第25話 今日も暇なんですか?
「次」
アルトが書類を閉じた。
「東部銀行から融資枠の最終確認です」
「昨日の条件で通して」
「承知しました。次に北方商会との契約更新ですが」
「輸送量は?」
「前年比で18%増です」
「価格は据え置き。代わりに冬季の優先枠をもらって」
「承知しました」
セドリックが次の書類を置く。
朝から7件。
銀行、港湾、鉱山、商会、輸送路。
金貨が何万枚動こうが、アルトの判断は変わらない。
必要な数字を見て、問題を見つけ、決める。
「次」
「以上です」
アルトが顔を上げた。
「終わり?」
「はい」
壁の時計を見る。
午後1時37分。
「終わった」
「終わりましたね」
「行ってくる」
アルトが立ち上がる。
「どちらへ、とはお聞きしません」
「うん」
「馬車を用意しております」
「ありがとう」
「ただし」
セドリックが書類を揃えながら言った。
「午後4時から王立銀行の頭取との面会がございます」
「戻るよ」
「昨日のように時間を忘れないでください」
アルトの手が止まる。
「……昨日?」
「馬車の前で5分ほど動かなくなっておられました」
「見てたの?」
「護衛対象から目を離すわけにはまいりません」
「忘れて」
「職務上の記憶ですので」
「そう」
アルトは諦めた。
扉へ向かう。
「アルト様」
「何?」
「おめでとうございます」
足が止まった。
振り返る。
セドリックはもう書類を見ていた。
「……ありがとう」
アルトは少し笑って部屋を出た。
◇
午後2時。
《陽だまり亭》のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
リーナが振り返る。
アルトだった。
目が合う。
昨日までと同じ。
なのに。
恋人だ。
「……こんにちは」
「こんにちは」
アルトも少しだけぎこちない。
「いつもの席、空いてますよ」
「うん」
窓際へ向かう。
5年近く座り続けてきた席だった。
リーナはコーヒーを淹れる。
少し軽め。
砂糖なし。
ミルクなし。
もう聞かなくても作れる。
「どうぞ」
「ありがとう」
カップを置く。
それだけなのに、昨日までより距離が近い気がした。
リーナが離れようとする。
「あ」
アルトが呼び止めた。
「何ですか?」
「いや」
何か言いたかった。
でも、特に用事はない。
「……何でもない」
「変なの」
リーナが笑ってカウンターへ戻る。
アルトはコーヒーを飲んだ。
恋人になった。
昨日、確かにそうなった。
なのに何をすればいいのか、よく分からない。
毎日ここへ来る。
コーヒーを飲む。
リーナと話す。
それは今までと同じだ。
違うのは――。
「アルトさん」
「うん?」
「にやにやしてます」
「……してない」
「してます」
違うのは、これを全部、恋人としてしていることだった。
まずい。
また嬉しくなった。
◇
「アルト」
厨房からベルンが顔を出した。
「はい」
「昨日、うちの娘と付き合うことになったらしいな」
アルトがむせた。
「父さん!」
「何だ」
「お客さんいるから!」
「小声だろ」
「そういう問題じゃない!」
ベルンはアルトを見る。
「で?」
「……はい」
「そうか」
それだけ言って厨房へ戻ろうとする。
「ベルンさん」
「何だ?」
「その……」
何を言えばいい。
娘さんとお付き合いさせていただきます。
固すぎる。
大切にします。
それは当然だ。
結婚の挨拶でもない。
「……よろしくお願いします」
結局、それしか出なかった。
ベルンが笑う。
「今までと同じでいい」
「え?」
「お前はもう、とっくに店の一部みたいなもんだからな」
アルトが止まった。
リーナも少し目を見開く。
「ただし」
ベルンが続ける。
「リーナ泣かせたら出入り禁止だ」
「それは困ります」
「娘より先に店の心配か?」
「違います」
アルトは真顔になった。
「リーナを泣かせたくないです。でも、出入り禁止も困ります」
「欲張りだな」
「はい」
ベルンが笑った。
「じゃあ頑張れ」
厨房へ戻っていく。
リーナが呆れたようにアルトを見る。
「そこ、即答するんですね」
「《陽だまり亭》に来られなくなるのは困るよ」
「そんなに?」
「困る」
「私に会えなくなるから?」
アルトが止まった。
リーナがこちらを見ている。
言えばいい。
そうだよ。
簡単だ。
昨日、好きだと告白した。
もう恋人だ。
何も難しくない。
「……それもある」
「それも?」
「かなりある」
「かなり?」
「一番ある」
リーナが笑った。
言えた。
アルトはコーヒーを飲む。
まだ少し熱かった。
◇
昼の客足が落ち着いた。
リーナが向かいの椅子へ座る。
恋人になってから、初めて店で向かい合う。
「今日、仕事は?」
「してきたよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「何時から?」
「朝から」
「何件?」
「7件」
「……7件?」
「うん」
「何の?」
「銀行とか港とか」
「それを午前中に?」
「うん」
リーナがじっと見る。
「やっぱり忙しいじゃないですか」
「まあ」
「昨日も今日も、普通に来てますけど」
「来たかったから」
「4時からも仕事あります?」
アルトが止まった。
「……ある」
「あるんじゃないですか」
「でもまだ時間あるよ」
「何時から?」
「4時」
リーナが壁の時計を見る。
午後2時23分。
「1時間半くらいですね」
「十分ある」
「十分なんですか?」
「うん」
アルトにとっては十分だった。
むしろ1時間半もある。
リーナと同じ店にいられる。
コーヒーもある。
今日は蜂蜜りんごのタルトも残っているらしい。
完璧だった。
「アルトさん」
「何?」
「もしかして、付き合っても毎日来るんですか?」
「……駄目?」
「駄目とは言ってません」
「じゃあ来る」
「即答ですね」
「そこは迷わない」
リーナが笑った。
「本当に好きですね、この店」
「好きだよ」
「コーヒーが?」
「それも」
「タルト?」
「それも」
「じゃあ何が一番ですか?」
アルトは口を開いた。
止まった。
まただ。
分かっている。
答えは分かっている。
リーナ。
それだけだ。
銀行の融資なら数秒で決められる。
港の契約も迷わない。
なのに本人を前にすると、たった3文字が難しい。
「……アルトさん?」
「ちょっと待って」
「またですか?」
「分かってるんだけど」
「何が?」
「答え」
「じゃあ言ってください」
「今、頑張ってる」
「頑張らないと言えないんですか?」
「本人を前にすると難しいんだよ」
リーナが吹き出した。
「何ですか、それ」
アルトは少し目を逸らす。
「……リーナ」
言えた。
リーナの笑いが止まる。
「リーナが一番」
今度はリーナの頬が赤くなった。
アルトは思った。
やっぱり言ってよかった。
◇
午後3時半。
「アルト様」
店の入口から声がした。
セドリックだった。
「そろそろお時間です」
「もう?」
「もう、です」
アルトが時計を見る。
早い。
明らかに時計の進み方がおかしい。
さっきまで1時間半あったはずだ。
「行ってらっしゃい」
リーナが言った。
「……うん」
立ち上がる。
「明日は?」
「来るよ」
「仕事は?」
「ある」
「じゃあ仕事してください」
「してから来る」
リーナが笑う。
アルトは鞄を持った。
扉へ向かう。
「アルト」
振り返る。
昨日と同じ呼び方。
さんがない。
心臓が跳ねた。
「何?」
「忘れ物」
リーナがテーブルを指差す。
鞄とは別に置いていた書類だった。
「あ」
取りに戻る。
「しっかりしてください、《黄金公》」
「リーナのせいだよ」
「私?」
「……何でもない」
危ない。
また余計なことを言いそうになった。
書類を持つ。
「じゃあ、行ってきます」
自然に出た。
リーナが一瞬だけ目を丸くする。
それから笑った。
「行ってらっしゃい、アルト」
まただ。
アルトはその場で止まりかけた。
「アルト様」
「分かってる」
セドリックに急かされ、今度こそ店を出る。
◇
翌日。
午後2時を少し過ぎた頃。
いつものベルが鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
リーナが笑う。
アルトはいつもの窓際へ座った。
いつものコーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
リーナはすぐには離れなかった。
テーブルの横に立ったまま、アルトを見る。
「アルトさん」
「うん?」
「今日も暇なんですか?」
アルトは目を瞬いた。
その言葉を、何度言われただろう。
昔は本当に暇だと思われていた。
今は違う。
リーナは知っている。
自分が何をしている人間なのか。
どれだけの金を動かし、どれだけの人間が自分の判断を待っているのか。
全部ではなくても、もう十分に知っている。
そのうえで言っている。
「……暇じゃないよ」
「ですよね」
「今日も仕事してきた」
「何件?」
「5件」
「このあとも?」
「ある」
「忙しいですね」
「うん」
「じゃあ」
リーナが少し笑う。
「何しに来たんですか?」
アルトは止まった。
またこれだ。
答えは簡単なのに。
本人を前にすると難しい。
「……コーヒー」
「それだけ?」
「タルト」
「それだけ?」
リーナが楽しそうに待っている。
逃がしてくれそうにない。
アルトは観念した。
「……リーナにも会いたかった」
「はい」
「何で嬉しそうなの」
「恋人なので」
その言葉は、まだ効く。
アルトは少し顔を逸らした。
「アルトさん」
「何?」
「顔、赤いですよ」
「コーヒーが熱い」
「まだ飲んでませんけど」
「……そうだね」
リーナが笑った。
その笑顔を見て、アルトも笑う。
王都の商人たちは彼を《静かなる黄金公》と呼ぶ。
銀行も、港も、鉱山も、彼の一言で莫大な金が動く。
けれど午後2時になれば、彼は今日もこの店に来る。
好きな女の子が淹れたコーヒーを飲むために。
そして――。
「アルトさん」
「うん?」
「仕事まで時間あるなら、ゆっくりしていってください」
「いいの?」
「はい」
それだけで、また嬉しくなる。
どうやらこれは、恋人になっても変わらないらしい。
大陸一の大富豪は、今日も好きな女の子の店で暇人扱いされています。
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