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『大陸一の大富豪は、今日も好きな女の子の店で暇人扱いされています。  作者: オレンジペコ


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第9話 それ、アルトさんのです

 翌日の午後1時半。


 《陽だまり亭》のカウンターには、蜂蜜りんごの焼きタルトが1つだけ残っていた。


 昼前には8つあった。


 最近はミラやロッソが近所で話しているらしく、少しずつ目当てに来る客も増えている。


「本当に売れるようになったね」


 リーナは空になった菓子皿を片づけながら言った。


「もう少し焼くか?」


 ベルンが厨房から尋ねる。


「まだいいんじゃない? 売れ残るようになったらもったいないし」


「それもそうだな」


 リーナは最後の1つを見る。


 昨日、アルトはほとんど店にいなかった。


 南で仕事があると言って、閉店前にわざわざ顔だけ出しに来た。


『明日はちゃんと来る』


『午後2時くらい』


 そう言っていた。


 時計は午後1時34分。


 まだ少し早い。


「リーナちゃん」


 窓際から声がした。


「はい?」


 ミラが空になった皿を持ち上げた。


「これ、もう1ついただける?」


「タルトですか?」


「ええ。今日はいつもより美味しく感じるわ」


「毎日同じですよ」


「じゃあ私のお腹が空いてるのね」


 リーナは笑って、カウンターへ手を伸ばした。


 最後のタルトを取ろうとする。


 指が皿に触れる直前で、止まった。


「あ」


「どうしたの?」


 リーナはタルトを見る。


 それから時計を見た。


 午後1時35分。


「あの、ミラさん」


「なあに?」


「すみません。これは駄目です」


「あら」


「他のお菓子ならあります。胡桃の焼き菓子とか」


「でも、そこに1つあるじゃない」


「これは……」


 リーナは少し迷った。


 そして、口にする。


「それ、アルトさんのです」


 言ったあとで、自分が一番驚いた。


 ミラが目を丸くする。


 厨房から聞こえていた包丁の音も止まった。


「アルトさんの?」


「……はい」


「予約?」


 リーナは答えに詰まった。


 昨日、予約はされていない。


 ただ、来ると言っていた。


「予約ではないんですけど」


「じゃあ、まだ売ってないのよね?」


「そうなんですけど……」


 ミラは楽しそうにリーナを見る。


「アルトさん、まだ来てないでしょう?」


「来ますから」


 今度はすぐに答えていた。


「あら」


「昨日、約束したんです。午後2時くらいに来るって」


「でも、仕事で来られないかもしれないわよ?」


 リーナは一瞬だけ黙った。


 昨日なら、そう思ったかもしれない。


 けれど。


「来ます」


 自分でも驚くほど、迷わなかった。


 ミラの口元が緩む。


「じゃあ、胡桃の方をいただこうかしら」


「すみません」


「いいのよ。人の分を取ったら悪いものね」


「だから、まだアルトさんのものって決まったわけじゃ――」


「あら、違うの?」


「……胡桃、持ってきますね」


 逃げた。


 厨房へ入ると、ベルンがこちらを見ていた。


「何?」


「何も」


「絶対何か言いたい顔してる」


「俺は包丁持ってるだけだ」


「さっき止まってたじゃん」


 ベルンは何も答えず、野菜を切り始めた。


     ◇


 午後1時58分。


 入口のベルが鳴った。


「こんにちは」


 リーナは顔を上げる。


 アルトだった。


 なぜか、ほっとした。


「いらっしゃいませ」


「今日は間に合った」


 アルトが壁の時計を見る。


「2分前」


「本当に来た」


「約束したから」


 リーナは笑った。


「そうでしたね」


「何?」


「何でもないです」


 アルトがいつもの窓際へ向かう。


 リーナは注文を聞かずにコーヒーを淹れた。


 少し軽め。


 砂糖もミルクもなし。


 そして、カウンターに残していたタルトを皿に載せる。


 コーヒーと一緒にアルトの前へ置いた。


「どうぞ」


「頼んでないけど」


「最後の1つです」


「いいの?」


「いいんです」


 アルトはタルトを見た。


「もしかして、また取っておいてくれた?」


「今日は違います」


「違うの?」


「最初から取っておいたわけじゃないです」


 リーナは布巾を持ったまま、少し迷う。


 言わなくてもいい。


 けれど、ミラがこちらを見ている。


 絶対に聞いている。


「最後の1つになったあとで、アルトさんが来るって思い出しただけです」


「それで残してくれた?」


「……はい」


 アルトの表情が緩んだ。


「ありがとうございます」


「そんなに喜ばなくても」


「嬉しいから」


「タルト1個ですよ」


「前にも言われたね、それ」


 アルトがフォークを入れる。


 さくりと生地が割れ、焼いたりんごの甘い香りが広がった。


「美味しい」


「それならよかったです」


「昨日食べられなかったから、余計に」


「昨日は忙しかったんでしょう?」


「うん。朝までかかった」


 リーナの手が止まる。


「寝たんですか?」


「少しは」


「少しって?」


「2時間くらい」


「全然寝てないじゃないですか」


「でも片づいたよ」


「そういう問題じゃありません」


 アルトがコーヒーを飲もうとする。


 リーナはカップを見た。


「コーヒー、もう1杯は駄目ですよ」


「まだ1杯目だけど」


「おかわりの話です」


「先回りされた」


「今日は帰ったら寝てください」


「まだ仕事がある」


「じゃあ終わったら」


「分かった」


「本当に?」


「約束する」


 リーナはじっと見る。


「昨日も約束は守ったでしょう?」


「……確かに」


「信用が増えた?」


「少し」


「厳しいな」


 アルトが笑った。


 そのやり取りを聞いていたミラも、なぜか楽しそうに笑っている。


「何ですか、ミラさん」


「何でもないわよ」


「絶対何かありますよね?」


「私、胡桃のお菓子も好きになったわ」


「それならよかったです」


 リーナはそれ以上聞かなかった。


     ◇


 午後2時半を過ぎると、店内は静かになった。


 アルトはいつもよりゆっくりコーヒーを飲んでいる。


 寝不足のせいか、少しだけ目元が重そうだった。


 リーナはカウンターの中から何度か様子を見た。


「アルトさん」


「うん?」


「今日は早めに帰った方がいいですよ」


「追い出されてる?」


「心配してるんです」


 口にしてから、リーナは一瞬止まった。


 アルトも止まった。


「……お客さんの体調を」


 付け足す。


「うん」


 アルトが少し笑う。


「何です?」


「いや。ありがとう」


「だったらちゃんと休んでください」


「分かった」


 リーナは空いた皿を下げる。


 タルトは綺麗になくなっていた。


「ところで」


「はい?」


「さっき、最後の1つって言ったよね」


「言いました」


「他のお客さん、欲しがらなかった?」


 リーナの動きが止まる。


 窓際のミラが紅茶を飲んでいる。


 目が合った。


 ミラがにこりと笑った。


 絶対に黙っている気がない顔だった。


「……いました」


「いたんだ」


「はい」


「それでも残してくれたの?」


「来るって言ったでしょう?」


 リーナは皿を重ねながら答えた。


「だから、来ると思ってたんです」


 アルトは何も言わなかった。


「何です?」


「嬉しい」


「また?」


「うん」


「今日そればっかりですね」


「今日はいい日だから」


「2時間しか寝てないのに?」


「それとは別」


 リーナは呆れながらも、少し笑った。


「じゃあ、いい日だったなら、最後までいい日にしてください」


「どうすれば?」


「帰って寝る」


「分かった」


 アルトは素直に立ち上がった。


「今日は言うこと聞くんですね」


「リーナが心配してるから」


「……お客さんとしてです」


「うん」


 また、分かっているのかいないのか分からない返事だった。


 アルトが代金を置き、扉へ向かう。


「また明日」


 いつもの言葉。


 リーナは反射的に答えた。


「はい。また明日」


 ベルが鳴り、扉が閉まる。


 ミラが紅茶のカップを置いた。


「よかったわね」


「何がです?」


「ちゃんと来て」


 リーナはカウンターを拭きながら答えた。


「約束してましたから」


「来るって分かってたの?」


「はい」


「ずいぶん信用してるのね」


 リーナの手が止まった。


 昨日までなら、どう答えただろう。


 5年も通っている常連だから。


 約束を守る人だから。


 仕事は意外とちゃんとしているらしいから。


 理由はいくつも浮かんだ。


 けれど結局、リーナは短く答えた。


「……そうみたいです」


 カウンターには、もうタルトは1つも残っていない。


 それを見て、リーナは少しだけ満足した。

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