第8話 今日は来ないって、聞いてません
午後1時52分。
リーナは窓際のテーブルを拭いた。
もう一度。
「そこ、さっき拭いてなかったか?」
厨房からベルンが言った。
「拭いたよ」
「じゃあ何でまた拭いてる」
「汚れてたから」
「どこが?」
リーナはテーブルを見る。
特に汚れていない。
「……念のため」
「そうか」
ベルンはそれ以上何も言わなかった。
午後1時56分。
入口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
少し大きな声が出た。
入ってきたのは、買い物帰りらしい老夫婦だった。
「こんにちは、リーナちゃん」
「あ、こんにちは」
案内する。
注文を聞く。
紅茶を2つ。
焼き菓子を1つ。
厨房へ戻りながら、リーナは壁の時計を見た。
午後1時58分。
「父さん」
「何だ?」
「紅茶お願い」
「はいよ」
午後2時。
ベルは鳴らなかった。
◇
午後2時12分。
「リーナちゃん、お会計お願い」
「はい!」
老夫婦を見送る。
空いた皿を片づける。
午後2時17分。
入口の方を見る。
「……遅い」
口から出ていた。
「誰が?」
「別に」
「そうか」
ベルンは鍋を混ぜている。
リーナはカウンターの下に置いた保存箱を確認した。
蜂蜜りんごの焼きタルト。
一番きれいに焼けた1切れ。
昨日、アルトに取っておくと言ったものだ。
「仕事かな」
「誰が?」
「父さん、聞いてたの?」
「聞こえた」
「独り言」
「そうか」
リーナは箱を閉じた。
仕事なら仕方ない。
昨日、少し仕事があると言っていた。
そもそも毎日必ず午後2時に来ると約束しているわけでもない。
昨日だって「明日も来ます?」と聞いただけだ。
来る、と答えたけれど。
それだけ。
午後2時21分。
ベルが鳴った。
「こんにちは」
リーナは顔を上げた。
「あ」
アルトだった。
少し息が乱れている。
「アルトさん」
「遅くなった」
「走ってきたんですか?」
「最後だけ」
「何で?」
「遅れたから」
「別に走らなくても」
「でも、来るって言ったから」
アルトはいつもの窓際へ向かう。
リーナも後ろからついていった。
「今日は仕事だったんですか?」
「うん。思ったより長引いた」
「じゃあ、来なくてもよかったのに」
アルトが椅子を引く手を止めた。
「……来ない方がよかった?」
「違います」
リーナはすぐに否定した。
「そういう意味じゃなくて。忙しいなら無理しなくてもよかったのにってことです」
「ああ」
「来てくれたのは」
そこで少し言葉に詰まる。
「……よかったです」
アルトがリーナを見る。
「よかった?」
「はい」
「そっか」
「何ですか、その顔」
「いや」
アルトは座った。
「いつものコーヒーでいいですか?」
「うん」
「タルトもありますよ」
「残ってた?」
「残してたんです」
アルトの視線が上がる。
「昨日、取っておくって言ったでしょう?」
「……うん」
「忘れてたんですか?」
「覚えてた」
「じゃあ待っててください」
リーナが厨房へ向かう。
アルトはその背中を見送った。
来てくれてよかった。
残してた。
たった今聞いた2つが、頭に残っている。
仕事が長引いたとき、一度は今日はやめようかと思った。
明日にすればいい。
毎日来る義務なんてない。
それでも昨日、リーナに「明日も来ます?」と聞かれたから来た。
来てよかった。
かなり。
「お待たせしました」
コーヒーとタルトが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
アルトはタルトを見る。
今日も形のいい1切れだった。
◇
「そういえば」
リーナがカウンターの中から声をかけた。
「昨日の卵の話、どうなりました?」
「今日、少し動いたよ」
「もう?」
「南へ戻る荷馬車を使えるか確認してる」
「早いですね」
「空で戻ってる馬車が思ったより多かったから」
「じゃあ、卵も安くなる?」
「すぐには無理。でも、運ぶ費用が下がれば少しは」
「すごい」
「まだ何もしてないよ」
「でも、私なら『卵高いなあ』で終わります」
「リーナはマルタさんとエッダさんをつないだでしょう」
「あれは知り合いだったからです」
「俺にはできない」
「アルトさん、マルタさん知らないですもんね」
「顔は分かるけど、名前は昨日初めて知った」
「いつも店にいるのに」
「リーナほど人を見てないから」
「じゃあ、ちゃんと覚えてください」
「努力します」
リーナが笑う。
「私、人の顔と名前覚えるの得意なんですよ」
「知ってる」
「知ってるんですか?」
「よく来る人の好みも覚えてるでしょう」
「まあ、それは」
「俺のも」
「アルトさんは簡単です」
「簡単?」
「いつも同じだから」
アルトがコーヒーを見る。
「少し軽め。砂糖なし。ミルクなし」
「正解」
「タルトがあったら食べる」
「それも正解」
「あと、だいたい午後2時」
「今日は遅れたけど」
「21分」
アルトが顔を上げた。
「……時間見てたの?」
リーナが止まった。
「あ」
数秒、沈黙する。
「いや、その」
リーナは布巾を畳み直した。
「時計くらい見ますよ」
「21分って」
「見たから分かったんです」
「俺がいつも来る時間だから?」
「……そうですけど」
アルトは何も言わなかった。
「何ですか?」
「いや」
「またそれ」
リーナが少し頬を膨らませる。
「そんなに気になるなら言ってください」
「リーナ」
「はい?」
「待ってた?」
今度はリーナが黙った。
「……タルトを?」
「俺を」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
けれどリーナは怒らなかった。
少しだけ視線を逸らす。
「だって」
布巾の端を指で整える。
「来るって言われたら……待つじゃないですか」
アルトは動かなかった。
「……アルトさん?」
「うん」
「どうしました?」
「何でもない」
「今日それ多いですよ」
「ごめん」
待っていた。
リーナが。
自分を。
正確には、来ると言った客が来ないから気にしていただけかもしれない。
タルトを取っておいたから。
いつもの時間を過ぎたから。
理由はいくらでもある。
分かっている。
それでも。
「……タルト、美味しい」
「急ですね」
「本当に美味しい」
「それならよかったです」
アルトはもう一口食べた。
味は昨日とほとんど同じだった。
なのに今日は、妙に美味しく感じた。
◇
「ごちそうさま」
アルトが立ち上がった。
「今日はもう仕事戻るんですか?」
「うん」
「忙しいですね」
「今日は特に」
「なのに来たんだ」
リーナがぽつりと言った。
「来るって言ったから」
「律儀ですね」
「それだけじゃないけど」
アルトは言ってから止まった。
まただ。
「何です?」
「コーヒー飲みたかったから」
「なるほど」
リーナは普通に納得した。
アルトは少しだけ安心して、少しだけ残念だった。
「じゃあ、仕事頑張ってください」
「うん」
「明日は?」
また聞かれた。
アルトは一瞬だけ黙る。
「来るよ」
「じゃあ」
リーナが笑った。
「明日は待たせないでくださいね」
「……分かった」
「午後2時です」
「分かった」
「21分遅刻は禁止です」
「気をつけます」
「ふふ。冗談です」
アルトは店を出た。
◇
「アルト様」
馬車へ乗ると、セドリックが書類を差し出した。
「南部輸送組合から返答が届いております」
「うん」
「空荷の復路便についてですが、週4便までなら――」
アルトは書類を見る。
数字を追う。
積載量。
運賃。
日数。
条件を確認すれば、やるべきことはすぐに分かった。
「週4じゃ足りない。別の組合にも声をかけて。最初は卵と葉物。壊れやすいものを優先する」
「承知しました」
「積み替えは南門の外で1回だけ。増やすと傷む」
「はい」
「それと――」
『来るって言われたら……待つじゃないですか』
アルトの言葉が止まった。
「アルト様?」
「……何でもない」
書類へ視線を戻す。
「続ける」
「はい」
数秒後には、いつもの調子で指示を出していた。
けれどその日。
数字の合間に、何度か同じ言葉が浮かんだ。
待つじゃないですか。
たったそれだけなのに。
待っていた人がいるという事実を、アルトはその日の仕事が終わるまで忘れられなかった。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・☆☆☆☆☆からの評価をいただけると嬉しいです!
感想も大歓迎です。執筆の励みになります!




