない。

 複数の足音が、ゆっくりと近づいてくる。

 凛は顔を上げた。

「もう来たのか」

「誰が?」

「出席確認をする人たち」

 凛は蓮の腕をつかんだ。

「早く、ここから出て」

「でも、まだ……」

「いいから!」

 凛の声が響いた。

 初めて聞く、焦った声だった。

「君がここにいることが知られたら、もう戻れなくなる」

「お前はどうするんだ」

 凛は答えなかった。

 蓮は、凛の手を振りほどかなかった。

「一緒に来い」

「無理だよ」

「どうしてだ」

 凛は、寂しそうに笑った。

「僕は、欠席者だから」

 足音が近づく。

 通路の蛍光灯が、一つずつ消えていく。

 凛は蓮を扉の外へ押し出した。

「蓮」

 その声を聞いて、蓮は振り返った。

 凛は、扉の向こうで立っていた。

「君は、まだ自分が何者なのか知らない」

 凛は言った。

「でも、僕は知っている」

 扉が閉まり始める。

「君は、最初から出席者だったわけじゃない」

「……何?」

「君は、一度、欠席しているんだ」

 扉が閉じた。

 鍵がかかる音がした。

 蓮は、扉を叩いた。

「おい! どういう意味だ!」

 返事はなかった。

 通路の照明が、すべて消えた。

 暗闇の中で、蓮のスマートフォンが震えた。

 画面には、新しい通知が表示されていた。

『第十一日目・最終出席確認』

 その下に、氏名が表示されている。

 高瀬蓮。

 そして、出席状況。

 欠席。

 蓮は息をのんだ。

 続いて、画面にもう一行が表示された。

 理由:出生記録の不一致。

 その瞬間、通路の奥で、誰かが蓮の名前を呼んだ。

「高瀬蓮くん」

 女性の声だった。

「あなたの出席を確認します」

 蓮は振り返った。

 暗闇の中に、一人の女性が立っていた。

 白い服。

 長い髪。

 そして、蓮と同じ顔。

 資料室にいた美月の母親と、まったく同じ顔だった。

 女性は、手に持っていた書類を開いた。

「あなたは、平成二十年十一月六日に生まれましたか?」

 蓮は答えなかった。

「あなたの母親は、佐伯美月ですか?」

 答えない。

「あなたの保護者は、高瀬凛ですか?」

 蓮は、ゆっくりと後ずさった。

 女性は微笑んだ。

「返事をしてください」

 その声は、優しかった。

 あまりにも優しかった。

「あなたが自分の出生を認めれば、すべてが元に戻ります」

 蓮は女性を見つめた。

「……元に戻る?」

「ええ。あなたの家族も、友人も、学校も。すべて、あなたが知っている状態に戻るわ」

「真も?」

「もちろん」

「凛も?」

 女性の笑顔が、一瞬だけ止まった。

「……その名前は、どこで知ったの?」

 蓮は答えなかった。

 女性は書類を閉じた。

「そう。あなたは、もう会ってしまったのね」

 彼女の表情が変わった。

 優しさが消え、目の奥に冷たい光が宿る。

「なら、仕方がないわ」

 女性は書類を破った。

 紙片が、暗闇の中に舞い落ちる。

「あなたの出席は、取り消します」

 その瞬間、蓮の足元が消えた。

 床が抜けたわけではない。

 自分の足が、床をすり抜け始めたのだ。

 靴の先が透明になる。

 足首が消える。

 蓮は、必死に壁に手を伸ばした。

「待ってくれ!」

 女性は動かなかった。

「あなたは、まだ生まれていないことになったの」

 蓮の身体が、少しずつ暗闇に沈んでいく。

「そんなの、認めない!」

 蓮は叫んだ。

「俺はここにいる! 俺は生きている!」

 女性は静かに答えた。

「ええ。でも、ここにいることと、存在が認められていることは、別なのよ」

 蓮の手が、壁から滑り落ちた。

 そのとき。

 暗闇の奥から、少年の声が聞こえた。

『蓮!』

 真の声だった。

『返事をするな!』

 女性が振り返った。

『そいつの質問に、絶対に答えるな!』

 真の声が響く。

『お前が自分の出生を認めたら、凛が消える!』

 蓮は、女性を見つめた。

 自分の身体は、もう膝のあたりまで消えていた。

 女性は、静かに言った。

「最後にもう一度だけ聞きます」

 彼女は書類を開いた。

「あなたは、誰の子供ですか?」

 蓮は唇をかんだ。

 答えれば、自分の存在が確定する。

 しかし、真の言葉が正しければ、凛が消える。

 答えなければ、自分が消える。

 どちらを選んでも、誰かが欠席になる。

 蓮は、初めて理解した。

 この学校が求めているのは、正しい答えではない。

 誰かを選ぶことそのものなのだ。

 誰かを出席させるために、誰かを欠席にする。

 誰かの存在を認めるために、別の誰かの存在を否定する。

 そんな仕組みを、蓮は受け入れたくなかった。

 だから、彼は答えた。

「……俺は」

 女性が微笑む。

 真の声が叫ぶ。

『蓮、やめろ!』

 蓮は、最後まで言葉を続けた。

「俺は、誰かの記録で決まる人間じゃない」

 女性の笑顔が消えた。

「……何ですって?」

「俺が誰の子供なのか、俺がどこで生まれたのか。それを決めるのは、学校じゃない」

 蓮は、消えかけた手を握りしめた。

「俺は、自分で確かめる」

 その瞬間、地下通路の壁が大きく震えた。

 蛍光灯が一斉に点灯する。

 女性の手から、書類が落ちた。

 そして、蓮のスマートフォンに、新しい通知が表示された。

『最終出席確認:保留』

 続いて、別の通知。

『対象者:高瀬蓮』

『処理内容:出生記録の再照合』

 女性は、初めて恐怖の表情を浮かべた。

「どうして……」

 蓮の身体が、元に戻り始めた。

 足が現れ、膝が現れ、腰が現れる。

 やがて、蓮は再び床に立っていた。

 女性は後ずさった。

「そんなことが、できるはずがない……」

 蓮は女性を見つめた。

「あなたは、誰なんですか」

 女性は答えなかった。

 代わりに、暗闇の奥から、もう一人の声がした。

「その人は、君の母親じゃないよ」

 蓮は振り返った。

 通路の奥に、一人の少年が立っていた。

 黒い制服。

 短い髪。

 左の眉の上に、小さな傷。

 高瀬凛だった。

 凛は、蓮を見て言った。

「その人は、君が生まれる前に、君の母親になった人なんだ」

 蓮は、女性を見た。

 女性は、何も言わなかった。

 ただ、目を閉じた。

 そして、ゆっくりとうなずいた。

「……そうよ」

 彼女は言った。

「私は、あなたが生まれる前に、あなたの母親になった」

 蓮は、もう何も言えなかった。

 凛は、静かに続けた。

「そして、君が生まれた瞬間に、君は僕の弟になった」

 その言葉が、地下通路に響いた。

「でも、君は一度、欠席した」

 凛は、蓮の手を握った。

「だから、僕は君を出席させるために、ずっとここにいたんだ」

 蓮は、凛を見つめた。

「……何を言っているんだ」

 凛は、悲しそうに笑った。

「君が生まれる前に、君を出席させた人。それが、僕なんだよ」

     *

 翌朝。

 高瀬蓮は、自分の教室で目を覚ました。

 机に突っ伏していた。

 窓から朝日が差し込んでいる。

 教室には、クラスメートたちの声が響いていた。

「おい、蓮。大丈夫か?」

 隣の席の男子が、心配そうに顔をのぞき込んでいる。

「昨日、ずっと帰ってこなかったって聞いたぞ」

「……昨日?」

 蓮は顔を上げた。

 教室の時計は、午前八時二十分を指していた。

 日付は、十月十七日。

 スマートフォンを確認する。

 通知はない。

 出席管理システムも、通常の画面に戻っていた。

 蓮は、ゆっくりと周囲を見回した。

 何も変わっていない。

 机の配置も、黒板も、窓の外の景色も。

 ただ、一つだけ。

 教室の後ろに貼られた座席表に、見覚えのない名前があった。

 第三十八番。

 高瀬真。

 そして、その隣には。

 第三十九番。

 高瀬凛。

 蓮は立ち上がった。

 座席表に近づき、名前を確かめる。

 そのとき、教室の扉が開いた。

「おはようございます」

 担任の先生が入ってきた。

「今日は、転入生を紹介します」

 教室がざわついた。

 先生は廊下に向かって手招きした。

「入ってきてください」

 一人の少年が、教室に入ってきた。

 黒い制服。

 短い髪。

 左の眉の上に、小さな傷。

 高瀬凛だった。

 少年は教室を見渡し、蓮を見つけた。

 そして、笑った。

「初めまして」

 凛は、クラス全員に向かって頭を下げた。

「高瀬凛です」

 担任の先生が、黒板に名前を書いた。

 高瀬凛。

 その瞬間、蓮のスマートフォンが震えた。

 画面には、一件の通知が表示されていた。

『第十一日目・出席確認完了』

 蓮は、画面を見つめた。

 その下に、もう一行。

 欠席者:高瀬真。

 蓮は、顔を上げた。

 教室の中に、真の姿はなかった。

 そして、転入生の凛が、蓮の隣の席に座った。

「よろしく、蓮」

 凛は、小さな声で言った。

 蓮は、彼を見た。

「……真は?」

 凛の笑顔が、一瞬だけ消えた。

「誰のこと?」

 蓮は息を止めた。

 凛は、何事もなかったかのように教科書を取り出した。

「ねえ、蓮」

「……何だよ」

「今日、放課後に時間ある?」

 蓮は答えなかった。

 凛は、机の下から一枚の紙を取り出した。

 白い紙だった。

 そこには、赤い文字で、こう書かれていた。

 高瀬真の欠席届。

 そして、その下に。

 欠席理由:兄による出席拒否。

 蓮は、紙を握りしめた。

 凛は、笑顔のまま言った。

「僕たち、話さなきゃいけないことがあるんだ」

 チャイムが鳴った。

 先生が出席を取り始める。

「一番、佐藤」

「はい」

「二番、田中」

「はい」

 名前が読み上げられていく。

 そして。

「三十七番、高瀬蓮」

 蓮は顔を上げた。

「……はい」

 先生は、出席簿に丸をつけた。

「三十八番、高瀬真」

 沈黙。

 誰も返事をしない。

 先生は、少しだけ眉をひそめた。

「高瀬真。欠席ですね」

 その瞬間、凛が小さくつぶやいた。

「違うよ」

 蓮は、凛を見た。

「真は、欠席なんかしていない」

 凛は、窓の外を見つめた。

「まだ、出席していないだけだよ」

 そして、誰にも聞こえない声で、こう言った。

「……今度こそ、僕が出席させる」

 蓮は、その言葉の意味を理解できなかった。

 ただ一つ、わかったことがある。

 凛は、真を助けるためにここに来たのではない。

 真の存在を、自分のものにするために来たのだ。

 そして、そのためには。

 蓮の出席が、邪魔になる。

 ――第17話・了。

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