第23話 欲しいものは、買えない
翌日の午後。
蜂蜜りんごの焼きタルトは、きれいに焼けた。
全部で8切れ。
リーナはその中から、りんごの並びが一番きれいなものを選び、別の保存箱へ入れた。
「それ、売らんのか?」
ベルンが聞いた。
「取っておくの」
「誰に?」
「……分かってるでしょ」
「俺か」
「違う」
「即答か」
ベルンが笑う。
リーナは保存箱に蓋をした。
◇
午後2時を少し過ぎた頃、入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
アルトだった。
いつもの窓際へ座る。
リーナはコーヒーを淹れてから、取っておいたタルトを皿に載せた。
「どうぞ」
アルトが皿を見る。
「これ、リーナが作った?」
「はい。今日は最初から最後まで私です」
「……全部?」
「全部ですけど」
「そっか」
アルトがフォークを入れた。
一口食べる。
「どうです?」
「美味しい」
「よかった」
もう一口。
さらにもう一口。
リーナはその様子を見ていた。
「……アルトさん」
「何?」
「すごく嬉しそうですね」
「うん」
「そんなに?」
アルトは少し迷ってから頷いた。
「リーナが作ったから」
「いつものタルトですよ?」
「分かってる」
「じゃあ何が違うんです?」
「俺にも分からない」
「何です、それ」
リーナが笑う。
「でも、作った甲斐ありました」
アルトのフォークが止まった。
「……何ですか?」
「いや」
「また嬉しそう」
「今のはかなり嬉しい」
「作った甲斐があったって言っただけですよ?」
「うん」
「変なの」
「自分でもそう思う」
アルトはコーヒーを飲んだ。
少しだけ耳が赤い。
昨日までなら、こんなところまで気づかなかったかもしれない。
大陸一の大富豪。
《静かなる黄金公》。
その正体を知ってからの方が、リーナはアルトのこういう顔を見るようになった気がした。
◇
しばらくして、入口のベルが鳴った。
入ってきたのはセドリックだった。
「アルト様」
アルトが顔を上げる。
「どうした?」
「西部港の件です」
「何かあった?」
「倉庫組合が、提示した条件では受けられないと」
アルトの雰囲気が変わった。
さっきまでタルトを食べて喜んでいた人と同じとは思えない。
「理由は?」
「使用料をあと2割」
「上げたい?」
「はい」
「断って」
「よろしいのですか?」
「代わりはある。北側の倉庫を3棟借りて、荷揚げの順番を変えた方が安い」
「輸送距離が延びます」
「その分は夜間便を1本増やせばいい。組合の条件を飲むより残る」
迷わない。
セドリックもすぐに頷いた。
「承知しました」
「あと、荷運びの人間の賃金は下げないで」
「はい」
「削るなら別のところから」
「手配いたします」
セドリックが一礼する。
「では」
「うん」
扉が閉まった。
アルトが残ったタルトへフォークを伸ばす。
「……何?」
リーナが見ていた。
「いえ」
「何か変だった?」
「さっきまで、タルトで喜んでたのに」
「それと仕事は別でしょう」
「そうですけど」
リーナは少し笑った。
「やっぱり格好いいですね、仕事してると」
フォークが止まった。
「……今、何て?」
「聞こえてたでしょう」
「聞こえたけど」
「じゃあ聞かないでください」
「もう1回聞きたい」
「嫌です」
「そうか……」
さっきまで西部港の話を即決していた男が、本気で残念そうな顔をする。
リーナは笑いながらカウンターへ戻った。
◇
夕方。
最後の客が帰った。
ベルンは厨房で片づけを始めている。
アルトはまだ窓際にいた。
「アルトさん」
「うん?」
「今日は仕事、大丈夫なんですか?」
「終わらせてきた」
「本当に?」
「今日はちゃんと終わらせたよ」
「じゃあ暇なんですね」
「久しぶりに言われた」
アルトが笑う。
リーナも笑って、その向かいへ座った。
「1つ聞いていいですか?」
「いいよ」
「アルトさんって」
少し考える。
「欲しいもの、何でも買えるんですか?」
「急だね」
「気になったので」
「物なら、大体」
「家も?」
「買える」
「馬車も?」
「買える」
「宝石も?」
「買えると思う」
「すごい」
「でも、そんなに面白くないよ」
「贅沢ですね」
「そうかも」
リーナは少し考えた。
「じゃあ、今一番欲しいものは?」
アルトが止まった。
「……一番?」
「はい」
「それ聞く?」
「聞きます」
アルトがコーヒーへ手を伸ばす。
空だった。
そのままカップを戻す。
「買えないものですか?」
「……うん」
「《黄金公》でも?」
「その呼び方はやめて」
「じゃあアルトさんでも」
「買えない」
「何ですか?」
アルトが黙った。
「アルトさん?」
「ちょっと待って」
「はい」
「……やっぱり待たなくていい」
「どっちです?」
「俺も分からない」
リーナは思わず笑った。
「さっき仕事ではすぐ決めてたのに」
「これは仕事じゃないから」
「そんなに難しいものなんですか?」
「難しい」
アルトが目を逸らす。
耳が少し赤くなっている。
「顔赤いですよ」
「見ないで」
「目の前にいるのに?」
「じゃあ少しだけ違うところ見てて」
「嫌です」
「リーナ」
困った声だった。
リーナは笑っていたが、胸は少しずつ速く鳴り始めていた。
何となく。
本当に何となくだけれど。
答えが分かってきた。
「……教えてください」
リーナが言った。
アルトが黙る。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「リーナに」
また止まった。
「はい」
「……好きになってほしい」
リーナの笑みが消えた。
アルトは目を合わせない。
「たぶん、それが一番欲しい」
「たぶん?」
「いや」
アルトが小さく息を吐いた。
「一番」
静かになった。
厨房から水の音だけが聞こえる。
「それって」
リーナは自分の手を見る。
「私のことが好きってことですか?」
「……うん」
「ちゃんと言ってください」
「今?」
「今です」
「リーナ、今日ちょっと厳しくない?」
「聞きたいんです」
アルトは困った顔をした。
西部港の倉庫をどうするかは、数秒で決めた人なのに。
今はリーナ1人を前にして、完全に困っている。
それでも、逃げなかった。
「好きだよ」
アルトが言った。
「リーナが好き」
今度は、リーナの顔が熱くなった。
「……はい」
「何でリーナまで赤くなるの」
「なりますよ」
「そっか」
「アルトさんのせいです」
「ごめん」
「謝らないでください」
「じゃあ、どうすればいい?」
「分かりません」
「俺も分からない」
2人とも黙った。
先に笑ったのはリーナだった。
「何ですか、これ」
「俺に聞かないで」
「告白した人でしょう」
「そうだけど」
アルトも少し笑った。
◇
「返事」
アルトが言った。
リーナの肩がわずかに動く。
「今じゃなくていいから」
「……いいんですか?」
「うん」
「一番欲しいものなんでしょう?」
「だから待つ」
アルトは立ち上がった。
「急かしても意味ないし」
「アルトさん」
「何?」
鞄を持つ。
「また明日」
いつものように言って、扉へ向かう。
リーナはその背中を見た。
このまま帰る。
明日になれば、また来る。
分かっている。
なのに。
「アルトさん」
呼び止めた。
振り返る。
「……もう少しだけ」
「え?」
「いてもいいですよ」
アルトが止まった。
「いいの?」
「はい」
「本当に?」
「嫌なら帰ってもいいですけど」
「いる」
即答だった。
アルトが戻ってくる。
さっきまで座っていた椅子へ座る。
明らかに嬉しそうだった。
「そんなに嬉しいですか?」
「うん」
「もう少しいてって言っただけですよ」
「それが嬉しい」
「大陸一のお金持ちなのに」
「関係ないよ」
アルトが笑う。
リーナも、つられて笑った。
欲しいものなら、大抵は買える人。
その人が今、自分のたった一言でこんなに嬉しそうにしている。
返事はまだしていない。
けれどリーナは、もう少しだけこの顔を見ていたいと思った。
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