第十二話「母親の知らない息子」
1 扉の向こう
『あなたは、誰の名前を使っているのですか?』
扉の向こうから、母親の声がした。
高瀬蓮は、動けなかった。
声だけなら、間違いようがない。
幼いころ、熱を出した夜に聞いた声。
忘れ物をした朝、玄関から追いかけてきた声。
学校から帰ると、台所から聞こえてきた声。
何千回と聞いてきた、母親の声だった。
しかし、今の問いかけは、母親が息子に向けるものではなかった。
まるで、名前の分からない誰かを、慎重に尋問しているようだった。
「……母さん?」
返事はなかった。
代わりに、ノックが三回。
コン、コン、コン。
『高瀬蓮君』
扉の向こうの声が、もう一度呼んだ。
『あなたのお母さんは、あなたのことを知りません』
高瀬は、ゆっくりと取っ手に手を伸ばした。
「高瀬君、開けないで」
宮下の声だった。
彼女は教室の奥から、高瀬を見ていた。
「その声が本当にお母さんの声だとしても、開けちゃ駄目」
「どうしてだよ」
「今のあなたには、確かめる方法がないから」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「……分からない」
宮下は唇を噛んだ。
「でも、あなたが扉を開けたら、向こうにいるものをお母さんだと認めることになるかもしれない」
「認めるって……」
「この学校では、誰かが誰かを認めることで、記録が変わることがある」
高瀬は取っ手から手を離した。
扉の向こうで、母親が小さく笑った。
『そうですね。宮下さんの言うとおりです』
宮下の顔が強張った。
『扉を開ける必要はありません』
『あなたが私を母親だと認めてくれれば、それで十分です』
「……何だよ、それ」
高瀬は、扉を睨んだ。
「お前は母さんじゃない」
しばらく沈黙があった。
そして、扉の向こうから返事が来た。
『では、あなたのお母さんは、どなたですか?』
高瀬は答えられなかった。
名前なら知っている。
顔も知っている。
声も、仕草も、笑い方も覚えている。
だが、それらを証明できるものは何一つなかった。
スマートフォンに登録された連絡先は、彼を知らなかった。
家族写真からは彼の姿が消えていた。
学校の名簿には、彼の名前がない。
それでも、自分には母親がいると信じていた。
その信頼だけが、今の高瀬を支えていた。
『答えられないのですね』
母親の声が言った。
『それでは、出席を確認できません』
カチリ。
扉の向こうで、鍵が開く音がした。
宮下が叫んだ。
「高瀬君、離れて!」
同時に、教室の黒板に文字が浮かび上がった。
第九日目
本人確認――開始
対象者 高瀬蓮
確認方法――母親による証言
高瀬は黒板を見つめた。
「母親による証言……?」
佐伯が、教室の後ろから歩いてきた。
「待てよ。おかしいだろ」
彼は黒板を指さした。
「親が子供を知っているかどうかで、そいつが本人か決めるのか?」
「そういう仕組みなんだと思う」
宮下が答えた。
「この学校は、本人を本人だと認める人間を必要としている」
「じゃあ、親が知らないって言ったら?」
「……その人間は、記録から外される」
そのとき。
扉の向こうから、母親の声が聞こえた。
『高瀬蓮という人間は、私の息子ではありません』
高瀬の視界が揺れた。
『私は、その名前の子供を産んだことがありません』
『私には、息子が一人います』
『その子の名前は――』
声が途切れた。
教室の時計が、一秒だけ動いた。
午前零時。
また、午前零時。
高瀬のスマートフォンが震えた。
画面に、家族写真が表示されていた。
父親。
母親。
そして、二人の間に立つ少年。
その少年の顔には、高瀬と同じ特徴があった。
しかし、写真の下に記された名前は。
高瀬蓮ではなかった。
高瀬は、目を凝らした。
そこには、知らない名前が書かれていた。
高瀬 零
「……れい?」
自分の口から、知らない名前がこぼれた。
その瞬間。
扉の向こうから、母親が初めて感情を露わにした。
『その名前を、どこで知ったの!』
高瀬は息を止めた。
母親は続けた。
『誰が、その名前を教えたの!』
ノックの音が激しくなる。
コン、コン、コン、コン、コン。
『その名前を呼んではいけない!』
『あの子は、もういないの!』
高瀬は、スマートフォンを握りしめた。
零。
高瀬零。
自分の知らない名前。
それなのに、その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが動いた。
忘れていた記憶が、目を覚まそうとしていた。
そして、扉の向こうの母親が、泣きそうな声で言った。
『お願いだから、蓮を返して』
高瀬の心臓が、強く脈打った。
『私の息子を、返して』
扉が、ゆっくりと開き始めた。
その隙間から見えたのは、母親の顔ではなかった。
真っ白な紙だった。
紙には、黒い文字でこう書かれていた。
高瀬蓮――欠席
その下に、小さく。
高瀬零――出席
2 存在しない兄弟
高瀬は扉から離れた。
紙が挟まったまま、扉は少しずつ開いていく。
隙間から、白い光が漏れていた。
光の向こうに、人影が見えた。
母親の姿ではない。
制服を着た少年だった。
高瀬と同じくらいの年齢。
背格好も、髪型も、よく似ている。
ただし、顔は見えなかった。
少年は、扉の隙間から一枚の写真を差し出した。
「これ、君のだよ」
声は、驚くほど高瀬自身に似ていた。
高瀬は写真を受け取った。
七年前のものらしい。
色あせた写真の中央には、二人の少年が並んで立っていた。
一人は、今の高瀬と同じ顔をしている。
もう一人も、同じ顔だった。
ただ、左側の少年は笑っており、右側の少年は泣いていた。
写真の裏には、日付が書かれていた。
二〇一九年九月三十日
そして、二人の名前。
高瀬蓮
高瀬零
高瀬は、何度も名前を読み返した。
「……俺たち、兄弟なのか?」
扉の向こうの少年は答えなかった。
代わりに、宮下が写真を覗き込んだ。
彼女の表情が変わった。
「これ……」
「知ってるのか?」
「ううん。写真は初めて見た」
宮下は、写真の左側を指さした。
「でも、この二人のことは覚えてる」
「どういうことだよ」
「七年前、教室にいたのは四人だった。高瀬君と、佐伯君と、私。それから……」
彼女は言葉を止めた。
「もう一人、いたはずなの」
佐伯が口を挟んだ。
「黒田先生じゃないのか?」
「違う」
宮下は即座に答えた。
「黒田先生は、私たちが教室に入ったときには、もうそこにいた。でも、私が覚えている四人の中に、先生は入っていない」
「じゃあ、誰だよ」
宮下は写真を見つめた。
「この二人のうち、どちらか」
高瀬は、写真の右側の少年を見た。
泣いている少年。
その目元には、見覚えがあった。
自分が泣くときの顔に似ていた。
だが、それ以上に気になることがあった。
写真の背景。
教室の黒板には、日付と一緒にこう書かれていた。
名前を交換する前に、必ず本人に確認すること。
その下には、チョークで小さく書き足されていた。
ただし、本人が二人いる場合は、どちらに確認すればよいのか?
高瀬は、写真を裏返した。
「この写真、誰が撮ったんだ?」
誰も答えなかった。
すると、扉の向こうの少年が言った。
「君だよ」
高瀬は顔を上げた。
「……俺?」
「そう。君が撮った」
「俺は、こんな写真を撮った覚えはない」
「だから、君は忘れたんだ」
少年の声は、淡々としていた。
「君は、忘れることで自分を守った。自分が誰だったのかを忘れて、別の名前を持った」
「じゃあ、高瀬零っていうのは……」
「君の名前だよ」
高瀬の手から、写真が滑り落ちた。
床に落ちた写真は、裏返しになっていた。
裏面に、新しい文字が浮かび上がっていた。
高瀬零――記録者
高瀬蓮――記録対象
高瀬は、呼吸を忘れた。
「……違う」
少年は何も言わなかった。
「俺は、高瀬蓮だ」
「そうだね」
「俺の名前は、高瀬蓮だ!」
「うん。今はね」
少年は、静かに頷いた。
「でも、君が今の名前を持つ前から、君は存在していた」
「……」
「名前がなければ、誰にも呼ばれない。誰にも呼ばれなければ、誰にも認識されない。誰にも認識されなければ、記録に残らない」
少年は、扉の向こうから手を差し出した。
「だから、君は名前を作った」
「……」
「自分のために」
高瀬は、その手を見つめた。
指先が震えていた。
それが恐怖なのか、怒りなのか、自分でも分からなかった。
「じゃあ、俺は……」
「君は高瀬零だった」
少年は言った。
「でも、君が高瀬蓮を選んだ」
その瞬間、教室の窓が一斉に曇った。
白い曇りの上に、指で書いたような文字が浮かび上がる。
零が蓮を選んだ
蓮が零を消した
どちらが先だったのか
三行目だけ、何度も書き換わった。
どちらが先だったのか
どちらが先だったのか
どちらが先だったのか
やがて、すべての文字が消えた。
窓には、二人の少年が映っていた。
高瀬蓮。
高瀬零。
二人は、同じ顔で笑っていた。
3 佐伯直人の証言
「……俺、思い出した」
佐伯が呟いた。
高瀬と宮下が、同時に振り向く。
佐伯は、床に落ちた写真を拾い上げていた。
「七年前、俺はこの二人を知っていた」
「高瀬蓮と、高瀬零を?」
「ああ」
佐伯は写真を見つめた。
「でも、俺が知っていたのは、二人とも高瀬蓮だった」
高瀬は眉をひそめた。
「どういうことだよ」
「俺の記憶では、二人とも同じ名前を名乗っていた。片方が蓮で、片方が零だったなんて、今初めて知った」
「じゃあ、どっちが本物の高瀬蓮なんだ?」
佐伯は首を横に振った。
「分からない。でも、俺は七年前、どちらか一人を選んだ」
「何を選んだんだ?」
「……残す方を」
教室の空気が、急に冷たくなった。
佐伯は、写真を握りしめた。
「俺は、二人の高瀬のうち、一人を残す役だった」
高瀬は、言葉を失った。
第五話から続く記憶。
七年前、自分を消す役だったという佐伯の告白。
それが、今になって別の意味を持ち始めていた。
「じゃあ、俺を消そうとしたのか?」
「違う」
佐伯は、苦しそうに首を振った。
「俺は……俺は、どちらを残すか決められなかったんだ」
「だったら、どうして」
「二人とも残した」
その言葉が、教室に落ちた。
高瀬は、ゆっくりと佐伯を見た。
「……何?」
「記録には、一人だけ残すって書かれていた。黒田先生も、そう言っていた。でも、俺は選べなかった」
佐伯の声が震えた。
「二人とも、同じ顔だった。二人とも、自分が高瀬蓮だって言った。片方は、もう一人のことを弟だと言った。もう片方は、相手のことを自分の影だと言った」
「……」
「どちらも、嘘をついているようには見えなかった」
佐伯は顔を上げた。
「だから、俺は二人とも残した」
高瀬の頭の中で、何かがつながった。
一人ではなく、二人が残った。
七年前の記録に書かれていた言葉。
その二人とは、二人の高瀬だったのか。
「でも、二人とも残したら、名前が足りなくなる」
宮下が言った。
「そう。だから、記録を変えた」
佐伯は頷いた。
「一人を高瀬蓮として残して、もう一人を別の名前にする。そうすれば、二人とも存在できると思った」
「それで、高瀬零?」
「いや」
佐伯は、首を横に振った。
「高瀬零という名前は、最初からあった」
「……」
「俺たちが知らなかっただけだ」
佐伯は、写真を高瀬に差し出した。
「この写真を撮ったとき、二人はもう別々の名前を持っていた。でも、俺たちの記憶だけが、二人を同じ名前だと思っていたんだ」
宮下が、息を呑んだ。
「記憶の上書き……」
「たぶん」
佐伯は頷いた。
「誰かが、俺たちの記憶を変えたんだ」
高瀬は、扉の向こうの少年を見た。
「お前か?」
少年は首を横に振った。
「俺じゃない」
「じゃあ、誰がやった?」
少年は、少しだけ考えた。
そして、こう答えた。
「君たちが、そう決めたんだよ」
「……何?」
「誰か一人が記憶を変えたんじゃない。四人が、それぞれ別のことを覚えていた。だから、四人の記憶がぶつからないように、学校が記録を作り直した」
少年は、教室の黒板を指さした。
そこには、いつの間にか新しい文章が書かれていた。
記憶が一致しない場合、記録を優先する。
その下に、別の文字。
記録が一致しない場合、出席者を優先する。
さらに、その下。
出席者が一致しない場合、記録者を優先する。
高瀬は、黒板を見つめた。
「じゃあ、記録者が間違っていたら?」
少年は答えた。
「学校が間違った記録を作る」
「学校が間違ったら?」
「その記録を信じる人間が、間違った記憶を持つ」
「じゃあ、誰が正しいんだよ!」
高瀬の声が響いた。
少年は、静かに言った。
「誰も正しくない」
その言葉と同時に、教室の照明が一つずつ消えていった。
「この学校に、本物の人間はいないんだ」
暗闇の中で、少年の声だけが続く。
「いるのは、自分が本物だと信じている人間だけだよ」
最後の照明が消えた。
暗闇の中で、佐伯が呟いた。
「……じゃあ、俺も?」
誰も答えなかった。
しばらくして、教室のスピーカーから声がした。
『佐伯直人』
佐伯の肩が跳ねた。
『本人確認を開始します』
彼は、顔を上げた。
『あなたは、七年前に何を選びましたか?』
佐伯は口を開いた。
しかし、声が出なかった。
スピーカーは、淡々と続けた。
『高瀬蓮を選びましたか?』
沈黙。
『高瀬零を選びましたか?』
佐伯の目が見開かれた。
『それとも――』
声が、少しだけ低くなった。
『あなた自身を選びましたか?』
その瞬間、佐伯の姿が暗闇の中から消えた。
床に、名札だけが落ちた。
三十四番 佐伯直人
高瀬が手を伸ばす。
「佐伯!」
返事はなかった。
名札の裏には、小さな文字が刻まれていた。
本人確認――失敗
4 記録者の母親
照明が戻ったとき、教室には高瀬と宮下だけが残っていた。
扉の向こうの少年も消えている。
佐伯の姿もない。
床に落ちた名札だけが、そこにあった。
高瀬はそれを拾い上げた。
「……佐伯は、どこに行ったんだ」
宮下は、答えられなかった。
「また、消えたのか?」
「分からない」
「分からないって……」
高瀬は名札を握りしめた。
「俺たちは、いつまでこんなことを繰り返すんだよ」
宮下は目を伏せた。
「高瀬君」
「何だよ」
「あなた、さっきの名前を覚えてる?」
「……高瀬零?」
「うん」
彼女は頷いた。
「その名前を、忘れないで」
「どうして?」
「もし、あなたが本当に高瀬零だったなら……」
宮下は言葉を切った。
「今の高瀬蓮が消えても、あなたは残れるかもしれない」
高瀬は、彼女を見つめた。
「……俺が消えてもいいってことか?」
「そうじゃない」
「じゃあ、どういう意味だよ」
宮下は、何も言わなかった。
高瀬は、床に落ちていたスマートフォンを拾い上げた。
画面には、先ほどの家族写真が表示されたままだった。
高瀬零。
その名前を見ていると、胸の奥が痛んだ。
知らない名前のはずなのに。
何かを思い出しかけている。
自分が誰か。
自分が何をしたのか。
そして、なぜ自分は高瀬蓮という名前を持っているのか。
高瀬は、写真を拡大した。
二人の少年。
左側の少年は笑っている。
右側の少年は泣いている。
写真の端には、小さく母親らしき女性が写っていた。
その女性の顔は、黒く塗りつぶされていた。
高瀬は、写真の裏を見た。
そこには、先ほどまでなかった文章が浮かび上がっていた。
高瀬零の母親は、二〇一九年九月三十日に死亡。
高瀬は、息を止めた。
その下に、別の文章。
高瀬蓮の母親は、二〇一九年九月三十日に記録から削除。
そして、最後に。
現在の母親は、どちらの母親でもない。
「……そんな」
高瀬の指が震えた。
母親は、確かに自分を育ててくれた。
一緒に暮らしてきた。
食事を作ってくれた。
誕生日を祝ってくれた。
その記憶は、今も鮮明に残っている。
それなのに。
その母親は、どちらの母親でもない。
では、あの記憶は何なのか。
自分が幼いころに見た景色。
母親に抱きしめられた記憶。
名前を呼ばれた記憶。
それらは誰の記憶だったのか。
「……俺の母さんは、誰なんだ」
高瀬が呟いた。
その瞬間、教室の扉が開いた。
今度こそ、母親が立っていた。
いつもの服。
いつもの髪型。
いつもの顔。
高瀬が知っている母親だった。
彼女は、教室の中を見回した。
そして、高瀬を見つけると、安心したように微笑んだ。
「蓮」
その声を聞いた瞬間、高瀬の目に涙が浮かんだ。
「……母さん」
母親は、ゆっくりと近づいてきた。
「どうしたの? こんなところにいたの?」
高瀬は、何も言えなかった。
母親は彼の頭に手を置いた。
「帰ろう。もう遅いから」
その手の温かさは、本物だった。
高瀬は、思わず母親に抱きついた。
「……母さん」
「うん?」
「俺のこと、知ってる?」
母親は、少し不思議そうに笑った。
「当たり前でしょう。あなたは私の息子なんだから」
高瀬は、顔を上げた。
「じゃあ、俺の本当の名前は?」
母親の笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
本当に、一瞬だった。
しかし、高瀬は見逃さなかった。
母親は、ゆっくりと口を開いた。
「高瀬蓮でしょう?」
「……それだけ?」
母親は答えなかった。
高瀬は、スマートフォンの画面を見せた。
高瀬零。
その名前を見た瞬間、母親の顔から血の気が引いた。
「……その名前を、どこで?」
「母さん、知ってるんだね」
母親は、スマートフォンを手で覆った。
「駄目」
「何が?」
「その名前を呼んでは駄目」
「どうして?」
母親は、高瀬の両肩を掴んだ。
「あなたは、蓮なの」
声が震えていた。
「あなたは高瀬蓮。私の息子。そうでしょう?」
高瀬は、答えられなかった。
母親は、彼を強く抱きしめた。
「お願いだから、思い出さないで」
「……母さん」
「あなたが零だったことを、思い出さないで」
教室の時計が、音を立てた。
十二時十六分。
母親の肩越しに、黒板が見えた。
そこには、新しい文字が浮かんでいた。
本人確認――成功
高瀬は、母親の腕の中で固まった。
「……成功?」
母親は、高瀬を離した。
その顔から、先ほどまでの不安が消えていた。
まるで、何かを終えた人間のように。
「よかった」
彼女は微笑んだ。
「これで、あなたは本当に高瀬蓮になれた」
高瀬は、後ずさった。
「……何をしたんだ?」
母親は答えなかった。
ただ、教室の出口を指さした。
「帰りましょう」
「待って。まだ聞きたいことが……」
「もう、聞かなくていいの」
母親の声は優しかった。
優しすぎた。
「あなたは、ちゃんと高瀬蓮になった。これからは、何も心配しなくていい」
高瀬は、母親を見つめた。
その背後で、黒板の文字が変わっていく。
高瀬蓮――出席
高瀬零――欠席
高瀬は、息を呑んだ。
母親は、彼の手を取った。
「さあ、帰りましょう」
その瞬間、教室のスピーカーから、かすかな声が聞こえた。
『……違う』
高瀬は足を止めた。
『それは、本人確認じゃない』
母親の手が強くなる。
スピーカーの声は続いた。
『記録の上書きだ』
母親の笑顔が、消えた。
『高瀬蓮を出席させるために、高瀬零を欠席にした』
『しかし――』
ザーッ、と雑音が走る。
そして、最後の言葉。
『母親は、二人のうち、どちらを抱きしめたのか覚えていない。』
母親の手が止まった。
高瀬は、彼女を見上げた。
「……母さん?」
母親は、何も言わなかった。
その目は、高瀬の顔を見ている。
だが、その視線は、彼の向こう側を見ているようだった。
まるで、二人の少年のどちらが目の前にいるのか、分からなくなったかのように。
やがて、母親は小さく呟いた。
「……零?」
高瀬の心臓が、強く跳ねた。
母親は、もう一度言った。
「あなた……零なの?」
高瀬は、答えられなかった。
母親の目から、涙がこぼれた。
「ごめんなさい」
彼女は、震える声で言った。
「私は、あなたを……」
その先は、聞こえなかった。
教室の時計が、再び午前零時を指した。
母親の姿が、少しずつ薄れていく。
高瀬は手を伸ばした。
「待って!」
母親は、最後に一度だけ微笑んだ。
その表情は、今まで高瀬が見たどの笑顔とも違っていた。
「あなたの名前を、返してあげられなくて、ごめんね」
そして、消えた。
教室には、誰もいなくなった。
高瀬は、その場に立ち尽くした。
スマートフォンが震えた。
新しいメッセージ。
送り主は、母親。
本文は、たった一行だった。
「蓮へ。あなたには、双子の弟がいました」
高瀬は、画面を見つめた。
続けて、もう一通。
「名前は、高瀬零。生まれた日、あなたは一人でした」
さらに、三通目。
「それでも、私は二人の息子を覚えています」
高瀬の手が震えた。
最後のメッセージが届いた。
「だからお願い。今度こそ、あなた自身の名前を選んで」
画面が暗くなった。
そして、黒い画面の中央に、見慣れない数字が浮かび上がった。
三十七
その下に、文字が一つ。
母親――欠席
高瀬は、ゆっくりと顔を上げた。
教室の窓に、二人の少年が映っていた。
一人は、高瀬蓮。
もう一人は、高瀬零。
二人は、同じ顔でこちらを見つめていた。
そして、窓の中の高瀬零が、口を動かした。
声は聞こえない。
だが、高瀬には読めた。
「次は、君が俺を産む番だ」
その瞬間、教室の黒板に、最後の文字が浮かび上がった。
第九日目
出席者――一名
欠席者――三十六名
次回、記録者の出生を確認します。
高瀬は、黒板を見つめた。
その下に、さらに小さな文字が現れた。
「なお、記録者の出生年月日は、二〇一九年九月三十日ではありません」
一拍。
「記録者は、まだ生まれていません」
第十二話・終




