第11話 店の外で会うと、少し違う
翌朝、リーナは蜂蜜りんごの焼きタルトを焦がしかけた。
「リーナ」
「分かってる!」
ベルンに言われる前にオーブンを開ける。
甘い香りと一緒に熱気が押し寄せた。
ぎりぎりだった。
端が少し濃い色になっているものの、売り物にはできる。
「珍しいな」
「ちょっと考え事してただけ」
「へえ」
「何、その顔」
「別に」
ベルンは熱も下がり、朝から厨房へ戻っていた。
リーナは焼き上がったタルトを並べる。
昨日のことを思い出さないようにしていた。
『俺、まだお客さん?』
『もう少し近い人』
思い出した。
「……もう」
「何がだ?」
「独り言」
リーナは一番形のいいタルトを見つけた。
いつもの癖で別の皿へ移しかける。
途中で止まった。
「今日は取っておかないから」
「俺は何も言ってねえぞ」
「父さんに言ったんじゃない」
「じゃあ誰に言ったんだ?」
「独り言!」
◇
ところが、その日。
アルトは午後2時になっても来なかった。
リーナは時計を見て、すぐに目を逸らす。
昨日は「また明日」と約束していない。
来るとは限らない。
午後2時20分。
来ない。
2時40分。
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、見慣れない夫婦だった。
リーナは普通に応対した。
今日は来ないのかもしれない。
昨日の言葉が気まずくて。
そこまで考えて、首を振る。
自分が気まずがっているからといって、相手まで同じとは限らない。
「リーナ」
「何?」
ベルンが厨房から籠を差し出した。
「悪いが、これ持って市場へ行ってくれ」
「今?」
「エマから林檎が入ったって連絡が来た。明日の分が足りねえ」
籠の中には注文を書いた紙と代金が入っている。
「店は?」
「もう大丈夫だ。昼も終わったしな」
リーナは店内を見る。
客は3人。
ベルン1人でも問題ない。
「分かった。行ってくる」
◇
王都の中央市場は、午後になっても騒がしかった。
果物、野菜、肉、魚、香辛料。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、店先では威勢のいい呼び声が飛び交っている。
リーナは人の間を抜けながら、いつも仕入れている青果店へ向かった。
「こんにちは」
「おう、リーナちゃん。林檎だろ?」
「はい。頼んでた分を――」
店主の後ろに見覚えのある黒髪が見えた。
リーナが止まる。
向こうも気づいた。
「あ」
「あ」
アルトだった。
いつもの落ち着いた上着ではなく、濃い色の外套を着ている。
片手には書類。
隣には見知らぬ商人が2人いた。
「リーナ?」
「アルトさん」
思わず笑ってしまった。
「こんなところで何してるんですか?」
「仕事」
「……本当に?」
「その反応はひどくない?」
「だって、店じゃないところで会ったので」
商人の2人が妙な顔をした。
片方がアルトとリーナを交互に見る。
「アルトさ――」
アルトがそちらを見る。
男は一瞬止まり、
「……アルトさん。こちらの確認は、後ほどでも?」
「うん。数字だけまとめておいて」
「承知しました」
2人は軽く頭を下げ、離れていった。
リーナはその背中を見る。
「仕事してましたね」
「だからしてるって言ってるだろ」
「初めて見ました」
「5年も知ってるのに?」
「いつもコーヒー飲んでますから」
「俺の5年間、だいぶ不利だな」
リーナは笑った。
「今日は来ないんですか?」
口にしてから、昨日のことを思い出した。
少しだけ胸が跳ねる。
けれどアルトは普通だった。
「行くつもりだったよ。市場の確認が長引いた」
「そうだったんですね」
「これが終わったら行こうと思ってた」
「今、私が来ましたけど」
「そうだね」
アルトが少し笑う。
「今日は店じゃないところで会えた」
その言い方が妙に耳に残った。
◇
「林檎、これで全部か?」
「はい」
店主が大きな袋を差し出した。
リーナは受け取る。
「重っ……」
両腕にずしりと重さがかかった。
「持つよ」
アルトが手を伸ばす。
「大丈夫です」
「重いだろ」
「いつも持って帰ってますから」
「今日は俺がいる」
「でも」
「店まで?」
「はい」
「じゃあ途中まで」
返事を待たず、袋を受け取られた。
「あ」
「軽くはないね」
「だから言ったでしょう?」
「俺が持つには問題ない」
「お仕事は?」
「確認は終わった」
アルトは普通に歩き始めた。
リーナも慌てて隣へ並ぶ。
いつもはテーブルを挟んでいる。
カウンター越しのことも多い。
こうして横に並んで歩くのは、たぶん初めてだった。
「アルトさん、背高いですね」
「今?」
「座ってるところばっかり見てたので」
「俺、リーナの中でずっと座ってるの?」
「だいたい」
「ひどいな」
リーナは笑う。
市場を出る前に、パン屋の前で足を止めた。
「あ、エドさん」
「おう、リーナちゃん」
店主のエドが手を上げる。
「前掛け、どうでした?」
「マルタさんのところへ持ってったぞ。腰のところを二重にしてくれるってさ」
「よかった」
「お前のおかげだ。ありがとな」
「私は言っただけですよ」
エドはアルトを見る。
「旦那か?」
「違います!」
反射的に答えた。
声が大きかった。
エドが目を丸くする。
アルトは黙っている。
「……すみません」
「いや、俺じゃなくて」
「アルトさんも何か言ってください」
「違います」
「遅いです!」
エドが豪快に笑った。
「悪い悪い。仲良さそうだったからな」
「常連さんです」
言ってから、リーナは止まった。
昨日の会話を思い出す。
アルトもこちらを見る。
「……すごい常連さんです」
「まだそれなんだ」
「他に何て紹介するんですか」
「俺に聞く?」
「聞きません」
リーナは歩き出した。
頬が少し熱かった。
◇
市場を抜けると、人通りが少なくなった。
秋の風が通りを抜ける。
アルトは林檎の袋を片手で持ったまま歩いている。
「重くないですか?」
「大丈夫」
「交代します?」
「大丈夫」
「無理してません?」
「リーナは俺を何だと思ってるの?」
「毎日コーヒー飲んでる商人さん」
「体力なさそうだな、それ」
少し先で、小さな男の子がしゃがみ込んでいた。
足元には林檎が3つ転がっている。
紙袋の底が破れたらしい。
1つが道の端へ転がる。
アルトが足を止めた。
持っていた袋を一度地面へ置き、林檎を拾う。
「これで全部?」
「……4つ」
「あと1つか」
リーナも周囲を見る。
「あった」
荷車の車輪の近くに転がっていた。
拾って戻ると、アルトは破れた紙袋を折り直していた。
「これなら店まで持つと思う」
男の子に渡す。
「ありがとう」
「気をつけて」
少年が走っていく。
アルトは何事もなかったようにリーナの林檎を持ち直した。
「行こうか」
「はい」
リーナはその横顔を少しだけ見た。
「何?」
「いえ」
「今、見てたよね」
「見てません」
「見てた」
「ちょっとだけです」
「何で?」
リーナは少し考える。
「アルトさんって、ああいうことするんだなと思って」
「林檎拾っただけだけど」
「そうですけど」
店にいるアルトは、いつも自分が相手をしている。
コーヒーを飲んで、ベルンと話して、常連たちに混ざって笑っている。
知らない人といるところをほとんど見たことがなかった。
「昨日も思ったんです」
「何を?」
「私、アルトさんのこと、意外と知らないなって」
アルトは少し黙った。
「俺もリーナのこと、店の外ではあまり知らないよ」
「私なんて変わりませんよ」
「そうかな」
「そうです」
「じゃあ今日、少し分かった」
「何がです?」
「市場を歩くと、知り合いが多い」
「この辺で育ちましたから」
「あと、林檎を買うとき真剣」
「大事ですよ。タルトの味が変わります」
「それと」
アルトが笑う。
「旦那って言われると、すごく慌てる」
「それは忘れてください」
「無理かな」
「忘れてください」
「考えておく」
「今すぐ忘れてください」
リーナはアルトの腕を軽く叩いた。
叩いてから、止まった。
アルトも一瞬だけこちらを見る。
普段なら、こんなことはしない。
「……すみません」
「何で謝るの?」
「何となく」
「別にいいよ」
アルトは笑っていた。
その笑い方を見て、リーナも結局笑った。
◇
《陽だまり亭》が見えてきた。
「ここまでで大丈夫です」
「店まで持っていくよ」
「もう目の前ですよ」
「だから最後まで」
アルトはそのまま扉を開けた。
ベルが鳴る。
「ただいま」
「おう、おかえ――」
ベルンが顔を出し、止まった。
アルトが林檎を抱えている。
「何してんだ?」
「市場で会ったので、持ってきてもらいました」
「へえ」
「何、その『へえ』」
「何も言ってねえぞ」
昨日と同じ返事だった。
アルトが林檎を厨房前へ置く。
「じゃあ、俺はこれで」
「え?」
リーナが振り返る。
「コーヒーは?」
言ってから、自分で気づいた。
アルトも少し驚いた顔をした。
「飲んでいっていいの?」
「そのために来るつもりだったんでしょう?」
「そうだけど」
「じゃあ淹れますよ」
リーナはカウンターへ入った。
「いつものですよね?」
「うん」
豆を量る。
少し軽め。
砂糖もミルクもなし。
いつも通りのコーヒー。
なのに、今日はアルトがいつもの席へ座るのを見て、妙な感じがした。
さっきまで隣を歩いていた人が、急にいつもの場所へ戻ってしまったような。
「リーナ」
「はい?」
「今日はありがとう」
「私、何もしてませんけど」
「一緒に歩けたから」
豆を挽く手が止まりかけた。
「……林檎を運んでもらったの、私なんですけど」
「じゃあ、お互い様だね」
「何か違う気がします」
リーナはコーヒーを淹れた。
カップを運び、いつもの場所へ置く。
アルトが一口飲む。
「やっぱりこれがいいな」
「市場にも飲めるところ、たくさんありますよ」
「知ってる」
「もっと美味しいところも?」
「あると思う」
「また正直ですね」
「でも、ここに来たかった」
リーナは返事をしなかった。
できなかった。
代わりに空いた皿を1枚持ち上げる。
「……タルト、食べます?」
「ある?」
「あります」
朝、取っておかないと決めたはずの、一番形のいいもの。
まだ残っていた。
皿へ載せて運ぶ。
アルトがそれを見て、少し笑った。
「綺麗なのだ」
「たまたまです」
「最近、たまたまが多いね」
「食べないなら下げますよ」
「食べる」
アルトがすぐ皿を押さえた。
リーナは笑って、カウンターへ戻る。
昨日までは、毎日顔を合わせている人だった。
5年も通う常連で、少し暇そうな商人。
それで十分だった。
けれど今日、初めて店の外を一緒に歩いた。
知らない人と話す顔も見た。
仕事をしているところも少しだけ見た。
重い林檎を持つ手も、道に落ちた林檎を拾うところも。
知っているアルトが増えただけなのに。
いつもの窓際に座る横顔が、昨日までより少しだけ違って見えた。




