↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『大陸一の大富豪は、今日も好きな女の子の店で暇人扱いされています。  作者: オレンジペコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/25

第1話 アルトさん、ちゃんと働いてます?

 王都の大通りから2本入った路地に、《陽だまり亭》という小さな店がある。


 客席は18。昼には父ベルンの作る温かい料理が出て、午後になれば焼き菓子とコーヒーの匂いが店いっぱいに広がる。豪華な店ではないが、近所の職人や商人たちにとっては、少し足を休めるのにちょうどいい場所だった。


「リーナちゃん、今日のスープも美味しかったわ」


「父に言っておきます。たぶん、明日の具が1つ増えますよ」


「あら、じゃあ毎日褒めようかしら」


 窓際に座る老婦人ミラに笑い返しながら、リーナは空いた皿を重ねた。


 栗色の髪を後ろでまとめ、白いシャツに淡い茶色のエプロン。華やかなドレスとは縁がないし、自分を美人だと思ったこともない。それでも店に立っていると、客はよく話しかけてくる。


「そうだ、リーナちゃん。昨日ここに手袋を――」


「預かってますよ」


 カウンターの下から布包みを取り出すと、ミラが目を丸くした。


「まあ。よく私のだって分かったわね」


「去年も同じのを忘れてましたから」


「……それは忘れてちょうだい」


 近くの席から笑い声が上がった。


 リーナも笑っていると、今度は奥から声が飛ぶ。


「リーナ、ロッソさんの会計!」


「はーい」


 会計を済ませたロッソが立ち上がり、出口へ向かう。


「ごちそうさん。また明日な」


「ありがとうございました。ロッソさん、杖」


「おっと」


「今日は忘れ物が多い日ですね」


「まだ昼過ぎだぞ」


「じゃあ夕方まで気をつけます」


 杖を受け取ったロッソが笑いながら出ていく。


 入れ替わるように、入口のベルが鳴った。


 リーナは反射的に時計を見た。


 午後2時を少し回ったところ。


「いらっしゃいませ――あ、アルトさん」


「こんにちは」


 黒髪の青年が入ってきた。


 背が高く、落ち着いた灰青色の瞳をしている。今日も派手さのない濃紺の上着だったが、仕立てだけは妙にいい。


 アルト。


 もう5年ほど《陽だまり亭》へ通っている常連客だ。


「今日もお休みですか?」


 アルトが足を止めた。


「……今日も?」


「昨日も来たでしょう?」


「来たね」


「一昨日も」


「来た」


「その前も」


「来たと思う」


 リーナは少し考えた。


「アルトさん、ちゃんと働いてます?」


 ミラが吹き出した。


 アルトは困ったように笑う。


「働いてるよ」


「いつです?」


「リーナが見てないところで」


「便利な言葉ですね、それ」


「本当なんだけどな」


 アルトはいつもの窓際の席へ座った。


 注文を聞く前に、リーナはカウンターへ戻る。


 豆を挽き、少し軽めに淹れる。砂糖もミルクもつけない。


 カップを置くと、アルトがそれを見てからリーナを見た。


「まだ何も言ってないけど」


「いつものでしょう?」


「うん」


「5年も来てるんですから、それくらい覚えます」


「そっか」


 アルトはなぜか少し嬉しそうだった。


「何です?」


「いや。5年分の成果があったなと思って」


「コーヒーの注文を覚えられただけですよ」


「十分だよ」


 変な人だ。


 リーナはそう思いながら、隣のテーブルを片づけた。


「そういえば父さん」


 厨房へ顔を向ける。


「バルト商会の人、なんだって?」


「来月から小麦が上がるってよ」


 奥からベルンの声が返ってきた。


「やっぱり?」


「ああ。今のところ1割くらいだとさ」


「1割……」


 リーナは眉を寄せた。


 パンは昼食にも使うし、焼き菓子にも小麦は欠かせない。


 値上げするか、量を減らすか。


「嫌だなあ」


 思わず漏らすと、アルトがカップを置いた。


「小麦?」


「はい。西市場から仕入れてるんですけど、来月から高くなるみたいで」


「理由は?」


「そこまでは聞いてません。父さんも仕入れ先から言われただけなので」


 アルトが少しだけ考え込む。


 こういう顔をすると、普段より仕事のできそうな人に見える。


「パン、小さくするの?」


「しませんよ」


 リーナは即答した。


「値段を少し上げることになっても、黙って小さくするのは嫌です。いつも来てくれる人が『あれ?』ってなるでしょう?」


 アルトがこちらを見た。


「リーナらしいね」


「何ですか、それ」


「褒めてる」


「なら、ありがとうございます」


 リーナは素直に受け取った。


 そのとき、入口近くでミラが立ち上がる。


「じゃあリーナちゃん、ごちそうさま」


「ありがとうございました。ミラさん」


「今日は忘れ物ないわよ」


「確認します?」


「しなくて結構」


 ミラが胸を張って店を出ていく。


 リーナは笑いながら見送った。


 ふと振り返ると、アルトがこちらを見ていた。


「どうしました?」


「いや」


 アルトはコーヒーを飲む。


「いい店だなと思って」


「今さらですか?」


「今さらだね」


「5年かかりました?」


「5年前から思ってるよ」


「それならよしです」


 リーナは満足して、空いた皿を持って厨房へ戻った。


 アルトはその背中を目で追い、やがて静かに笑った。


     ◇


「じゃあ、ごちそうさま」


 午後3時前、アルトが席を立った。


「今日は早いですね」


「仕事があるから」


「あ」


 リーナは少し意外そうな顔をした。


「本当にあったんですね」


「リーナは俺を何だと思ってるの?」


「毎日のように午後からコーヒーを飲みに来られるくらい、時間に余裕のある商人さん」


「間違ってはいないけど、何か違うな」


 アルトが苦笑する。


 リーナは会計を受け取りながら、ふと思い出した。


「アルトさんも商売してるんでしょう?」


「一応ね」


「小麦も上がるし、最近いろいろ大変ですけど」


 釣り銭を渡す。


「お互い頑張りましょう」


 アルトの手が止まった。


「……うん」


「?」


「頑張るよ」


 妙に真面目な返事だった。


「じゃあ、また明日」


「はい。お待ちしてます」


 アルトが店を出る。


 リーナはその背中へ声をかけた。


「ちゃんと働いてくださいね!」


 アルトは振り返らず、片手だけ上げた。


     ◇


 《陽だまり亭》から馬車で20分。


 王都中央商業院の最上階では、十数人の男たちが1人の到着を待っていた。


 南部最大の海運商会の会頭。王都でも指折りの銀行家。鉱山組合の代表。王国財務院から派遣された役人までいる。


 重い扉が開いた。


「お待たせしました」


 アルトが入る。


 先ほどまで《陽だまり亭》でコーヒーを飲んでいた男と同じ服装だった。


 だが、室内の空気が変わった。


「南港の拡張計画から始めましょう」


 席についたアルトが書類を開く。


「希望額の全額は出しません。3分の2までです」


「しかし、それでは倉庫の増設が――」


「現在の荷動きなら十分です。むしろこちらの輸送量が不自然に増えている。先に確認してください」


 指先が、表の一箇所を叩く。


 海運商会の会頭が書類を見直し、顔色を変えた。


「……確認いたします」


「次に東部鉱山。採掘量の見込みが楽観的すぎます。この数字を前提にした投資は認めません」


 誰も声を荒らげない。


 アルトも怒らない。


 それでも彼が「出さない」と言えば、計画そのものが止まることがある。


 大陸中の商人たちが、畏敬とわずかな恐れを込めて彼を呼ぶ。


 《静かなる黄金公》。


 貴族の称号ではない。


 巨額の富を動かしながら、表舞台で声を張ることのない男についた呼び名だった。


 会議が一区切りついたところで、傍らに控えていたセドリックが次の書類を差し出した。


「アルト様。明日は午後2時から王立銀行との協議が入れられます」


「午前にして」


「午後の方が先方の都合はよいそうですが」


「午前で」


 セドリックは無表情のままアルトを見る。


「……何かございますか?」


「ある」


「どのような?」


 アルトは別の資料を手に取った。


「予定が」


「承知しました」


 セドリックは淡々と書き留め、次の確認へ移ろうとした。


「あと、西市場の小麦価格を調べて」


 その手が止まる。


「小麦、ですか?」


「産地価格、輸送費、在庫量。値上がりがどこで発生しているのか知りたい」


「新規投資でしょうか」


「まだ分からない」


 アルトは昼間の会話を思い出した。


 値段を上げても、黙ってパンを小さくするのは嫌だと言った少女。


「ちょっと気になっただけ」


 セドリックは数秒黙った。


「《陽だまり亭》ですか?」


「……どうして分かった?」


「アルト様が突然、食材の価格を気にされましたので」


「小麦は大陸経済の重要品目だよ」


「左様でございますね」


「その顔やめて」


「何もしておりません」


 セドリックは本当に何もしていない顔で、予定表を閉じた。


「それでは明日の王立銀行は午前へ。午後2時以降は空けておきます」


「助かる」


「毎日空ける必要がございますか?」


 アルトは少し考えた。


「リーナが、お待ちしてますって言ったから」


 セドリックが目を閉じた。


「……《静かなる黄金公》が聞いて呆れますね」


「うるさい」


 アルトは書類へ視線を戻した。


 その口元だけが、ほんの少し緩んでいた。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・☆☆☆☆☆からの評価をいただけると嬉しいです!

感想も大歓迎です。執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。