第1話 アルトさん、ちゃんと働いてます?
王都の大通りから2本入った路地に、《陽だまり亭》という小さな店がある。
客席は18。昼には父ベルンの作る温かい料理が出て、午後になれば焼き菓子とコーヒーの匂いが店いっぱいに広がる。豪華な店ではないが、近所の職人や商人たちにとっては、少し足を休めるのにちょうどいい場所だった。
「リーナちゃん、今日のスープも美味しかったわ」
「父に言っておきます。たぶん、明日の具が1つ増えますよ」
「あら、じゃあ毎日褒めようかしら」
窓際に座る老婦人ミラに笑い返しながら、リーナは空いた皿を重ねた。
栗色の髪を後ろでまとめ、白いシャツに淡い茶色のエプロン。華やかなドレスとは縁がないし、自分を美人だと思ったこともない。それでも店に立っていると、客はよく話しかけてくる。
「そうだ、リーナちゃん。昨日ここに手袋を――」
「預かってますよ」
カウンターの下から布包みを取り出すと、ミラが目を丸くした。
「まあ。よく私のだって分かったわね」
「去年も同じのを忘れてましたから」
「……それは忘れてちょうだい」
近くの席から笑い声が上がった。
リーナも笑っていると、今度は奥から声が飛ぶ。
「リーナ、ロッソさんの会計!」
「はーい」
会計を済ませたロッソが立ち上がり、出口へ向かう。
「ごちそうさん。また明日な」
「ありがとうございました。ロッソさん、杖」
「おっと」
「今日は忘れ物が多い日ですね」
「まだ昼過ぎだぞ」
「じゃあ夕方まで気をつけます」
杖を受け取ったロッソが笑いながら出ていく。
入れ替わるように、入口のベルが鳴った。
リーナは反射的に時計を見た。
午後2時を少し回ったところ。
「いらっしゃいませ――あ、アルトさん」
「こんにちは」
黒髪の青年が入ってきた。
背が高く、落ち着いた灰青色の瞳をしている。今日も派手さのない濃紺の上着だったが、仕立てだけは妙にいい。
アルト。
もう5年ほど《陽だまり亭》へ通っている常連客だ。
「今日もお休みですか?」
アルトが足を止めた。
「……今日も?」
「昨日も来たでしょう?」
「来たね」
「一昨日も」
「来た」
「その前も」
「来たと思う」
リーナは少し考えた。
「アルトさん、ちゃんと働いてます?」
ミラが吹き出した。
アルトは困ったように笑う。
「働いてるよ」
「いつです?」
「リーナが見てないところで」
「便利な言葉ですね、それ」
「本当なんだけどな」
アルトはいつもの窓際の席へ座った。
注文を聞く前に、リーナはカウンターへ戻る。
豆を挽き、少し軽めに淹れる。砂糖もミルクもつけない。
カップを置くと、アルトがそれを見てからリーナを見た。
「まだ何も言ってないけど」
「いつものでしょう?」
「うん」
「5年も来てるんですから、それくらい覚えます」
「そっか」
アルトはなぜか少し嬉しそうだった。
「何です?」
「いや。5年分の成果があったなと思って」
「コーヒーの注文を覚えられただけですよ」
「十分だよ」
変な人だ。
リーナはそう思いながら、隣のテーブルを片づけた。
「そういえば父さん」
厨房へ顔を向ける。
「バルト商会の人、なんだって?」
「来月から小麦が上がるってよ」
奥からベルンの声が返ってきた。
「やっぱり?」
「ああ。今のところ1割くらいだとさ」
「1割……」
リーナは眉を寄せた。
パンは昼食にも使うし、焼き菓子にも小麦は欠かせない。
値上げするか、量を減らすか。
「嫌だなあ」
思わず漏らすと、アルトがカップを置いた。
「小麦?」
「はい。西市場から仕入れてるんですけど、来月から高くなるみたいで」
「理由は?」
「そこまでは聞いてません。父さんも仕入れ先から言われただけなので」
アルトが少しだけ考え込む。
こういう顔をすると、普段より仕事のできそうな人に見える。
「パン、小さくするの?」
「しませんよ」
リーナは即答した。
「値段を少し上げることになっても、黙って小さくするのは嫌です。いつも来てくれる人が『あれ?』ってなるでしょう?」
アルトがこちらを見た。
「リーナらしいね」
「何ですか、それ」
「褒めてる」
「なら、ありがとうございます」
リーナは素直に受け取った。
そのとき、入口近くでミラが立ち上がる。
「じゃあリーナちゃん、ごちそうさま」
「ありがとうございました。ミラさん」
「今日は忘れ物ないわよ」
「確認します?」
「しなくて結構」
ミラが胸を張って店を出ていく。
リーナは笑いながら見送った。
ふと振り返ると、アルトがこちらを見ていた。
「どうしました?」
「いや」
アルトはコーヒーを飲む。
「いい店だなと思って」
「今さらですか?」
「今さらだね」
「5年かかりました?」
「5年前から思ってるよ」
「それならよしです」
リーナは満足して、空いた皿を持って厨房へ戻った。
アルトはその背中を目で追い、やがて静かに笑った。
◇
「じゃあ、ごちそうさま」
午後3時前、アルトが席を立った。
「今日は早いですね」
「仕事があるから」
「あ」
リーナは少し意外そうな顔をした。
「本当にあったんですね」
「リーナは俺を何だと思ってるの?」
「毎日のように午後からコーヒーを飲みに来られるくらい、時間に余裕のある商人さん」
「間違ってはいないけど、何か違うな」
アルトが苦笑する。
リーナは会計を受け取りながら、ふと思い出した。
「アルトさんも商売してるんでしょう?」
「一応ね」
「小麦も上がるし、最近いろいろ大変ですけど」
釣り銭を渡す。
「お互い頑張りましょう」
アルトの手が止まった。
「……うん」
「?」
「頑張るよ」
妙に真面目な返事だった。
「じゃあ、また明日」
「はい。お待ちしてます」
アルトが店を出る。
リーナはその背中へ声をかけた。
「ちゃんと働いてくださいね!」
アルトは振り返らず、片手だけ上げた。
◇
《陽だまり亭》から馬車で20分。
王都中央商業院の最上階では、十数人の男たちが1人の到着を待っていた。
南部最大の海運商会の会頭。王都でも指折りの銀行家。鉱山組合の代表。王国財務院から派遣された役人までいる。
重い扉が開いた。
「お待たせしました」
アルトが入る。
先ほどまで《陽だまり亭》でコーヒーを飲んでいた男と同じ服装だった。
だが、室内の空気が変わった。
「南港の拡張計画から始めましょう」
席についたアルトが書類を開く。
「希望額の全額は出しません。3分の2までです」
「しかし、それでは倉庫の増設が――」
「現在の荷動きなら十分です。むしろこちらの輸送量が不自然に増えている。先に確認してください」
指先が、表の一箇所を叩く。
海運商会の会頭が書類を見直し、顔色を変えた。
「……確認いたします」
「次に東部鉱山。採掘量の見込みが楽観的すぎます。この数字を前提にした投資は認めません」
誰も声を荒らげない。
アルトも怒らない。
それでも彼が「出さない」と言えば、計画そのものが止まることがある。
大陸中の商人たちが、畏敬とわずかな恐れを込めて彼を呼ぶ。
《静かなる黄金公》。
貴族の称号ではない。
巨額の富を動かしながら、表舞台で声を張ることのない男についた呼び名だった。
会議が一区切りついたところで、傍らに控えていたセドリックが次の書類を差し出した。
「アルト様。明日は午後2時から王立銀行との協議が入れられます」
「午前にして」
「午後の方が先方の都合はよいそうですが」
「午前で」
セドリックは無表情のままアルトを見る。
「……何かございますか?」
「ある」
「どのような?」
アルトは別の資料を手に取った。
「予定が」
「承知しました」
セドリックは淡々と書き留め、次の確認へ移ろうとした。
「あと、西市場の小麦価格を調べて」
その手が止まる。
「小麦、ですか?」
「産地価格、輸送費、在庫量。値上がりがどこで発生しているのか知りたい」
「新規投資でしょうか」
「まだ分からない」
アルトは昼間の会話を思い出した。
値段を上げても、黙ってパンを小さくするのは嫌だと言った少女。
「ちょっと気になっただけ」
セドリックは数秒黙った。
「《陽だまり亭》ですか?」
「……どうして分かった?」
「アルト様が突然、食材の価格を気にされましたので」
「小麦は大陸経済の重要品目だよ」
「左様でございますね」
「その顔やめて」
「何もしておりません」
セドリックは本当に何もしていない顔で、予定表を閉じた。
「それでは明日の王立銀行は午前へ。午後2時以降は空けておきます」
「助かる」
「毎日空ける必要がございますか?」
アルトは少し考えた。
「リーナが、お待ちしてますって言ったから」
セドリックが目を閉じた。
「……《静かなる黄金公》が聞いて呆れますね」
「うるさい」
アルトは書類へ視線を戻した。
その口元だけが、ほんの少し緩んでいた。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・☆☆☆☆☆からの評価をいただけると嬉しいです!
感想も大歓迎です。執筆の励みになります!




