第10話 もう少し近い人
朝から、ベルンの様子がおかしかった。
「父さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫だ」
「大丈夫な人は椅子に座ったまま動かないよ」
「少し休めば治る」
「顔赤いし」
リーナは父の額へ手を当てた。
「熱い」
「手が冷たいんじゃないか」
「そういう問題じゃない」
ベルンは朝から何度も咳をしていた。
それでも厨房に立とうとする。
「今日は休んで」
「昼があるだろ」
「私がやる」
「1人で?」
「できるよ」
「リーナ」
「できる」
ベルンは娘の顔を見た。
こういう顔をしたときは、言っても聞かない。
「……昼食は1種類にしろ」
「うん」
「焼き菓子も増やすな」
「分かった」
「無理なら店閉めろ」
「分かってるって」
ベルンはまだ何か言いたそうだったが、結局2階へ上がった。
リーナはエプロンの紐を締め直した。
「よし」
できる。
たぶん。
◇
できなかった。
「リーナちゃん、お会計!」
「はい、少々お待ちください!」
「こっち、コーヒーもう1つ!」
「今行きます!」
「今日の昼食まだ?」
「すみません、あと少しです!」
昼前から客が重なった。
普段ならベルンが厨房を担当し、リーナが客席を回す。
今日は両方とも自分だ。
鍋を見る。
皿を出す。
注文を聞く。
パンを切る。
会計をする。
また鍋へ戻る。
「熱っ」
鍋の縁に触れかけ、慌てて手を引く。
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ! 空いてる席に――」
「リーナ」
聞き慣れた声だった。
「あ、アルトさん」
いつもの時間より少し早い。
アルトは店内を見回した。
「ベルンさんは?」
「熱出して寝てます」
「1人?」
「はい。でも大丈夫です」
その直後。
「リーナちゃん!」
「はい!」
リーナが走っていく。
アルトはしばらく店内を見た。
空いた皿が3つ。
会計待ちが1組。
厨房から湯気。
新しく入ってきた客が2人。
どう見ても大丈夫ではない。
アルトは上着を脱いだ。
◇
「リーナ」
「はい!」
「これ、どこへ持っていけばいい?」
振り返る。
アルトが皿を2枚持っていた。
「……何してるんですか?」
「手伝ってる」
「お客さんですよね?」
「今は座ってる方が邪魔でしょう」
「でも」
「どの卓?」
「……3番です」
「分かった」
アルトが皿を運ぶ。
「すみません、お待たせしました」
「あら、今日は新しい店員さん?」
「違います」
アルトは即答した。
客が笑う。
リーナは厨房から顔を出した。
「アルトさん、無理しなくていいですから!」
「無理してないよ」
「でも仕事は?」
「夕方から」
「本当に?」
「本当に」
アルトは空いた皿を持って戻ってくる。
「これは?」
「そこです」
「こっちは?」
「洗い場」
「分かった」
説明は1回で足りた。
何をどこへ置くのか。
どの卓がまだなのか。
誰が会計を待っているのか。
アルトは数分で流れを把握した。
「リーナ、2番の人、会計待ってる」
「あ!」
「俺やろうか?」
「金額分からないでしょう」
「メニューに書いてある」
「……できます?」
「たぶん」
「じゃあお願いします!」
「うん」
◇
30分ほどすると、店はかなり落ち着いた。
リーナが厨房から料理を出し、アルトが客席へ運ぶ。
「これ、5番お願いします」
「分かった」
「あと、そのパンは3番」
「うん」
「コーヒーは――」
「4番。砂糖2つ」
リーナが目を丸くした。
「覚えてたんですか?」
「さっき聞いたから」
「すごい」
「これくらいは」
アルトが皿へ手を伸ばす。
同時に、リーナも伸ばした。
指先が触れそうになった。
アルトの手が止まる。
「すみません」
リーナが先に皿を取った。
「こっちは私が持ちます」
「……うん」
近い。
さっきから近い。
普段はテーブルを挟んでいる。
今日は違う。
狭い厨房の入口で並ぶと、肩まで近い。
あと少し動けば触れそうだ。
触れない方がいい。
当たり前だ。
仕事を手伝っている。
何を考えているんだ。
「アルトさん?」
「何?」
「その皿、5番です」
「分かってる」
「止まってたから」
「今行く」
アルトは何事もなかったように歩き出した。
危なかった。
何が危なかったのかは考えないことにした。
◇
「ありがとうございました!」
昼の最後の客が出ていった。
扉が閉まる。
静かになった。
「……終わった」
リーナがカウンターへ両手をつく。
「お疲れさま」
「アルトさんも」
「俺はそんなに」
「めちゃくちゃ助かりました」
リーナが顔を上げる。
「本当にありがとうございます」
「どういたしまして」
「コーヒー淹れます」
「休んでいいよ」
「アルトさん、まだ何も飲んでないでしょう」
「そういえば」
「何しに来たんですか」
「コーヒー飲みに」
「忘れてたんですか?」
「途中から」
リーナが笑った。
「座っててください。今度はちゃんとお客さんしてください」
「はい」
◇
アルトはいつもの窓際へ座った。
しばらくして、リーナがコーヒーを持ってくる。
「お待たせしました」
「ありがとう」
リーナはそのまま向かいの椅子へ座った。
「疲れた……」
「大丈夫?」
「ちょっとだけ休みます」
「うん」
リーナがテーブルへ腕を置く。
いつもより近い。
さっきまで厨房でも近かった。
今も近い。
アルトはコーヒーを見ることにした。
「父さん、明日は休ませた方がいいですよね」
「熱次第じゃない?」
「店、閉めようかな」
「それがいいと思う」
「でも父さん、絶対開けるって言いそう」
「言いそうだね」
「頑固だから」
「リーナもでしょう」
「私?」
「さっき大丈夫って言ってた」
「あれは」
「大丈夫じゃなかった」
「……はい」
素直に認めた。
「でも」
リーナがアルトを見る。
「来てくれてよかったです」
まただ。
アルトはカップを持つ手を止めた。
「今日?」
「はい」
「俺が?」
「他に誰がいるんですか」
「……そっか」
「何ですか?」
「いや」
来てくれてよかった。
数日前にも似たことを言われた。
今日は意味が違う。
今日は本当に自分が役に立った。
そのことが嬉しい。
かなり。
「アルトさん」
「うん?」
「さっきから、なんか嬉しそうですね」
「役に立てたからじゃない?」
「そういうものですか?」
「そういうもの」
半分は本当だった。
◇
「でも、アルトさんって変ですよね」
「急だね」
「普通、お客さんはあそこまで手伝わないですよ」
「困ってたから」
「それでも」
リーナが笑う。
「私、普通に指示出してました」
「出してたね」
「『5番お願いします』とか」
「うん」
「お客さんに」
「……俺、まだお客さん?」
リーナの動きが止まった。
アルト自身も、言ってから少し驚いた。
何を聞いているんだ。
「え?」
「いや」
引っ込めるなら今だ。
「毎日来てるし、今日は店も手伝ったから」
引っ込めなかった。
「まだ普通のお客さんなのかなって」
リーナが少し考える。
アルトはコーヒーへ視線を落とした。
聞かなければよかったかもしれない。
普通の客。
常連。
知り合い。
友人。
どこなのか。
妙に気になる。
「普通のお客さんではないです」
アルトが顔を上げる。
「じゃあ何?」
「……何でしょう」
「リーナが言ったんだけど」
「分かってます」
リーナは困ったように笑った。
「常連さん?」
「それは前からでしょう」
「じゃあ、知り合い」
「5年近く来てて?」
「うーん……」
リーナがアルトを見る。
少しだけ考えてから言った。
「もう少し近い人、かな」
アルトは止まった。
「……近い?」
「はい」
「人?」
「そこ確認します?」
「いや」
近い。
客より。
もう少し。
アルトは頭の中で言葉を並べた。
もう少し近い人。
何度並べても嬉しい。
「嫌でした?」
「まさか」
返事だけはすぐに出た。
「よかった」
リーナが笑う。
また距離が近い。
そのうえ、もう少し近い人。
駄目だ。
今日は情報が多い。
「アルトさん?」
「何?」
「顔赤くないですか?」
「厨房暑かったから」
「もう結構経ってますよ」
「コーヒーが熱い」
「まだ飲んでないですよね?」
アルトはカップを見る。
本当だ。
「……そうだね」
リーナが笑った。
◇
午後4時前。
「じゃあ、仕事行ってくる」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
「ベルンさん、お大事に」
「伝えておきます」
アルトが扉へ向かう。
「アルトさん」
「うん?」
「また明日」
アルトが振り返る。
「店、休むんじゃなかった?」
「あ」
「忘れてた?」
「……じゃあ、明後日」
「うん」
「明後日、来てください」
「分かった」
店を出る。
扉が閉まる。
アルトは数歩歩いてから思った。
明後日、来てください。
また増えた。
今日は本当に多い。
◇
「アルト様」
商会へ戻ると、セドリックが待っていた。
「北部鉱山の買収案ですが、先方が採掘権の15%上乗せを要求しております」
「理由は?」
「西側鉱脈の試掘結果が予想を上回ったためです」
「資料は?」
「こちらに」
アルトは書類を受け取る。
数字を見る。
埋蔵量。
採掘費。
輸送費。
精製後の見込み価格。
「15%は高い。8%まで。代わりに輸送契約を5年保証する」
「先方が拒否した場合は?」
「追わなくていい。南の2鉱山へ切り替える」
「承知しました」
セドリックが書き留める。
「それから――」
『もう少し近い人、かな』
アルトの目が止まった。
近い人。
「アルト様?」
「何でもない」
資料へ戻る。
「続けて」
「はい。東部銀行からは――」
話を聞く。
数字を確認する。
条件を決める。
仕事に問題はない。
「東部銀行はその条件で。保証枠だけ3%下げて」
「承知しました」
次の書類。
3行読む。
『もう少し近い人』
また出てきた。
アルトは一度、目を閉じた。
「……アルト様?」
「何?」
「お疲れですか?」
「いや」
むしろ機嫌はいい。
かなり。
「続けて」
「では、王都西区の倉庫について――」
仕事はいつも通り進んだ。
判断も間違えない。
ただ、その日だけ。
書類を数枚めくるたびに、
『もう少し近い人』
同じ言葉が何度も戻ってきた。
客より近い。
明後日、来てください。
それから、狭い厨房で触れそうになった指先まで思い出す。
近かった。
本当に近かった。
「アルト様」
「……何?」
「今度こそ本当にお疲れでは?」
「大丈夫」
アルトは書類をめくった。
数秒後には、いつもの調子で次の判断を下す。
けれど頭の片隅では、まだ同じ言葉が残っていた。
もう少し近い人。
明後日まで、あと2日。
少し長いな、とアルトは思った。
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