第6話 アルトさん、お友達いたんですね
翌日の午後。
《陽だまり亭》のカウンターには、蜂蜜りんごの焼きタルトが並んでいた。
全部で8つ。
そのうち2つには、朝のうちに小さな紙が添えられている。
『エマさん 2つ』
そして、もう1つ。
りんごの重なりが一番綺麗で、縁の焼き色も揃ったタルトだけは、カウンターの奥に置かれていた。
紙はない。
「それ、出さなくていいのか?」
ベルンが聞いた。
「予約分だから」
「名前は?」
「書かなくても分かるでしょ」
「俺は分かる」
「じゃあいいじゃん」
リーナは布巾でカウンターを拭いた。
時計は午後1時57分。
見た直後に、自分でも気づく。
また時計を見ている。
「……別に、待ってるわけじゃないから」
「俺は何も言ってねえぞ」
「父さんに言ったんじゃない」
「じゃあ誰に言ったんだ?」
「独り言」
ベルンが笑う。
その3分後。
入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
聞き慣れた声。
リーナは顔を上げた。
「いらっしゃいませ、アルトさ――」
言葉が途中で止まる。
アルトの後ろに、もう1人いた。
30歳くらいの男だった。
整った服装に、隙のない立ち姿。アルトより少し年上に見える。
「珍しいですね」
「何が?」
「アルトさん、お友達いたんですね」
アルトが止まった。
後ろの男も止まった。
「……いたらおかしい?」
「そういう意味じゃないです」
「今、結構失礼だったよ」
「だって、いつも1人でしょう?」
「仕事関係の人とは会ってるよ」
「仕事の人じゃなくて、お友達です」
アルトが何か言うより先に、後ろの男が静かに頭を下げた。
「セドリックと申します」
「リーナです。いつもアルトさんに来ていただいてます」
「存じております」
「え?」
「……話には聞いております」
ほんの一瞬の間を、リーナは気にしなかった。
「じゃあ、こちらへどうぞ」
アルトのいつもの席へ案内する。
セドリックが向かい側へ座った。
「アルトさんはいつものでいいですよね?」
「うん」
「セドリックさんは?」
「コーヒーを。砂糖を1つお願いします」
「はい」
リーナが離れる。
セドリックはその背中を見送ってから、向かいのアルトへ視線を戻した。
「お友達、だそうです」
「何?」
「いえ。光栄です」
「楽しんでるだろ」
「まさか」
表情はほとんど変わっていなかった。
◇
「お待たせしました」
リーナが2つのカップを運んできた。
アルトには、いつもの少し軽めのコーヒー。
セドリックには砂糖を添える。
「何も聞かなくても出てくるのですね」
セドリックがアルトのカップを見る。
「5年も来てますから」
リーナが答えた。
セドリックの視線が動いた。
「5年?」
「はい」
「そんなに?」
「たぶん、それくらいですよね?」
アルトが頷く。
「もうすぐ5年かな」
「セドリックさんは、アルトさんと長いんですか?」
「3年ほどになります」
「じゃあ、私の方が長いですね」
リーナは何気なく言った。
セドリックがアルトを見る。
アルトはコーヒーを飲んだ。
「……そうなりますね」
「初めて来た日のことも覚えてますよ」
リーナは楽しそうに続ける。
「雨がすごい日だったんです。びしょ濡れで入ってきて」
「それは忘れて」
「今より痩せてましたよね」
「リーナ」
「一番安いコーヒー1杯で、ずっと紙に何か書いてて」
セドリックの眉がわずかに動いた。
「紙、ですか?」
「はい。数字とか、地図みたいなのとか。難しそうなのをいっぱい」
「……なるほど」
セドリックには心当たりがあった。
5年ほど前。
アルトがまだ今ほど巨大な資産を持っていなかった頃に作られた、古い事業計画書。
西部の輸送網。
港湾の整備。
小さな金融組合を束ねる構想。
今では大陸各地に広がっている事業の原型が、何冊もの古い帳面として残されている。
セドリックも、一度だけ見せてもらったことがあった。
「その頃のものは、今も残してあるんですか?」
「ああ。全部じゃないけどね」
「え?」
今度はリーナが驚いた。
「あのとき書いてた紙ですか?」
「そうだよ」
「まだ?」
「うん」
「物持ちいいですね」
「まあね」
リーナにとっては、それだけの話だった。
けれどセドリックは、アルトが今もあの古い帳面を手元に残している理由を、少しだけ理解した気がした。
◇
「あ、そうだ」
リーナが思い出して、カウンターの奥へ向かった。
「アルトさん。昨日の予約」
小皿に載せたタルトを運んでくる。
りんごが綺麗な扇形に重なり、蜂蜜が薄く光っている。
「はい。取っておきました」
アルトの表情が緩んだ。
「ありがとう」
「ちゃんと来ましたね」
「約束したから」
「どうぞ」
アルトがフォークを持つ。
セドリックがタルトを見た。
「私の分は?」
「あ」
リーナが固まる。
「すみません。アルトさんの分しか取ってなくて」
「セドリック」
「冗談です」
「分かりにくいよ」
「申し訳ありません」
リーナはほっとした。
「普通のタルトなら、まだありますよ」
「では、1ついただきます」
「はい」
リーナが取りに行く。
やがて2つの皿が並んだ。
セドリックは自分のタルトを見たあと、アルトの皿を見る。
もう一度、自分の皿を見る。
「……何?」
アルトが気づいた。
「いえ」
「言いたいことあるだろ」
「いえ、特には」
「その顔で?」
「いつも通りですが」
アルトが小さく息を吐いた。
セドリックは声を落とす。
「そちらの方が、形が綺麗ですね」
「そう?」
「ええ」
アルトが自分のタルトを見る。
確かに綺麗だった。
そこへリーナが戻ってくる。
「どうしました?」
「セドリックが、俺の方が綺麗だって」
「言わなくてもよろしいでしょう」
初めてセドリックの表情がわずかに崩れた。
リーナは2つの皿を見比べる。
「たまたまです」
「昨日も聞いたな、それ」
「たまたまは続くこともあります」
厨房からベルンが顔を出した。
「リーナが朝から一番――」
「父さん!」
リーナの声が飛ぶ。
ベルンが口を閉じる。
「何?」
「何でもない!」
「そうか」
ベルンが引っ込んだ。
アルトがリーナを見る。
リーナは見ない。
セドリックは静かにタルトを一口食べた。
「美味しいですね」
「ありがとうございます」
「私の方も十分に」
「セドリックさん?」
「何でしょう」
「アルトさんのお友達って、ちょっと意地悪ですね」
「よく言われます」
「誰に?」
アルトが聞く。
「主にあなたにです」
リーナが吹き出した。
アルトは少し不満そうにタルトを食べた。
◇
しばらくして客足が途切れた。
リーナは2人のカップにコーヒーを足しながら、ふと思った。
「セドリックさん」
「はい」
「アルトさんって、ちゃんと働いてます?」
アルトがむせた。
「リーナ」
「だって、お友達なら知ってるでしょう?」
「なぜ俺が働いてるかどうかを友達に確認するの?」
「本人は働いてるって言うので」
「働いてるよ」
「それは聞きました」
セドリックがアルトを見る。
その目には、明らかに面白がっている色があった。
「質問の規模が大きすぎまして」
「規模?」
「いえ」
セドリックは少し考えた。
「少なくとも、仕事をしていない人間ではありません。それだけは保証いたします」
「ほら」
アルトが言う。
リーナは少し驚いた顔をした。
「じゃあ、思ってたよりは働いてるんですね」
「……そこ?」
「よかったじゃないですか。信用が1つ増えましたよ」
「5年かかってこれか」
アルトが肩を落とす。
リーナは笑った。
「でも私、アルトさんの仕事のことって本当に知らないんですよね」
「そう?」
「はい。商人だっていうのは知ってますけど、何を売ってるのかもよく知らないし」
「いろいろ」
「一番困る答えですね、それ」
「説明すると長いんだ」
「じゃあいいです」
あっさり引き下がる。
セドリックがリーナを見た。
「気にならないのですか?」
「少しは気になりますよ。でも、仕事の話をしに来てるわけじゃないでしょう?」
リーナはアルトのカップを見て、残りが少ないことに気づいた。
「ここではコーヒー飲んで、お菓子食べてるアルトさんですから」
アルトが黙った。
「何です?」
「いや」
「またそれ」
「何でもない」
リーナは首を傾げ、空いた皿を下げた。
セドリックは何も言わなかった。
ただ、少しだけ納得した。
この店でアルトが仕事の話をしない理由も。
5年も通い続けている理由も。
◇
店を出ると、アルトとセドリックは並んで馬車へ向かった。
《陽だまり亭》の扉が閉じる。
数歩離れたところで、セドリックが口を開いた。
「アルト様」
「うん」
「本当に何もご存じないのですね」
「リーナ?」
「はい」
「俺が商人だってことくらいは知ってるよ」
「その表現で許される規模ではないと思いますが」
「嘘はついてない」
「大陸最大級の銀行に出資し、港湾と鉱山と輸送網を束ね、各国の商会が動向を注視している方が『いろいろ』で済ませましたね」
「長くなるから」
「便利な言葉です」
アルトが苦笑する。
「でも、分かっただろ?」
「何がでしょう」
「ここでは言いたくないんだよ」
セドリックが黙る。
アルトは歩きながら続けた。
「俺が何を持ってるとか、誰と仕事してるとか、どれだけ金を動かしてるとか。リーナは知らない」
「はい」
「知ったら、たぶん変わる」
「リーナさんが?」
「『アルトさん』じゃなくて『アルト様』になるかもしれない」
アルトは少し笑った。
だが、その声には冗談だけではないものが混じっていた。
「毎日来たら、忙しいでしょうからって気を遣われる。今日みたいに人参を食べろとも言われなくなるかもしれない」
「それほど人参を食べさせられたいのですか?」
「そこじゃない」
「失礼しました」
馬車の前まで来る。
セドリックが扉を開けた。
「では、当面は今のままで?」
「うん」
「《静かなる黄金公》であることも?」
「もちろん」
アルトが馬車へ乗り込む。
セドリックも向かいに座った。
「明日の午後2時は空いております」
「頼んでないけど」
「必要かと思いまして」
アルトは窓の外へ目を向けた。
《陽だまり亭》の小さな看板が見える。
「……助かる」
「存じております」
馬車が走り出す。
アルトは少ししてから、ふと思い出したように言った。
「ところで」
「はい」
「友達でいいよな?」
セドリックは一瞬だけ黙った。
「3年お仕えして、本日初めて確認されました」
「嫌ならいいけど」
「誰も嫌とは申しておりません」
アルトが笑う。
セドリックは窓の外を向いた。
その口元も、ほんの少しだけ緩んでいた。
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