第十四話 「母親の名前」
1.三十八番
「次は、僕の番だよ」
窓の向こうにいた子供は、確かにそう言った。
俺と同じ顔をした二人の少年。その間に立つ、小さな子供。
胸元には、三十八番の名札。
その顔だけが、どうしても見えなかった。
輪郭はある。
目も、鼻も、口もあるはずだった。
しかし、そこだけが写真を強い光で飛ばしたように白く、表情を読み取ることができない。
俺は窓に駆け寄った。
「おい!」
子供が首を傾ける。
「お前、誰だ!」
返事はない。
「三十八番って何なんだ! お前は高瀬零なのか? それとも――」
そこで、俺は言葉を止めた。
子供の隣に立つ高瀬零が、こちらを見ていたからだ。
零は笑っていなかった。
むしろ、ひどく困ったような顔をしていた。
そして、唇だけを動かした。
――見るな。
俺は目を凝らした。
零は、もう一度繰り返した。
――あいつを見るな。
その瞬間、教室の照明が一斉に消えた。
暗闇の中で、机を引く音がした。
ギィ。
ギィ。
ギィ。
誰もいないはずの教室で、椅子が次々と動いていく。
俺は窓から離れ、手探りで自分の机を探した。
そのとき、耳元で子供の声がした。
「お母さん」
俺は振り返った。
誰もいない。
「お母さん、どうして僕の名前を書いてくれなかったの?」
声は、今度は机の下から聞こえた。
「僕も、出席したかったのに」
俺は後ずさった。
「やめろ……」
「蓮お母さん」
その呼び方を聞いた瞬間、俺の頭の中に、見たことのない光景が浮かんだ。
白い部屋。
金属製の机。
壁に掛けられた時計。
午前零時を指す針。
机の向こうに座っている、制服姿の少年。
少年は、黒いノートに何かを書いていた。
その隣には、もう一人。
顔は見えない。
ただ、少年が書き終えるたびに、その人物が首を横に振っていた。
『この名前では、出席できない』
少年が言う。
『じゃあ、どの名前ならいいんだ』
『名前の問題じゃない』
『それなら、何の問題なんだ』
長い沈黙。
やがて、顔の見えない人物が答えた。
『君が、まだ生まれていないことだ』
そこで、光景が途切れた。
照明が戻る。
俺は床に手をついていた。
机も椅子も、元の位置に戻っている。
窓の向こうには、誰もいなかった。
ただ、窓ガラスの内側に、小さな手形がついていた。
子供の手形だった。
その下に、指で書かれた文字がある。
「お母さんの名前を教えて」
俺は手形を見つめた。
母さんの名前。
そういえば、俺は母さんの名前を知っているはずだった。
家族の名前くらい、覚えていて当然だ。
けれど、思い出そうとした途端、頭の中に白い霧がかかった。
名前の最初の一文字すら浮かばない。
顔も思い出せない。
声は覚えている。
手の温度も覚えている。
俺の名前を呼ぶ声。
食事の支度をする音。
帰宅したときの「おかえり」という言葉。
それなのに、母さんの名前だけが、どこにもなかった。
俺はスマートフォンを取り出した。
連絡先を開く。
母さん。
登録名は、それだけだった。
名字も、名前もない。
プロフィール画面にも、誕生日は登録されていない。
写真もない。
俺は画面を閉じた。
その瞬間、通知が一件届いた。
送信者――記録者。
本文は、たった一行。
「名前のない母親は、子供を産むことができません」
続けて、もう一件。
「本日、午後零時までに母親の名前を確認してください」
最後の通知には、時刻が表示されていた。
午前七時四十四分。
期限まで、四時間十六分。
そして、画面の一番下に、赤い文字が浮かんだ。
「確認できなかった場合、対象者を母親として登録します」
対象者。
高瀬蓮。
俺自身が、誰かの母親になる。
昨日までは、意味がわからなかった言葉。
今は、少しだけわかる気がした。
俺は誰かを産むのではない。
俺の記録から、誰かが生まれるのだ。
そして、その誰かが俺の名前を引き継ぐ。
俺が出席するために、誰かが欠席する。
その繰り返しの先に、三十八番がいる。
俺は窓ガラスを見た。
小さな手形は、消えていた。
代わりに、そこには俺自身の指で書かれたような文字が残っていた。
「母親の名前は、黒田」
2.黒田先生
黒田先生は、職員室にいた。
少なくとも、職員室にいることになっていた。
俺が扉を開けると、先生はいつもの席で書類を読んでいた。
黒いスーツ。
白いシャツ。
胸元の名札。
黒田。
先生は顔を上げた。
「どうした、高瀬」
いつもと変わらない声だった。
「先生に、聞きたいことがあります」
「何だ」
「俺の母親の名前を知っていますか」
先生の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
書類をめくる指が止まり、視線が俺の顔に固定された。
それだけで、俺は確信した。
先生は何かを知っている。
「どうして、そんなことを聞く」
「必要なんです」
「母親の名前なら、自分で確認できるだろう」
「確認できないんです」
俺はスマートフォンを見せた。
母さんの連絡先。
名前の欄は空白。
「俺は母親の顔を思い出せません。名前も思い出せない。電話をかけてもつながらない。けど、昨日は話したんです」
先生は画面を見なかった。
「誰と話したんだ」
「母さんとです」
「本当に?」
その問いは、静かだった。
責める口調ではない。
疑っているというより、俺が自分で答えを見つけるのを待っているような声だった。
俺は答えられなかった。
先生は書類を机に置いた。
「高瀬。お前は今、自分の記録が書き換えられていることに気づいているな」
「……はい」
「なら、ひとつだけ覚えておけ」
先生は周囲を見回した。
職員室には誰もいない。
それでも、声を低くした。
「記録と記憶が食い違ったとき、必ずしも記録が嘘とは限らない」
「どういう意味ですか」
「記憶は、誰かが経験したことだ。記録は、その経験を誰かが残したものだ」
先生は指を組んだ。
「だが、この学校では、順番が逆になることがある」
「順番?」
「記録が先に作られ、その記録に合わせて記憶が生まれる」
俺は息をのんだ。
「……じゃあ、俺の母さんも?」
「お前が母親だと認識している人物が、本当にお前を産んだのか。それは、記憶だけでは証明できない」
「先生は、母親の名前を知っているんですか」
黒田先生は、しばらく黙っていた。
やがて、机の引き出しを開けた。
中から、古い写真を一枚取り出す。
色褪せた集合写真だった。
校舎の前に、十数人の生徒が並んでいる。
制服は、今のものとは違う。
写真の隅に、撮影日が記されていた。
二〇一九年九月三十日。
俺は写真を受け取った。
生徒たちの顔を一人ずつ確認する。
知らない顔ばかりだった。
だが、後列の中央に、一人だけ見覚えのある人物がいた。
佐伯直人。
三十五番として現れた少年と、同じ顔だった。
その隣には、三十四番の名札をつけた佐伯も写っている。
同じ人物なのか。
別人なのか。
写真だけでは判断できなかった。
そして、前列の端に、女性が一人立っていた。
教師だろうか。
黒いスーツを着ている。
胸元には名札。
その名札には、黒田と書かれていた。
「……先生?」
俺は写真を見た。
「これ、先生ですよね」
黒田先生は答えなかった。
写真の女性は、今の先生と同じ顔をしていた。
髪型も、目元も、口元も。
ただし、写真の女性は今よりずっと若く見えた。
いや、若いというより。
時間が経っていないように見えた。
俺は写真の裏を見た。
そこには、鉛筆で文章が書かれていた。
『記録者候補、三十五番』
『出生確認、未実施』
『保護者、黒田』
そして、その下に赤い文字。
「黒田は母親ではない」
俺は顔を上げた。
「先生。これ、どういう意味ですか」
黒田先生は写真を取り返さなかった。
ただ、静かに言った。
「その写真は、私が教師になる前のものだ」
「でも、顔が変わっていません」
「そうだな」
「どうしてですか」
先生は答えなかった。
代わりに、俺の手元を見た。
「高瀬。写真の裏を、もう一度読んでみろ」
俺は視線を落とした。
『保護者、黒田』
『黒田は母親ではない』
その二つの文章は、矛盾しているように見えた。
だが、よく考えれば違う。
保護者であることと、母親であることは同じではない。
先生は俺を育てたのか。
俺の記録を管理していたのか。
それとも、俺が存在するための条件を整えていたのか。
「先生は、俺の母親なんですか」
俺は尋ねた。
黒田先生は、すぐに答えた。
「違う」
その声は、驚くほど明瞭だった。
「私は、お前の母親ではない」
「じゃあ、どうして俺の名前がここにあるんですか」
「私が、お前の名前を書いたからだ」
先生は写真を指さした。
「お前が生まれる前に」
俺は何も言えなかった。
先生は、淡々と続けた。
「高瀬蓮という名前は、最初からお前のものだったわけではない」
「……どういうことですか」
「名前は、誰かが書かなければ存在しない。少なくとも、この学校ではな」
先生は机の上から、別の紙を取り出した。
古い書類だった。
表題は「在籍者登録申請書」。
申請者の欄には、黒田先生の名前がある。
対象者の欄には、こう書かれていた。
高瀬蓮
その下の項目。
出生年月日。
二〇〇八年十一月六日。
出生地。
未登録。
保護者。
黒田。
そして、申請理由。
『記録者候補を確保するため』
俺は書類を見つめた。
「記録者候補って……俺のことですか」
「そうだ」
「俺は、最初から記録者になるために作られたんですか」
黒田先生は、ゆっくりと首を振った。
「それは違う」
「何が違うんですか」
「お前は、記録者になるために作られたのではない」
先生は俺の目を見た。
「記録者を生み出すために、記録されたんだ」
3.二〇一九年九月三十日
黒田先生は、引き出しから鍵を取り出した。
銀色の、小さな鍵だった。
「ついてきなさい」
先生は職員室を出た。
俺は黙って後を追った。
廊下の時計は、午前八時を指している。
秒針は動いている。
分針も進んでいる。
しかし、窓の外では、同じ車が何度も同じ場所を通り過ぎていた。
一台目。
二台目。
三台目。
同じ色。
同じ車種。
同じナンバープレート。
車は交差点で右に曲がり、数秒後、また同じ場所から現れる。
俺は見なかったことにした。
今は、ほかに確かめるべきことがある。
黒田先生は、階段を下り、普段は使われていない地下通路へ向かった。
学校に地下通路があること自体、俺は知らなかった。
階段の先には、鉄製の扉があった。
扉には、白いプレートが貼られている。
「旧記録保管室」
先生が鍵を差し込む。
カチリ。
扉が開いた。
中は、ひんやりとしていた。
壁には棚が並び、古い書類が保管されている。
一番奥に、金属製のキャビネットがあった。
先生は鍵を開け、一番下の引き出しを引いた。
中には、薄いファイルが一冊だけ入っていた。
表紙には、日付が書かれている。
二〇一九年九月三十日。
俺は、その日付を見つめた。
何度も出てきた日付。
蓮と零の名前が入れ替わった日。
母親の記録が削除された日。
佐伯が二人の高瀬を選べなかった日。
そして、三十五番が記録者候補になった日。
「この日に、何があったんですか」
黒田先生は、ファイルを開いた。
「記録の異常が初めて確認された」
最初のページには、短い報告が記されていた。
『午前零時、在籍者名簿に未登録の生徒が出現』
『対象者、二名』
『氏名、高瀬蓮』
『氏名、高瀬零』
『両者の顔貌、身体的特徴、筆跡が一致』
『同一人物である可能性を否定できず』
俺は文章を読み進めた。
『午前零時七分、二名のうち一名の本人確認を実施』
『確認対象、高瀬蓮』
『証言者、母親』
『結果、確認失敗』
次の行。
『午前零時十二分、再確認を実施』
『確認対象、高瀬零』
『証言者、母親』
『結果、確認失敗』
その下には、赤い線が引かれていた。
『証言者が、二名を同時に自分の息子であると主張』
『記録との整合性が取れず』
『母親の本人確認を中止』
俺はページをめくった。
『午前零時二十二分、記録の上書きを試行』
『高瀬蓮を出席者として登録』
『高瀬零を欠席者として登録』
『結果、双方の記録が混在』
『出席簿、写真、保護者の記憶に矛盾が発生』
さらに次のページ。
『午前零時四十七分、三十五番を記録者候補として登録』
『候補者の氏名、佐伯直人』
『候補者の出生記録、未登録』
『候補者の保護者、黒田』
『目的、記録の分離』
俺は先生を見た。
「佐伯は、このために登録されたんですか」
「そうだ」
「二人の高瀬を分けるために?」
「そうだ」
「でも、佐伯は失敗した」
黒田先生はうなずいた。
「佐伯は、二人を分けることができなかった」
「どうしてですか」
先生は、次のページを開いた。
そこには、手書きの文章が残されていた。
『高瀬蓮を出席させれば、高瀬零が欠席する』
『高瀬零を出席させれば、高瀬蓮が欠席する』
『両者を欠席させれば、記録そのものが消失する』
『両者を出席させれば、記録が重複する』
その下に、佐伯の筆跡と思われる文字があった。
『どちらか一人を選ぶことはできない』
『二人とも、確かにそこにいた』
『二人とも、俺の名前を呼んだ』
『俺は、二人とも覚えている』
最後の一文だけ、何度も書き直されていた。
『だから、二人とも出席させる』
『だから、二人とも出席させる』
『だから、二人とも出席させる』
俺はページをめくった。
最後の報告書には、こう書かれていた。
『午前零時五十九分、記録の分離に失敗』
『高瀬蓮、出席』
『高瀬零、出席』
『佐伯直人、記録者候補から除外』
『三十五番、欠番として処理』
そして、赤い文字で追記されていた。
「記録者は、別の場所で発生した」
俺は顔を上げた。
「別の場所?」
黒田先生は、ファイルを閉じた。
「佐伯は、記録者にならなかった」
「じゃあ、誰が?」
先生は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに答えた。
「お前だ」
俺は首を振った。
「違います。俺は、二〇〇八年に生まれたんです」
「それは記録だ」
「母さんもいる」
「それも記録だ」
「俺には、今までの人生があります」
「それも記録されている」
先生の声は、どこまでも落ち着いていた。
「高瀬。お前が経験したことを、すべて否定するつもりはない」
「だったら……」
「だが、お前が経験したことが、誰によって、いつ、どのように記録されたのか。それを確認しなければ、お前が誰なのかはわからない」
先生は、ファイルの表紙を指で叩いた。
「二〇一九年九月三十日。あの日、記録者は一度、消失した」
「……消失?」
「そして、別の記録から生まれ直した」
「その記録って……」
黒田先生は、俺の胸元を見た。
「お前の記録だ」
その瞬間、ファイルの中から紙が一枚滑り落ちた。
床に落ちた紙には、見慣れた文字が書かれていた。
『記録者の母親――黒田』
その下に、別の筆跡で追記されている。
『訂正』
『黒田は母親ではない』
さらに、その下。
『母親は、記録者自身である』
俺は紙を拾い上げた。
「……どういうことですか」
黒田先生は、何も答えなかった。
代わりに、部屋の奥を指さした。
そこには、もう一つ扉があった。
今まで、壁だと思っていた場所だった。
扉の中央には、白い文字でこう書かれている。
「母親確認室」
扉の下から、細い光が漏れていた。
そして、その向こう側から、女の声が聞こえた。
「蓮」
俺は動けなくなった。
母さんの声だった。
「そこにいるのね」
俺は黒田先生を見た。
先生は、静かにうなずいた。
「確認しなさい」
「何を?」
「お前の母親が、本当にお前の母親なのか」
俺は扉に手を伸ばした。
取っ手に触れた瞬間、向こう側から声がした。
「お願い、蓮」
母さんが泣いていた。
「今度こそ、私の名前を思い出して」
4.母親確認室
扉を開けると、小さな部屋があった。
壁も床も白い。
窓はない。
中央には椅子が二つ向かい合わせに置かれていた。
片方の椅子に、女性が座っている。
俺は、顔を見た。
見覚えがあった。
間違いなく、母さんだった。
少なくとも、俺の記憶の中にある母さんと同じだった。
髪型。
服装。
手の組み方。
俺が帰宅したときに見せる、少し困ったような笑顔。
すべてが一致している。
「蓮」
母さんが立ち上がった。
「大きくなったね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥が痛んだ。
懐かしい。
そう思った。
理由はわからない。
けれど、ずっと探していたものに、ようやく出会えたような気がした。
俺は一歩、前に進んだ。
「母さん……」
「うん」
母さんはうなずいた。
「ここにいるよ」
俺は、思わず駆け寄りそうになった。
しかし、その直前で足を止めた。
昨日、母さんは俺に言った。
――あなたには、双子の弟がいました。
――生まれた日、あなたは一人でした。
――それでも、私は二人の息子を覚えています。
そして、最後に。
――今度こそ、あなた自身の名前を選んで。
俺は、母さんの顔を見つめた。
「母さんの名前を教えて」
母さんは微笑んだ。
「どうしたの、急に」
「教えてほしいんだ」
「あなたのお母さんの名前でしょう?」
「だから、教えて」
母さんは、口を開いた。
しかし、声が出なかった。
一度、唇を閉じる。
もう一度、開く。
それでも、何も言わない。
俺は気づいた。
母さんの顔は、さっきまでと同じだった。
髪型も、服装も、表情も。
だが、首元にあるはずのネックレスがなかった。
小さいころ、母さんがいつも身につけていた銀色のネックレス。
先端には、小さな楕円形のペンダントがついていた。
俺は、それを覚えている。
誕生日に、母さんがなくしたと話していたものだ。
「……ネックレスは?」
母さんの表情が変わった。
「何?」
「いつもつけてたでしょう。銀色のやつ」
母さんは、自分の首元に触れた。
「そんなもの、持っていないわ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は一歩下がった。
母さんは、ネックレスを持っていた。
少なくとも、俺の記憶ではそうだった。
だが、今の母さんは知らないと言った。
どちらが本当なのか。
俺の記憶が間違っているのか。
それとも、目の前の母さんが、俺の知っている母さんではないのか。
「蓮?」
母さんが近づいてきた。
「どうしたの?」
「来ないで」
俺は思わず言った。
母さんは立ち止まった。
悲しそうな顔をした。
「どうして?」
「……わからない」
「私は、あなたのお母さんよ」
「だったら、名前を教えて」
母さんは黙った。
俺は続けた。
「俺が生まれた病院は?」
返事はない。
「父さんの名前は?」
沈黙。
「俺が最初に歩いたのは、どこ?」
母さんは、何も答えられなかった。
「俺が小さいころ、熱を出したとき、何を食べさせてくれた?」
母さんの目が揺れた。
俺は、ゆっくりと言った。
「俺のことを、本当に覚えているの?」
母さんの頬を、涙が伝った。
「覚えているわ」
「じゃあ、どうして答えられないんだよ」
「……ごめんなさい」
「何を謝ってるんだ」
「私は、あなたを忘れたくなかった」
母さんは、椅子に座り込んだ。
「でも、名前を言ってしまったら、あなたを失うと思ったの」
「誰に?」
「あなたに」
俺は言葉を失った。
母さんは顔を上げた。
「蓮。あなたは、私の息子よ」
「だったら、名前を教えて」
「それは……」
「母さんの名前を教えてくれ」
母さんは、震える唇で何かを言おうとした。
その瞬間、部屋のスピーカーが鳴った。
『本人確認を開始します』
黒田先生の声だった。
『対象者、高瀬蓮』
『確認者、母親』
『質問一。対象者の出生年月日は』
母さんは答えた。
「二〇〇八年十一月六日」
『質問二。対象者の出生地は』
母さんは黙った。
『回答してください』
「……覚えていません」
『質問三。対象者の父親の氏名は』
「わかりません」
『質問四。確認者の氏名は』
母さんは口を開いた。
だが、声が出なかった。
スピーカーから、無機質な声が流れる。
『確認者の氏名を回答してください』
母さんは、何度も唇を動かした。
やがて、小さくつぶやいた。
「私は……」
そこで、言葉が止まった。
『回答を確認できません』
『本人確認――失敗』
俺は母さんに駆け寄った。
「母さん!」
母さんは俺を見た。
その顔が、少しずつ変わり始めた。
髪が短くなる。
目元が変わる。
頬の輪郭が変わる。
まるで、複数の人間の顔が、一枚の写真の上で入れ替わっているようだった。
俺は、その変化を見つめていた。
見覚えのある顔が、一瞬だけ現れた。
佐伯。
次に、三十五番。
その次に、黒田先生。
そして最後に。
高瀬零。
母さんは、零の顔になっていた。
「蓮」
零の声だった。
「ごめんね」
俺は後ずさった。
「お前……」
零は悲しそうに笑った。
「私は、あなたのお母さんじゃない」
「じゃあ、誰なんだ」
「あなたの母親の記録を引き継いだもの」
「そんなの、母さんじゃないだろ!」
俺は叫んだ。
零はうなずいた。
「そうだね」
「じゃあ、本当の母さんはどこにいるんだ!」
零は答えなかった。
代わりに、自分の胸元を指さした。
そこには、白い名札がついていた。
名前はない。
番号もない。
ただ、一文字だけが書かれていた。
「母」
零は、その名札を外した。
「お母さんは、まだ生まれていないんだよ」
俺は、息を止めた。
「……どういう意味だ」
零は、俺の目を見た。
「お母さんは、誰かに産んでもらわなきゃいけない」
「誰が産むんだ」
零は、ゆっくりと俺を指さした。
「君だよ、蓮」
その瞬間、部屋の床が揺れた。
壁に亀裂が走る。
スピーカーから、警告音が鳴った。
『本人確認失敗』
『母親記録、消失』
『対象者、高瀬蓮』
『保護者登録を再実行します』
零の姿が、白い光に包まれた。
俺は手を伸ばした。
「待て!」
零は、最後にこう言った。
「蓮。お母さんを探すなら、最初の出席簿を見て」
そして、消えた。
椅子だけが残った。
部屋のスピーカーから、最後のアナウンスが流れた。
『保護者登録――失敗』
『代替保護者を登録します』
『代替保護者――黒田』
『登録完了』
俺は、扉の向こうを見た。
黒田先生が立っていた。
先生は、いつもと同じ顔で俺を見ていた。
「これで、お前の保護者は私になった」
「……先生は、俺の母親じゃない」
「そうだ」
「じゃあ、何なんですか」
黒田先生は答えた。
「私は、お前を出席させるための保護者だ」
5.最初の出席簿
黒田先生は、俺を教室へ戻さなかった。
代わりに、旧記録保管室のさらに奥へ連れていった。
そこには、古びた木製の棚が一つだけあった。
ほかの棚とは違い、鍵も番号もついていない。
棚の上には、薄い冊子が置かれていた。
表紙は灰色。
中央に、黒い文字でこう書かれている。
「最初の出席簿」
俺は手を伸ばした。
「これが……」
「そうだ」
黒田先生が言った。
「お前が探しているものだ」
「どうして、こんなところに」
「最初の出席簿は、通常の記録とは違う」
先生は、冊子を見つめた。
「これは、誰かが学校に在籍した記録ではない」
「じゃあ、何の記録なんですか」
「誰かが、学校に在籍することになった記録だ」
俺は、意味を考えた。
在籍した記録と、在籍することになった記録。
結果と、決定。
この学校では、その順番が逆になる。
先に記録が作られ、あとから人間がその記録に合わせて存在する。
ならば、最初の出席簿は、すべての始まりなのかもしれない。
俺は冊子を開いた。
最初のページには、日付が記されていた。
一九八九年四月一日。
その下に、最初の項目。
『出席番号 一』
『氏名 黒田』
俺は顔を上げた。
「……黒田先生?」
先生は、答えなかった。
次の項目を読む。
『出席番号 二』
『氏名 佐伯』
『出席番号 三』
『氏名 高瀬』
『出席番号 四』
『氏名 未登録』
『出席番号 五』
『氏名 未登録』
ページをめくる。
六。
七。
八。
九。
十。
どのページにも、名前が書かれている。
ただし、その名前は名字だけだったり、名前だけだったり、番号だけだったりした。
中には、名前の欄そのものが空白になっているページもあった。
俺は、最後のページまでめくった。
そこには、見覚えのある名前が並んでいた。
三十四番。
佐伯。
三十五番。
佐伯直人。
三十六番。
高瀬零。
三十七番。
高瀬蓮。
そして、三十八番。
未登録。
俺はページを見つめた。
「これ、どういうことですか」
黒田先生は、冊子を覗き込んだ。
「最初の出席簿は、過去から未来までの在籍予定を記録している」
「未来まで?」
「そうだ。ここに名前が書かれた人間は、いずれ学校に在籍することになる」
「じゃあ、三十八番は……」
「まだ登録されていない」
先生は、三十八番の欄を指でなぞった。
「だが、枠はある」
俺は、さっき窓の向こうにいた子供を思い出した。
三十八番。
まだ生まれていない子供。
名前のない母親。
そして、俺がその母親になるという記録。
「先生。三十八番は、誰なんですか」
黒田先生は、静かに答えた。
「お前が生み出す存在だ」
「俺が……?」
「お前が記録者として出席したことで、三十八番の枠が生まれた」
「じゃあ、俺が返事をしなければ……」
「三十八番は、まだ存在しなかっただろう」
俺は冊子を握りしめた。
俺が返事をした。
零番として。
それによって、記録者が出席した。
そして、三十八番の枠が生まれた。
つまり、俺の返事が、次の存在を生み出した。
「……じゃあ、俺は何をすればいいんですか」
黒田先生は、しばらく黙っていた。
「最初の出席簿に、お前の名前があるだろう」
「はい」
「その名前を、消すんだ」
俺は先生を見た。
「消したら、どうなるんですか」
「お前の記録がなくなる」
「俺は、消えるんですか」
「そうなる可能性がある」
「可能性?」
先生は、冊子を閉じた。
「最初の出席簿に名前がある人間は、記録が消えても、すぐには存在を失わない。記録を引き継いでいるものがいるからだ」
「記録を引き継いでいるもの……」
「お前の場合は、高瀬零だ」
俺は、零の顔を思い出した。
窓の向こうにいた少年。
俺を母親と呼んだ少年。
俺の記録を引き継いだ存在。
「じゃあ、零がいる限り、俺は消えない?」
「逆だ」
黒田先生は言った。
「零がいる限り、お前は高瀬蓮であり続ける」
「それは……いいことじゃないんですか」
「そうとは限らない」
先生は、最初の出席簿を開いた。
「お前が高瀬蓮であり続ける限り、零は欠席者であり続ける。お前が出席するたびに、零の記録は欠席に固定される」
俺は言葉を失った。
「それじゃあ、俺が出席していること自体が……」
「誰かを欠席させている」
先生はうなずいた。
「それが、この学校の仕組みだ」
俺は冊子のページを見た。
三十七番。
高瀬蓮。
三十六番。
高瀬零。
その二つの名前の間に、薄い線が引かれている。
線の端には、小さな文字があった。
「どちらか一人」
俺は、ペンを探した。
机の上に、黒いボールペンが置かれている。
俺はそれを手に取った。
「……名前を消せばいいんですね」
「そうだ」
「それで、この仕組みが終わるんですか」
黒田先生は答えなかった。
俺は、三十七番の名前にペン先を当てた。
高瀬蓮。
自分の名前。
これまで何度も書いてきた名前。
自分が自分であることを証明するための名前。
それを消せば、何かが変わる。
俺は、ペンを動かそうとした。
その瞬間。
黒田先生が、俺の手首をつかんだ。
「待て」
「どうしてですか」
先生の顔が、初めて恐怖に歪んでいた。
「そこを消したら、お前だけじゃない」
「……何が?」
先生は、冊子の一番下を指さした。
今まで、そこには何も書かれていなかった。
しかし、俺がペンを当てた瞬間、新しい文字が浮かび上がっていた。
「記録者の母親――高瀬蓮」
その下に、もう一行。
「記録者の出生――二〇一九年九月三十日」
俺は手を止めた。
黒田先生は、低い声で言った。
「お前が自分の名前を消せば、記録者が生まれた事実も消える」
「それなら……」
「記録者が生まれなければ、記録者によって引き継がれているすべての記録が、元の持ち主に戻る」
「それは、いいことなんじゃ……」
「違う」
先生は、俺の手首を強く握った。
「元の持ち主が、今も存在していればな」
俺は動けなくなった。
佐伯。
三十五番。
三十六番。
三十七番。
三十八番。
消えた者。
存在しない者。
まだ生まれていない者。
彼らの記録が、元の持ち主に戻る。
そのとき、何が起こるのか。
黒田先生は、最初の出席簿を閉じた。
「高瀬。お前は、まだ知らない」
先生は俺を見た。
「この学校で、最初に欠席した人間が誰なのかを」
6.最初の欠席者
旧記録保管室の壁に、時計が掛かっていた。
針は午前十一時五十八分を指している。
残り二分。
母親の名前を確認する期限が迫っていた。
俺は、最初の出席簿をもう一度開いた。
「最初に欠席した人間って、誰ですか」
黒田先生は答えなかった。
俺は、最初のページを見た。
一九八九年四月一日。
出席番号一。
黒田。
出席番号二。
佐伯。
出席番号三。
高瀬。
その下には、未登録の名前が続いている。
だが、最初のページには、欠席者の欄がなかった。
「先生。欠席者の記録はどこにあるんですか」
黒田先生は、冊子の裏表紙を開いた。
そこには、薄い紙が貼られていた。
剥がすと、その下から小さな文字が現れた。
「欠席者は、出席簿に記載しない」
俺は目を細めた。
「どういうことですか」
「この学校では、欠席者の名前を出席簿に書かない」
「でも、今までの記録には欠席者の名前がありました」
「それは、出席者の記録が書き換えられた結果だ」
先生は言った。
「最初から欠席していた人間は、出席簿には存在しない」
俺は、ゆっくりと理解した。
最初の欠席者は、記録に残っていない。
だから、誰もその名前を知らない。
そして、その欠席者の記録を引き継ぐことで、記録者が生まれる。
「……じゃあ、最初の欠席者が記録者なんですか」
「違う」
先生は首を振った。
「最初の欠席者は、記録者ではない」
「なら、誰なんですか」
黒田先生は、答えようとした。
しかし、その前に時計が鳴った。
カチ。
カチ。
カチ。
午前十一時五十九分。
部屋の照明が点滅する。
棚の中のファイルが、一斉に開いた。
ページが風もないのにめくれていく。
紙が擦れる音が、部屋中に響いた。
その中から、一枚の写真が飛び出した。
俺の足元に落ちる。
拾い上げると、そこには教室が写っていた。
古い教室。
木製の机。
黒板。
窓際に立つ、一人の少年。
少年の顔は、白く塗りつぶされていた。
写真の裏には、日付が書かれている。
一九八九年四月一日。
その下に、名前があった。
高瀬零。
俺は息を止めた。
零は、二〇一九年に初めて現れたのではない。
一九八九年。
三十年以上も前から、ここにいた。
写真の下には、もう一行。
「最初の欠席者」
俺は黒田先生を見た。
「……零が、最初の欠席者なんですか」
先生は、ゆっくりと首を振った。
「その写真に写っているのは、高瀬零ではない」
「でも、名前が……」
「名前は、後から書かれたものだ」
先生は写真を手に取った。
「最初の欠席者は、名前を持っていなかった」
「名前がない?」
「そうだ」
「じゃあ、どうして高瀬零と書かれているんですか」
黒田先生は、写真の裏を指でなぞった。
「誰かが、その名前を与えたからだ」
「誰が?」
先生は、俺を見た。
「高瀬蓮」
俺は首を振った。
「違います。俺は生まれていません」
「記録上はな」
「俺は、一九八九年には存在していない」
「それも、記録上はな」
俺は写真を見た。
白く塗りつぶされた顔。
名前のない少年。
後から書かれた高瀬零という名前。
そして、俺が生まれる前に書かれた黒いノート。
記録が先に作られ、その記録に合わせて人間が存在する。
もし、この写真が本物なら。
俺は、まだ生まれていないどころか、三十年以上前から、誰かの名前を記録していたことになる。
「先生……」
俺は、震える声で尋ねた。
「俺は、いつから存在しているんですか」
黒田先生は、すぐには答えなかった。
時計の針が進む。
午前十一時五十九分五十秒。
五十一秒。
五十二秒。
先生は、写真を机に置いた。
「お前が存在し始めたのは、二〇一九年九月三十日だ」
「……じゃあ、二〇〇八年十一月六日は?」
「お前の出生記録が作られた日だ」
「俺の子供のころの記憶は?」
「記録に合わせて、後から作られた可能性がある」
「家族も、友達も、学校も?」
「それは、お前自身で確かめるしかない」
俺は写真を握りしめた。
午前零時まで、あと数秒。
いや、違う。
時計の針は、午前十一時五十九分のままだ。
それなのに、秒針が十二を越えようとしている。
五十八秒。
五十九秒。
そして。
午前零時。
校内放送が鳴った。
『本日の出席確認を終了します』
『続いて、母親の名前を確認します』
俺のスマートフォンが震えた。
画面には、母さんからのメッセージが表示されていた。
『蓮へ』
『私の名前は、あなたが決めてください』
俺は画面を見つめた。
続けて、二通目。
『あなたが私の名前を決めたとき、私は本当にあなたの母親になります』
そして、三通目。
『ただし、私の名前を決めることができるのは、最初の欠席者だけです』
俺は顔を上げた。
黒田先生が、ゆっくりと後ずさった。
「……どうしたんですか」
先生は答えなかった。
ただ、最初の出席簿を見つめていた。
俺も冊子に目を落とした。
さっきまで空白だった、欠席者の欄。
そこに、一文字ずつ文字が浮かび上がっていた。
『最初の欠席者』
『氏名――』
文字が止まる。
次の瞬間、名前が現れた。
高瀬蓮。
俺は息をのんだ。
その下に、もう一行。
「最初の欠席者は、記録者の母親である」
黒田先生が、かすれた声で言った。
「……そんなはずはない」
先生は、俺を見た。
初めて見る表情だった。
恐怖。
後悔。
そして、何かを諦めた人間の顔。
「高瀬。お前は、記録者を生み出したんじゃない」
先生は震える手で、写真を指さした。
「お前自身が、記録者によって生み出されたんだ」
俺は、何も言えなかった。
スマートフォンの画面が暗くなる。
その暗い画面に、俺の顔が映った。
そして、その背後に。
見知らぬ少年が立っていた。
顔は、俺と同じだった。
胸元には、三十八番の名札。
少年は、俺の肩に手を置いた。
「お母さん」
耳元で、声がした。
「やっと、会えたね」
俺は振り返った。
誰もいなかった。
ただ、最初の出席簿の最後のページに、新しい文字が書かれていた。
「第十日目――母親の名前を確認」
その下に、対象者の名前。
高瀬蓮。
確認者の名前。
高瀬零。
そして、母親の名前。
未登録。
最後に、ページの一番下。
誰が書いたのかわからない、細い文字があった。
「母親の名前が登録された場合、最初の欠席者は出席する」
その隣には、小さなチェック欄があった。
まだ、何も書かれていない。
けれど、チェック欄の下には、すでに名前が印刷されていた。
黒田。
俺は、黒田先生を見た。
先生は、首を横に振った。
「違う」
先生が言った。
「その名前を、登録してはいけない」
「どうしてですか」
黒田先生は、唇を震わせた。
「その名前を登録したら……」
そこで、先生の声が途切れた。
最初の出席簿が、ひとりでに閉じた。
表紙には、今までなかった文字が浮かんでいた。
「母親の名前――黒田」
そして、裏表紙に。
「最初の欠席者――出席」
遠くの教室から、椅子を引く音が聞こえた。
ギィ。
誰かが、席に着いた。
校内放送が、静かに告げた。
『最初の欠席者が、出席しました』
『対象者――高瀬蓮』
『母親――黒田』
『記録者――高瀬零』
『次回、母親の出生を確認します』
俺は、黒田先生の顔を見た。
先生は、涙を流していた。
「……蓮」
先生が、俺の名前を呼んだ。
「お願いだから、私をお母さんと呼ばないで」
第十四話・終




