第十六話 「母親の出生地」
第16話 母親の出生地
「やっと、会えたね」
その言葉は、廊下の奥まで響かなかった。
響かなかったというより、音そのものが途中で消えてしまったようだった。
窓の外では、風に揺れる木々が見える。校庭には白線が引かれ、体育館の屋根には夕方の光が反射している。どこにでもある、ごく普通の学校の風景だった。
ただ一つ、異常な点を除けば。
目の前にいる女性は、高瀬蓮と同じ顔をしていた。
輪郭も、目の形も、鼻筋も。髪の分け方に至るまで、鏡を見ているのではないかと思うほど似ている。
違うのは年齢だけだった。
女性は三十代後半ほどに見えた。蓮よりもずっと大人びた表情をしている。しかし、その目には、蓮が何度も鏡の中で見てきたものと同じ、疲れたような光が宿っていた。
佐伯美月は、その女性の手を握っていた。
「お母さん……?」
美月の声が震えた。
女性は答えなかった。
ただ、美月の頬に手を伸ばし、確かめるように指先で触れた。
「大きくなったね」
「……うそ」
美月の目から涙がこぼれた。
「だって、お母さんは……」
言葉が続かなかった。
蓮は美月を見た。
彼女は、いつもの佐伯美月ではなかった。
同じ教室で過ごした時間がある。何気ない会話をしたことも、笑い合ったこともある。けれど、今の彼女は、蓮の知っているどんな表情とも違っていた。
ずっと探していたものを見つけた人間の顔だった。
それと同時に、見つけてはいけないものを見つけてしまった人間の顔でもあった。
「美月」
女性が静かに言った。
「あなた、どうしてここにいるの?」
「わからない。気づいたら、ここにいて……」
「そう」
女性は目を伏せた。
そして、蓮を見た。
その瞬間、蓮の背筋に冷たいものが走った。
女性は、蓮のことを知っている。
初対面の人間を見る目ではなかった。
懐かしさと、後悔と、それから、ひどく深い恐怖。
いくつもの感情が重なった目だった。
「あなたは?」
女性が尋ねた。
蓮は答えようとした。
しかし、口を開く前に、美月が言った。
「高瀬蓮」
女性の表情が止まった。
「……そう」
女性は、まるでその名前を何年も待ち続けていたかのように、ゆっくりとうなずいた。
「やっぱり、あなたが来たのね」
「俺を知っているんですか」
女性は答えなかった。
代わりに、美月の手を握り直した。
「ここから出ましょう」
「え?」
「早く。鐘が鳴る前に」
その言葉を聞いた瞬間、廊下の時計が目に入った。
午後四時四十七分。
秒針が動いていない。
時計の針は、四時四十七分を指したまま、止まっていた。
蓮は自分の腕時計を確認した。
四時四十七分。
スマートフォンも同じだった。
画面の右上に表示された時刻は、四時四十七分から変わらない。
そして、画面の下には見覚えのない通知が一件表示されていた。
差出人は、出席管理システム。
本文は、たった一行。
『第十一日目の出席確認を開始します』
蓮は息をのんだ。
十一日目。
ここに来るまで、何日が過ぎたのか。
そもそも、自分は本当に十一日目を迎えたのか。
考えようとした瞬間、女性が蓮の腕をつかんだ。
「見ないで」
「でも……」
「それを読んではいけない」
女性の声には、切迫した響きがあった。
「出席確認が始まったら、学校は誰か一人を選ぶ。選ばれた人は、ここに残らなければならない」
「誰か一人って、どういう意味ですか」
女性は蓮の目を見た。
「あなたも、もう知っているでしょう?」
蓮の脳裏に、これまでの出来事がよみがえった。
出席簿。
存在しないはずの番号。
消された生徒。
記録を書き換えるたびに変わっていく人間関係。
そして、高瀬真。
自分の存在を確定させるために、蓮に出席させてほしいと訴えた少年。
真は、蓮に何を求めていたのか。
自分が出席すること。
そのために、誰かが欠席しなければならないのか。
蓮は女性に尋ねた。
「あなたは、この学校について何を知っているんですか」
女性は少しだけ笑った。
悲しそうな笑みだった。
「全部、と言いたいところだけれど……そうではないわ」
「じゃあ、何を?」
「ここが、何を隠しているのか」
女性は美月の手を引いた。
「そして、誰が隠しているのか」
そのときだった。
校舎のどこかで、チャイムが鳴った。
キーン、コーン。
キーン、コーン。
夕方の学校なら、何もおかしくない音だった。
けれど、最後の音が鳴り終わった瞬間、廊下の照明が一斉に消えた。
窓の外も暗くなった。
夕方だったはずの空が、一瞬で夜に変わっていた。
蓮は窓の外を見た。
校庭には誰もいない。
グラウンドの白線だけが、月明かりに浮かび上がっている。
その中央に、ひとつの机が置かれていた。
机の上には、出席簿がある。
そして、その隣に。
ひとりの少年が立っていた。
黒い制服。
うつむいた顔。
見覚えのある背格好。
蓮は窓に近づいた。
「……真?」
少年が顔を上げた。
距離があるのに、目が合った気がした。
少年は口を動かした。
声は聞こえない。
しかし、蓮には何と言ったのかがわかった。
――出席させて。
その直後、校庭の照明が点灯した。
少年の姿が消えた。
代わりに、机の上に一枚の紙が置かれていた。
白い紙だった。
そこに、赤い文字で何かが書かれている。
蓮は目を凝らした。
距離が遠くて、文字までは読めない。
ただ、最初の二文字だけは、はっきりとわかった。
欠席。
*
「走って」
女性が言った。
三人は廊下を走った。
どこへ向かっているのか、蓮にはわからなかった。
女性は迷いなく階段を下り、昇降口を抜け、校舎の裏手へと向かった。
校門には、見慣れた校名が掲げられていた。
東京都市大学附属高等学校。
しかし、その下にある開校年のプレートには、こう記されていた。
一九八九年四月一日。
蓮は走りながら、その数字を見た。
今、自分が生きている時代とは違う。
いや、違うのは時代だけなのか。
この学校は、本当に一九八九年に存在していたのだろうか。
それとも、存在したという記録だけが、ここに残されているのだろうか。
「こっちよ」
女性が古い校舎の裏にある小さな建物へ入った。
そこは、資料室のようだった。
壁には古い掲示物が貼られ、床には段ボール箱が積まれている。窓には新聞紙が貼られ、外から中が見えないようになっていた。
女性は扉を閉め、鍵をかけた。
美月が肩で息をしながら尋ねた。
「お母さん、何が起きているの?」
女性はしばらく答えなかった。
やがて、壁際の机に近づいた。
引き出しを開け、茶色い封筒を取り出す。
「あなたに見せなければいけないものがあるの」
封筒は古びていた。
表面には、鉛筆で文字が書かれている。
蓮はその文字を見て、動けなくなった。
高瀬蓮。
自分の名前だった。
「どうして、俺の名前が……」
「開けて」
女性は封筒を蓮に差し出した。
蓮は中から書類を取り出した。
最初の一枚は、出生届の写しだった。
氏名。
高瀬蓮。
性別。
男。
出生年月日。
平成二十年十一月六日。
蓮の誕生日だった。
そして、その下。
母の氏名。
蓮は文字を追った。
佐伯美月。
「……は?」
思わず声が出た。
隣にいた美月が、書類をのぞき込む。
彼女の顔から血の気が引いた。
「なんで……私の名前が?」
蓮は出生届を持つ手に力を込めた。
佐伯美月は、蓮と同じ高校に通う生徒だ。
少なくとも、蓮の知っている世界では。
同い年の彼女が、自分の母親として記録されている。
そんなことがあり得るはずがない。
だが、書類にはさらに奇妙な記載があった。
届出人の欄。
そこには、母親の署名とは別に、もうひとつ名前が書かれていた。
高瀬真。
蓮は書類を裏返した。
何も書かれていない。
もう一度、表を見た。
そこには、確かに三人の名前が並んでいた。
高瀬蓮。
佐伯美月。
高瀬真。
まるで、最初からこの三人がひとつの家族だったかのように。
「これは偽物ですよね」
蓮は女性に尋ねた。
「そうでなければ、おかしい」
「ええ」
女性は静かにうなずいた。
「その書類は、本物ではないわ」
蓮は少しだけ安堵した。
だが、次の言葉で、その安堵は消えた。
「正確には、まだ本物ではない」
「……どういうことですか」
「この学校では、記録が先に作られることがあるの」
女性は封筒から、もう一枚の書類を取り出した。
それは、古い台帳のコピーだった。
「記録が作られ、その記録に合うように、現実が少しずつ変わっていく。最初は小さなことよ。誰かの記憶が変わる。写真の人物が変わる。教室の座席が変わる」
蓮は息を止めた。
「そして、誰もそれを不思議に思わなくなる」
女性は台帳を机に置いた。
「でも、すべてが変わるわけではない。変わる前の記憶を持ち続ける人もいる。記録と現実の間に、取り残される人もいる」
「それが、欠席者?」
「そう」
女性は答えた。
「この学校で欠席者になるというのは、単に学校に来ていないという意味ではないの」
蓮の喉が鳴った。
「その人が、現実から外され始めているということ」
資料室の外で、何かが動いた。
床をこするような音。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
女性は唇に指を当てた。
三人は息をひそめた。
足音が扉の前で止まった。
そして、ノックが三回。
コン、コン、コン。
「先生」
少年の声だった。
蓮は聞き覚えがあった。
「先生、出席簿を持ってきました」
高瀬真の声だった。
美月が口元を押さえた。
女性は目を閉じた。
「先生」
もう一度、声がした。
「今日は、僕の名前がありません」
扉の向こうで、紙をめくる音がした。
「でも、僕はここにいます」
ノブが回った。
鍵がかかっている。
それでも、扉はゆっくりと開き始めた。
女性が蓮の腕をつかんだ。
「見てはいけない」
彼女は囁いた。
「今のあの子は、あなたの知っている真くんではない」
扉の隙間から、白い紙が差し込まれた。
その紙には、出席番号と氏名が印刷されていた。
第三十八番。
高瀬真。
そして、その下に、手書きの文字があった。
保護者不在。
*
扉は、そこで止まった。
外から声がしなくなった。
数秒後、足音が遠ざかっていく。
蓮は、ようやく息を吐いた。
「今のは……何だったんですか」
女性はすぐには答えなかった。
差し込まれた紙を拾い上げ、裏面を確認している。
そこには、別の文字が書かれていた。
女性の表情が変わった。
「やっぱり、始まってしまったのね」
「何がですか」
「保護者の確定」
女性は紙を机に置いた。
「高瀬真くんは、あなたを保護者として登録しようとしている。でも、学校はそれを認めていない」
「俺は真の保護者じゃありません」
「ええ。今のところはね」
「今のところって……」
「あなたが否定し続ければ、真くんは出席できない。けれど、あなたが認めれば、今度はあなたの記録が変わる可能性がある」
蓮は拳を握った。
真は、以前にも言っていた。
僕を出席させて。
その言葉の意味を、蓮はずっと考えていた。
真が望んでいるのは、単に出席簿に名前を載せることではない。
彼は、自分が存在していることを、誰かに認めてほしいのだ。
けれど、そのために蓮が別の人間になってしまうのなら。
それは、本当に真を救うことになるのだろうか。
「……俺は、どうすればいいんですか」
女性は蓮を見た。
「その答えを出す前に、確かめなければいけないことがあるわ」
彼女は台帳を開いた。
古い紙には、何十人もの名前が並んでいる。
生徒の名前。
保護者の名前。
出生年月日。
転入日。
転出日。
そして、各行の右端には、奇妙な記号が記されていた。
丸。
バツ。
空欄。
蓮は、その中に自分の名前を見つけた。
高瀬蓮。
出生年月日は平成二十年十一月六日。
母親の欄には、佐伯美月。
その行の右端には、丸がついていた。
しかし、その下にある高瀬真の行には、丸もバツもなかった。
ただ、空欄。
「真は、まだどちらにも属していないの」
女性が言った。
「生まれたことも、存在していることも、完全には否定されていない。でも、肯定もされていない」
「それなら、どうして真は俺の前に現れたんですか」
「あなたが、あの子の存在を覚えているから」
蓮は顔を上げた。
「覚えているだけで?」
「この学校では、誰かの記憶が、記録よりも強くなることがあるの。あなたが真くんを覚えている限り、あの子は完全には消えない」
女性は台帳を閉じた。
「でも、記憶だけでは足りない。あの子が存在するためには、出生の記録が必要なの」
蓮は、さきほどの出生届を見た。
そこには自分の名前と美月の名前、そして真の名前があった。
「じゃあ、あの出生届を完成させれば……」
「だめ」
女性の声が鋭くなった。
「絶対に、完成させてはいけない」
資料室の空気が凍りついた。
美月が尋ねた。
「どうして?」
女性は美月を見た。
その目には、涙が浮かんでいた。
「出生届が完成した瞬間、三人の関係が確定するから」
「関係って……親子の?」
「それだけじゃない」
女性はゆっくりと言った。
「誰が生まれ、誰が産み、誰がその存在を認めたのか。そのすべてが、ひとつの記録に固定される」
蓮は、嫌な予感を覚えた。
「もし、間違った名前が書かれていたら?」
「その人が、母親になる」
「でも、そんなの……」
「現実の親子関係とは関係ないのよ」
女性は出生届を指さした。
「この学校が認めた関係が、ここでは優先される」
美月は首を横に振った。
「待って。じゃあ、私が蓮の母親として登録されたら……」
女性は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
美月は後ずさった。
「そんなの嫌……」
彼女の声は小さかった。
「私、蓮のお母さんなんかじゃない。蓮と同い年なのに。どうして、そんなことに……」
「わかっているわ」
女性は美月を抱きしめた。
「だから、あなたの意思を確かめなければいけないの」
蓮は二人を見つめた。
以前、真にも同じことを言った。
佐伯美月本人の意思を確認する。
それが、真を出席させるための条件だった。
だが、今になってわかった。
美月の意思を確認するというのは、単なる手続きではない。
彼女が、自分の名前を母親の欄に書くことを認めるかどうか。
その選択によって、誰かの存在が確定する。
そして、別の誰かの記録が変わる。
「……あなたは誰なんですか」
蓮は、女性に尋ねた。
ずっと気になっていたことだった。
自分と同じ顔。
自分の名前を知っている。
そして、美月から「お母さん」と呼ばれている。
女性は長い間、蓮を見つめていた。
やがて、静かに答えた。
「私は、佐伯美月の母親よ」
「それはわかりました。でも、どうして俺と同じ顔なんですか」
女性は目を伏せた。
「あなたが知っている答えと、私が知っている答えは違うかもしれない」
「それでも、教えてください」
「……そうね」
女性は古い椅子に腰を下ろした。
「あなたは、自分がいつ生まれたか知っている?」
「平成二十年十一月六日です」
「それは、どこで確認したの?」
「母子手帳とか、戸籍とか……」
「実物を見たことは?」
蓮は言葉に詰まった。
自分の誕生日を疑ったことなどない。
毎年、家族に祝ってもらってきた。
学校の書類にも書いた。
友人に聞かれれば、当たり前のように答えていた。
しかし、出生届の原本を見たことがあるかと聞かれれば、答えられなかった。
「……ありません」
「そう」
女性は小さくうなずいた。
「なら、あなたの誕生日が正しいという証拠は、あなた自身の記憶だけなのね」
「そんな言い方……」
「ごめんなさい。でも、ここでは、それが重要なの」
女性は封筒から、もう一枚の紙を取り出した。
それは、古い新聞記事の切り抜きだった。
日付は、平成二十年十一月六日。
記事の見出しには、こう書かれていた。
市内の旧校舎で乳児発見 身元は不明
蓮は記事を読んだ。
その下には、小さな写真が掲載されていた。
古い校舎の入口。
警察官らしき人物。
そして、毛布に包まれた赤ん坊。
写真は不鮮明だった。
それでも、蓮は目を離せなかった。
記事の本文には、乳児が発見された場所が記されていた。
東京都市大学附属高等学校旧校舎。
発見時刻、午前零時。
蓮の手が震えた。
「これ……」
「あなたが生まれた日と、同じ日ね」
女性は言った。
「そして、あなたがこの学校に現れた日でもある」
「俺は、普通に生まれました」
「ええ。あなたは、そう記憶している」
女性は否定しなかった。
そのことが、かえって蓮を不安にさせた。
「でも、もし……」
蓮は言葉を探した。
「もし、俺が本当にこの学校で見つかった子供だったら?」
女性は答えた。
「その場合、あなたの母親は誰になるのかしらね」
美月が、ゆっくりと顔を上げた。
「……お母さん?」
女性は美月を見た。
そして、初めて、はっきりと首を横に振った。
「ごめんなさい」
「何が?」
「あなたに、ずっと言えなかったことがあるの」
美月の目が揺れた。
「私の出生地のこと?」
女性は驚いたように顔を上げた。
「……どうして、それを?」
「さっき、蓮のスマートフォンに通知が出ていたでしょう。第十一日目の出席確認って」
美月は、自分のスマートフォンを取り出した。
画面には、同じ通知が表示されていた。
その下に、もう一件。
『確認事項:佐伯美月の出生地』
美月は画面を見つめた。
「私、ずっと自分の出生地を知らなかったの」
蓮は彼女を見た。
「知らなかったって、どういうこと?」
「母子手帳には書いてあった。でも、私が小さい頃に引っ越しをしたとき、なくなったって聞かされて。それから、何度聞いても、お母さんは答えてくれなかった」
女性は何も言わなかった。
「病院の名前も、生まれた町も、教えてくれなかった。私は、ずっと不思議だったの」
美月は、母親を見つめた。
「私、どこで生まれたの?」
女性は唇をかんだ。
その表情を見て、蓮は理解した。
この女性は、答えを知っている。
そして、その答えを伝えることを恐れている。
「……この学校よ」
女性は言った。
美月は動かなかった。
「正確には、この学校の旧校舎」
蓮の頭の中で、何かがつながり始めた。
平成二十年十一月六日。
旧校舎で発見された乳児。
高瀬蓮。
そして、同じ学校で生まれたという佐伯美月。
偶然だと考えるには、あまりにも出来すぎていた。
「待ってください」
蓮は女性に尋ねた。
「美月が生まれたのは、いつですか」
女性は答えなかった。
美月が代わりに言った。
「平成二十年十一月六日」
蓮は息を止めた。
同じ日だった。
同じ年。
同じ月。
同じ日付。
しかも、同じ場所。
資料室の時計が、突然、音を立てた。
カチ。
秒針が動いた。
カチ。
もう一度、動いた。
止まっていた時間が、再び流れ始めたようだった。
女性は立ち上がった。
「もう、時間がないわ」
「待ってください。まだ聞きたいことが……」
「蓮くん」
女性は、初めて蓮を名前で呼んだ。
「あなたは、真くんを助けたい?」
「……はい」
「そのために、自分の記録が変わっても?」
蓮はすぐに答えられなかった。
真を助けたい。
それは間違いない。
しかし、自分が誰なのかもわからなくなるようなことが起きたら。
自分の家族の記憶まで変わってしまったら。
それでも、自分は真を出席させたいと思えるのだろうか。
女性は、蓮の沈黙を責めなかった。
「すぐに答えなくていいわ。ただ、ひとつだけ覚えておいて」
彼女は、古い台帳を蓮に渡した。
「あなたの出生地を確認してはいけない」
「……え?」
「あなたがどこで生まれたのか。それを、この学校に証明させてはいけない」
「でも、さっき新聞記事を……」
「あれは、ただの記録よ」
女性は、蓮の手を握った。
「記録は、真実とは限らない。でも、ここでは記録が真実になってしまう」
彼女の手は冷たかった。
「あなたが出生地を確定させた瞬間、学校はあなたを、ある場所に所属させる」
「それが、この学校なんですか」
女性は答えなかった。
代わりに、資料室の壁に掛けられた古いカレンダーを見た。
そこには、平成二十年十一月のカレンダーがあった。
六日の欄だけ、赤い丸で囲まれている。
その下に、鉛筆で小さな文字が書かれていた。
二人目は、まだ生まれていない。
蓮は、その文字を見た。
二人目。
では、一人目は誰なのか。
そして、二人目とは。
「お母さん」
美月が、震える声で言った。
「私には、双子のきょうだいがいたの?」
女性の顔から、表情が消えた。
長い沈黙。
やがて、彼女は美月の頬に手を添えた。
「……いたわ」
美月の目が大きく開かれた。
「でも、あなたは、その子のことを覚えていない」
「どうして?」
「覚えていたら、あなたもここに来てしまうから」
蓮は、台帳を握りしめた。
双子。
同じ日に生まれた二人。
そのうちの一人が、佐伯美月。
もう一人は。
その瞬間、廊下から、再びチャイムが鳴った。
キーン、コーン。
キーン、コーン。
今度は、三度目のチャイムだった。
資料室の扉が、ひとりでに開いた。
誰も立っていない。
しかし、廊下には一枚の紙が落ちていた。
蓮は拾い上げた。
出席簿の一部だった。
そこには、三つの名前が並んでいた。
第三十七番。
高瀬蓮。
第三十八番。
高瀬真。
そして、番号のない行。
佐伯美月。
その横には、赤い文字でこう記されていた。
出生確認待ち。
蓮は紙を見つめた。
その下に、小さな文字があることに気づいた。
震える手で、紙を裏返す。
そこには、見覚えのない名前が書かれていた。
高瀬凛。
出生年月日。
平成二十年十一月六日。
そして、母親の欄には。
高瀬蓮。
蓮は、声を出せなかった。
自分の名前が、母親の欄にある。
自分が生まれた日に。
自分と同じ日に生まれた、もう一人の子供の。
「……高瀬、凛?」
その名前を口にした瞬間。
校舎のどこかで、誰かが泣き始めた。
子供の泣き声だった。
遠くから聞こえているのに、耳元で泣いているようにはっきりと聞こえる。
女性は顔を覆った。
「まだ、消えていなかったのね……」
「誰なんですか、この子は」
蓮は尋ねた。
女性は答えなかった。
美月も、何も言わなかった。
ただ、蓮の手の中にある紙を見つめていた。
そして、泣き声が止まった。
静寂の中、資料室の古いスピーカーが突然、音を発した。
ノイズ混じりの声。
聞き覚えのある、少年の声だった。
『高瀬蓮くん』
真だった。
『出席確認の時間です』
紙を持つ蓮の手が震えた。
『あなたの出生地が確認されました』
スピーカーの向こうで、真が小さく笑った。
『これで、僕も出席できます』
次の瞬間、台帳の最後のページがひとりでに開いた。
そこには、今までなかったはずの一文が記されていた。
第十一日目。保護者、高瀬蓮。出生児、高瀬真。出生地、東京都市大学附属高等学校旧校舎。
そして、その下に。
もう一行。
出生児、高瀬凛。保護者、高瀬蓮。
蓮は、台帳を閉じようとした。
しかし、指が動かなかった。
ページの一番下に、さらに小さな文字が浮かび上がったからだ。
それは、鉛筆で書かれたような、かすれた文字だった。
なお、保護者本人の出生記録は未確認。
蓮は顔を上げた。
女性が、まっすぐに彼を見つめていた。
その目に、もう隠そうとする様子はなかった。
あるのは、恐怖と、諦めと、そして、長い間抱え続けてきた秘密。
「蓮くん」
女性が言った。
「あなたが探しているのは、あなたのお母さんではないの」
蓮は息を止めた。
「じゃあ、俺は誰を探しているんですか」
女性は、ゆっくりと答えた。
「あなたが生まれる前に、あなたを出席させた人」
その言葉が、資料室に落ちた。
蓮は意味を理解できなかった。
自分が生まれる前に。
自分を出席させた人。
そんなことができる人間がいるのだろうか。
いや。
そもそも、出席させるとは、どういう意味なのだろう。
女性は窓の外を見た。
校庭の中央に、再び机が現れていた。
机の上には、出席簿。
その前に、一人の少女が立っていた。
黒い制服。
長い髪。
こちらを見上げる顔は、佐伯美月によく似ていた。
少女は、窓越しに蓮を見た。
そして、口を動かした。
――お兄ちゃん。
蓮は動けなかった。
少女は、もう一度、口を動かした。
――やっと、見つけた。
次の瞬間、校庭の机が消えた。
少女の姿も消えた。
窓ガラスに、白い文字が浮かび上がった。
誰かが、外側から指でなぞったような文字だった。
第十七話 双子の欠席届
蓮は、その文字を見つめ続けた。
そして、ようやく理解した。
この学校が隠しているのは、過去の事件だけではない。
誰かの出生だけでもない。
この学校は、誰かが生まれる前から、その人間の存在を決めている。
出席する者。
欠席する者。
そして、最初から名簿に載せてもらえなかった者。
蓮は、手の中の紙を見た。
高瀬凛。
自分の名前が、母親の欄に記されている。
それは、真実ではないはずだった。
しかし、もしこの記録が完成したら。
高瀬凛は、本当に自分の子供になってしまうのだろうか。
そして、もし凛が自分の子供なら。
自分は、いったい何者なのだろう。
資料室の時計が、午前零時を指した。
秒針が止まる。
窓の外が暗くなる。
そして、誰もいないはずの廊下から、最後の声が聞こえた。
『高瀬蓮くん』
真の声だった。
『今度は、あなたが欠席する番です』
――第16話・了。




