第5話 明日の分、取っておきますね
その日の《陽だまり亭》には、朝から甘い匂いが漂っていた。
薄く切ったりんごを鍋に入れ、蜂蜜を加えて火にかける。
焦がさないよう木べらで混ぜていると、りんごの色が少しずつ透き通ってきた。
「父さん、これくらい?」
「もう少しだな」
「まだ?」
「まだ」
リーナは鍋を覗き込んだ。
「昨日もそれで早く上げただろ」
「あれはあれで美味しかったよ」
「今日の客には今日のを出せ」
「分かってます」
ベルンに笑われながら、もう少しだけ火を入れる。
今日から出す新しい焼き菓子だった。
蜂蜜で煮たりんごを生地に並べ、香辛料をほんの少し振って焼く。
試作を何度か繰り返して、ようやく店に出せるところまで来た。
焼き上がったタルトを切り分ける。
「……いい感じ」
全部で8切れ。
リーナは皿へ移しながら、そのうちの1切れで手を止めた。
りんごがきれいに重なっている。
焼き色もいい。
「それ、どうした?」
「何でもない」
一番きれいな1切れを、他と同じ皿へ載せた。
◇
昼を過ぎると、店が少し落ち着いた。
午後2時を回った頃。
入口のベルが鳴る。
「こんにちは」
「あ、アルトさん。いらっしゃいませ」
いつもの人だった。
アルトは窓際の席へ向かう。
「いつものコーヒーでいいですか?」
「うん」
「今日は新しいのがありますよ」
「新しいの?」
「蜂蜜りんごの焼きタルトです」
アルトがメニューを見る。
「リーナが作った?」
「父さんにも見てもらいましたけど、作ったのは私です」
「じゃあ、それも」
「即決ですね」
「おすすめなんでしょう?」
「おすすめです」
「なら食べる」
リーナは厨房へ戻った。
皿に並んだタルトを見る。
残りは4切れ。
その中に、朝見つけた一番きれいなものが残っていた。
リーナは少しだけ迷って、それを取った。
「はい。どうぞ」
「ありがとう」
コーヒーと一緒に置く。
アルトがフォークを入れた。
さくり、と表面が割れる。
蜂蜜の甘さと、少し酸味を残したりんご。
一口食べたアルトが止まった。
リーナは反応を待つ。
「……どうです?」
「美味しい」
「本当ですか?」
「うん」
もう一口。
「よかった」
リーナの顔がぱっと明るくなる。
アルトは、その顔を見てからタルトへ視線を戻した。
美味しい。
それは本当だった。
ただ、たぶん、それだけではない。
リーナが作った。
そして今、自分が美味しいと言ったことで、あんなふうに笑った。
その2つが妙に嬉しい。
「アルトさん?」
「何?」
「さっきからタルト見てますけど、何か変でした?」
「いや」
「ならいいですけど」
説明できそうになかったので、もう一口食べた。
「これ、いつから出すの?」
「今日からです」
「毎日?」
「りんごがある間は。そのつもりです」
「そっか」
アルトは頷いた。
「じゃあ、明日もある?」
リーナが笑う。
「気に入ったんですか?」
「かなり」
「よかった」
また嬉しそうに笑う。
アルトはコーヒーへ手を伸ばした。
明日も来れば、また食べられる。
明日も来るつもりだったので、特に問題はない。
◇
その後、店に3人連れの客が入った。
「いらっしゃいませ!」
リーナが注文を取りに行く。
「新しいタルトがあるの?」
「はい。今日からなんです」
「じゃあ3つ」
「ありがとうございます」
アルトが何となく皿の方を見る。
残っていたタルトは3切れ。
全部なくなった。
別にいい。
今日食べた。
明日また焼くと言っていた。
何の問題もない。
「アルトさん」
「うん?」
「どうしました?」
「何が?」
「今、タルトの方見てませんでした?」
「見てないよ」
「そうですか?」
見ていた。
だが、なぜ見たのかは自分でもよく分からない。
アルトはコーヒーを飲んだ。
◇
夕方前。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます」
アルトが席を立つ。
「明日も来るんですか?」
リーナが何気なく聞いた。
「来るよ」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「タルト、かなり気に入ってたから」
「それだけじゃないけど」
「え?」
アルトは止まった。
今、何を言おうとした。
「……コーヒーも飲むから」
「ああ」
「うん」
危ない。
何が危ないのかは分からないが、たぶん今はそれ以上言わない方がいい。
「じゃあ明日も、いつもの時間くらいですか?」
「そのつもり」
「分かりました」
アルトは店を出た。
ベルが鳴り、扉が閉まる。
リーナはテーブルを片づけ始めた。
「気に入ってたな」
厨房からベルンが言った。
「タルト?」
「ああ」
「よかった。結構作るの大変だったから」
リーナは空になった皿を見る。
「明日はもう少し多く焼こうかな」
「売れたしな」
「うん」
そう答えて、食器を厨房へ運びかける。
途中で足を止めた。
「父さん」
「何だ?」
「明日のタルト、何個焼く?」
「10くらいでいいんじゃないか」
「じゃあ」
リーナは少し考えた。
「1つ、先に取っておいていい?」
「何で?」
「今日、売り切れたから」
「明日も売り切れるとは限らんぞ」
「そうだけど」
リーナは空になった窓際の席を見る。
「アルトさん、来るって言ってたし」
ベルンが娘を見る。
「予約か?」
「違うよ」
「じゃあ何だ?」
「……常連さんだから」
「そうか」
ベルンはそれ以上何も言わなかった。
「一番きれいに焼けたやつ、取っておこうかな」
「好きにしろ」
「うん」
◇
翌日。
焼き上がった蜂蜜りんごのタルトを、リーナは10等分した。
焼き色を見る。
形を見る。
りんごの並びを見る。
「これ」
一番きれいな1切れを選ぶ。
そして、客に出す皿ではなく、小さな保存箱へ入れた。
「それ、売らんのか?」
「売らない」
「昨日は常連だからって言ってなかったか?」
「常連だから取っておくの」
「なるほど」
「何?」
「何も」
ベルンが笑う。
「変なの」
リーナは保存箱に蓋をした。
午後2時までは、まだ少し時間がある。
それでも一度だけ、入口の扉を見た。
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