第22話 私が知らなかったアルトさん
翌日。
午後2時を少し過ぎた頃、入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
リーナは顔を上げた。
アルトだった。
昨日とは違い、入口で立ち止まらない。
そのまま窓際へ向かう。
「今日は聞かないんですね」
「何を?」
「入ってもいいかって」
「もう聞かなくていいって言われたから」
「ちゃんと覚えてるんだ」
「大事なことだから」
リーナは棚からいつものカップを取った。
「コーヒーでいいですか?」
「うん」
「砂糖は?」
「いらない」
「今日は覚えてましたね」
「昨日は緊張してたんだよ」
あっさり認められた。
「アルトさんでも緊張するんですね」
「するよ」
「商人さんが何人いても平気そうなのに」
「相手による」
アルトがリーナを見る。
意味が分かってしまった。
「……コーヒー淹れますね」
「お願いします」
後ろを向く。
最近、この人は少しずるい。
◇
昼の忙しさが落ち着いた頃。
見慣れない客が入ってきた。
40代くらいの男だった。
上等な上着を着ている。
店内を見回し、窓際で止まった。
「これは……」
アルトも顔を上げる。
「どうも」
「黄金――」
「しっ」
アルトが人差し指を口元へ持っていった。
男の口が止まった。
「……アルト殿」
「こんにちは」
無理がある。
リーナはカウンターの中から見ていた。
男もこちらを見た。
「こちらが?」
「余計なこと言ったら取引やめますよ」
「何も言っておりません」
「今、言いかけたでしょう」
男が笑った。
アルトも笑っている。
本気で取引をやめるつもりではないらしい。
「コーヒーをお願いできますかな」
「はい」
リーナが注文を取る。
男はアルトの向かいへ座った。
「珍しい店ですな」
「気に入ってるんです」
「そのようで」
それだけで、男は何か納得したようだった。
◇
2人の話は仕事のことだった。
リーナは聞くつもりはなかったが、同じ店内なので自然と耳に入る。
「南部の鉱山ですが、売却の話が出ております」
「買いません」
アルトが即答した。
「まだ条件も申し上げておりませんが」
「去年、落盤事故があったところでしょう」
「ええ」
「補強が終わってない」
「しかし鉱脈は――」
「そこで働く人間が死ぬ前提の利益はいらないです」
男が黙る。
「先に坑道を直してください。それなら話は聞きます」
「相変わらずですな」
「何がです?」
「儲かる話には誰より早いのに、こういうところは妙に頑固だ」
「死人が増えたら鉱山も止まるでしょう」
「そういうことにしておきます」
男が笑った。
アルトはコーヒーを飲む。
リーナは手元の皿を拭きながら、その横顔を見た。
格好いいと思った。
以前、仕事をしている姿を初めて見たときとは少し違う。
今はもう、この人がどれほど大きな仕事をしているのか知っている。
その上で、やっぱり格好いいと思った。
◇
「では、また」
男が会計を済ませる。
扉を出る直前、リーナへ軽く頭を下げた。
「美味しいコーヒーでした」
「ありがとうございます」
「また寄らせていただきます」
「ぜひ」
扉が閉まった。
リーナはアルトを見る。
「有名な人ですか?」
「商会を3つ持ってる」
「十分すごい人じゃないですか」
「そうだね」
「その人に、さっき取引やめるって言ってました?」
「言ってないよ。余計なこと言ったらって」
「ほぼ言ってます」
アルトが笑った。
リーナも笑う。
昨日より、ずっと普通に話せていた。
「アルトさん」
「うん?」
「1つ聞いていいですか?」
「いいよ」
「どうして隠してたんですか?」
アルトの笑みが消えた。
リーナは布巾を畳む。
「昨日はびっくりしすぎて、それどころじゃなかったから」
「……うん」
「私が聞かなかったから?」
「それもある」
「それだけ?」
アルトはすぐには答えなかった。
「言ったら、変わると思ったから」
「何が?」
「リーナが」
リーナは目を瞬いた。
「私?」
「昨日、変わったでしょう」
『アルト様』
思い出す。
「……あれは」
「責めてないよ」
アルトは穏やかだった。
「普通の反応だと思う」
「でも、今日は戻ってます」
「うん」
「じゃあ、最初から言ってくれてもよかったのに」
「最初は、言う必要がなかったんだ」
「最初?」
アルトがカップを見る。
「ここに来始めた頃は、今ほどじゃなかったから」
「そうなんですか?」
「うん。金も今ほどなかったし、人に名前を知られてもなかった」
それなら分かる。
リーナが知っている最初のアルトは、雨に濡れて店へ入ってきた若い商人だ。
安いコーヒーを1杯頼んで、紙いっぱいに何かを書いていた。
「途中から?」
「途中から」
「どうして言わなかったんです?」
アルトは困ったように笑った。
「言いづらくなった」
「何で?」
「リーナ、俺が少し忙しいって分かっただけで『毎日来て大丈夫なんですか』って言うだろ」
「言いますね」
「仕事が大きいって知ったら?」
「……仕事してくださいって言うかも」
「でしょう?」
リーナは否定できなかった。
「それに」
アルトが続ける。
「金を持ってるって知られると、変わる人は多いから」
その声は、さっきまでより静かだった。
「急に丁寧になったり、今まで興味なかった人が近づいてきたり。俺じゃなくて、俺の持ってるものを見て話す人も増えた」
リーナは何も言わなかった。
「ここでは、それがなかった」
アルトが店内を見る。
小さな店。
18席。
昼を過ぎれば、少し静かになる。
「ベルンさんは人参食えって言うし」
「それは言いますね」
「リーナは暇人扱いするし」
「それは……」
「ちゃんと働いてます? って何回聞かれたかな」
「そんなに聞いてません」
「結構聞かれたよ」
アルトが笑った。
「でも、それが好きだった」
リーナは黙った。
「ここにいる間は、何を持ってるかとか、誰と取引してるかとか、そんなの関係なかったから」
アルトがリーナを見る。
「だから、言えなくなった」
目を逸らせなかった。
「……私が変わるのが嫌だった?」
「嫌だった」
即答だった。
胸が強く鳴った。
「昨日、アルト様って呼ばれたとき、やっぱり言わなきゃよかったって一瞬思った」
「そんなに嫌でした?」
「かなり」
アルトが苦笑する。
「距離ができたみたいだったから」
リーナはカウンターから出た。
空いている椅子を引く。
アルトの向かいへ座った。
「今は?」
「え?」
「今は、距離あります?」
アルトがリーナを見る。
テーブル1つ。
手を伸ばせば届く距離。
「……昨日よりは近い」
「昨日よりは?」
「欲張っていいなら、前より遠い気はまだ少しする」
リーナは考えた。
正直だ。
自分だって、完全に昨日までと同じではない。
知らなかったアルトを知った。
大陸一の大富豪で、大商人たちから頭を下げられて、たくさんの人の生活に関わる決断をしている。
でも、それは知らなかっただけだ。
「私」
リーナは言った。
「昨日、ちょっと怖かったんです」
アルトの表情が固くなる。
「アルトさんが怖いんじゃないですよ」
「うん」
「自分が何も知らなかったことが」
リーナは指先をテーブルへ置いた。
「私が普通に話して、暇そうとか言ってた人が、実は全然違うところにいる人だったから」
「……うん」
「でも今日、さっきの人と話してるの見て」
アルトが待つ。
「私が知らなかったアルトさんも、ちゃんとアルトさんだった」
アルトが目を見開いた。
「働く人が危ないから、儲かっても買わないって言ってたでしょう」
「あれは経営としても――」
「今は難しい話しなくていいです」
「はい」
リーナは少し笑った。
「格好よかったです」
アルトが止まった。
「……もう1回」
「言いません」
「何で?」
「前にも言いましたよね?」
「前ももう1回聞けなかった」
「じゃあ今回も我慢してください」
アルトは本気で残念そうだった。
それがおかしくて、リーナは笑った。
◇
「リーナ」
「はい?」
「俺からも聞いていい?」
「どうぞ」
「昨日、手をつないだこと」
心臓が跳ねた。
「……はい」
「嫌になった?」
「何でですか」
「俺が誰か知ったから」
リーナは自分の右手を見る。
「関係ないです」
答えはすぐに出た。
「昨日、手をつないだのは黄金公じゃないですから」
アルトが黙った。
「アルトさんです」
何も返ってこない。
リーナが顔を上げると、アルトは片手で口元を押さえていた。
「どうしたんですか?」
「ちょっと待って」
「何を?」
「今、かなり嬉しい」
リーナの頬も熱くなる。
「そんなに?」
「かなり」
「……そうですか」
「うん」
アルトが手を下ろした。
まだ少し耳が赤い。
大きな商会の主人を前にしても平然としていた人が、自分の一言でこうなる。
それが、少し嬉しかった。
◇
夕方。
アルトが帰る時間になった。
「また明日」
「はい」
扉を開ける。
「あ、アルトさん」
「何?」
「明日なんですけど」
「うん」
「蜂蜜りんごのタルト、焼きます」
アルトの顔が明るくなった。
「本当?」
「はい」
「取っておいてもらえる?」
リーナは少し考えるふりをした。
「どうしようかな」
「リーナ」
「冗談です」
笑ってから、言う。
「一番きれいに焼けたの、取っておきます」
アルトが黙った。
「……また?」
「嫌なら普通のにしますけど」
「絶対それがいい」
「じゃあ決まりです」
「ありがとう」
アルトが嬉しそうに笑う。
大陸一の大富豪。
《静かなる黄金公》。
そんな人が、明日のタルト1つでこんな顔をする。
「また明日」
「はい。また明日」
扉が閉まる。
リーナは窓越しに、アルトが歩いていくのを見た。
◇
夜。
店を閉めたあと、リーナは翌日の仕込みをしていた。
「りんご、そっち取って」
「はい」
ベルンへ籠を渡す。
「明日タルトか」
「うん」
「アルトの好物だな」
「知ってる」
「一番いいの取っとくのか?」
リーナの手が止まった。
「何で知ってるの?」
「聞こえてた」
「……父さん、厨房にいたでしょう」
「声は聞こえる」
リーナはりんごを1つ取った。
形を見る。
傷の少ない、きれいなものだった。
それを別の籠へ置く。
「それ使うのか?」
「明日ね」
「誰の?」
「分かってるくせに」
ベルンが笑った。
リーナは次のりんごを手に取った。
アルトが何者なのかは、もう知っている。
知らなかった頃には戻れない。
でも。
知ったからといって、全部が変わるわけでもなかった。
明日も来る。
いつもの席に座る。
いつものコーヒーを飲む。
そして自分は、たぶん入口のベルが鳴れば顔を上げる。
リーナはきれいなりんごをもう1つ選んだ。
明日のタルトは、少しだけ丁寧に作ろうと思った。




