第十一話 「出席していない人間」
1 不正解
スマートフォンの画面には、まだその文字が残っていた。
「高瀬蓮は、まだ一度も出席していない」
高瀬蓮は、画面を見つめたまま動けなかった。
出席していない。
それは、欠席しているという意味ではない。
欠席なら、そこにいるはずの人間が来ていないことになる。
だが、出席していないというのは。
そもそも、そこにいる人間が、出席者として認められたことがないということだ。
「……何だよ、それ」
声がかすれた。
「俺は、ずっとこの学校に通ってきた。クラスメイトだっている。先生だっている。テストも受けたし、通知表だってもらった」
高瀬は、宮下を振り返った。
「それが全部、嘘だったっていうのか?」
宮下は答えなかった。
代わりに、佐伯がスマートフォンを取り出した。
「待て。おかしいだろ」
彼は画面を操作しながら、早口で続けた。
「俺たちが本当に存在していないなら、スマホだって持っていないはずだ。学校の外にも記録がある。家族だって、俺たちのことを知っている」
「そうだな」
高瀬は頷いた。
「じゃあ、確認すればいい」
彼は連絡先を開いた。
母親。
父親。
クラスの友人。
担任。
誰でもいい。
自分が確かに存在していると証明できる相手に電話をすればいい。
最初に選んだのは、母親だった。
発信ボタンを押す。
呼び出し音が一回。
二回。
三回。
そして、つながった。
『……もしもし?』
聞き慣れた声だった。
高瀬は、思わず息を吐いた。
「母さん、俺」
『はい?』
「俺だよ。蓮」
電話の向こうで、沈黙があった。
『……どちらさまですか?』
高瀬の表情が固まった。
「何言ってんだよ。俺だって。高瀬蓮」
『すみません。お間違いではありませんか?』
「母さん!」
声が大きくなった。
『失礼ですが、どちらにおかけですか?』
その声には、困惑があった。
演技には聞こえなかった。
本当に、知らない人間から電話がかかってきたと思っている声だった。
「……うそだろ」
『申し訳ありませんが、切らせていただきますね』
通話が終了した。
高瀬は画面を見つめた。
発信先は、間違いなく母親の電話番号だった。
登録名も、番号も、何も変わっていない。
なのに。
「……俺のことを、忘れてる」
誰も答えなかった。
高瀬は、今度は父親に電話をかけた。
つながらない。
友人にメッセージを送った。
送信済み。
既読はつかない。
担任の連絡先を開いた。
そこに表示されていた名前を見て、高瀬は息を呑んだ。
担任 佐藤先生
黒田ではない。
以前から担任だったはずの先生の名前が、いつの間にか別のものになっている。
高瀬は、スマートフォンを強く握った。
「……まただ」
七年前の記録。
地下書庫。
消えていく名前。
そして、今度は家族まで。
高瀬は、ゆっくりと宮下を見た。
「お前は、知ってたのか?」
「……」
「俺が、最初から出席していなかったってこと」
宮下は、目を伏せた。
「全部は知らなかった」
「じゃあ、何を知ってる?」
彼女は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「あなたが、誰かの代わりとして作られたこと」
高瀬は笑いそうになった。
笑えるはずなどなかった。
「それは知ってる。八人目なんだろ」
「違う」
宮下は、はっきりと言った。
「あなたは、誰かの代わりとして作られたんじゃない」
「……何?」
「あなたは、誰かの代わりとして出席させられたの」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
宮下は続けた。
「人間を作ることと、その人間を出席させることは違う。あなたは確かに存在している。あなたが覚えていることも、感じていることも、全部が嘘というわけじゃない」
「じゃあ、何が違うんだよ」
「あなたが誰なのかを、誰も決めていない」
そのとき。
廊下のスピーカーが、短く鳴った。
『訂正します』
高瀬たちは、同時に天井を見上げた。
『先ほどの出席確認に、誤りがありました』
女の声は、今までよりも明瞭だった。
『高瀬蓮は、出席していません』
一拍。
『訂正』
声が途切れた。
雑音が混じる。
そして、再び。
『高瀬蓮は、出席したことがありません』
高瀬の目の前で、廊下の壁に掛けられていたクラス写真が変化した。
写真の中央。
クラスメイトたちの間に立っていたはずの高瀬の姿が、消えていた。
ただし、そこに空白はない。
隣の生徒が半歩ずれ、後ろの生徒が自然に位置を変え、最初から高瀬などいなかったかのように、写真が再構成されていた。
高瀬は、写真に近づいた。
「……俺がいない」
写真の下に貼られた名簿も変わっていた。
クラスの人数は三十六人。
高瀬の名前はない。
それでも。
高瀬は、そこに立っていた。
自分の手がある。
足がある。
制服を着ている。
息もしている。
「じゃあ、俺は何なんだよ……」
返事はなかった。
その代わり、廊下の突き当たりで扉が開いた。
三年二組。
その教室から、一人の少年が顔を出した。
七年前の写真に写っていた、三十二番の少年。
彼は高瀬を見て、微笑んだ。
「ようやく気づいたんだね」
そして、こう言った。
「君は、出席する側じゃない」
少年は、自分の胸元を指さした。
「君は、出席を取る側だ」
2 記録係
三年二組の教室は、以前と同じだった。
黒板。
机。
椅子。
壁の時計。
ただし、教室に生徒はいなかった。
机は三十六個。
すべての机の上に、出席簿が置かれていた。
高瀬が教室に入ると、少年は黒板の前に立った。
三十二番の名札をつけている。
七年前の写真では、顔が黒く塗りつぶされていた少年。
地下書庫で出会った、顔のない三十七番。
そして、今、目の前にいる少年。
三人が同一人物なのか。
それとも、同じ記憶から作られた別々の人間なのか。
高瀬には、まだ判断できなかった。
「お前は、誰なんだ」
少年は首を傾げた。
「君が一番よく知っている人だよ」
「ふざけるな」
「そうだね。君にとっては、そう聞こえるかもしれない」
少年は黒板にチョークを走らせた。
一行目。
出席者
二行目。
欠席者
三行目。
記録者
「この学校には、三種類の人間がいる」
少年は言った。
「出席者は、名前を持つ人間。欠席者は、名前を失った人間。そして記録者は、その二つを決める人間」
「……記録者?」
「そう」
少年はチョークを置いた。
「君は、ずっと出席者になろうとしていた。自分の名前を取り戻そうとして、記録を調べて、消された人間を探していた」
高瀬は、黙って聞いていた。
「でも、君は最初から、記録の外側にいたんだ」
「俺が……記録者だっていうのか?」
「正確には、記録者になるはずだった人間だよ」
少年は黒板の前を離れた。
「七年前、ある計画が立てられた。名前を交換することで、一人の人間を残し、別の人間を消す計画」
「それは知ってる」
「知っているつもりなんだね」
少年は微笑んだ。
「では、聞こう。七年前、誰が最初に名前を交換しようと言った?」
高瀬は答えようとした。
だが、言葉が出てこなかった。
記憶の断片はある。
午後十二時十六分。
四人の生徒。
黒田先生。
「名前を交換しよう」という声。
けれど、最初に言い出した人物の顔が、どうしても浮かばない。
「……分からない」
「そうだろうね」
少年は頷いた。
「なぜなら、最初に言い出したのは、君だから」
高瀬は息を呑んだ。
「違う。俺は八人目だ。七年前の俺は……」
「七年前の君は、まだ高瀬蓮ではなかった」
少年は、黒板の一行目を消した。
出席者
そして、その下に新しい文字を書いた。
候補者
「君は、名前を持つ人間になるために、あの計画を始めた」
「……何を言ってるんだ」
「君は自分の名前が欲しかった。誰かに名前を呼ばれたかった。自分が存在していると、誰かに認めてほしかった」
少年は、少しだけ悲しそうな顔をした。
「だから、君は記録を作った」
「そんな記憶はない!」
「もちろん。君が忘れたからね」
「誰が忘れさせたんだ!」
少年は答えなかった。
代わりに、教室の一番後ろを指さした。
そこには、一つだけ机が置かれていた。
番号札はない。
名前もない。
机の上には、黒いノートが一冊。
高瀬は、そのノートを見た瞬間、全身が冷たくなった。
これまで何度も見てきた黒いノート。
欠席者を記録し、次に消える人間を予告し、午前零時になるたびに新しい文字が浮かび上がるノート。
高瀬は、ゆっくりと近づいた。
表紙には、何も書かれていない。
開く。
最初のページ。
そこには、見慣れた文字でこう記されていた。
『記録者候補――高瀬蓮』
二ページ目。
『候補者は、自分が候補者であることを知らない』
三ページ目。
『候補者は、自分の名前を本物だと信じている』
四ページ目。
『候補者が真実を知った場合、計画を継続するかどうかを判断する』
高瀬はページをめくった。
五ページ目には、名前が四つ並んでいた。
宮下美緒。
佐伯直人。
黒田修一。
高瀬蓮。
それぞれの名前の横には、役割が書かれていた。
宮下美緒――記憶を保持する者。
佐伯直人――名前を移動させる者。
黒田修一――記録を管理する者。
高瀬蓮――記録者候補。
その下には、さらに一行。
最初の高瀬蓮――計画を開始した者。
高瀬は、ページを閉じた。
「……最初の高瀬が、計画を始めたんじゃないのか?」
少年は首を横に振った。
「最初の高瀬は、計画を止めようとした」
「じゃあ、誰が始めた?」
「君だよ」
「俺は八人目だ!」
「八人目の君は、そうだろうね」
少年は、静かに言った。
「でも、記録者候補の君は、何人目だと思う?」
高瀬は答えられなかった。
少年は黒板に数字を書いた。
0
「最初の高瀬蓮が存在する前に、君はいた」
「……ゼロ人目?」
「そう」
少年は高瀬を見た。
「名前を持たない君が、最初の高瀬蓮を作ったんだ」
教室の時計が、十二時十六分を指した。
その瞬間。
高瀬の頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
暗い部屋。
机の上のノート。
自分の手。
まだ名前のなかった自分。
そして、ノートに書き込む声。
――名前がなければ、誰も僕を消せない。
――名前がなければ、僕は出席できない。
――だったら、名前を作ればいい。
――僕の代わりに、誰かが出席すればいい。
高瀬は、机に手をついた。
「……やめろ」
記憶が流れ込んでくる。
知らないはずの景色。
知らないはずの声。
知らないはずの自分。
少年が、静かに告げた。
「おかえり。ゼロ番」
3 宮下美緒の三つの記憶
「高瀬君!」
宮下の声がした。
高瀬が顔を上げると、宮下が教室の入口に立っていた。
その後ろには佐伯がいる。
二人とも、ひどく青ざめていた。
「……大丈夫?」
宮下が近づこうとする。
しかし、高瀬は反射的に一歩下がった。
「来るな」
宮下の足が止まった。
「高瀬君?」
「お前、何を知ってるんだ」
「……」
「俺が計画を始めたって、どういうことだ?」
宮下の顔が強張った。
「誰から聞いたの?」
「三十二番の少年だ」
その瞬間、宮下は目を閉じた。
「……そう」
彼女は、小さく息を吐いた。
「ついに、そこまで戻ったんだね」
「説明しろ」
「私にも、全部は分からない」
「またそれか!」
高瀬の声が教室に響いた。
「お前はいつもそうだ。何か知ってるのに、全部は分からないって言う。俺のことを消したのはお前なのか? 俺を作ったのは誰なんだ? 七年前、何があったんだ!」
宮下は、黙って高瀬を見つめていた。
やがて、彼女は言った。
「私は、三人いる」
高瀬は口を閉じた。
「七年前の三十三番。七年前の三十六番。そして、今の私」
宮下は自分の胸に手を当てた。
「三人とも、同じ名前を持っている。でも、同じ記憶を持っているわけじゃない」
「それは知ってる」
「違うの」
彼女は首を振った。
「三人とも、自分が本物だと思っている」
高瀬は、言葉を失った。
「三十三番の私は、三十六番の記憶を知らない。三十六番の私は、三十三番が存在することを知らなかった。そして、今の私は……二人の記憶を少しずつ受け継いでいる」
「じゃあ、今のお前は、二人の記憶から作られたのか?」
「そうかもしれない」
「自分が誰なのか、分かってるのか?」
宮下は、しばらく考えた。
「分からない」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「でも、一つだけ覚えていることがある」
「何?」
「七年前、三十六番の私は、あなたに会った」
高瀬の胸がざわついた。
「俺に?」
「うん」
「何を話した?」
宮下は、ゆっくりと目を閉じた。
「あなたは、私にこう言った」
彼女の声が、わずかに震えた。
「『名前を交換しよう』って」
高瀬は動けなかった。
「あなたは、私に名前を渡そうとした。自分が持っている名前を、私に渡そうとした」
「……何のために?」
「私を残すため」
宮下は目を開けた。
「でも、私は断った」
「どうして?」
「その名前は、あなたのものじゃなかったから」
教室の時計が、一秒だけ進んだ。
十二時十七分。
宮下は続けた。
「あなたは、自分の名前を誰かから借りていた。だから、誰かに返さなければならなかった。でも、あなたは返したくなかった」
「……」
「あなたは、初めて自分を認めてくれた人の名前を、手放したくなかったんだと思う」
高瀬の脳裏に、また一つの光景がよみがえった。
薄暗い教室。
窓際の席。
一人の少年が、机に突っ伏している。
周りの生徒たちは、その少年を見ていない。
先生も、名前を呼ばない。
まるで、最初からそこにいないかのように。
その少年の前に、一人の少女が立った。
少女は、彼の机に手を置いて言った。
――あなたの名前は?
少年は答えられなかった。
――名前がないの?
少年は頷いた。
少女は少し考えてから、笑った。
――じゃあ、私の名前を教えてあげる。
――宮下美緒。
――私は、宮下美緒。
――あなたも、いつか自分の名前を見つけてね。
高瀬は、息を呑んだ。
その記憶は、自分のものだった。
だが、その少年の顔は。
高瀬ではなかった。
佐伯でも、黒田でもない。
写真で顔を黒く塗りつぶされていた、三十二番の少年だった。
高瀬は、ゆっくりと三十二番を見た。
少年は、何も言わずに頷いた。
「思い出した?」
高瀬は答えられなかった。
少年は、少し悲しそうに笑った。
「君は、俺じゃない」
「……何?」
「君は、俺の記憶を持っている。でも、俺自身ではない」
高瀬の頭が混乱した。
「じゃあ、俺は誰なんだ?」
少年は答えた。
「それを決めるのが、記録者の仕事だよ」
その言葉と同時に、黒いノートがひとりでに開いた。
ページがめくれていく。
最後のページで止まった。
そこには、新しい文字が浮かび上がっていた。
記録者候補――最終選考
候補者A 高瀬蓮
候補者B 宮下美緒
候補者C 佐伯直人
候補者D 黒田修一
その下に、選択欄があった。
「次の記録者を一名選択してください」
そして、小さな注意書き。
「選ばれなかった三名は、記録から削除されます」
「……また、これか」
佐伯が呟いた。
高瀬はノートを見つめた。
「選ばなかったら?」
少年が答えた。
「記録者が決まらない場合、学校は自動的に選択を行う」
「誰を選ぶんだ?」
「一番、記録に矛盾が多い人間」
高瀬は、四つの名前を見た。
そして、気づいた。
四人のうち、最も記録が不安定なのは。
自分だ。
「……俺を選ぶようにできてるのか」
少年は否定しなかった。
宮下が、ノートを閉じようとした。
だが、閉じられない。
ページは開いたまま、まるで何かに固定されているかのように動かなかった。
「高瀬君、選んじゃ駄目」
「じゃあ、どうすればいい?」
「分からない」
「……」
「でも、これだけは覚えていて」
宮下は、高瀬の目を見た。
「この学校で、選ばれることと、救われることは同じじゃない」
4 黒田先生の本当の名前
「その通りだ」
教室の後ろから声がした。
黒田修一だった。
彼はいつの間にか、最後列の机に座っていた。
机の上には、古い書類が積まれている。
高瀬は、黒田を睨んだ。
「先生も候補者なんですか?」
「そうだ」
「どうして、そんなことになってるんですか」
黒田は、書類の一枚を手に取った。
「私は、記録者ではない」
「じゃあ、何なんですか」
「記録者を選ぶために作られた人間だ」
佐伯が目を見開いた。
「……作られた?」
「私の記憶には、子供のころの記憶がある。学校に通った記憶も、教師になった記憶もある。だが、それらが本当に私の人生だったのか、証明するものは何もない」
黒田は、書類を机に置いた。
「私の戸籍は存在する。卒業証書もある。教員免許もある。家族の記憶もある。だが、そのすべてが、ある日突然、記録の中に現れたものだったとしたら?」
「……」
「私は、誰かの記憶を引き継いだ存在なのかもしれない。あるいは、最初から記録の管理者として作られた存在なのかもしれない」
黒田は、高瀬を見た。
「君と同じだ」
高瀬は、言葉を失った。
「先生も、誰かの代わりなんですか?」
「そうかもしれない」
「じゃあ、先生の本当の名前は?」
黒田は、ゆっくりと首を横に振った。
「分からない」
「……」
「だが、一つだけ確かなことがある」
黒田は書類を開いた。
その一番上には、古い写真が貼られていた。
七年前の三年二組。
四人の生徒が並んでいる。
宮下美緒。
佐伯直人。
高瀬蓮。
そして、顔の黒く塗りつぶされた三十二番。
黒田は、写真の端を指で押さえた。
「この写真には、私も写っていた」
高瀬は目を凝らした。
写真の後方。
教室の入口に、教師らしき人物が立っている。
しかし、顔がない。
「……これが、先生?」
「そうだ」
「でも、黒田先生は、もっと若いはずじゃ……」
「写真の日付は、二〇一九年九月三十日」
黒田は言った。
「この写真に写っている人物は、黒田修一という名前を持っていなかった」
「じゃあ、何て名前だったんですか?」
黒田は、写真を裏返した。
裏には、たった一行だけ記されていた。
記録係――三十六番
高瀬は、思わず宮下を見た。
三十六番。
宮下美緒の名前が記されていた番号。
黒田は続けた。
「七年前、三十六番は一人ではなかった」
「……どういうことですか」
「三十六番という番号は、席の番号ではなかった。役割の番号だったんだ」
黒田は写真をしまった。
「記録者が選ばれるまで、三十六番は空席になる。その席に座る人間は、記録を監視し、必要に応じて修正する」
「それが、先生?」
「私が最初の三十六番だったのかもしれない」
「でも、三十六番は宮下の名前だった」
「そうだ。だから私は、彼女の記憶を引き継いでいる可能性がある」
宮下は、黒田を見つめていた。
「……私の記憶を?」
「君が覚えていないことを、私が覚えている。私が覚えていないことを、君が覚えている。それが何を意味するのかは、まだ分からない」
黒田は、ノートを見た。
「ただ、この選考が始まったということは、もう時間がない」
「時間?」
「記録者が決まらなければ、学校は四人の中から自動的に一人を選ぶ。そして、その人間が記録者になる」
「残りの三人は?」
「消える」
高瀬は、ノートの四つの名前を見つめた。
「それは、いつですか?」
黒田は答えた。
「午前零時だ」
「今も零時です」
「そうだ」
黒田は壁の時計を見た。
「だから、もう始まっている」
その瞬間、教室の窓に文字が浮かんだ。
残り時間――22分47秒
高瀬は、息を止めた。
また、その数字。
何度も繰り返されてきた、二十二分四十七秒。
時計の針は動いていない。
それでも、残り時間だけが減り始めていた。
22:46。
22:45。
22:44。
宮下が、ノートを見つめた。
「……これ、選考じゃない」
「何?」
高瀬が尋ねる。
宮下は、ノートのページを指さした。
「選ばれなかった三人が消えるんじゃない」
彼女は、震える声で続けた。
「最初から、誰か一人を消すために、選考を始めたんだ」
黒田の顔が強張った。
「宮下君。そこまでだ」
「先生は知っているんですね」
「やめなさい」
「この四人のうち、誰が記録者になっても、同じ結果になる」
宮下は、高瀬を見た。
「記録者になった人間は、ほかの三人の名前を記録から削除する。そして、その三人の記憶を引き継ぐ」
佐伯が呟いた。
「……じゃあ、記録者は」
「四人分の記憶を持つことになる」
宮下は答えた。
「四人分の記憶を持つ、一人の人間になる」
高瀬は、ノートから目を離せなかった。
それが、この学校の目的なのか。
一人の人間を永遠に出席させるために、何人もの人間を作り、消し、記憶を引き継がせる。
最後に残った一人は、誰よりも多くの記憶を持つ。
しかし、その記憶の中に、自分自身の記憶はあるのだろうか。
「……そんなの」
佐伯が言った。
「一人の人間じゃないだろ」
誰も答えなかった。
そのとき。
ノートの選択欄が、ひとりでに動いた。
高瀬蓮。
宮下美緒。
佐伯直人。
黒田修一。
四つの名前のうち、一つに赤い線が引かれた。
黒田修一
黒田が立ち上がった。
「……まずい」
「先生?」
「誰も選んでいないのに、選択が始まった」
赤い線が、ゆっくりと濃くなっていく。
黒田の名前の横に、新しい文字が現れた。
候補者D――選出
その瞬間、黒田が苦しそうに机に手をついた。
「……やめろ」
声が震えている。
「私は……記録者にはなれない」
黒田の名前が、ノートから浮かび上がった。
紙の上から、文字が剥がれていく。
黒田修一。
黒田修一。
黒田修一。
何度も同じ名前が、ページ全体に広がっていく。
そして、すべての文字が一斉に消えた。
代わりに、一つの名前が現れた。
三十六番
黒田が顔を上げた。
その顔が、一瞬だけ別人に見えた。
七年前の集合写真に写っていた、顔のない教師。
その姿と、目の前の黒田が重なった。
「……思い出した」
黒田が呟いた。
「私は、記録者ではなかった」
彼は、ゆっくりと高瀬を見た。
「私は、記録者を消すために作られたんだ」
教室の照明が消えた。
暗闇の中で、誰かが笑った。
その笑い声は、黒田のものだった。
5 最後の出席者
照明が戻ったとき、黒田はいなかった。
机の上には、黒いノートだけが残されていた。
選択欄から、黒田修一の名前が消えている。
代わりに、三つの名前が残っていた。
高瀬蓮。
宮下美緒。
佐伯直人。
そして、その下には新しい文字。
候補者D――欠席
「……先生は、どこに行ったんだ?」
佐伯が教室を見回した。
扉の向こうにも、廊下にも、誰もいない。
ただ、黒板に新しい文字が書かれていた。
三十六番は、記録者を消す。
高瀬は、その文字を見つめた。
「黒田先生は、記録者を消すために作られた……」
宮下が頷いた。
「たぶん、そういう役割だったんだと思う」
「じゃあ、記録者は誰なんだ?」
「……分からない」
「もういい」
高瀬は、疲れたように言った。
「分からないことばかりだ」
彼はノートを手に取った。
残り時間は、22分31秒。
秒単位で減っている。
だが、時計は動かない。
高瀬は、選択欄を見た。
自分の名前。
宮下の名前。
佐伯の名前。
誰かを選べば、残りの二人が消える。
選ばなければ、自動的に誰かが選ばれる。
ならば、どうすればいい。
「……一つ、考えがある」
佐伯が言った。
高瀬と宮下が振り向いた。
「選ぶ必要があるのは、記録者だろ?」
「そうだね」
「だったら、四人の中から選ばなければいい」
佐伯はノートを見た。
「候補者を、全員欠席にすればいいんじゃないか?」
高瀬は、眉をひそめた。
「どうやって?」
「分からない。でも、記録者が必要なのは、学校が出席者を一人にするためなんだろ?」
「そうだ」
「なら、誰も出席しなければいい」
宮下は、静かに首を横に振った。
「それはできないと思う」
「どうして?」
「この学校は、出席者を一人にするために存在している。誰も出席しなければ、学校そのものが成立しなくなる」
「じゃあ、学校をなくせばいい」
佐伯は言った。
「そもそも、学校があるから、こんなことになってるんだろ」
高瀬は、彼の言葉を考えた。
学校をなくす。
記録を消す。
出席簿を燃やす。
そんな単純な方法で終わるなら、七年間も続いているはずがない。
だが。
この学校は、記録を変えることで過去を変えている。
ならば、学校そのものも、何らかの記録によって存在しているのかもしれない。
「……学校の記録を作った人間を探せばいい」
高瀬が言った。
宮下が顔を上げた。
「記録者のこと?」
「いや、もっと前だ」
高瀬はノートを閉じた。
「この学校を、こういう仕組みにした人間だ」
その瞬間、教室の扉が開いた。
廊下に、三十七番の少年が立っていた。
彼は、手に一枚の紙を持っている。
「遅かったね」
少年は言った。
「でも、まだ間に合う」
「……何が?」
高瀬が尋ねる。
少年は紙を差し出した。
それは、古い学校の設立記録だった。
表題には、こう書かれていた。
学校法人設立認可申請書
その下に、設立年月日。
二〇一九年九月三十日。
高瀬は、目を見開いた。
「……七年前?」
「そう」
少年は頷いた。
「この学校が、今の形になった日だ」
「でも、学校自体はもっと前からあるだろ」
「学校の建物はね」
少年は、紙の一番下を指さした。
そこには、設立者の名前が記されていた。
高瀬は、その名前を見た。
そして、息が止まった。
設立者――高瀬蓮
「……俺?」
「違う」
少年は、静かに言った。
「君じゃない」
「じゃあ、誰なんだ?」
少年は、紙を裏返した。
裏面には、手書きの文字があった。
『記録者が決まるまで、この学校は存在しない』
『記録者が決まったとき、学校は過去に遡って存在する』
『最初の記録者は、学校の外にいる』
そして、最後に。
「最初の記録者は、まだ生まれていない」
高瀬は、何度もその文字を読んだ。
まだ生まれていない。
では、誰が学校を作ったのか。
誰が記録を管理しているのか。
誰が、この計画を始めたのか。
少年は、教室の窓を見た。
そこには、四人の姿が映っていた。
高瀬。
宮下。
佐伯。
そして、三十七番の少年。
だが、窓に映った四人のうち、三人には顔があった。
残る一人だけ、顔がなかった。
高瀬が振り返る。
そこにいたのは、三十七番の少年だった。
少年の顔が、ゆっくりと消えていく。
「……おい」
高瀬が一歩近づく。
「お前、どうなるんだ?」
少年は笑った。
「俺は、もうすぐ欠席する」
「何だって?」
「三十七番は、最後の席だから」
少年は、胸元の番号札を外した。
その下には、別の番号があった。
0
高瀬の呼吸が止まった。
ゼロ番。
記録者候補。
名前を持たない人間。
「……お前が」
少年は頷いた。
「そう。俺が、最初の記録者候補だった」
「でも、さっきは俺がゼロ番だって……」
「君は、俺の記憶を引き継いだ」
少年は、番号札を高瀬に差し出した。
「だから、君もゼロ番なんだ」
「……」
「俺は、君を作ったんじゃない。君が俺を引き継いだんだ」
高瀬は、札を受け取れなかった。
少年は、そっと机の上に置いた。
「もう一度だけ、出席を取ろう」
彼は黒板の前に立った。
「ゼロ番」
返事はない。
「高瀬蓮」
高瀬は黙っていた。
「宮下美緒」
宮下も答えない。
「佐伯直人」
佐伯も答えなかった。
少年は、しばらく三人を見つめていた。
そして、最後に。
「記録者」
その瞬間、教室のすべての机が、同時に音を立てた。
ガタン。
ガタン。
ガタン。
空席だったはずの椅子に、誰かが座っている。
三十六人。
顔の見えない生徒たち。
彼らが、一斉に声を揃えた。
「はい」
少年は、満足そうに頷いた。
「出席を確認しました」
その直後、少年の姿が消えた。
床に落ちた番号札だけが残った。
ゼロ番。
高瀬は、震える手でそれを拾った。
札の裏には、文字が書かれていた。
「記録者は、出席者の中にはいない」
高瀬は顔を上げた。
教室の窓に、また文字が浮かんでいた。
残り時間――00:00:01
一秒。
零秒。
そして。
第八日目、終了。
校舎の時計が、一斉に午前零時を告げた。
高瀬のスマートフォンが震えた。
新しいメッセージ。
送り主は、登録されていない番号。
本文は、こうだった。
「おめでとうございます。第八日目の記録者が決定しました」
その下に、名前が一つ。
高瀬蓮
高瀬は、息を呑んだ。
しかし、すぐに違和感に気づいた。
画面の一番下。
小さな文字で、こう記されていた。
「なお、記録者本人の出席は確認されていません」
高瀬が顔を上げると、教室の黒板に新しい文字が浮かび上がっていた。
第九日目
欠席者――三十六名
出席者――一名
そして、最後の一行。
「記録者は、教室の外にいます」
高瀬は、教室の扉を見た。
その向こうから、誰かがノックした。
コン、コン、コン。
三回。
そして、聞き覚えのある声がした。
『高瀬蓮君。出席を取ります』
それは、母親の声だった。
『あなたの本当の名前を、教えてください』
高瀬は、動けなかった。
扉の向こうから、もう一度声がした。
『あなたは、誰の名前を使っているのですか?』
第十一話・終




