第12話 それなら、一緒に行きませんか
市場でアルトと一緒に歩いた翌日も、《陽だまり亭》にはいつもの午後が来た。
昼の客が引き、ベルンが厨房で夕方の仕込みを始める。リーナは空いたテーブルを拭きながら、ときどき入口の時計を見ていた。
午後2時を少し回ったところで、ベルが鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
アルトだった。
昨日は市場で偶然会ったのに、今日はまたいつもの窓際へ向かっていく。その後ろ姿を見ていると、昨日の方が少し変わった出来事だったのだと改めて思う。
リーナは豆を量り、いつものコーヒーを淹れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
アルトがカップを受け取る。
それだけの、いつも通りのやり取りだった。
「昨日の林檎、どうだった?」
「よかったですよ。今朝使いました」
「ちゃんと選べてた?」
「最後の方は」
「最初は?」
「傷があるの選んでました」
「あれくらいなら大丈夫かと思ったんだけど」
「焼くと分かるんです。柔らかくなったところから崩れるので」
アルトが素直に頷いた。
「覚えておく」
「また買うつもりですか?」
「リーナが荷物持ちを探してたら」
リーナは少し笑って、空いた皿を持ち上げた。
昨日までなら、こういう話をすることもなかった。
アルトは店へ来る人で、自分は迎える側だった。
市場を一緒に歩いたことで、それがほんの少し変わった気がする。
◇
「そういえば、リーナちゃん」
窓際で紅茶を飲んでいたミラが声をかけてきた。
「灯花祭の日、今年は店どうするの?」
「夕方で閉める予定です」
「あら。じゃあ今年は見に行けるじゃない」
「そのつもりです」
灯花祭は、秋の終わりに王都で開かれる祭りだ。
中央広場から大通りまで、色ガラスを使った灯籠が並ぶ。日が暮れて一斉に火が入ると、通り全体が赤や青、黄色の光に包まれる。
子どもの頃、リーナも毎年のようにベルンに連れていってもらった。
けれど店を手伝うようになってからは、行かない年も増えていた。
「去年も行ってなかったわよね?」
「父さんが風邪ひいてたから」
「そうだったわね。今年くらい楽しんできなさいな」
「はい」
リーナが笑う。
ふとアルトを見ると、こちらの話を聞いていた。
「アルトさんは灯花祭、行ったことあります?」
「あるよ。何年か前に」
「最近は?」
「仕事が入ることが多くて」
「お祭りの日まで?」
「祭りだから忙しくなる仕事もあるからね」
言われてみれば、そうなのかもしれない。
宿も商店も輸送業者も、普段より忙しくなる。
「今年も仕事ですか?」
「昼までは」
「じゃあ、夜は見られますね」
「たぶん」
「せっかく近くにいるんだから、見た方がいいですよ。綺麗ですよ」
アルトが少し笑った。
「リーナも行くんだよね?」
「はい。夕方から」
「そっか」
そこで話は終わった。
けれど、リーナは皿を下げながら、明日の灯花祭でアルトと会うことがあるだろうかと、ほんの少し考えた。
◇
灯花祭を翌日に控えた午後、《陽だまり亭》は普段より忙しかった。
王都へ祭りを見に来た人が増えているらしく、昼を過ぎても客が途切れない。
「父さん、タルトあといくつ?」
「1つ」
「もう?」
「林檎がねえんだよ」
リーナは厨房を覗く。
籠の中には小さな林檎が2つ残っているだけだった。
「昨日買ったのに」
「いつもより出てるからな」
明日はさらに客が増えるだろう。
「私、今から買ってくる」
「店はもう大丈夫か?」
「このくらいなら父さん1人で平気でしょ?」
「まあな」
リーナはエプロンを外した。
注文用の財布を受け取り、店を出ようとする。
ちょうどそのとき、入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
入ってきたアルトと目が合った。
「あ、アルトさん」
「出かけるところ?」
「市場です。林檎が足りなくなって」
「昨日買ったのに?」
「お祭り前だから、思ったより売れたみたいです」
アルトが店内を見る。
空席は増えていて、昼の忙しさも一段落していた。
「手伝おうか?」
「何をです?」
「林檎」
「また持ってくれるんですか?」
「必要なら」
リーナは一度、厨房のベルンを見る。
ベルンは何も言わずに鍋をかき混ぜている。
昨日は偶然、市場で会った。
今日は違う。
少しだけ迷ってから、リーナはアルトへ向き直った。
「それなら、一緒に行きませんか?」
アルトが一瞬、黙った。
「いいの?」
「はい。私から誘っておいて、駄目とは言いませんよ」
「そうじゃなくて」
アルトは少し嬉しそうに笑った。
「行こうか」
「お願いします」
リーナもつられて笑った。
「父さん、行ってくるね」
「おう。気をつけてな」
「アルトさん」
ベルンが呼ぶ。
「はい」
「林檎、頼んだ」
「分かりました」
「私が買うんだけど」
ベルンは聞こえなかったふりをして、厨房へ戻った。
◇
昨日と同じ市場への道だった。
ただ、今日は最初からアルトが隣にいる。
通りでは灯花祭の準備が進んでいた。
店先に紐を渡し、色ガラスの灯籠を吊るしている。まだ火は入っていないが、午後の日差しが透けて、石畳に赤や青の光が落ちていた。
「明日はこの辺、歩けないくらいになりますよ」
「そんなに?」
「中央広場の方はもっとすごいです。屋台もたくさん出ますし」
「詳しいね」
「小さい頃は毎年行ってましたから」
リーナは吊るされた灯籠を見上げる。
「父さんと手をつないで歩いて、お菓子買ってもらって。帰りはいつも眠くなってました」
「ベルンさんが連れて帰ってくれた?」
「小さい頃はおんぶしてもらってたみたいです。私は覚えてないですけど」
話してから、少し恥ずかしくなる。
「こんな話、面白くないですよね」
「面白いよ」
アルトは普通に答えた。
「リーナの昔の話、あまり聞いたことなかったから」
その言葉に、リーナは少しだけアルトを見る。
「そういえば、そうですね」
5年も顔を合わせている。
それなのに、知らないことはまだたくさんあった。
◇
市場へ入ると、昨日より人が多かった。
祭り前の買い出しらしく、あちこちで大きな籠や荷車が行き交っている。
リーナは前から来た荷車を避けようとして、端へ寄った。
「リーナ」
肩に手が触れた。
アルトに引き寄せられ、目の前を荷車が通り過ぎる。
「すみません」
「大丈夫?」
「はい」
アルトの手はすぐに離れた。
それだけだったのに、リーナはなぜか少しだけ肩を意識した。
「今日は人、多いですね」
「明日はもっと多いんだよね?」
「……はい」
「気をつけないとな」
「そうですね」
リーナは少し早足になった。
アルトは何も言わず、その隣を歩いた。
◇
「祭り前だから、昨日より少し高いぞ」
馴染みの青果店で、店主が林檎を並べながら言った。
「やっぱり上がったんですね」
「仕入れが増えてるからな」
リーナは籠の中を覗き込む。
赤く色づいたものを1つ手に取り、傷を確かめる。
隣でアルトも林檎を手にした。
「これは?」
見せてくる。
リーナは受け取って確認した。
「これはいいです」
「本当に?」
「昨日より上手になってます」
「よかった」
「でも、こっちの方がいいかな」
リーナは別の林檎を取る。
「ほら、香りが少し違うでしょう?」
アルトが顔を近づけた。
「ああ。こっちの方が強い」
「焼くなら、これくらいの方がいいです」
「なるほど」
2人で籠を覗き込みながら、林檎を選ぶ。
リーナが良さそうなものを探し、アルトが渡す。
途中からは、アルトが選んだものをリーナが確かめるだけになった。
「これ」
「大丈夫です」
「これは?」
「それも」
「覚えてきた」
「早いですね」
「先生がいいから」
リーナは笑った。
「じゃあ、次から1人で買えますね」
「それは困るな」
「どうしてです?」
「一緒に来る理由がなくなる」
リーナは持っていた林檎を見た。
何と返せばいいのか少し迷って、そのまま籠へ入れた。
「……荷物持ちは、またお願いするかもしれません」
「うん」
アルトは、それ以上何も言わなかった。
◇
帰り道では、当然のようにアルトが林檎の袋を持っていた。
大通りへ出ると、明日の祭りに向けて屋台の準備も始まっている。
肉を焼く香ばしい匂いに混じって、甘い香りが流れてきた。
リーナがそちらを見る。
揚げたばかりの生地に、蜂蜜をたっぷりとかけた菓子だった。
アルトも足を止めた。
「食べる?」
「え?」
「俺も食べたい」
そう言って屋台へ向かう。
「2つください」
戻ってきたアルトから、紙に包まれた揚げ菓子を1つ渡された。
「私の分も?」
「うん」
「ありがとうございます」
まだ温かい。
リーナは一口かじった。
薄い表面がさくりと割れ、中の柔らかな生地から湯気が上がる。蜂蜜の甘さが広がって、思わず頬が緩んだ。
「美味しい」
「よかった」
「アルトさんも食べてください。冷めますよ」
アルトも自分の分を食べる。
「美味しいね」
「ですよね」
リーナはもう一口かじった。
祭りの準備で賑わう通りを、2人で同じ菓子を食べながら歩く。
店では何度も一緒にお菓子を食べているのに、今日は少し違った。
リーナはその違いを考えず、残った一口を食べた。
◇
《陽だまり亭》へ戻ると、アルトは林檎を厨房まで運んでから、いつもの窓際へ座った。
リーナはエプロンをつけ直し、コーヒーを淹れる。
「お待たせしました」
「ありがとう」
「結局、いつもの時間よりだいぶ遅くなりましたね」
「今日はこっちの方がよかったよ」
アルトがカップを持ち上げる。
リーナは林檎を洗い始めた。
「明日、仕事は何時まででしたっけ?」
「昼過ぎには終わると思う」
「じゃあ灯花祭、間に合いますね」
「リーナは夕方から?」
「はい。店を閉めてから行きます」
「そっか」
水の中で林檎を転がしながら、リーナは少し考えた。
「アルトさん」
「うん?」
「明日、もし会ったら声かけてくださいね」
「うん」
「人が多いから、会えるか分かりませんけど」
「そうだね」
アルトは静かに頷いた。
「リーナも見つけたら声かけて」
「もちろんです」
それだけ決めた。
待ち合わせではない。
約束でもない。
けれど翌日。
《陽だまり亭》を閉める少し前から、リーナは何度も時計を見ることになった。




