第十三話 「生まれていない記録者」
1.空席
「記録者は、まだ生まれていません」
黒板に浮かんだ文字を、俺は何度も読み返した。
一度目は、意味がわからなかった。
二度目は、読み間違いだと思った。
三度目には、自分がこの文字を読むこと自体、誰かに仕組まれているのではないかと考えた。
記録者。
それは、この学校で起きている異常を記録し続けてきた存在のことだ。
黒いノートに書かれた記録。出席簿に並ぶ番号。消えた生徒の名前。何度も書き換えられる記憶。
その中心にいるのが記録者だった。
そして今、黒板はその記録者がまだ生まれていないと言っている。
「……意味がわからない」
俺はつぶやいた。
返事はなかった。
教室には俺しかいない。
いや、正確には、窓の向こうにもう一人の俺がいる。
高瀬零。
さっきまで、窓ガラスの向こう側に立っていた少年。
俺と同じ顔をして、俺と同じ制服を着て、俺とは違う名前を名乗る少年。
あいつは最後に、こう言った。
――次は、君が俺を産む番だ。
その言葉を思い出した瞬間、胃のあたりが冷たくなった。
「産む……?」
誰が。
誰を。
何のために。
俺は窓に近づいた。
ガラスには、俺の顔だけが映っている。
廊下も、校庭も、向かい側の校舎も見える。
零の姿はなかった。
しかし、窓ガラスの隅に、小さな文字が書かれていた。
内側からではない。
外側から、指でなぞったような文字だった。
「十三番目を探せ」
俺は振り返った。
教室の後ろにある出席簿は、閉じたままだった。
黒いノートも、机の上に置かれている。
その隣には、佐伯の名札があった。
番号は三十四。
佐伯は、母親による本人確認に失敗して消えた。
それでも名札だけは残った。
俺は名札を手に取った。
裏側に何かが書かれている。
今まで気づかなかった。
小さな文字で、こう記されていた。
「記録者は、出席者の中から選ばれるのではない」
その下に、もう一行。
「記録者は、欠席者の中から生まれる」
指先が止まった。
出席者から選ばれるのではない。
欠席者から生まれる。
ならば、記録者は誰かが欠席した結果として生まれた存在なのか。
それとも、誰かを欠席させるために生まれた存在なのか。
考えようとしたとき、校内放送が鳴った。
『生徒の皆さんに連絡します』
女の声だった。
聞き覚えがある。
だが、誰の声なのか思い出せない。
『本日の出席確認を終了します』
俺は黒板を見た。
そこには、まだ第九日目と書かれている。
『続いて、記録者の出生確認を行います』
放送の声が一瞬だけ途切れた。
『対象者――』
ザッ。
雑音が入る。
『対象者――高瀬、』
また途切れる。
次の瞬間、教室中の机が一斉に鳴った。
ガタッ。
ガタガタッ。
誰も座っていない机の椅子が、次々と引かれていく。
まるで、見えない生徒たちが席に着いているかのように。
放送が再開した。
『対象者――高瀬蓮』
俺は息を止めた。
『出生年月日――未登録』
『出生地――未登録』
『保護者――未登録』
『母子手帳――存在しません』
『出生記録――存在しません』
一つずつ、淡々と読み上げられていく。
俺の情報だった。
俺の名前。
俺の生年月日。
俺の家族。
俺が今まで疑いもしなかったものが、順番に否定されていく。
『以上をもって、対象者の出生を確認できませんでした』
少しの沈黙。
そして、最後に。
『高瀬蓮は、まだ生まれていません』
放送が切れた。
俺はスマートフォンを取り出した。
画面には、母親とのメッセージが残っている。
「あなたには、双子の弟がいました」
「名前は、高瀬零」
「生まれた日、あなたは一人でした」
矛盾した三つの文章。
母親は二人の息子を覚えていると言った。
けれど、俺が生まれたときには一人だったとも言った。
どちらかが嘘なのか。
それとも、どちらも本当なのか。
画面の一番下に、見覚えのないメッセージが増えていた。
送信者は、母さん。
時刻は、午前零時。
本文は一行だけだった。
「蓮、あなたはいつから私の息子になったの?」
俺は返信しようとした。
しかし、入力欄を開いた瞬間、メッセージが消えた。
送信者の名前も消えた。
代わりに、画面の上部に表示された。
送信者:記録者
その瞬間、スマートフォンのカメラが勝手に起動した。
画面に映ったのは、俺の顔だった。
けれど、顔の輪郭が少しずつ変化していく。
目の位置。
眉の形。
口元。
髪の分け目。
一つずつ、誰か別の人間に近づいていく。
俺はスマートフォンを床に落とした。
画面が暗くなる直前、そこに映った顔は――。
佐伯だった。
2.十三番目の席
翌朝。
俺は学校の正門の前に立っていた。
空は曇っている。
時計は午前七時四十二分。
いつもなら、登校してくる生徒たちで混雑している時間帯だ。
しかし、校門を通る生徒は一人もいなかった。
校舎の窓には明かりがついている。
昇降口の扉も開いている。
それなのに、校内からは物音ひとつ聞こえない。
俺はスマートフォンで時刻を確認した。
七時四十二分。
画面を閉じて、もう一度開く。
七時四十二分。
時計が止まっているわけではなさそうだった。
秒数は進んでいる。
ただ、分だけが変わらない。
俺は校門をくぐった。
昇降口には、靴が並んでいた。
見慣れた革靴。
運動靴。
ローファー。
そのすべてに、名前が書かれていた。
だが、どの名前も同じだった。
高瀬蓮。
右を見ても。
左を見ても。
下駄箱の奥をのぞいても。
すべてが高瀬蓮だった。
一番奥の下駄箱には、名札が二枚貼られていた。
上段。
高瀬蓮。
下段。
高瀬零。
その二つの名前の間に、細い線が引かれている。
まるで、一人分の場所を二人で分け合っているようだった。
俺は下段の扉を開けた。
中には、古い上履きが一足入っていた。
かかとには、油性ペンで名前が書かれている。
高瀬零。
その横に、別の文字が重ね書きされていた。
高瀬蓮。
二つの名前が重なり、判別できなくなっている。
俺は上履きを取り出した。
底に、紙片が挟まっていた。
小さく折り畳まれた紙だった。
開くと、鉛筆で書かれた文章が現れた。
『十三番目の席に座るな』
その下には、数字が並んでいた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
九。
十。
十一。
十二。
そして、十三番目だけが黒く塗りつぶされていた。
俺は紙を裏返した。
裏面には、さらに短い文章があった。
『座った人間は、記録者になる』
廊下の奥から、足音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かが歩いてくる。
俺は紙片をポケットにしまった。
足音は一定の間隔で近づいてくる。
やがて、曲がり角から一人の男子生徒が姿を現した。
制服は、俺たちと同じものだった。
胸元の名札には、三十五と書かれている。
顔には見覚えがない。
けれど、その目だけは知っていた。
何度も夢に出てきたような目だった。
「高瀬」
男子生徒が言った。
「お前、まだ自分が高瀬蓮だと思ってるのか」
俺は答えなかった。
「まあ、そうだよな。記録がそうなってるんだから」
彼は俺の手元を見た。
「それ、見つけたんだ」
「お前は誰だ」
「三十五番」
「名前を聞いてる」
「名前?」
男子生徒は笑った。
「そんなもの、もうないよ」
彼は胸の名札を指で弾いた。
「番号があれば十分だ。名前は後からいくらでも変えられる」
「佐伯を知ってるか」
その言葉を聞いた瞬間、彼の表情が変わった。
笑顔が消えた。
「……佐伯が消えたのか」
「知ってるんだな」
「知ってるも何も」
彼は廊下の窓を見た。
「佐伯は、最初から消える予定だった」
俺は一歩踏み出した。
「どういう意味だ」
「三十四番は、記録者に近づきすぎた」
「記録者って誰だ」
「お前が一番知ってるはずだろ」
彼は俺を見た。
「お前の中にいるんだから」
背中に冷たいものが走った。
「俺の中に?」
「そう。だからお前は、あいつの顔を見たことがある」
「誰の顔だ」
「佐伯」
彼は即答した。
「でも、それだけじゃない」
「どういうことだ」
「お前は、佐伯の顔を見たんじゃない。佐伯の記録を見たんだ」
彼はゆっくりと近づいてきた。
「記録者は、人間じゃない」
「……じゃあ何なんだ」
「人間だったものだよ」
廊下の照明が一つ、消えた。
彼は続けた。
「誰かが欠席すると、その人間の記録が残る。名前、顔、声、思い出。そういうものが、全部どこかに保存される」
「出席簿か」
「出席簿だけじゃない。写真にも、スマートフォンにも、家族の記憶にも残る」
「それが記録者になるのか」
「違う」
三十五番は首を振った。
「記録が残るだけなら、ただの記録だ。記録者になるには、条件がある」
「条件?」
「欠席した人間の記録を、誰かが引き継がなきゃいけない」
俺はポケットの中の紙片を握った。
十三番目の席に座った人間は、記録者になる。
つまり。
「……十三番目の席って、何だ」
三十五番は答えなかった。
代わりに、廊下の突き当たりを指さした。
「教室に行けばわかる」
3.三十五番の証言
教室の扉は、少しだけ開いていた。
俺が近づくと、中からチョークの音が聞こえた。
キュッ。
キュッ。
キュッ。
誰かが黒板に文字を書いている。
三十五番は、扉の前で立ち止まった。
「ここから先は、俺は入れない」
「どうして」
「俺は三十五番だから」
「それが理由になるのか」
「この学校では、番号が理由になるんだよ」
彼は自分の名札を見下ろした。
「三十五番は、三十四番の次だ。三十六番の前だ。だから、ここまでしか来られない」
「三十六番は何者なんだ」
彼は目を細めた。
「それを知りたいなら、まず三十五番の話を聞け」
「お前の話?」
「俺が何者なのか、ってことだよ」
三十五番は扉に手をかけた。
「お前は、俺を知らない。でも、俺はお前を知っている」
彼は俺を見た。
「お前が生まれる前からな」
そう言って、彼は教室の中へ入った。
俺も続いた。
教室には、机が十三列並んでいた。
普段なら、そんな配置ではない。
窓側から順に、机が一つずつ増えている。
十二列目までは、普通の机だった。
十三列目だけ、古い木製の机だった。
傷だらけの天板。
錆びた金属の脚。
椅子の背には、黒い文字で数字が刻まれている。
十三。
黒板には、白いチョークでこう書かれていた。
「記録者の証言」
その下に、三つの項目がある。
一、記録者は、欠席者の記録を引き継ぐ。
二、記録者は、本人確認によって決定される。
三、記録者は、出生を必要としない。
俺は三つ目の文章を読んだ。
「出生を必要としない……?」
三十五番が言った。
「お前は、記録者が人間だと思ってるだろ」
「違うのか」
「人間である必要はない。誰かの記録を引き継げば、その存在は記録者になる」
「じゃあ、佐伯は?」
「佐伯は、記録者になろうとした」
「どうして」
「お前を助けるためだ」
俺は顔を上げた。
「俺を?」
「お前が高瀬蓮でいられるようにするために、佐伯は自分の名前を差し出した」
「名前を差し出すって、どういうことだ」
「記録者の席に座るってことだよ」
三十五番は十三列目の机を見た。
「でも、佐伯は座れなかった」
「どうして」
「佐伯には、まだ本人確認が残っていたからだ」
「本人確認……」
母親による証言。
あのとき、佐伯は自分の母親を呼び出された。
そして、本人確認に失敗した。
俺はようやく、何かがつながった気がした。
「本人確認に失敗したから、佐伯は消えたのか」
「半分正解」
三十五番は言った。
「本当は、本人確認に失敗したんじゃない」
「じゃあ、何だ」
「佐伯は、自分が誰なのかを知っていた。だから、学校の用意した答えを拒否したんだ」
「学校の用意した答え?」
「本人確認っていうのは、本当の自分を確かめるためのものじゃない」
三十五番は、黒板を指さした。
「学校が出席させたい人間を決めるためのものだ」
俺は、母親の顔を思い出した。
母さんは、俺を知っていると言った。
二人の息子を覚えていると言った。
しかし、学校はその言葉を利用して、零を欠席にした。
あれは本人確認ではなかった。
記録の上書きだった。
「……じゃあ、俺は?」
俺は三十五番を見た。
「俺の本人確認は、成功したんじゃないのか」
「そうだな」
「でも、俺は今ここにいる」
「いるよ」
三十五番はうなずいた。
「ただし、お前がここにいる理由は、まだ決まっていない」
「何を言ってる」
「お前は、出席しているから存在しているんじゃない」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「お前が存在していることにするために、誰かが欠席させられているんだ」
教室が静まり返った。
俺は、十三列目の机を見た。
椅子の背に刻まれた数字。
十三。
そして、机の上に置かれた一冊のノート。
黒い表紙。
見覚えのあるノートだった。
俺が持っているものと、まったく同じ形をしていた。
ただし、その表紙には名前が書かれていた。
高瀬蓮
「それは……」
俺が近づこうとすると、三十五番が腕をつかんだ。
「触るな」
「なんでだよ」
「それは、お前のノートじゃない」
「でも、俺の名前が」
「だからだ」
三十五番は、初めて声を荒らげた。
「そのノートは、お前が生まれる前に書かれたものなんだ」
俺は動けなくなった。
「……誰が書いた」
三十五番は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと答えた。
「お前の母親だ」
4.母親の筆跡
俺は十三列目の机から目を離せなかった。
黒いノート。
高瀬蓮。
俺の名前が、表紙の中央に書かれている。
母さんが書いた。
俺が生まれる前に。
そんなことがあり得るのか。
「嘘だ」
俺は言った。
「母さんがこんなノートを書くわけがない」
「そう思うように記録されているんだよ」
三十五番は答えた。
「お前は、母親のことをどこまで覚えてる?」
「普通に覚えてる。小さいころのことも」
「最初の記憶は?」
俺は口を開いた。
けれど、すぐには答えられなかった。
最初の記憶。
何歳のころだろう。
家のリビング。
テレビの音。
母さんの声。
食卓に並んだ料理。
思い出そうとすれば、いくらでも浮かんでくる。
だが、それらの記憶には、妙な共通点があった。
どれも、母さんの顔がはっきりしない。
声は覚えている。
手の感触も覚えている。
料理の味も、家の匂いも覚えている。
しかし、顔だけが曖昧だった。
俺は目を閉じた。
小学校の入学式。
母さんと一緒に撮った写真。
運動会。
誕生日。
家族旅行。
写真は確かにあった。
けれど、顔を思い出そうとすると、いつも同じところで止まる。
「……顔が」
俺はつぶやいた。
「母さんの顔が、思い出せない」
三十五番はうなずいた。
「記録者の母親は、記録の中にしか存在しない」
「そんなはずない」
「なら、電話してみろよ」
俺はスマートフォンを取り出した。
母さんの連絡先を開く。
発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
四回。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
機械音声が流れた。
俺は電話を切った。
もう一度、かけた。
同じだった。
「……昨日は話せた」
「昨日?」
三十五番が眉をひそめた。
「母さんと話したんだ。二人の息子を覚えてるって」
「何を言ったんだ?」
俺は、メッセージの内容を伝えた。
双子の弟。
高瀬零。
生まれた日、あなたは一人でした。
それでも、私は二人の息子を覚えています。
三十五番は、最後まで黙って聞いていた。
そして、聞き終えると、ゆっくりと首を振った。
「それは母親の言葉じゃない」
「どういうことだ」
「それは、記録者の言葉だ」
俺は反射的に、机の上の黒いノートを見た。
三十五番は続けた。
「記録者は、誰かの記憶を引き継ぐ。母親の記憶を引き継げば、母親のように話すこともできる」
「じゃあ、あの人は……」
「お前の母親じゃない」
俺は何も言えなかった。
あの声。
あの言葉。
俺を心配するような口調。
二人の息子を覚えていると話した、あの人。
もし、あれが母さんではなかったとしたら。
俺が今まで母さんだと思っていた存在は、何だったのだろう。
三十五番は、机の上のノートを指さした。
「開けてみろ」
「さっきは触るなって」
「今ならいい」
「何が変わったんだ」
「お前が、自分の母親を疑ったからだ」
意味がわからなかった。
だが、三十五番はそれ以上説明しなかった。
俺は十三列目の机に近づいた。
ノートに手を伸ばす。
指先が表紙に触れた。
その瞬間、教室の時計が動き始めた。
七時四十三分。
止まっていた時間が、一分だけ進んだ。
俺はノートを開いた。
最初のページには、日付が書かれていた。
二〇〇八年十一月六日。
俺の誕生日だった。
その下に、母さんの筆跡で、こう記されていた。
『本日、対象者を登録する』
『名前は、高瀬蓮』
『出生は確認しない』
『母親は、存在するものとする』
『父親は、記録しない』
俺はページをめくった。
次のページには、さらに短い文章があった。
『対象者は、本人確認に成功した場合のみ出席できる』
その下には、別の筆跡で追記されていた。
『本人確認に成功した場合、もう一人を欠席させること』
俺はページをめくる手を止めた。
もう一人。
高瀬零。
だが、日付は二〇〇八年十一月六日。
零が生まれたとされる日と、同じなのか。
そもそも、零は本当に生まれたのか。
俺はさらにページをめくった。
そこには、何度も同じ名前が書かれていた。
高瀬蓮。
高瀬零。
高瀬蓮。
高瀬零。
二つの名前が、交互に並んでいる。
やがて、文字は乱れ始めた。
『蓮を出席させる』
『零を欠席させる』
『蓮を出席させる』
『零を欠席させる』
その繰り返し。
しかし、途中から文章が変わっていた。
『蓮を出席させる』
『蓮を欠席させる』
『零を出席させる』
『零を欠席させる』
『蓮を出席させる』
『蓮を欠席させる』
俺はノートを閉じた。
息が苦しい。
このノートには、俺が生まれる前から、俺の名前が記録されていた。
俺が生まれる前から、出席と欠席が繰り返されていた。
まるで、俺という人間が存在するかどうかを、誰かが何度も決め直していたかのように。
「……誰が、これを書いたんだ」
三十五番は答えなかった。
俺は顔を上げた。
三十五番が立っていた場所には、誰もいなかった。
教室の扉は閉まっている。
廊下にも人影はない。
彼がいた痕跡は、何も残っていなかった。
ただ、黒板の文字だけが変わっていた。
「証言者――欠席」
その下に、新しい文字が浮かんでくる。
「記録者――出席」
そして、十三列目の机の上に、もう一枚の紙が置かれていた。
『三十五番は、存在しません』
5.存在しない三十五番
俺は教室を飛び出した。
廊下を走り、階段を下り、職員室へ向かった。
三十五番。
あいつが誰なのかを確認しなければならない。
三十四番は佐伯だった。
三十六番は、窓の向こうに現れた高瀬零と関係があるのかもしれない。
ならば、三十五番にも何か意味があるはずだった。
職員室の扉を開けた。
中には、教師が一人もいなかった。
机の上には、出席簿が置かれている。
俺は一番手前の出席簿を開いた。
一組。
二組。
三組。
どのクラスにも、三十五番という生徒はいなかった。
俺のクラスの出席簿を開く。
一番。
二番。
三番。
ページをめくる。
三十二番。
三十三番。
三十四番。
その次は、三十六番だった。
三十五番だけが存在しない。
俺は別の出席簿を開いた。
昨年度のもの。
一昨年度のもの。
さらに古いもの。
どの出席簿にも、三十五番はなかった。
三十四番の次は三十六番。
その並びは、何年分もの出席簿で繰り返されていた。
まるで、最初から三十五番など存在しなかったかのように。
俺は職員室の奥にある棚を調べた。
古い資料が並んでいる。
卒業生名簿。
転校生記録。
在籍者一覧。
その一番下に、黒いファイルがあった。
表紙には、何も書かれていない。
開くと、一枚目に写真が貼られていた。
三十五番の男子生徒。
さっきの少年だった。
写真の下には、名前が記されている。
佐伯直人
俺は写真を見つめた。
佐伯。
三十四番の佐伯とは、別人だ。
名前が同じだけなのか。
それとも、同じ人物なのか。
写真の右下には、日付が書かれていた。
二〇一九年九月三十日。
また、その日付だった。
高瀬蓮と高瀬零の写真に記されていた日付。
母親の記録が書き換えられた日。
佐伯が、二人の高瀬を選べなかった日。
すべてが、二〇一九年九月三十日に集まっている。
俺は次のページをめくった。
そこには、手書きの記録が残されていた。
『佐伯直人』
『出生記録なし』
『保護者記録なし』
『本人確認未実施』
『出席番号 三十五』
その下に、赤い文字で書かれている。
「記録者候補」
さらに、別の紙が挟まっていた。
『候補者は、高瀬蓮の記録を引き継ぐこと』
『引き継ぎが完了した場合、候補者は高瀬蓮として出席する』
『元の高瀬蓮は欠席とする』
俺はファイルを落としそうになった。
三十五番は、俺の記録を引き継ぐはずだった。
俺の代わりに、高瀬蓮として出席するはずだった。
だが、今の俺はここにいる。
三十五番は消えた。
ということは、引き継ぎは失敗したのか。
それとも。
俺は写真をもう一度見た。
佐伯直人。
見覚えのある顔。
あの少年は、俺にこう言った。
――お前の中にいるんだから。
記録者は、人間ではない。
人間だったもの。
誰かの記録を引き継げば、その存在は記録者になる。
では、三十五番は何を引き継いだのか。
俺の記録か。
それとも、佐伯の記録か。
ファイルの最後のページには、短い文章が残されていた。
『記録者候補は、本人確認に失敗した場合、存在そのものを削除される』
『ただし、削除された記録は消失しない』
『記録は、引き継ぎ先の内部に保存される』
俺はゆっくりと顔を上げた。
引き継ぎ先の内部。
俺の中にいる。
三十五番は、俺の中にいる。
いや。
本当にそうなのだろうか。
俺は、さっき三十五番と話した。
彼の顔を見た。
声を聞いた。
彼は俺に、記録者のことを教えた。
だが、出席簿には存在しない。
写真には記録されている。
ファイルには記録されている。
しかし、学校の現在の記録には存在しない。
ならば、彼はもう、この世界にはいないのか。
俺の頭の中にだけ、残っているのか。
そのとき、職員室のスピーカーから音がした。
『高瀬蓮さん』
校内放送だった。
『職員室まで来てください』
俺は固まった。
『確認したいことがあります』
一瞬、雑音が入る。
『あなたの中にいる、三十五番について』
放送が切れた。
俺はファイルを閉じた。
その表紙に、今までなかった文字が浮かんでいた。
「佐伯直人――本人確認、成功」
6.出生届
職員室の奥に、見慣れない扉があった。
いつもなら壁になっている場所だ。
扉には、プレートが貼られている。
「記録管理室」
鍵穴はなかった。
俺が手を伸ばすと、扉は音もなく開いた。
中は、小さな部屋だった。
窓はない。
壁一面に棚が並んでいる。
棚には、ファイルやノートがぎっしりと詰められていた。
その中央に、机が一つ。
机の上には、白い封筒が置かれていた。
表には、俺の名前が書かれている。
高瀬蓮。
その下に、差出人の名前があった。
高瀬零。
俺は封筒を開いた。
中には、一枚の出生届の写しが入っていた。
氏名。
高瀬蓮。
生年月日。
二〇〇八年十一月六日。
父親の氏名。
空欄。
母親の氏名。
空欄。
出生した場所。
空欄。
届出人。
高瀬零。
俺は息をのんだ。
高瀬零が、俺の出生届を出した。
だが、母親の名前は空欄だった。
出生した場所も、父親の名前もない。
そもそも、届出人が高瀬零であること自体がおかしい。
零は俺の弟なのか。
双子なのか。
それとも、俺が存在するために作られた名前なのか。
出生届の裏面には、手書きの文章があった。
『高瀬蓮は、二〇〇八年十一月六日に出生したものとする』
『高瀬零は、二〇一九年九月三十日に出生したものとする』
『ただし、両者の出生記録は同一のものを使用する』
俺は文章を読み返した。
二〇〇八年。
二〇一九年。
十一年の差。
二人は双子ではないのか。
それとも、双子という記録そのものが、後から作られたのか。
その下に、さらに小さな文字があった。
『高瀬零の出生を確認した場合、高瀬蓮の出生記録を削除する』
『高瀬蓮の出生を確認した場合、高瀬零の出生記録を削除する』
『両者の出生を同時に確認することはできない』
俺は紙を握りしめた。
どちらか一人しか、存在できない。
学校がそう決めている。
いや、学校だけではない。
母親の記憶も、出席簿も、写真も、すべてがその規則に従っている。
二人のうち一人を出席させるために、もう一人を欠席にする。
それが、この学校の仕組みなのだ。
けれど、どうして。
どうして、そこまでして二人を分ける必要があるのか。
机の引き出しが、わずかに開いていた。
中には、小さな封筒が入っていた。
表には、こう書かれている。
「高瀬零へ」
俺は封筒を開いた。
中から、一枚の紙が出てきた。
母さんの筆跡だった。
『零へ』
『あなたがこれを読んでいるなら、私はもうあなたの母親ではありません』
『あなたが蓮の名前を使うことを、私は止められませんでした』
『でも、忘れないでください』
『蓮は、あなたの代わりに生まれたのではありません』
『あなたも、蓮の代わりに生まれたのではありません』
『二人とも、私が産んだ子です』
俺は手紙を読み終えた。
その言葉は、昨日の母さんのメッセージと似ていた。
二人の息子を覚えている。
二人とも、自分の子だ。
しかし、出生届には、母親の名前がない。
母さんは、本当に二人を産んだのか。
それとも、二人を産んだという記憶だけを、誰かに与えられたのか。
手紙の一番下に、追記があった。
『蓮へ』
『もし、あなたがこの手紙を読んでいるなら、お願いがあります』
『零を探さないでください』
『零を見つけたとき、あなたは自分が誰なのかを知ることになります』
『そして、その瞬間、あなたは出席できなくなる』
俺は手紙を机に置いた。
部屋の奥で、何かが動いた。
棚の一番下。
ファイルの隙間から、小さな白い紙が滑り落ちた。
拾い上げる。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
「高瀬蓮は、高瀬零を産んだ」
俺は目を疑った。
蓮が、零を産んだ。
そんなことはあり得ない。
だが、その文章の下には、日付が記されていた。
二〇一九年九月三十日。
そして、もう一つ。
「記録者の出生確認――成功」
その瞬間、部屋の明かりが消えた。
暗闇の中で、誰かが俺の耳元にささやいた。
「やっと、見つけた」
聞き覚えのある声だった。
高瀬零。
「今度は、君が俺の母親になる番だ」
俺は振り返った。
暗闇の向こうに、人影が立っていた。
俺と同じ顔。
俺と同じ制服。
そして、俺の胸元を指さしていた。
俺は自分の名札を見下ろした。
そこに書かれていた名前が、ゆっくりと変わり始めていた。
高瀬蓮。
高瀬零。
高瀬蓮。
高瀬零。
文字が重なり、崩れていく。
最後に残ったのは、名前ではなかった。
「母」
7.出席番号、零
明かりが戻ったとき、部屋には誰もいなかった。
俺は床に座り込んでいた。
手の中には、出生届の写し。
机の上には、母さんの手紙。
そして、俺の名札は元に戻っていた。
高瀬蓮。
何事もなかったかのように。
俺は部屋を出た。
廊下の時計は、七時四十三分を指していた。
秒針だけが動いている。
教室に戻ると、机は元の配置になっていた。
十三列目の机は消えている。
黒板には、見慣れた文字が書かれていた。
「第九日目」
その下に、新しい項目が追加されていた。
『記録者の出生確認――成功』
『記録者の氏名――高瀬蓮』
『記録者の出生年月日――未登録』
『記録者の母親――未登録』
『記録者の父親――未登録』
そして、一番下。
『記録者の出席番号――零』
俺は黒板に近づいた。
零。
出席番号、零。
そんな番号は存在しない。
一番はあっても、零番はない。
なのに、黒板はそれを記録している。
その横に、小さな文字が追加された。
『零番は、出席するために存在する番号ではない』
『零番は、他の番号を出席させるために存在する』
俺は、これまでのことを思い返した。
一番から三十七番までの記録。
欠席者を出席させるために、別の誰かを欠席させる。
高瀬蓮を出席させるために、高瀬零を欠席にする。
佐伯が消えたのも、同じ仕組みの中で起きたことだった。
では、零番は何なのか。
誰かを出席させるために、欠席する存在。
あるいは、誰かが出席するために、最初から欠席している存在。
俺は、黒いノートを開いた。
最後のページに、新しい文章が書かれていた。
『第九日目――記録者の出生確認、完了』
『第十日目――記録者の母親を確認』
『第十一日目――記録者の父親を確認』
『第十二日目――記録者の出生を再確認』
その下に、まだ見たことのない文字が続いていた。
『第十三日目――記録者の出席を確認』
『第十四日目――記録者の欠席を確認』
『第十五日目――記録者の存在を確認』
俺はページをめくった。
次のページは、真っ白だった。
ただし、右下に小さな数字が書かれていた。
三十七。
俺はノートを閉じた。
そのとき、教室のスピーカーが鳴った。
『生徒の皆さんに連絡します』
昨日と同じ声。
いや、昨日よりも近い。
まるで、すぐ後ろに誰かが立っているような声だった。
『本日の出席確認を行います』
教室の扉が開いた。
誰もいない廊下から、椅子を引く音がした。
ガタッ。
ガタガタッ。
教室の机が、次々と鳴る。
見えない生徒たちが、席に着いている。
放送が名前を読み上げ始めた。
『一番』
返事はない。
『二番』
返事はない。
『三番』
返事はない。
番号が順番に読み上げられていく。
三十。
三十一。
三十二。
三十三。
三十四。
そして。
『三十五番』
返事はなかった。
『三十六番』
返事はなかった。
『三十七番』
返事はなかった。
沈黙。
俺は、黒板を見た。
黒板の文字が、ゆっくりと書き換わっていく。
『三十五番――欠席』
『三十六番――欠席』
『三十七番――欠席』
その下に、新しい文字が浮かんだ。
『零番』
放送が続いた。
『零番』
教室の一番後ろで、椅子が引かれた。
ギィ。
誰かが立ち上がったような音がした。
『零番』
今度は、俺の机の隣から音がした。
ギィ。
俺は振り返った。
隣の席には、誰もいない。
ただ、机の上に小さな紙が置かれていた。
白い紙。
その中央に、黒い文字で書かれている。
「返事をしてください」
放送が三度目の呼びかけをした。
『零番』
俺の喉が勝手に動いた。
「……はい」
声が出た。
自分の意思ではなかった。
返事をした瞬間、教室の時計が動き出した。
七時四十四分。
黒板の文字が、すべて消えた。
代わりに、たった一行だけが残った。
「零番――出席」
俺は自分の口を押さえた。
今、返事をしたのは誰だ。
俺なのか。
高瀬零なのか。
それとも、俺の中にいる記録者なのか。
スマートフォンが震えた。
画面には、母さんからのメッセージが表示されていた。
送信時刻は、午前零時。
本文は、短かった。
『蓮へ』
『返事をしてくれて、ありがとう』
その下に、もう一行。
『これで、あなたを産むことができます』
俺は画面を見つめた。
次の瞬間、スマートフォンに新しい通知が表示された。
出生届が受理されました。
氏名――高瀬零。
出生年月日――二〇一九年九月三十日。
母親――高瀬蓮。
父親――未登録。
届出人――記録者。
俺は、声を出せなかった。
窓ガラスの向こうに、少年が立っていた。
高瀬零。
あいつは笑っていた。
そして、ガラス越しに唇を動かした。
「お母さん」
教室の黒板に、最後の文字が浮かび上がった。
「第十日目――記録者の母親を確認します」
その下に、さらに小さな文字が現れた。
「対象者――高瀬蓮」
「確認者――高瀬零」
そして、黒板の一番下。
誰にも見えないほど小さな文字で、こう書かれていた。
「なお、記録者は、まだ生まれていません」
俺はその文章を読んだ。
何度も読んだ。
けれど、今度は意味が違っていた。
記録者は、まだ生まれていない。
なぜなら。
俺が、これから記録者を産むのだから。
窓の向こうで、高瀬零が手を振った。
その背後には、もう一人の少年が立っていた。
俺と同じ顔。
高瀬蓮。
そして、二人の間に、小さな子供がいた。
顔は見えない。
名前もわからない。
ただ、その子供の胸元には、名札がついていた。
三十八。
その子供が、ゆっくりと顔を上げた。
そして、俺に向かって口を開いた。
「次は、僕の番だよ」
第十三話・終




