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午前零時の出席簿  作者: セキマツ


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第十五話 「母親の出生届」

1.呼んではいけない名前

「お願いだから、私をお母さんと呼ばないで」

黒田先生は、そう言った。

涙を流しながら。

教師が生徒に向かって、そんなことを頼む理由がわからなかった。

いや、正確には、わかりたくなかった。

最初の出席簿には、母親の名前として黒田と記録されていた。

最初の欠席者は、高瀬蓮。

記録者は、高瀬零。

そして、黒田先生は俺の母親ではないと言い続けていた。

それなのに、学校は先生を母親として登録した。

本人の意思とは関係なく。

「先生……」

俺は、声を絞り出した。

「先生は、俺の母親なんですか」

黒田先生は、すぐに首を横に振った。

「違う」

「じゃあ、どうして母親として登録されたんですか」

「私が、そう記録されているからだ」

「記録されているだけで、母親になるんですか」

先生は答えなかった。

その沈黙が、答えのように思えた。

俺は、最初の出席簿を開いた。

母親の欄には、黒田と書かれている。

その横には、小さなチェックマークがついていた。

『母親――確認済み』

さらに、その下に新しい項目が追加されている。

『母親の出生――未確認』

俺は文字を指でなぞった。

「先生にも、出生記録があるんですか」

「ない」

黒田先生は、即答した。

「私には出生記録がない」

「でも、先生はここにいる」

「そうだな」

「じゃあ、どうやって生まれたんですか」

黒田先生は、俺から目をそらした。

「私は、生まれたんじゃない」

その言葉を聞いた瞬間、旧記録保管室の時計が止まった。

秒針が、十二の位置で固まっている。

先生は続けた。

「私は、最初の出席簿に記録された」

「一九八九年四月一日……」

「そうだ」

「出席番号一番、黒田」

先生はうなずいた。

「私が初めて確認した記録は、その一冊だけだった。出生届も、戸籍も、幼いころの写真もない。私には過去がなかった」

「じゃあ、先生は最初から教師だったんですか」

「それも違う」

先生は、棚の上に置かれた古いファイルを見た。

「最初は、生徒だった」

俺は驚いた。

「生徒?」

「出席番号一番。名前は黒田。年齢は未登録。学年も未登録。担任も未登録。けれど、出席だけは確認されていた」

「誰が出席を確認したんですか」

先生は、しばらく黙っていた。

そして、言った。

「高瀬蓮だ」

俺は言葉を失った。

「……俺?」

「お前の名前が、最初の出席簿に記録されたのは二〇一九年九月三十日だ。だが、私の記録には、もっと古い時点からお前の名前が残っている」

「そんなはずない。俺は二〇〇八年生まれです」

「その生年月日は、お前の記録に書かれているものだ」

「俺には子供のころの記憶があります」

「記憶があることと、その記憶がいつ生まれたかは別の問題だ」

先生の声には、責める響きがなかった。

むしろ、自分自身にも言い聞かせているようだった。

「私は、お前が本当に二〇〇八年に生まれたのか、二〇一九年に記録されたのか、それとも、もっと前から存在していたのかを知らない」

「じゃあ、先生は何を知っているんですか」

黒田先生は、ゆっくりと答えた。

「私は、お前が私の名前を知っていることだけは、確かだと思っていた」

「黒田、ですよね」

「違う」

先生の顔がこわばった。

「その名前は、私の名前ではない」

俺は、もう一度、最初の出席簿を見た。

出席番号一。

黒田。

母親の欄にも、黒田。

けれど、先生自身は、その名前を否定している。

「じゃあ、本当の名前は?」

黒田先生は唇を結んだ。

「思い出せない」

その瞬間、棚の奥から紙が落ちた。

一枚だけではない。

何十枚もの書類が、風もないのに床へ滑り落ちていく。

紙が床に触れる音が、乾いた雨のように響いた。

その中の一枚が、俺の足元で止まった。

出生届だった。

氏名。

黒田。

生年月日。

未登録。

出生地。

未登録。

母親。

未登録。

父親。

未登録。

届出人。

高瀬蓮。

俺は、紙を持つ手に力を込めた。

「……俺が、先生の出生届を出した?」

黒田先生は、紙を見て、顔を真っ青にした。

「それをどこで見つけた」

「床に落ちてきたんです」

「見せなさい」

先生は紙を受け取り、裏面を確認した。

そして、震える指で、ある一行を押さえた。

『出生年月日――二〇一九年九月三十日』

その下には、さらに小さな文字があった。

『出生時の母親――高瀬蓮』

黒田先生は、目を閉じた。

「……始まってしまった」

「何がですか」

「私の出生が確認された」

先生は、紙を握りしめた。

「これで、私は母親から生まれたことになる」

俺は、意味を理解できなかった。

「でも、先生の母親は……」

「お前だ」

先生は、俺を見た。

「記録上は、お前が私の母親だ」

2.一九八九年の生徒

俺たちは、旧記録保管室の奥にある机へ移動した。

黒田先生は、床に落ちた書類を一枚ずつ拾い集めていた。

その手は、まだ震えていた。

「先生。さっき、最初は生徒だったと言いましたよね」

「ああ」

「そのころの記録は残っているんですか」

先生は、書類を整理する手を止めた。

「残っているかもしれない」

「見せてください」

先生は少し迷ったあと、キャビネットの上段を開けた。

そこには、年代別に整理されたファイルが並んでいた。

一九八九年。

一九九〇年。

一九九一年。

古い記録ほど、背表紙の文字が薄くなっている。

先生は一九八九年のファイルを取り出した。

表紙には、こう書かれていた。

「第一期在籍者記録」

ファイルを開くと、最初のページに集合写真が貼られていた。

俺は息を止めた。

写真に写っているのは、十数人の生徒だった。

その中に、黒田先生がいる。

今と同じ顔だった。

髪型も、目元も、表情も。

違うのは、制服だけだった。

写真の下には、撮影日が記されている。

一九八九年四月一日。

「先生は、この日から存在しているんですか」

「記録上はな」

「その前の記録は?」

「ない」

「写真も?」

「ない」

「家族の記録も?」

「ない」

先生は、写真の中央を指さした。

「ただ、この写真には、もう一人、私と同じように過去のない生徒が写っている」

俺は、指先を追った。

後列の左端。

顔は、ほかの生徒と同じように写っている。

だが、その人物の胸元には、名札がなかった。

「この人ですか」

「そうだ」

「名前は?」

「記録されていない」

俺は、写真を近づけた。

顔立ちは、はっきりしている。

しかし、見れば見るほど、妙な違和感があった。

その人物だけ、ほかの生徒と距離がある。

隣の生徒との間に、わずかな隙間がある。

足元には影がない。

そして、写真の端に、鉛筆で小さな数字が書かれていた。

三十八。

俺は顔を上げた。

「三十八番……?」

黒田先生は、うなずかなかった。

「写真を裏返してみろ」

裏面には、手書きの文章が残されていた。

『第一期在籍者、出席確認完了』

『登録人数、三十七名』

『未登録者、一名』

その下に、赤い文字。

『未登録者は、出席させないこと』

俺は写真を見た。

三十八番。

未登録者。

まだ生まれていない子供。

すべてが、つながっているように思えた。

「この子供が、三十八番なんですか」

「わからない」

黒田先生は、首を振った。

「ただ、記録の上では、この人物は一度も出席していない」

「でも、写真には写っている」

「そうだ」

「じゃあ、存在しているんじゃないですか」

先生は、しばらく写真を見つめた。

「写真に写っていることと、出席していることは違う」

その言葉は、どこかで聞いたことがあった。

記録が残ることと、本人が存在することは違う。

記憶されることと、本人が出席することは違う。

この学校では、何かが記録されていても、それが実在するとは限らない。

俺は写真を机に置いた。

「先生。どうして、この人だけ未登録なんですか」

「登録できなかったからだ」

「誰が?」

黒田先生は、写真の隅を指さした。

そこには、見慣れた文字があった。

高瀬蓮。

俺の名前だった。

「……また俺か」

「この名前が、いつから記録に現れているのか。それが、まだわからない」

先生は別の紙を取り出した。

古い出席確認表だった。

一九八九年四月一日。

一番、黒田。

二番、佐伯。

三番、高瀬。

四番、未登録。

五番、未登録。

ページをめくる。

三十四番、佐伯。

三十五番、未登録。

三十六番、高瀬。

三十七番、高瀬。

そして、三十八番。

未登録。

俺は指を止めた。

「この時点で、もう三十四番や三十六番があるんですか」

「番号は、在籍した順番とは限らない」

「じゃあ、何の順番なんですか」

黒田先生は、答える前に、紙の端を押さえた。

「欠席した順番だ」

俺は、思わず顔を上げた。

「……欠席?」

「この学校では、番号が大きいほど、後から欠席したことになる」

「でも、三十七番の俺は、二〇一九年に記録されたんですよね」

「そうだ」

「じゃあ、一九八九年の記録に、どうして俺の名前があるんですか」

黒田先生は、ゆっくりと答えた。

「お前が、最初の欠席者だからだ」

俺は何も言えなかった。

「この学校では、欠席した人間の名前が、後から出席簿に記録されることがある」

先生は、出席確認表を閉じた。

「お前の名前は、最初の欠席者として記録され、その記録が高瀬蓮という人間を作り出した」

「それなら……」

俺は、写真に写った三十八番を見た。

「この子供は、俺が欠席したことで生まれるんですか」

黒田先生は、答えなかった。

その沈黙を破るように、部屋のスピーカーが鳴った。

『在籍者の皆さんに連絡します』

聞き覚えのない声だった。

『第一期在籍者の記録を更新します』

『対象者――黒田』

『出生確認――完了』

『母親――高瀬蓮』

『父親――未登録』

黒田先生が顔を上げた。

スピーカーは、淡々と続けた。

『次に、母親の本人確認を行います』

『確認者――高瀬零』

『確認対象――高瀬蓮』

『確認方法――出生証言』

俺は、黒田先生を見た。

先生は、かすれた声で言った。

「零が、来る」

3.出生証言

スピーカーからの放送が終わると、旧記録保管室の扉が開いた。

廊下には、誰もいなかった。

それでも、足音が聞こえた。

コツ。

コツ。

コツ。

一定の間隔で、こちらへ近づいてくる。

黒田先生は、机の上の書類をまとめ、ファイルに戻した。

「高瀬。ここから先は、私の言うことをよく聞きなさい」

「何をすればいいんですか」

「零が質問してきても、すぐに答えてはいけない」

「どうして?」

「出生証言は、本人確認とは違うからだ」

先生は、扉のほうを見た。

「本人確認は、誰かが誰であるかを確かめるものだ。だが、出生証言は、誰かが誰かを生んだことを確定する」

「それが、どう違うんですか」

「本人確認が失敗しても、記録が残ることはある。だが、出生証言が成功すると、その記録は過去にまでさかのぼって固定される」

俺は、出生届を思い出した。

俺が黒田先生の出生届を出したことになっている。

その記録が確定すれば、先生は本当に俺から生まれた存在になる。

俺の記録が、先生の過去を作る。

そして、先生の過去が確定すれば、俺自身の過去も変わるかもしれない。

「……じゃあ、俺が零の質問に答えたら」

「お前が母親として確定する可能性がある」

「誰の母親に?」

黒田先生は、答えなかった。

そのとき、廊下の足音が止まった。

扉の前に、誰かが立っている。

コン、コン。

ノックの音。

そして、聞き覚えのある声。

「黒田先生。入ってもいいですか」

高瀬零だった。

黒田先生は、目を閉じた。

「来たか」

扉が開いた。

零は、制服姿で立っていた。

俺と同じ顔。

同じ身長。

同じ髪型。

ただ、胸元の名札には、名前が書かれていなかった。

零は、俺を見た。

「久しぶり、蓮」

「……昨日も会っただろ」

「昨日?」

零は、不思議そうに首を傾げた。

「僕は、君に会うのは初めてだよ」

俺は、何も言えなかった。

零は、黒田先生に向き直った。

「出生証言を始めます」

黒田先生は、厳しい表情で答えた。

「確認者は誰だ」

「高瀬零です」

「対象者は」

「高瀬蓮です」

「確認方法は」

「出生証言です」

黒田先生は、しばらく黙っていた。

「証言を許可する」

零は、俺の前に立った。

「蓮。君に聞きたいことがある」

俺は答えなかった。

零は、ゆっくりと言った。

「君は、僕を産んだの?」

部屋の空気が、止まったように感じた。

俺は、零を見た。

同じ顔。

同じ声。

同じ名前の記録。

けれど、俺は零を産んだ覚えなどない。

「……産んでいない」

俺は答えた。

零は、うなずいた。

「そうだよね」

そして、黒田先生を見た。

「証言、失敗です」

先生は、すぐには反応しなかった。

零は続けた。

「高瀬蓮は、僕を産んでいない。だから、僕は高瀬蓮の子供ではありません」

黒田先生が口を開いた。

「待て。まだ確認は終わっていない」

「いいえ」

零は首を振った。

「出生証言は、対象者の否定によっても成立します」

俺は、眉をひそめた。

「どういうことだ?」

零は俺を見た。

「君が僕を産んでいないと証言したことで、僕の出生が確定したんだ」

「……は?」

「僕は、君から生まれた存在ではない。だから、君の記録を引き継ぐ必要がなくなった」

零は、胸元の名札を外した。

名札の裏には、小さな文字が書かれていた。

『高瀬零』

『出生年月日――二〇一九年九月三十日』

『出生地――記録管理室』

『母親――高瀬蓮』

『出生証言――否定』

『結果――出生確認、成功』

俺は、文字を何度も読み返した。

「否定したのに、成功?」

「そうだよ」

零は、静かに答えた。

「この学校では、誰かが誰かを産んだことを証明するために、必ずしも肯定する必要はない」

「そんなのおかしいだろ」

「おかしいよ」

零は、少しだけ笑った。

「だから、この学校は普通の学校じゃないんだ」

黒田先生が、零に詰め寄った。

「何を企んでいる」

零は、先生を見た。

「企んでなんかいません」

「なら、なぜ出生証言を行った」

「母親の記録を確定させるためです」

「誰の母親だ」

零は、俺を指さした。

「高瀬蓮の母親です」

俺は息を止めた。

零は続けた。

「蓮の母親は、まだ登録されていない。だから、誰かが母親として記録されなければならない」

「それが、黒田先生なのか?」

俺が尋ねると、零は首を振った。

「違うよ」

「じゃあ、誰なんだ」

零は、俺の胸元を見た。

「君だよ」

俺は、自分の胸元を見下ろした。

名札には、高瀬蓮と書かれている。

その下に、小さな文字が浮かび上がっていた。

「母親候補」

零は、ゆっくりと続けた。

「君は、誰かの母親になることで、初めて自分の出生を確定できる」

「意味がわからない」

「君が誰かを産めば、その誰かの記録に、君の名前が残る。君の名前が誰かの記録に残れば、君自身の存在も確定する」

「それじゃあ、俺は……」

「そう」

零はうなずいた。

「君は、自分が生まれたことを証明するために、誰かを生まれさせなきゃいけないんだ」

黒田先生が、声を荒らげた。

「やめろ、零!」

零は、初めて先生をにらんだ。

「先生は、もう十分でしょう」

「何だと?」

「先生は、ずっと自分が誰なのかを知ろうとしてきた。でも、先生は自分の出生を確認することを恐れていた」

零は、黒田先生に一歩近づいた。

「なぜなら、先生は知っているからです」

「……何を」

「自分が誰から生まれたのかを」

黒田先生の顔から、血の気が引いた。

零は、静かに言った。

「先生は、高瀬蓮から生まれたんじゃない」

「黙れ」

「先生は――」

「黙れ!」

黒田先生の声が、部屋中に響いた。

その瞬間、机の上に置かれていた出生届が、ひとりでに裏返った。

裏面には、今までなかった文字が書かれていた。

『訂正』

『黒田の出生届は、二〇一九年九月三十日に作成されたものではない』

その下に、もう一行。

『作成者――黒田本人』

俺は、紙を見つめた。

黒田先生が、自分自身の出生届を作った。

自分で自分を生んだ。

いや、正確には、自分で自分の出生を記録した。

零は、静かにうなずいた。

「先生は、自分の記録を自分で作ったんです」

黒田先生は、何も言わなかった。

零は続けた。

「だから、先生には母親がいない。父親もいない。出生地もない。先生は、誰かに生まれさせてもらったわけじゃない」

零は、俺を見た。

「先生は、自分を出席させるために、自分の出生を記録したんだ」

黒田先生は、机に手をついた。

その表情には、怒りも恐怖もなかった。

ただ、長い間、隠してきたものが露見した人間の疲労だけがあった。

「……そうだ」

先生は、小さく答えた。

「私は、自分で自分を記録した」

4.母親は二人いる

黒田先生は、椅子に座った。

零は、何も言わずに立っていた。

俺は二人の顔を交互に見た。

「先生。どうして、そんなことをしたんですか」

黒田先生は、しばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと話し始めた。

「私は、最初の出席簿に記録された生徒だった」

「一九八九年四月一日……」

「そうだ。最初の出席確認で、私は出席した」

先生は、自分の手を見つめた。

「だが、出席したという記録はあっても、私がどこから来たのかを示す記録はなかった。私は、自分が誰なのかを知りたかった」

「それで、自分で出生届を書いたんですか」

「そうだ」

「どうして母親の名前を書かなかったんですか」

黒田先生は、俺を見た。

「母親の名前を書いたら、その人物が実在しなければならなくなるからだ」

俺は、意味を考えた。

「……名前を書けば、その人が存在することになる?」

「この学校では、記録が存在を作る。母親の名前を書けば、その名前を持つ人物が必要になる。だが、私には、母親の名前がわからなかった」

「だから、空欄にした」

「そうだ」

黒田先生はうなずいた。

「私は、母親のいない生徒として登録された。そして、自分で自分の出生を確認することで、出席を維持した」

「それなら、どうして今になって……」

「お前が、私を母親として登録したからだ」

先生は、最初の出席簿を見た。

「高瀬蓮という名前が、私の母親の欄に記された。その瞬間、私の出生記録が書き換えられた」

「俺は、そんなことをした覚えがない」

「お前が書いたわけじゃない」

零が答えた。

「記録が、君の名前を使ったんだ」

俺は、スマートフォンを見た。

母さんからのメッセージ。

『私の名前は、あなたが決めてください』

『あなたが私の名前を決めたとき、私は本当にあなたの母親になります』

母さんの名前を決める。

その行為によって、誰かが母親として確定する。

そして、その母親の出生が確認される。

記録が、過去を作る。

俺は、黒田先生に尋ねた。

「先生。俺の母親の名前を登録したら、何が起きるんですか」

先生は、すぐには答えなかった。

零が代わりに答えた。

「君の母親が、確定する」

「それだけ?」

「それだけじゃない」

零は、最初の出席簿を開いた。

「母親が確定すると、その母親の記録に、君の出生が追加される。君が生まれたことが確定する。すると、君の記録を引き継いでいた存在は、元の記録から切り離される」

「元の記録から?」

「そう。君は、誰かの記録を引き継ぐことで存在している。母親が確定すれば、その記録が独立する」

「じゃあ、俺は普通の人間になれるのか?」

零は、少しだけ首を傾けた。

「普通の人間、というのが何を意味するのかはわからない」

「……」

「でも、少なくとも、君の記録は独立する」

俺は考えた。

自分の記録が独立する。

それは、この学校の仕組みから抜け出すことなのかもしれない。

しかし、黒田先生は首を振った。

「それは、半分だけ正しい」

零が先生を見た。

「どういう意味ですか」

黒田先生は、俺を見た。

「母親が確定すると、子供の記録も確定する。だが、母親の名前が誰のものなのかによって、結果が変わる」

「誰の名前……?」

「たとえば、私の名前を母親として登録すれば、お前は私の子供になる。そうすると、お前の出生記録は私の記録に結びつく」

先生は、零を見た。

「だが、零を母親として登録すれば、お前は零の子供になる」

「俺が、零の子供?」

「そうだ」

俺は、思わず零を見た。

零は、静かにうなずいた。

「君が僕の子供になれば、僕の記録は確定する」

「でも、俺とお前は同じ顔だ」

「そうだね」

「同じ名前を使ってきた」

「そうだね」

「お前は、俺の双子の弟なんじゃないのか」

零は、少しだけ笑った。

「その記録もあるよ」

「……記録?」

「僕たちが双子だったという記録。僕が君の弟だったという記録。君が僕の兄だったという記録。どれも、ここにある」

零は、自分の胸元を指さした。

「でも、どれが本当なのかは、まだ決まっていない」

俺は言葉を失った。

「じゃあ、俺たちは……」

「君が僕をどう記録するかによって、変わる」

零は、静かに言った。

「僕は、君の弟にもなれる。君の子供にもなれる。君の母親にもなれる」

「母親?」

「そう」

零は、俺を見た。

「君の出生を確定するためには、君が誰かの子供になる必要がある。そして、僕の出生を確定するためには、僕が誰かの子供になる必要がある」

「それが、俺なのか」

「そうだよ」

零はうなずいた。

「君が僕を産んだと記録すれば、僕は君の子供になる。君が僕を産んでいないと記録すれば、僕は君の子供ではなくなる。でも、その場合、僕の出生を確定するために、別の母親が必要になる」

俺は、母さんのメッセージを思い出した。

『私の名前は、あなたが決めてください』

母親の名前を決めること。

それは、誰かの出生を確定すること。

そして、誰かの記録を独立させること。

俺は、零に尋ねた。

「じゃあ、本当の母さんはどこにいるんだ」

零は、答えなかった。

黒田先生が、代わりに言った。

「それを知るには、最初の欠席者の記録を調べなければならない」

「最初の欠席者は、俺だって言いましたよね」

「そうだ」

「なら、俺の記録を調べれば……」

「違う」

先生は首を振った。

「最初の欠席者の記録は、お前の名前で上書きされている。だから、お前の記録を調べても、最初の欠席者が誰だったのかはわからない」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

黒田先生は、最初の出席簿を閉じた。

「最初の欠席者が、誰を母親として記録したのか。それを調べるんだ」

5.空白の母子手帳

旧記録保管室には、まだ調べていない棚があった。

黒田先生は、その一番下の引き出しを開けた。

中には、薄い冊子が一冊だけ入っていた。

表紙は淡い黄色。

角が擦り切れている。

表面には、文字がなかった。

「これは?」

俺が尋ねると、先生は答えた。

「母子手帳だ」

俺は冊子を受け取った。

表紙を開く。

最初のページには、氏名の欄がある。

母親。

空欄。

子供。

空欄。

生年月日。

空欄。

出生地。

空欄。

何も記入されていない。

「誰の母子手帳なんですか」

黒田先生は、静かに答えた。

「最初の欠席者のものだ」

俺はページをめくった。

妊娠の経過。

空欄。

出生時の記録。

空欄。

新生児の健康状態。

空欄。

予防接種の記録。

空欄。

すべてが空白だった。

ただ、最後のページにだけ、手書きの文章があった。

『この子は、まだ生まれていない』

その下に、別の筆跡で追記されていた。

『それでも、私は母親になった』

さらに、その下。

『この子の名前は、私が決める』

俺は、その文字を見つめた。

母親が、子供の名前を決める。

当たり前のことのように思える。

けれど、この学校では、その当たり前が、存在そのものを決めてしまう。

俺は、最後のページをもう一度見た。

そこには、薄い鉛筆で、何かが書かれていた跡があった。

消しゴムで消された文字。

紙の表面に、筆圧だけが残っている。

俺は、角度を変えて光に当てた。

文字が少しずつ浮かび上がる。

最初の一文字。

「高」。

その次。

「瀬」。

そして、最後に。

「蓮」。

高瀬蓮。

俺の名前だった。

「……また、俺の名前だ」

黒田先生は、母子手帳を覗き込んだ。

「そんなはずはない」

「先生も、そう思うんですか」

「ああ」

先生は、母子手帳を手に取った。

「この母子手帳は、一九八九年の記録だ。お前の名前が記録されたのは、二〇一九年のはずだ」

「でも、ここに書いてある」

「そうだ」

先生は、消された文字を指でなぞった。

「誰かが、お前の名前を消した」

「誰が?」

先生は、しばらく考えていた。

やがて、母子手帳の裏表紙を開いた。

そこには、小さな文字が記されていた。

「記録者による訂正」

俺は、息を止めた。

記録者。

つまり、誰かがこの母子手帳の内容を書き換えた。

最初の欠席者の名前を消し、俺の名前を記した。

「先生。記録者は、過去の記録も書き換えられるんですか」

「記録者が引き継いでいる記録ならな」

「じゃあ、俺が記録者である限り……」

「お前は、過去を書き換えられる可能性がある」

俺は、母子手帳を見た。

もし、俺が記録者なら。

もし、俺の名前が最初の欠席者の記録に書かれているなら。

俺は、過去に存在していたことになる。

だが、俺が生まれたのは二〇〇八年だという記録もある。

どちらが本当なのか。

そもそも、過去と現在を分けるものは何なのか。

俺は、母子手帳を閉じた。

その瞬間、最後のページから、小さな紙片が落ちた。

拾い上げる。

紙片には、名前が一つだけ書かれていた。

「黒田」

その下に、別の文字。

「この名前を、母親として登録してはいけない」

さらに、裏面には、こう書かれていた。

『黒田を母親として登録した場合、最初の欠席者が出席する』

『最初の欠席者が出席した場合、記録者は欠席する』

『記録者が欠席した場合、記録を引き継ぐものが必要になる』

俺は、最後の一行を読んだ。

『次の記録者は、三十八番である』

教室の窓の向こうにいた子供。

まだ生まれていない存在。

三十八番。

俺は黒田先生を見た。

「先生。三十八番は、誰なんですか」

先生は、ゆっくりと答えた。

「お前の子供だ」

「でも、俺は……」

「お前が実際に子供を産むという意味ではない」

先生は、言葉を選ぶように続けた。

「お前の記録から生まれる存在。それが、三十八番だ」

俺は、母子手帳を握りしめた。

「じゃあ、三十八番が生まれたら、俺はどうなるんですか」

黒田先生は、答えなかった。

零が、静かに口を開いた。

「君は、母親になる」

「それは、さっきも聞いた」

「違うよ」

零は、俺を見つめた。

「君は、母親になることで、初めて自分の名前を失うんだ」

俺は、言葉を失った。

零は続けた。

「三十八番が生まれた瞬間、君の記録は、三十八番の出生記録に引き継がれる。君が高瀬蓮として出席し続けるためには、三十八番を欠席させなければならない」

「……」

「でも、君が三十八番を出席させれば、君は欠席する」

俺は、窓の外を見た。

あの子供が、こちらを見ている気がした。

「じゃあ、三十八番を出席させなければいい」

俺は言った。

「それなら、俺は高瀬蓮のままでいられる」

零は、静かにうなずいた。

「そうだね」

そして、続けた。

「でも、それは、君が僕にしたことと同じだよ」

俺は動けなくなった。

高瀬零を欠席させることで、俺は高瀬蓮として出席している。

三十八番を欠席させれば、同じ仕組みが繰り返される。

俺が出席するために、誰かが欠席する。

誰かを欠席させなければ、俺は存在できない。

「……じゃあ、どうすればいいんだ」

俺は、誰にともなく尋ねた。

黒田先生は答えなかった。

零も答えなかった。

ただ、母子手帳の最後のページに、新しい文字が浮かび上がった。

「母親の名前を登録してください」

その下に、三つの空欄が現れた。

『第一候補――黒田』

『第二候補――高瀬零』

『第三候補――高瀬蓮』

三つの名前。

三人の母親候補。

俺は、その文字を見つめた。

そして、気づいた。

三つの候補のうち、どれも、本当の母親ではないかもしれない。

黒田先生は、俺の母親ではない。

零も、俺の母親ではない。

そして、俺自身も、自分が誰から生まれたのかを知らない。

ならば。

本当の母親は、どこにいるのか。

母子手帳の裏側に、最後の文章が浮かび上がった。

「第四候補は、まだ名前を持っていない」

その瞬間、部屋の扉が開いた。

廊下の向こうに、小さな子供が立っていた。

三十八番。

顔は、やはり見えなかった。

子供は、俺を見上げた。

「蓮」

声は、俺自身の声に似ていた。

「僕の名前、決めてくれた?」

俺は答えられなかった。

子供は、少しだけ首を傾けた。

「名前がないと、僕は出席できないんだ」

その声は、責めているようには聞こえなかった。

ただ、事実を伝えているだけだった。

「僕が出席できないと、お母さんも生まれない」

俺は、息を止めた。

「……お母さん?」

子供はうなずいた。

「そう」

そして、静かに言った。

「僕が生まれたら、お母さんが生まれるんだよ」

6.四人目の母親

子供は、部屋に入ってこなかった。

扉の前に立ったまま、俺を見つめていた。

「名前を決めて」

同じ言葉を、もう一度繰り返す。

「そうすれば、僕は出席できる」

俺は、黒田先生を見た。

「名前を決めたら、どうなるんですか」

先生は、すぐには答えなかった。

やがて、静かに言った。

「三十八番の記録が確定する」

「それで、俺は?」

「お前の記録が、三十八番の出生記録に引き継がれる」

「つまり、俺は欠席する」

「その可能性がある」

俺は、子供を見た。

「名前を決めなかったら?」

「僕は、出席できない」

子供は答えた。

「僕が出席できなかったら、お母さんも生まれない」

「お前の言う母さんって、誰なんだ」

子供は、少し考えるような仕草をした。

「まだ、わからない」

「わからないのに、母さんが生まれるって言うのか」

「うん」

子供はうなずいた。

「だって、僕が生まれないと、お母さんが生まれないから」

俺は、頭を抱えたくなった。

何もかもが逆転している。

子供が生まれるためには、母親が必要だ。

母親が生まれるためには、子供が必要だ。

その子供が生まれるためには、別の母親が必要になる。

どこかで始まりがなければならない。

しかし、この学校には、始まりが存在しない。

記録が先にあり、存在が後から生まれる。

出席者が欠席者を作り、欠席者が記録者を生み、記録者が次の出席者を作る。

その繰り返し。

では、最初の記録は、誰が作ったのか。

俺は、黒田先生に尋ねた。

「先生。最初の出席簿を書いたのは、誰なんですか」

先生は、しばらく黙っていた。

そして、答えた。

「それを知っている人間は、もういない」

「記録は残っているんですよね」

「残っている」

「なら、名前もあるはずです」

黒田先生は、首を振った。

「最初の出席簿には、作成者の欄がない」

「どうして?」

「誰かが作ったという記録がないからだ」

俺は、最初の出席簿を開いた。

一九八九年四月一日。

出席番号一、黒田。

二、佐伯。

三、高瀬。

その下に、三十七人分の記録。

そして、三十八番の空欄。

表紙にも、裏表紙にも、作成者の名前はない。

ただ、最後のページに、小さな文字が書かれていた。

「この出席簿は、最初から存在していた」

その下に、さらに一行。

「最初の記録者は、出席簿を作った人間ではない」

俺は、ゆっくりとページをめくった。

その瞬間、冊子の中央から、一枚の紙が滑り落ちた。

今まで、綴じられていたはずの紙だった。

拾い上げる。

そこには、手書きの文章があった。

『母親は、子供を産む』

『子供は、母親を記録する』

『記録された母親は、子供の存在を確定する』

『確定した子供は、次の母親を記録する』

四つの文章。

その下に、丸い図が描かれていた。

母親。

子供。

記録者。

欠席者。

それぞれが矢印で結ばれ、輪になっている。

どこにも始まりはない。

どこにも終わりはない。

そして、図の中央に、たった一つの言葉があった。

「午前零時」

俺は、その文字を見つめた。

午前零時。

すべてが始まる時間。

出席確認が行われる時間。

名前が書き換えられる時間。

記録者が生まれる時間。

けれど、もし、この輪が最初から存在しているなら。

午前零時は、始まりではない。

何かが繰り返される境目なのだ。

俺は、子供を見た。

「お前は、何度目なんだ」

子供は、首を傾けた。

「何が?」

「この記録だよ。お前が生まれるのは、今回が初めてなのか」

子供は、少しだけ考えた。

「わからない」

「じゃあ、前にも生まれたことがあるかもしれないんだな」

「うん」

子供は、うなずいた。

「でも、前に生まれた僕は、もういないよ」

「どうして?」

「お母さんが、僕の名前を消したから」

俺は、息を止めた。

「……誰が?」

子供は、俺を指さした。

「君だよ」

俺は首を振った。

「違う。俺は、お前の名前を知らない」

「今の君はね」

子供は、静かに言った。

「でも、前の君は知っていた」

その言葉と同時に、俺の頭の中に、また光景が浮かんだ。

白い部屋。

木製の机。

黒いノート。

机の向こうに座る、制服姿の少年。

その少年は、俺だった。

今の俺と同じ顔。

ただし、表情が違う。

疲れ切った顔で、ノートに何かを書いていた。

『三十八番』

少年が書く。

『名前――未登録』

その隣に、誰かが立っている。

顔は見えない。

少年が、震える手でペンを握り直した。

『この子を出席させることはできない』

顔の見えない人物が尋ねる。

『どうして?』

『この子が出席したら、母親が生まれる』

『それは、悪いことなの?』

少年は、しばらく黙っていた。

そして、答えた。

『母親が生まれたら、今度は母親が欠席する』

『それなら、母親を出席させればいい』

『そうしたら、別の誰かが欠席する』

少年は、ノートを閉じた。

『もう、誰も欠席させたくない』

そこで、光景が途切れた。

俺は、床に手をついていた。

子供が、扉の前に立っている。

「思い出した?」

俺は答えられなかった。

子供は、静かに続けた。

「前の君は、僕の名前を消した」

「……」

「だから、僕は生まれなかった」

子供は、少しだけ笑った。

「でも、今回は違う」

「何が違うんだ」

「今回は、君が僕を見つけた」

子供は、胸元の名札を指で押さえた。

三十八。

「だから、今度こそ名前をつけて」

俺は、何も言えなかった。

名前を決めれば、三十八番が出席する。

三十八番が出席すれば、俺は欠席するかもしれない。

けれど、名前を決めなければ、三十八番は存在し続けることができない。

そして、母親も生まれない。

誰かを出席させるために、誰かを欠席させる。

この仕組みを繰り返す限り、終わりはない。

俺は、子供を見つめた。

「……お前は、本当に生まれたいのか」

子供は、初めて答えに迷ったようだった。

しばらく黙っていた。

そして、小さな声で言った。

「生まれたい」

その言葉は、あまりにも普通だった。

ただ、存在したい。

名前が欲しい。

誰かに呼ばれたい。

それだけの願いだった。

俺は、目を閉じた。

そして、ゆっくりと口を開いた。

「わかった」

黒田先生が、顔を上げた。

零が、息を止めた。

子供は、まっすぐ俺を見つめた。

「名前を決める」

俺は、子供の名札に手を伸ばした。

その瞬間、黒田先生が叫んだ。

「待て!」

しかし、遅かった。

名札に、文字が浮かび上がった。

一文字目。

高。

二文字目。

瀬。

三文字目。

真。

高瀬真。

子供は、自分の名札を見た。

そして、ゆっくりと笑った。

「……真」

その名前を口にした瞬間、部屋中の時計が一斉に動き始めた。

午前零時。

午前零時一分。

午前零時二分。

止まっていた時間が、流れ始めた。

スピーカーから、校内放送が鳴った。

『三十八番』

『氏名――高瀬真』

『出生確認――開始』

『母親――高瀬蓮』

『出生証言――未実施』

『出席確認――保留』

俺は、息を吐いた。

名前を与えた。

それだけで、何かが変わった。

だが、黒田先生は、俺を見ていなかった。

先生は、最初の出席簿を見つめていた。

そこに、新しい文字が浮かび上がっていた。

『三十八番――高瀬真』

『母親――高瀬蓮』

その下に、もう一行。

『母親の出生――未確認』

そして、最後に。

『次の母親候補――高瀬真』

俺は、ゆっくりと顔を上げた。

高瀬真が、俺を見ていた。

「蓮」

真は、静かに言った。

「僕が生まれたから、次は君の番だよ」

「……何の番だ」

真は、笑った。

「僕を産んだお母さんを、探す番」

その瞬間、旧記録保管室の扉が閉まった。

鍵の掛かる音がした。

カチリ。

部屋の照明が消える。

暗闇の中で、校内放送が告げた。

『第十日目――母親の出生確認を開始します』

『対象者――高瀬蓮』

『確認者――高瀬真』

『確認事項――高瀬蓮を産んだ母親の氏名』

一瞬の沈黙。

そして、最後に。

『なお、母親の名前を知っているのは、母親本人だけとは限りません』

俺は、暗闇の中で、自分の手を見た。

そこには、いつの間にか、古い紙片が握られていた。

紙片には、見覚えのない名前が書かれていた。

「佐伯美月」

その下に、日付。

一九八九年四月一日。

そして、短い一文。

「高瀬蓮の母親」

俺は、息を止めた。

佐伯。

高瀬。

黒田。

零。

真。

名前が、少しずつつながり始めていた。

だが、紙片の裏には、さらに一行が書かれていた。

「ただし、この人物は、まだ生まれていない」

7.母親の名前

暗闇の中で、誰かが俺の手を握った。

冷たい手だった。

「蓮」

女の声がした。

母さんの声ではない。

黒田先生の声でもない。

聞いたことのない声だった。

「名前を見つけたのね」

俺は、動けなかった。

「佐伯美月」

女は、その名前を口にした。

「それが、あなたのお母さんの名前よ」

「……誰なんだ、あなたは」

「私は、あなたのお母さんではない」

女は答えた。

「でも、あなたのお母さんを知っている」

「どこにいるんだ」

「まだ生まれていない」

また、その言葉だった。

「どうすれば会える」

女は、少しだけ笑った。

「あなたが、私の名前を記録すればいい」

「あなたの名前?」

「そう」

女は、俺の手を離した。

暗闇の中で、紙を差し出す気配がした。

俺は、それを受け取った。

紙には、三つの項目が記されていた。

『氏名――未登録』

『出生年月日――未登録』

『母親――高瀬蓮』

そして、その下。

『登録者――高瀬真』

俺は、息をのんだ。

「……これは、誰の記録だ」

女は答えた。

「私の記録よ」

「でも、名前がない」

「あなたが、まだ書いていないから」

「俺が名前を書くと、あなたは生まれるのか」

「そう」

女は、静かに言った。

「でも、あなたが私の名前を書くと、私はあなたのお母さんではなくなる」

「どういうことだ」

「私は、あなたのお母さんを産むことになるから」

俺は、言葉を失った。

母親が、子供を産む。

子供が、母親を記録する。

記録された母親が、子供の存在を確定する。

そして、その子供が、次の母親を記録する。

終わりのない輪。

女は、最後に言った。

「蓮。あなたは、私の名前を知っているはずよ」

「知らない」

「いいえ」

女は、俺の耳元でささやいた。

「あなたは、私の名前を何度も書いている」

「……何?」

「あなたが今まで書いてきた、すべての出席簿に」

俺は、手元の紙を見た。

氏名――未登録。

その空欄に、黒い文字が浮かび上がっていた。

最初の一文字。

佐。

二文字目。

伯。

三文字目。

美。

四文字目。

月。

佐伯美月。

俺は、紙を落とした。

女の声が、遠ざかっていく。

「ありがとう、蓮」

「待て!」

俺は暗闇に向かって叫んだ。

「佐伯美月って、誰なんだ!」

返事はなかった。

代わりに、スピーカーから校内放送が流れた。

『母親の出生確認――完了』

『対象者――高瀬蓮』

『母親――佐伯美月』

『出生年月日――未登録』

『出生地――未登録』

『保護者――高瀬真』

俺は、床に膝をついた。

母親の名前が、確定した。

佐伯美月。

だが、彼女はまだ生まれていない。

俺を産んだ母親が、俺の子供によって記録された。

俺の子供が、母親の記録を引き継いだ。

そして、俺の母親が生まれるためには、さらに別の誰かが必要になる。

俺は、ゆっくりと顔を上げた。

暗闇の向こうに、子供が立っていた。

高瀬真。

真は、俺を見ていた。

「蓮」

真が言った。

「これで、僕のお母さんが決まったね」

「……誰なんだ」

「佐伯美月」

真は、うなずいた。

「僕のお母さんの、お母さんだよ」

俺は、意味を理解できなかった。

「どういうことだ?」

真は、静かに答えた。

「佐伯美月は、僕を産むんだよ」

「でも、さっきは……」

「君が僕を産んだことになっている」

真は、自分の名札を見た。

「でも、それは仮の記録だ」

俺は、立ち上がった。

「じゃあ、俺は何なんだ」

真は、少しだけ首を傾けた。

「君は、僕の母親として記録された人」

「それだけか?」

「今のところはね」

真は、笑った。

「でも、君が僕を産んだことを否定すれば、僕は別の母親から生まれることになる」

「それが、佐伯美月なのか」

「そうだよ」

真はうなずいた。

「だから、君は僕を産んでいないと証言してほしい」

俺は、真を見つめた。

「俺が、お前を産んでいないと証言したら……」

「僕の出生が確定する」

「俺はどうなる」

真は、少しだけ悲しそうな顔をした。

「君は、欠席する」

その言葉は、静かだった。

何の感情もないように聞こえた。

けれど、真の目は、泣きそうに揺れていた。

「でも、そうしなければ、僕は生まれられない」

俺は、何も言えなかった。

真は、ゆっくりと手を差し出した。

「蓮。僕の名前を決めてくれて、ありがとう」

その手は、小さかった。

「次は、僕を出席させて」

俺は、その手を見つめた。

自分が出席するために、誰かを欠席させる。

誰かを出席させるために、自分が欠席する。

それが、この学校の仕組みだった。

だが、俺はもう、誰かを欠席させたくなかった。

高瀬零も。

佐伯も。

黒田先生も。

そして、目の前の高瀬真も。

誰かが欠席しなければ、誰かが存在できない。

そんな仕組みを、終わらせたい。

俺は、真の手を取らなかった。

代わりに、最初の出席簿を開いた。

そこには、母親の名前が記されている。

佐伯美月。

その下に、出生確認の欄。

『本人確認――未実施』

『出生証言――未実施』

『出席確認――未実施』

そして、一番下。

『母親本人の意思――未確認』

俺は、その文字を見つめた。

母親の名前は、記録された。

だが、本人の意思は確認されていない。

つまり、まだ確定していないことがある。

誰かが母親として登録されても、その人が本当に母親になることを望んでいるとは限らない。

黒田先生は、母親として登録されることを拒んだ。

俺も、真の母親になることを望んでいない。

ならば、佐伯美月も。

彼女が本当に俺を産んだのかどうか。

彼女が本当に母親になることを望んでいるのかどうか。

それを確認しなければならない。

俺は、真を見た。

「……わかった」

真は、顔を上げた。

「本当?」

「ああ。ただし、一つだけ条件がある」

「何?」

「佐伯美月に会わせてくれ」

真は、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりとうなずいた。

「わかった」

その瞬間、最初の出席簿のページがひとりでにめくれた。

最後のページ。

三十八番。

高瀬真。

その下に、新しい文字が浮かび上がる。

『母親――佐伯美月』

さらに、その下。

『母親の出生地――東京都市大学附属高等学校』

俺は、その文字を見つめた。

学校の名前。

俺が今通っている、この学校。

だが、俺はそんな名前を聞いたことがなかった。

校舎の外にある看板にも、そんな名前は書かれていない。

俺は、黒田先生を振り返った。

先生は、静かに首を横に振った。

「……そんな学校は、存在しない」

その瞬間、スピーカーから、最後の放送が流れた。

『第十日目――終了』

『第十一日目――開始』

『対象者――佐伯美月』

『確認事項――出生地の存在確認』

『なお、対象者は、まだ生まれていません』

部屋の扉が開いた。

その向こうには、見知らぬ校舎が広がっていた。

古い木造の校舎。

廊下には、誰もいない。

壁には、見覚えのない校章が掲げられている。

そして、正面の掲示板には、一枚の紙が貼られていた。

「東京都市大学附属高等学校」

その下に、小さな文字。

「一九八九年四月一日、開校」

俺は、息を止めた。

俺が通っている学校とは、別の学校。

しかし、校舎の形も、廊下の配置も、教室の窓も、すべて同じだった。

違うのは、掲示板の一番下に書かれた一文だけだった。

「在籍者――三十七名」

その横に、手書きの文字がある。

「欠席者――一名」

そして、欠席者の名前。

高瀬蓮。

俺は、振り返った。

黒田先生も、高瀬真も、もういなかった。

廊下の奥から、誰かが歩いてくる。

足音が近づく。

コツ。

コツ。

コツ。

やがて、曲がり角から、一人の女子生徒が姿を現した。

古い制服を着ている。

髪は肩まで伸びている。

胸元には、名札がついていた。

佐伯美月。

彼女は、俺を見ると、驚いたように目を見開いた。

そして、静かに言った。

「……蓮?」

その声は、俺がずっと探していた母さんの声に、よく似ていた。

彼女は、俺の顔を見つめた。

「どうして、あなたがここにいるの?」

俺は答えられなかった。

彼女は、少しだけ震える声で言った。

「だって、あなたは――」

その瞬間、廊下の時計が鳴った。

午前零時。

佐伯美月は、口を閉じた。

そして、俺の後ろを見た。

そこには、誰もいないはずだった。

だが、彼女は、誰かに向かって深く頭を下げた。

「……お母さん」

俺は振り返った。

廊下の奥に、一人の女性が立っていた。

顔は見えない。

ただ、その胸元には、名札がついていた。

名前は、こう書かれていた。

高瀬蓮。

俺は、息を止めた。

俺と同じ名前。

俺と同じ顔。

そして、佐伯美月が「お母さん」と呼んだ人物。

その女性が、ゆっくりとこちらを向いた。

「蓮」

俺の声だった。

「やっと、会えたね」

第十五話・終

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