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『大陸一の大富豪は、今日も好きな女の子の店で暇人扱いされています。  作者: オレンジペコ


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12/25

第12話 それなら、一緒に行きませんか

 市場でアルトと一緒に歩いた翌日も、《陽だまり亭》にはいつもの午後が来た。


 昼の客が引き、ベルンが厨房で夕方の仕込みを始める。リーナは空いたテーブルを拭きながら、ときどき入口の時計を見ていた。


 午後2時を少し回ったところで、ベルが鳴った。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ」


 アルトだった。


 昨日は市場で偶然会ったのに、今日はまたいつもの窓際へ向かっていく。その後ろ姿を見ていると、昨日の方が少し変わった出来事だったのだと改めて思う。


 リーナは豆を量り、いつものコーヒーを淹れた。


「どうぞ」


「ありがとう」


 アルトがカップを受け取る。


 それだけの、いつも通りのやり取りだった。


「昨日の林檎、どうだった?」


「よかったですよ。今朝使いました」


「ちゃんと選べてた?」


「最後の方は」


「最初は?」


「傷があるの選んでました」


「あれくらいなら大丈夫かと思ったんだけど」


「焼くと分かるんです。柔らかくなったところから崩れるので」


 アルトが素直に頷いた。


「覚えておく」


「また買うつもりですか?」


「リーナが荷物持ちを探してたら」


 リーナは少し笑って、空いた皿を持ち上げた。


 昨日までなら、こういう話をすることもなかった。


 アルトは店へ来る人で、自分は迎える側だった。


 市場を一緒に歩いたことで、それがほんの少し変わった気がする。


     ◇


「そういえば、リーナちゃん」


 窓際で紅茶を飲んでいたミラが声をかけてきた。


「灯花祭の日、今年は店どうするの?」


「夕方で閉める予定です」


「あら。じゃあ今年は見に行けるじゃない」


「そのつもりです」


 灯花祭は、秋の終わりに王都で開かれる祭りだ。


 中央広場から大通りまで、色ガラスを使った灯籠が並ぶ。日が暮れて一斉に火が入ると、通り全体が赤や青、黄色の光に包まれる。


 子どもの頃、リーナも毎年のようにベルンに連れていってもらった。


 けれど店を手伝うようになってからは、行かない年も増えていた。


「去年も行ってなかったわよね?」


「父さんが風邪ひいてたから」


「そうだったわね。今年くらい楽しんできなさいな」


「はい」


 リーナが笑う。


 ふとアルトを見ると、こちらの話を聞いていた。


「アルトさんは灯花祭、行ったことあります?」


「あるよ。何年か前に」


「最近は?」


「仕事が入ることが多くて」


「お祭りの日まで?」


「祭りだから忙しくなる仕事もあるからね」


 言われてみれば、そうなのかもしれない。


 宿も商店も輸送業者も、普段より忙しくなる。


「今年も仕事ですか?」


「昼までは」


「じゃあ、夜は見られますね」


「たぶん」


「せっかく近くにいるんだから、見た方がいいですよ。綺麗ですよ」


 アルトが少し笑った。


「リーナも行くんだよね?」


「はい。夕方から」


「そっか」


 そこで話は終わった。


 けれど、リーナは皿を下げながら、明日の灯花祭でアルトと会うことがあるだろうかと、ほんの少し考えた。


     ◇


 灯花祭を翌日に控えた午後、《陽だまり亭》は普段より忙しかった。


 王都へ祭りを見に来た人が増えているらしく、昼を過ぎても客が途切れない。


「父さん、タルトあといくつ?」


「1つ」


「もう?」


「林檎がねえんだよ」


 リーナは厨房を覗く。


 籠の中には小さな林檎が2つ残っているだけだった。


「昨日買ったのに」


「いつもより出てるからな」


 明日はさらに客が増えるだろう。


「私、今から買ってくる」


「店はもう大丈夫か?」


「このくらいなら父さん1人で平気でしょ?」


「まあな」


 リーナはエプロンを外した。


 注文用の財布を受け取り、店を出ようとする。


 ちょうどそのとき、入口のベルが鳴った。


「こんにちは」


 入ってきたアルトと目が合った。


「あ、アルトさん」


「出かけるところ?」


「市場です。林檎が足りなくなって」


「昨日買ったのに?」


「お祭り前だから、思ったより売れたみたいです」


 アルトが店内を見る。


 空席は増えていて、昼の忙しさも一段落していた。


「手伝おうか?」


「何をです?」


「林檎」


「また持ってくれるんですか?」


「必要なら」


 リーナは一度、厨房のベルンを見る。


 ベルンは何も言わずに鍋をかき混ぜている。


 昨日は偶然、市場で会った。


 今日は違う。


 少しだけ迷ってから、リーナはアルトへ向き直った。


「それなら、一緒に行きませんか?」


 アルトが一瞬、黙った。


「いいの?」


「はい。私から誘っておいて、駄目とは言いませんよ」


「そうじゃなくて」


 アルトは少し嬉しそうに笑った。


「行こうか」


「お願いします」


 リーナもつられて笑った。


「父さん、行ってくるね」


「おう。気をつけてな」


「アルトさん」


 ベルンが呼ぶ。


「はい」


「林檎、頼んだ」


「分かりました」


「私が買うんだけど」


 ベルンは聞こえなかったふりをして、厨房へ戻った。


     ◇


 昨日と同じ市場への道だった。


 ただ、今日は最初からアルトが隣にいる。


 通りでは灯花祭の準備が進んでいた。


 店先に紐を渡し、色ガラスの灯籠を吊るしている。まだ火は入っていないが、午後の日差しが透けて、石畳に赤や青の光が落ちていた。


「明日はこの辺、歩けないくらいになりますよ」


「そんなに?」


「中央広場の方はもっとすごいです。屋台もたくさん出ますし」


「詳しいね」


「小さい頃は毎年行ってましたから」


 リーナは吊るされた灯籠を見上げる。


「父さんと手をつないで歩いて、お菓子買ってもらって。帰りはいつも眠くなってました」


「ベルンさんが連れて帰ってくれた?」


「小さい頃はおんぶしてもらってたみたいです。私は覚えてないですけど」


 話してから、少し恥ずかしくなる。


「こんな話、面白くないですよね」


「面白いよ」


 アルトは普通に答えた。


「リーナの昔の話、あまり聞いたことなかったから」


 その言葉に、リーナは少しだけアルトを見る。


「そういえば、そうですね」


 5年も顔を合わせている。


 それなのに、知らないことはまだたくさんあった。


     ◇


 市場へ入ると、昨日より人が多かった。


 祭り前の買い出しらしく、あちこちで大きな籠や荷車が行き交っている。


 リーナは前から来た荷車を避けようとして、端へ寄った。


「リーナ」


 肩に手が触れた。


 アルトに引き寄せられ、目の前を荷車が通り過ぎる。


「すみません」


「大丈夫?」


「はい」


 アルトの手はすぐに離れた。


 それだけだったのに、リーナはなぜか少しだけ肩を意識した。


「今日は人、多いですね」


「明日はもっと多いんだよね?」


「……はい」


「気をつけないとな」


「そうですね」


 リーナは少し早足になった。


 アルトは何も言わず、その隣を歩いた。


     ◇


「祭り前だから、昨日より少し高いぞ」


 馴染みの青果店で、店主が林檎を並べながら言った。


「やっぱり上がったんですね」


「仕入れが増えてるからな」


 リーナは籠の中を覗き込む。


 赤く色づいたものを1つ手に取り、傷を確かめる。


 隣でアルトも林檎を手にした。


「これは?」


 見せてくる。


 リーナは受け取って確認した。


「これはいいです」


「本当に?」


「昨日より上手になってます」


「よかった」


「でも、こっちの方がいいかな」


 リーナは別の林檎を取る。


「ほら、香りが少し違うでしょう?」


 アルトが顔を近づけた。


「ああ。こっちの方が強い」


「焼くなら、これくらいの方がいいです」


「なるほど」


 2人で籠を覗き込みながら、林檎を選ぶ。


 リーナが良さそうなものを探し、アルトが渡す。


 途中からは、アルトが選んだものをリーナが確かめるだけになった。


「これ」


「大丈夫です」


「これは?」


「それも」


「覚えてきた」


「早いですね」


「先生がいいから」


 リーナは笑った。


「じゃあ、次から1人で買えますね」


「それは困るな」


「どうしてです?」


「一緒に来る理由がなくなる」


 リーナは持っていた林檎を見た。


 何と返せばいいのか少し迷って、そのまま籠へ入れた。


「……荷物持ちは、またお願いするかもしれません」


「うん」


 アルトは、それ以上何も言わなかった。


     ◇


 帰り道では、当然のようにアルトが林檎の袋を持っていた。


 大通りへ出ると、明日の祭りに向けて屋台の準備も始まっている。


 肉を焼く香ばしい匂いに混じって、甘い香りが流れてきた。


 リーナがそちらを見る。


 揚げたばかりの生地に、蜂蜜をたっぷりとかけた菓子だった。


 アルトも足を止めた。


「食べる?」


「え?」


「俺も食べたい」


 そう言って屋台へ向かう。


「2つください」


 戻ってきたアルトから、紙に包まれた揚げ菓子を1つ渡された。


「私の分も?」


「うん」


「ありがとうございます」


 まだ温かい。


 リーナは一口かじった。


 薄い表面がさくりと割れ、中の柔らかな生地から湯気が上がる。蜂蜜の甘さが広がって、思わず頬が緩んだ。


「美味しい」


「よかった」


「アルトさんも食べてください。冷めますよ」


 アルトも自分の分を食べる。


「美味しいね」


「ですよね」


 リーナはもう一口かじった。


 祭りの準備で賑わう通りを、2人で同じ菓子を食べながら歩く。


 店では何度も一緒にお菓子を食べているのに、今日は少し違った。


 リーナはその違いを考えず、残った一口を食べた。


     ◇


 《陽だまり亭》へ戻ると、アルトは林檎を厨房まで運んでから、いつもの窓際へ座った。


 リーナはエプロンをつけ直し、コーヒーを淹れる。


「お待たせしました」


「ありがとう」


「結局、いつもの時間よりだいぶ遅くなりましたね」


「今日はこっちの方がよかったよ」


 アルトがカップを持ち上げる。


 リーナは林檎を洗い始めた。


「明日、仕事は何時まででしたっけ?」


「昼過ぎには終わると思う」


「じゃあ灯花祭、間に合いますね」


「リーナは夕方から?」


「はい。店を閉めてから行きます」


「そっか」


 水の中で林檎を転がしながら、リーナは少し考えた。


「アルトさん」


「うん?」


「明日、もし会ったら声かけてくださいね」


「うん」


「人が多いから、会えるか分かりませんけど」


「そうだね」


 アルトは静かに頷いた。


「リーナも見つけたら声かけて」


「もちろんです」


 それだけ決めた。


 待ち合わせではない。


 約束でもない。


 けれど翌日。


 《陽だまり亭》を閉める少し前から、リーナは何度も時計を見ることになった。

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