第2話 パンが小さくなるのは困る
第2話 パンが小さくなるのは困る
翌朝、アルトの机には西部穀倉地帯から王都までの地図が広げられていた。
「原因が分かりました」
セドリックが地図の一点を指す。
「3週間前の大雨で、リューネ川に架かる橋が損傷しています。馬車は北側の街道へ迂回しており、王都までの輸送に通常より2日ほど余計にかかっています」
「小麦そのものは?」
「産地価格に大きな変動はありません」
「じゃあ上がっているのは輸送費か」
「はい。迂回路は道幅も狭く、大型の荷馬車は積載量を落としているようです」
アルトは報告書に目を通した。
橋の修繕には時間がかかる。だが、問題は橋だけではない。
王都へ荷を運んだ馬車の多くが、帰りはほとんど空のまま西へ戻っている。中継地点にはまともな倉庫もなく、雨が降れば荷を守るために足を止めるしかない。
「橋の修繕費を出す」
「承知しました」
「それと、迂回路も整備しよう。橋が壊れるたびに同じことになる。中継地点に倉庫を2つ。王都から西へ戻る荷もまとめられるようにして」
セドリックが一瞬だけ手を止めた。
「橋だけではなく?」
「今直しても、次の大雨でまた困るからね。それに帰りの馬車が空なのはもったいない。西部で必要な品を王都から運べれば、往復で稼げる。輸送業者にも悪い話じゃない」
「では、街道沿いの商会にも声をかけます」
「お願い」
セドリックが書き留めてから、アルトを見た。
「昨日までは、この案件を優先されていませんでしたが」
「昨日までは橋が壊れてるなんて知らなかったから」
「西部の物流報告は先週届いております」
「……そうだっけ?」
「はい」
アルトは黙った。
セドリックも黙った。
「何?」
「いえ」
「言いたそうだけど」
「パンが小さくなるのは困りますからね」
アルトが顔を上げた。
「セドリック」
「はい」
「仕事しようか」
「しております」
涼しい顔で次の書類を差し出された。
◇
その日の昼過ぎ。
《陽だまり亭》では、ベルンが大鍋の蓋を開けていた。
白い湯気と一緒に、バターと牛乳の香りが厨房から流れてくる。
今日の昼食は、鶏肉と根菜のクリーム煮だった。
大きめに切った鶏肉、じゃがいも、人参、玉ねぎをじっくり煮込み、とろみのある白いクリームでまとめている。仕上げに黒胡椒を少しだけ振るのがベルン流だ。
「父さん、あと3つ?」
「4つだ」
「人参少ないのが1つあるけど」
「気のせいだ」
「アルトさん用?」
「俺はそんな贔屓しねえよ」
「じゃあ人参足しとくね」
「やめてやれ」
ベルンが笑った。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
来た。
リーナは時計を見る。
午後2時7分。
昨日より少し遅い。
「アルトさん」
「うん?」
「今日は働いてきました?」
「朝から」
「本当です?」
「なんで昨日より疑いが強くなってるの?」
「だって、今日もこの時間に来たから」
アルトはいつもの席へ向かいながら、肩を落とした。
「信用がないなあ」
「これから積み上げてください」
「5年通ってるのに?」
「仕事の信用と来店回数は別です」
「厳しい」
リーナは笑って、水を置いた。
「今日はまだ昼食ありますよ」
「何?」
「鶏肉と根菜のクリーム煮です」
「根菜……」
アルトの視線がわずかに逸れた。
「人参も入ってます」
「聞いてないよ」
「顔に書いてありました」
「じゃあコーヒーだけで」
「駄目です」
「なんで?」
「父さんが朝から作ったんですから食べてください」
「店員が客の注文を決めていいの?」
「常連さんにはいいんです」
「そうなんだ」
アルトが少し笑った。
「じゃあ、それで」
「はい」
厨房へ戻る。
「父さん、1つ」
「人参は?」
「普通」
「優しくねえな」
「大人だから」
深皿にクリーム煮を盛る。焼き直したパンには薄くバターを塗った。熱で表面が艶を帯び、香ばしい匂いが立つ。
アルトの前へ運ぶと、彼はまずパンをちぎった。
ぱり、と薄い皮が割れる。
クリームにつけて口へ運び、少し目を細めた。
「美味しい」
「でしょう?」
「リーナが作ったみたいな顔してるけど」
「うちの料理ですから」
「そこは強いんだ」
次に鶏肉を食べる。
じゃがいも。
玉ねぎ。
そして、人参だけが最後まで残った。
リーナは黙って皿を見た。
「何?」
「いえ」
「言いたいことあるよね?」
「好き嫌いするんだなあって」
「食べるよ」
「何も言ってません」
「顔が言ってる」
アルトは諦めたように人参を口へ入れた。
「どうです?」
「人参だね」
「感想になってません」
リーナは笑いながら空いたカップを片づける。
こうして話していると、やはり大きな商売をしている人には見えない。
でも昨日、自分も商売をしていると言っていた。
「そういえばアルトさん」
「うん?」
「昨日の小麦の話、覚えてます?」
「覚えてるよ」
「父さんと話したんですけど、やっぱりパンは小さくしないことにしました」
アルトの手が止まる。
「値上げする?」
「必要なら少しだけ。でも、できるだけ今のまま頑張ります」
「そっか」
「常連さんって、案外そういうの気づくんですよ。いつものパンがちょっと小さいとか、スープの具が減ったとか」
リーナは窓際の席を見る。
さっきまでミラが座っていた場所だ。
「毎日来てくれる人に、分からないように減らすのは嫌なので」
アルトはしばらく何も言わなかった。
「……やっぱり、パンが小さくなるのは困るな」
「でしょう?」
「うん。かなり」
「アルトさん、よく食べますもんね」
「そういう意味じゃないんだけど」
「違うんですか?」
「まあ、いいや」
アルトは苦笑して、残ったパンをクリームにつけた。
◇
4日後。
「リーナちゃん、聞いたか?」
小麦を届けに来たバルト商会の男が、荷袋を下ろしながら言った。
「何をです?」
「来月の値上げ、まだ確定じゃなくなった」
「え?」
厨房からベルンも顔を出した。
「どういうことだ?」
「西の橋、修繕が早まるらしい。それだけじゃなくて、迂回路の整備と荷置き場まで作るんだとさ。輸送組合にも金が入るらしい」
「急だな」
「《黄金公》が動いたって話だ」
リーナは首を傾げた。
「黄金公?」
「知らないのか? 《静かなる黄金公》だよ。大商人どころか、銀行や港まで動かすっていう金持ちさ」
「へえ……」
「その人が金を出すなら、工事も早い。まあ、実際にどこまで値段が戻るかはこれからだけどな」
男はそう言って、空になった荷車へ戻っていった。
リーナは腕を組む。
「すごい人もいるんだね」
「俺たちには縁のない世界だな」
ベルンが笑った。
「だね」
その日の午後。
いつもの時間にベルが鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。あ、アルトさん」
リーナはすぐにコーヒーを用意した。
「今日はちょっといい話がありますよ」
「何?」
「小麦、そんなに上がらないかもしれないんです」
「へえ」
「なんですか、その反応。うちは助かるんですよ」
「それはよかった」
「なんか、ものすごいお金持ちが橋とか道にお金を出すらしくて」
アルトがカップへ手を伸ばす。
「そうなんだ」
「《静かなる黄金公》って知ってます?」
その手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……聞いたことはあるよ」
「やっぱり商売してる人なら知ってるんですね」
「まあね」
リーナは感心したように頷いた。
「すごいですよね。橋だけじゃなくて、道とか倉庫まで考えるんですって」
「そうらしいね」
「アルトさんも、いつかそんな大きな仕事ができるといいですね」
アルトが顔を上げた。
冗談を言ったつもりはなかった。
リーナはいつも通りの顔で続ける。
「私も店を頑張りますから。お互い頑張りましょう」
少し間があった。
「……うん」
「また妙に真面目ですね」
「応援されたから」
「それくらいしますよ。5年も通ってる常連さんですし」
リーナは空いた皿を持ち上げる。
「頑張って成功したら、うちで一番高いお菓子を買ってください」
「いいよ。一つ?」
「はい。……あ、でも、せっかく成功したなら、二つ買ってもらおうかな」
「分かった」
「約束ですよ」
「うん。約束する」
リーナは笑って厨房へ戻った。
アルトはその背中を見送ってから、コーヒーを一口飲む。
そこへ、店の外を通りかかったセドリックと目が合った。
足を止めたセドリックが、窓越しにこちらを見る。
アルトは何も言わない。
セドリックも何も言わない。
ただ、その視線だけが雄弁だった。
――大陸一の大富豪が、これ以上どう成功するおつもりですか。
アルトは静かに窓から目を逸らした。
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