第3話 今日は来ないんですか?
午後2時を少し過ぎた頃、入口のベルが鳴った。
リーナは磨いていたカップから顔を上げる。
「いらっしゃいませ――」
「あら、今日もいい匂いね」
入ってきたのはミラだった。
「あ、ミラさん。こんにちは」
「あら、私じゃ不満?」
「そんなことないですよ」
「今、一瞬だけ顔が違ったわよ」
「気のせいです」
リーナは笑って、いつもの窓際の席へ案内した。
「今日は紅茶にします?」
「そうね。ミルクを少し」
「はい」
カウンターへ戻り、棚へ手を伸ばす。
取り出したのはコーヒー豆だった。
「……違う」
戻す。
茶葉を量っていると、厨房からベルンが顔を出した。
「今、コーヒー淹れようとしなかったか?」
「してない」
「ミラさんに?」
「してないって」
ベルンは何も言わず、口元だけで笑った。
「何?」
「別に」
「その顔やめて」
リーナは湯を注いだ。
ミラへ紅茶を運び、空いたテーブルを片づける。
その途中、何となく時計を見る。
午後2時15分。
昨日は2時7分だった。
だから何だという話なのだが。
窓際の席が1つ空いている。
アルトがいつも座る席だ。
布巾でテーブルを拭いた。
一度。
端に水滴が残っていたので、もう一度。
「そこ、さっき拭いてなかったか?」
厨房から声が飛んできた。
「汚れてたの」
「へえ」
「何?」
「何も言ってねえよ」
今日は父が妙に腹立たしい。
◇
午後2時半。
アルトは王立銀行の会議室にいた。
「北部開発への融資額を、このまま承認することはできません」
長机の向こうで、銀行の幹部が表情を強張らせた。
「しかし、商業区画はすでに――」
「多すぎます」
アルトは計画図を指で押さえた。
「この人口で、この数の店舗は維持できない。最初の数年は埋まっても、その後に空き店舗が増えます」
「では、計画そのものを縮小すると?」
「商業区画は減らします。その分、住居と診療所を増やしましょう」
幹部の1人が眉を寄せた。
「収益性が落ちませんか?」
「人が住まない場所で、誰が買い物をするんです?」
室内が静かになった。
「先に暮らせる町を作る。そのあと商売が育つ。順番を逆にしない方がいい」
アルトが修正案を差し出す。
王立銀行側の人間たちが資料を見直し始めた。
隣に座るセドリックが、そっと懐中時計を確認した。
午後2時34分。
アルトもそれを見る。
「……あとどれくらい?」
「こちらが終わっても、午後3時半から商業院で会合がございます」
「移動は?」
「馬車で20分ほどです」
「今の会議を10分で終えたら?」
「《陽だまり亭》へ寄るおつもりなら、滞在できても20分ほどかと」
「十分」
セドリックが小さく息を吐いた。
「昨日、王立銀行との協議を午前へ移されたはずですが」
「向こうの都合で戻った」
「それは存じております」
「だから急いでる」
「そちらではなく」
セドリックは声を落とす。
「今日は行かなくてもよろしいのでは、と申し上げております」
アルトは少し黙った。
昨日、《陽だまり亭》を出る前。
『約束ですよ』
『うん。約束する』
あれは、成功したら菓子を2つ買うという話だった。
今日必ず行くという約束ではない。
それでも、その前には毎日のように「また明日」と言ってきた。
「約束みたいなものだろ」
「どのあたりがでしょうか」
「俺がそう思ってる」
「左様ですか」
セドリックは諦めたらしい。
アルトは資料へ視線を戻した。
「では、残りを終わらせよう」
そこからの会議は早かった。
◇
午後2時45分。
ベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
今度こそ顔を上げた。
ロッソだった。
「おう、リーナちゃん」
「……こんにちは」
「なんだ。俺じゃ駄目か?」
「なんで今日みんな同じこと言うんですか?」
「みんな?」
「何でもありません」
ロッソは笑いながら席へ座った。
リーナは水を出し、注文を聞く。
午後3時。
アルトは来ない。
別に、毎日必ず来ると言ったわけではない。
仕事があるのだろう。
昨日も朝から働いてきたと言っていた。
あれだけ疑ったのだから、仕事をしているならむしろ良いことではないか。
「リーナ」
「何?」
「そのカップ、そこじゃねえぞ」
ベルンに言われ、手元を見る。
コーヒーカップを紅茶用の棚へ戻そうとしていた。
「……分かってる」
「そうか」
「今戻すところだったの」
「何も言ってねえだろ」
「顔が言ってる」
「誰かと同じこと言うな」
余計に腹が立った。
午後3時を少し回ったところで、昼の客がほとんど引いた。
リーナは厨房へ入り、朝から仕込んでいたりんごを確認する。
薄く切ったりんごをバターで焼き、蜂蜜を絡めたものだ。試しに焼き菓子へ使うつもりだったが、端が少し崩れてしまった。
「父さん、これ売れると思う?」
「味は?」
「美味しい」
「なら売れる」
「形が悪い」
「お前が食えば?」
「……そうする」
小皿に取り分ける。
でも、フォークはまだつけなかった。
◇
午後3時12分。
入口のベルが鳴った。
「すみません、まだ大丈夫ですか?」
聞き慣れた声だった。
リーナは顔を上げる。
アルトが立っていた。
いつもきちんとしている黒髪が、今日は少しだけ乱れている。
「アルトさん」
「うん」
「遅いですよ」
言ってから、リーナは口を閉じた。
アルトも一瞬だけ目を丸くする。
「……待ってた?」
「待ってません」
「でも今、遅いって」
「いつもより遅いから言っただけです」
「それを待ってたって言うんじゃない?」
「言いません」
アルトが笑った。
その顔が妙に嬉しそうなのが腹立たしい。
「今日は来ないのかな、とは思いましたけど」
「それ、かなり待ってない?」
「帰ります?」
「ごめん」
すぐ謝った。
リーナはため息をつきながら、いつもの席を見る。
「座ってください」
「ありがとう」
「でも、今日は何時までいられるんです?」
アルトが懐中時計を見る。
「3時10分には出たかった」
「もう過ぎてますよ」
「知ってる」
「次の予定は?」
「3時半」
「どこです?」
「ここから馬車で20分くらい」
リーナは時計を見た。
アルトを見る。
「コーヒー飲む時間ないじゃないですか」
「急げばある」
「ありません」
「少しくらいなら」
「駄目です」
リーナはきっぱり言った。
「遅刻する常連さんを作ったって、うちに得ありませんから」
「もう来てるんだけど」
「じゃあ何しに来たんです?」
アルトが一瞬、黙った。
「昨日、また明日って言ったから」
「……それだけ?」
「うん」
リーナは返事に困った。
わざわざ来なくてもいいのに。
そう言おうとして、やめた。
代わりに、厨房へ入る。
「父さん。あれ、半分もらうね」
「食うんじゃなかったのか?」
「半分でいい」
さっきの蜂蜜りんごを小皿に盛り、フォークを2本持って戻った。
「コーヒーはなしです」
「残念」
「代わりにこれ。試作品です」
「りんご?」
「蜂蜜とバターで焼きました。形が崩れたので売り物にはしませんけど」
「じゃあリーナの?」
「半分だけです」
アルトが一口食べる。
表面には蜂蜜の薄い艶があり、噛むと柔らかくなったりんごから甘酸っぱい果汁が出る。
「美味しい」
「でしょう?」
「これ、売ればいいのに」
「もう少し綺麗に作れたら」
「俺はこれでいいけど」
「アルトさんは何でも食べるでしょう」
「人参以外はね」
「まだ言ってる」
リーナも一切れ食べた。
いつもの窓際の席で、1枚の小皿を挟んで2人でりんごを食べる。
たった数分。
それなのに、さっきまで気になっていた空席が埋まっただけで、店の中がいつも通りに戻った気がした。
「はい、終わり」
リーナが皿を取った。
「早い」
「仕事でしょう?」
「あと1つ残ってる」
「持っていきます?」
「いいの?」
「馬車で食べてください」
「リーナ」
「何です?」
「今日、ちょっと優しいね」
「3時半から仕事する人を遅刻させないだけです」
「そっか」
「そうです」
アルトは立ち上がった。
リーナが紙に蜂蜜りんごを包んで渡す。
「3時15分。急いでください」
「はい」
「明日は、もう少し早く来てくださいね」
また口が先に動いた。
アルトが包みを受け取る手を止める。
「明日も来ていいの?」
「……毎日来てるじゃないですか」
「そうだけど」
「今さら聞かないでください」
アルトの目元が柔らかくなる。
「分かった。また明日」
「はい。また明日」
今度は、リーナから言った。
◇
馬車へ乗り込むと、セドリックが時計を見た。
「3時16分です」
「間に合う」
「御者に無理をさせなければ、1分ほど遅れます」
「じゃあ先方に連絡を」
「すでにしております」
「さすが」
「お褒めいただき光栄です」
まったく嬉しそうではない。
馬車が走り出す。
セドリックの視線が、アルトの手元へ落ちた。
「そちらは?」
「蜂蜜りんご」
「会議を延ばしてまで召し上がる必要が?」
「延ばしたんじゃない。短く終わらせた」
「物は言いようですね」
アルトは紙包みを開く。
最後の一切れを食べようとして、少しだけ止まった。
『明日は、もう少し早く来てくださいね』
思い出すと、自然に口元が緩む。
セドリックがそれを見た。
「……何?」
「いえ。何も」
「その顔やめて」
「何もしておりません」
昨日と同じ返事だった。
その日の午後3時半。
商業院の会議室へ入ったアルトは、南部海運の追加融資案に目を通し、開始から数分で数字の食い違いを指摘した。
先ほどまで蜂蜜りんごを大事そうに持っていた男と同一人物だとは、会議室の誰も知らない。
ただ1人、セドリックだけが知っていた。
大陸一の大富豪が今日いちばん嬉しそうな顔をしたのは、大きな契約がまとまったときではない。
小さな店の看板娘に、
「また明日」
と言われたときだった。
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