第4話 アルトさん、毎日来て飽きないんですか?
翌日の午後2時。
リーナは洗ったカップを棚へ戻しながら、壁の時計を見た。
昨日、アルトが来たのは午後3時を過ぎてからだった。
それも、ほんの数分。
コーヒーを飲む時間すらないのに顔を出して、蜂蜜とバターで焼いたりんごを少し食べると、そのまま仕事へ戻っていった。
『明日は、もう少し早く来てくださいね』
自分でそう言ったのを思い出したところで、入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
リーナは時計を見る。
午後2時2分。
「……本当に早く来た」
「昨日、言われたから」
アルトが当然のように答えた。
「もう少し早く来てって」
「言いましたけど」
「だから来た」
「律儀ですね」
「約束は守る方なんだ」
アルトはいつもの窓際へ向かった。
リーナも注文を聞かず、コーヒーを淹れる。
少し軽め。砂糖もミルクもなし。
カップを置くと、アルトが口元を緩めた。
「今日はちゃんと飲める」
「昨日は時間がないのに来るからですよ」
「来なかったら?」
「別に」
「別に?」
「……昨日みたいに、今日は来ないのかなとは思ったかもしれませんけど」
「それを待ってたって――」
「コーヒー冷めますよ」
「はい」
アルトは素直にカップを持ち上げた。
リーナはその様子を見て、ふと思う。
昨日だけではない。
その前も、その前も。
気づけば、この人はほとんど毎日ここにいる。
「アルトさん」
「うん?」
「毎日来て、飽きないんですか?」
アルトがカップを置いた。
「何に?」
「この店に」
「急だね」
「だって、もう5年でしょう?」
リーナは店内を見回した。
客席は18。壁や床はベルンが何度も手入れしているが、新しくはない。窓際に小さな花瓶があり、壁には手書きのメニュー。
豪華な調度品など1つもない。
「王都には、もっと立派なお店があるでしょう?」
「あるね」
「もっと美味しいコーヒーを出す店とか」
「あるよ」
リーナの眉がぴくりと動いた。
「……そこは嘘でも、ここのが一番って言いません?」
「言った方がよかった?」
「少しくらい気を遣ってください」
厨房から笑い声がした。
「父さんまで笑わないでよ」
「いや、アルトさんの言う通りだ。うちより高い豆を使ってる店なんて、王都にいくらでもあるぞ」
「父さんまで敵になった」
「でもな」
ベルンは鍋をかき混ぜながら続ける。
「毎日食いたいもんと、一度食ってみたいもんは別だろ」
リーナが黙る。
アルトは少し考えてから頷いた。
「それに近いかな」
「父さんの料理が好きってことですか?」
「好きだよ」
「コーヒーは?」
「好き」
「お菓子は?」
「好き」
迷わず返ってくる答えに、リーナは少しだけ頬を緩めた。
「……それなら、よかったです」
「何が?」
「5年も通ってくれてる人に、実はそんなに好きじゃなかったって言われたら、さすがにへこみますから」
「それはないよ」
アルトは笑った。
「少なくとも、好きじゃない店に5年は通わない」
「確かに」
リーナも笑って、空いた皿を重ねた。
◇
「リーナちゃん、お砂糖もう少しいただける?」
「はい」
窓際の別の席からミラに呼ばれ、リーナは砂糖壺を持っていった。
皿には、薄く切ったりんごを重ねて焼いた菓子が一口分だけ残っている。
「これ、美味しかったわ」
「本当ですか?」
「ええ。今度、孫が来たときにもお願いしようかしら」
「もちろんです。お孫さん、甘い方が好きでしたよね?」
「あら、覚えてるの?」
「前に蜂蜜を追加してたので」
ミラが嬉しそうに笑う。
「じゃあ蜂蜜、多めにしてあげて」
「分かりました」
空いた皿を下げる途中、今度はロッソの水が減っているのに気づいた。
「ロッソさん、お水足しますね」
「おう」
「今日は杖あります?」
「まだ帰らんぞ」
「帰るとき忘れそうなので、先に確認です」
「昨日は忘れてねえだろ」
「一昨日は忘れました」
「よく覚えてんなあ」
店のあちこちから笑い声が上がる。
リーナも笑いながらカウンターへ戻った。
アルトがこちらを見ている。
「何です?」
「いや」
「またそれですか?」
「何が?」
「この前も、私のこと見て『いや』って言ってました」
「見てたのは店だよ」
「今、目が合いましたけど」
「じゃあ、リーナも含めて店を見てた」
「何ですか、それ」
アルトは少し考えてから、カップに指を添えた。
「ここに来ると、誰が何を忘れたとか、誰の孫が甘いものを好きだとか、そういう話ばっかり聞こえるだろ」
「小さい店ですからね」
「うん。だから落ち着くのかも」
リーナはアルトを見る。
「仕事で会う人とは、仕事の話ばかりになるから」
「商人なら普通じゃないですか?」
「普通だよ。嫌いでもない」
アルトは窓の外へ一度目を向け、それから店内へ戻した。
「でも、ずっとそれだけだと疲れる」
「なるほど」
「ここならコーヒー飲んで、ベルンさんの料理食べて、リーナに人参も食べろって言われるくらいだから」
「まだ人参のこと言ってる」
「結構大きかった」
「大人なんだから食べてください」
「ほら、そういうの」
アルトが笑った。
リーナもつられて笑い、それから少しだけ声を柔らかくした。
「でも、落ち着くって言ってもらえるのは嬉しいです」
「本当に?」
「店やってる側としては、かなり」
「店としてか」
「何です?」
「いや」
「またそれ」
アルトはコーヒーへ逃げた。
「まあ、いいです」
リーナは布巾を畳む。
「これからも好きなだけ来てください。毎日でも」
「いいの?」
「もう毎日来てるじゃないですか」
「それもそうだね」
そこでアルトが、少しだけ間を置いた。
「リーナは?」
「私?」
「俺が毎日来ても、飽きない?」
今度はリーナが黙った。
「……私は店員ですよ」
「うん」
「常連さんが来るのは普通です」
「そっか」
「そうです」
なぜか、少しだけ負けた気がする。
リーナは意味もなく布巾を広げ、もう一度畳んだ。
◇
午後3時を過ぎた頃、厨房から甘い匂いが流れてきた。
アルトが顔を上げる。
「昨日の?」
「近いです」
ベルンが天板を持って出てきた。
薄い生地にりんごを重ね、蜂蜜をかけて焼いた菓子が6つ並んでいる。縁には綺麗な焼き色がつき、熱を含んだりんごの表面が蜜で艶めいていた。
「昨日よりちゃんとお菓子になったでしょう?」
「昨日のも美味しかったけど」
「あれは、りんごを焼いただけです」
「俺は好きだったよ」
「商品にするなら見た目も大事なんです」
リーナは天板を覗き込む。
1つだけ端が少し崩れている。
「父さん、これ試食にしていい?」
「おう」
小皿を取る。
崩れたものへ手を伸ばした。
そこで、隣にある1つが目に入った。
りんごが綺麗な扇形に重なり、焼き色も一番いい。
リーナの手がそちらへ動いた。
「はい」
アルトの前に置く。
「試作品です」
アルトは皿を見る。
それから天板を見る。
「一番綺麗なのじゃない?」
「……たまたまです」
「崩れたのが試食用じゃなかった?」
「細かいですね」
「気になったから」
「早く食べてください」
アルトは笑いながらフォークを入れた。
さくり、と薄い生地が割れる。
柔らかなりんごから蜂蜜と果汁が滲み、焼けたバターの香りがふわりと立った。
「美味しい」
その一言で、リーナの表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「昨日より好きかも」
「じゃあ売れそうですね」
「売れると思う」
「アルトさんの舌、どこまで信用していいのかな」
「ひどいな」
「何でも美味しいって言いそうですから」
「人参には言わなかった」
「お菓子と人参を比べないでください」
アルトがもう一口食べる。
「でも、これは特に好き」
「そんなに?」
「リーナが作ったんだろ?」
「りんごを並べたくらいですよ。生地は父さんです」
「それでも」
アルトは皿を見ながら言った。
「昨日のも今日のも、リーナが作ったって分かって食べる方が美味しい」
リーナは一瞬、動きを止めた。
「……味は変わりませんよ」
「俺の気分が違う」
あまりに普通の顔で言うから、余計に困る。
リーナはアルトの皿へ手を伸ばした。
「まだ食べてるよ」
「あ」
「今、皿下げようとした?」
「違います。手が勝手に」
「そんなことある?」
「あります」
アルトが笑う。
リーナは皿から手を離し、そそくさとカウンターへ戻った。
顔が少し熱い。
ベルンが厨房からこちらを見ている。
「何?」
「何も」
「絶対何かある顔してる」
「俺は鍋見てるだけだ」
「こっち見てたじゃん」
ベルンは答えず、鍋の蓋を閉めた。
◇
閉店後。
リーナは翌日使う豆を確認していた。
袋から必要な量を出し、保存容器へ移す。
「それ、多くないか?」
ベルンが覗き込んだ。
「何が?」
「コーヒー豆」
「明日の分だよ」
「いつもより少し多いだろ」
「そう?」
「そうだ」
リーナは容器を見る。
確かに少し多い。
「……余ったら次の日に使えばいいでしょ」
「まあな」
ベルンはそれ以上言わなかった。
その方がかえって気になる。
「何?」
「何も言ってねえだろ」
「顔が言ってる」
「アルトさんみたいなこと言うな」
「それ、私が先に言ったの」
リーナは蓋を閉めた。
明日もアルトが来るとは限らない。
けれど、たぶん来る。
午後2時くらいになれば入口のベルが鳴って、いつもの窓際に座る。
そして、自分は注文を聞く前にコーヒーを淹れるのだろう。
そう考えてから、リーナは手元の容器を見た。
少し多めに用意した豆を減らすことはせず、そのまま棚へ戻した。
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