第21話 いつもの席、空いてます
翌日の午後。
リーナは窓際のテーブルを拭いていた。
一度拭き終えた場所を、もう一度布巾でなぞる。
「そこ、汚れてたか?」
厨房からベルンが聞いた。
「別に」
「さっきも拭いてたぞ」
「暇だから」
「客いるけどな」
リーナは布巾を持ってカウンターへ戻った。
時計を見る。
午後1時48分。
まだ早い。
昨日までなら、そんなことは気にしなかった。
いや、最近は気にしていたかもしれない。
でも今日は違う。
『……明日、店に行ってもいい?』
返事をしなかった。
来ないでほしいわけではなかったのに、何も言えなかった。
「父さん」
「ん?」
「アルトさん、来ると思う?」
「知らん」
「そう」
「来てほしいのか?」
リーナは棚からカップを取った。
「これ、洗い残しある」
「ないぞ」
「あるの」
洗い場へ持っていく。
後ろでベルンが笑った気がした。
◇
2時を過ぎた。
入口のベルが鳴る。
リーナは反射的に顔を上げた。
「いらっしゃいませ!」
入ってきた老夫婦が驚いた。
「あら、元気ねえ」
「……すみません」
「いいのよ」
2人を席へ案内する。
注文を取っている間に、またベルが鳴った。
今度は若い女性が2人。
違う。
何が違うんだと自分で思う。
午後2時15分。
2時半。
3時。
窓際の席はずっと空いていた。
リーナはそこへ視線を向ける回数を、途中から数えるのをやめた。
◇
「今日、来ないのかな」
午後3時を少し回った頃。
口から出た。
「誰が?」
ベルンが聞く。
「……分かってるでしょ」
「さあ」
「父さん」
ベルンは焼いたパンを皿へ移している。
「昨日、返事しなかったんだろ?」
「うん」
「じゃあ、あいつも迷うんじゃないか」
それは考えていなかった。
アルトなら来ると思っていた。
毎日のように来ていたから。
でも昨日、アルトは初めて許可を求めた。
自分は答えなかった。
「来たら困るのか?」
ベルンが聞いた。
「……困らない」
「じゃあ待っとけ」
簡単に言って、厨房へ戻っていく。
リーナは窓際の席を見る。
待っている。
もう、それは認めるしかなかった。
◇
午後3時17分。
ベルが鳴った。
リーナが顔を上げる。
黒髪が見えた。
「……こんにちは」
アルトだった。
いつもの服。
いつもの声。
でも、入口から先へ進まない。
「こんにちは」
リーナも返した。
少し沈黙する。
「入ってもいい?」
アルトが聞いた。
胸の奥がきゅっとした。
そんなことを聞く人ではなかった。
5年近く。
勝手に来て、勝手に窓際へ座って、いつものコーヒーを飲んでいた。
それでよかった。
「……何でそこにいるんですか」
「え?」
「席、空いてますよ」
リーナは窓際を指した。
アルトがそちらを見る。
「座っていいの?」
「お客さんに立っててもらう店じゃありません」
「そっか」
アルトが歩き出す。
その顔が、少しだけ緩んだ。
リーナは棚からカップを取った。
いつものものだ。
「コーヒーでいいですか?」
「うん」
「いつもの?」
アルトがリーナを見る。
「……いつものがいい」
「分かりました」
豆を量る。
湯を注ぐ。
見慣れた作業なのに、今日はひどく緊張した。
カップを持って窓際へ向かう。
「お待たせしました」
「ありがとう」
置いてから、リーナは一瞬迷った。
「アルト……様」
アルトの手が止まった。
リーナも言ってから後悔した。
昨日、嫌だと言われたのに。
「ごめんなさい」
「いや」
「まだちょっと慣れなくて」
「うん」
アルトは笑わなかった。
「無理しなくていいよ」
その言い方が、余計に嫌だった。
リーナはカウンターへ戻った。
◇
それからのアルトは静かだった。
いつもより話しかけてこない。
リーナが忙しければ、もともと邪魔をする人ではない。
でも今日は客が少ない。
それなのに、窓の外を見たり、持ってきた書類を読んだりしている。
リーナも話しかけられなかった。
大陸一の大富豪。
昨日までは知らなかった。
知ってしまえば、何も変わっていないとは思えない。
あの服はいくらするのだろう。
仕事で動かしているお金はいくらなのだろう。
あの人と自分では、住んでいる世界がどれほど違うのだろう。
「リーナ」
呼ばれて顔を上げた。
「はい」
「砂糖もらえる?」
「え?」
アルトがカップを指した。
「今日、ちょっと苦くて」
「……アルトさん、砂糖入れないですよね?」
「あ」
アルトがカップを見る。
「そうだった」
「何年飲んでるんですか」
「ごめん。ちょっと考え事してた」
リーナは思わず笑った。
「変なの」
「うん」
アルトも笑う。
その瞬間だった。
昨日から自分の中に張っていたものが、少しだけ緩んだ。
大陸一の大富豪が、自分のいつものコーヒーを忘れて砂糖を頼んだ。
そんなことで安心するのも変だ。
でも、アルトも緊張しているのだと分かった。
◇
「アルトさん」
気づけば、そう呼んでいた。
アルトが顔を上げる。
リーナも気づいた。
「あ」
アルトは何も言わない。
ただ、少し嬉しそうだった。
「……今のは自然に出ました」
「うん」
「だから、そんな顔しないでください」
「どんな顔?」
「昨日も聞きました、それ」
アルトが笑った。
今度はリーナも笑った。
ベルンが厨房から顔を出す。
「アルト」
「はい?」
「人参食えるようになったか?」
「なってません」
「じゃあ何も変わらんな」
「ベルンさん、それ昨日も似たようなこと言ってません?」
「リーナにしか言ってない」
「何て?」
「言わない」
ベルンが引っ込む。
「気になる」
「気にしなくていいです」
リーナはそう言ってから、少し考えた。
「父さんが昨日言ったんです」
「何を?」
「ここじゃアルトだろ、って」
アルトが黙った。
「大陸一のお金持ちでも、《黄金公》でも」
リーナはカップを見る。
「ここに来て、いつものコーヒー飲んで、人参嫌いなら……アルトさんなのかなって」
アルトは何も言わなかった。
「何か言ってください」
「ごめん」
「何で謝るんですか」
「嬉しくて」
声が少し掠れていた。
リーナはアルトを見る。
冗談ではなかった。
「……そんなに?」
「そんなに」
アルトはカップを両手で持った。
「昨日、もうここに来られないかもしれないと思った」
「え?」
「リーナが嫌なら来ないつもりだった」
胸が痛んだ。
「何で」
「嫌がってるのに来たくないから」
「私、嫌だなんて言ってません」
「分かってる。でも、来ていいとも言ってもらえなかった」
「それは……」
何と言えばいいか分からなかったからだ。
アルトが嫌になったわけではない。
「今日も」
リーナが言う。
「はい?」
「今日も来るの、待ってました」
言ってしまった。
アルトが動かなくなった。
リーナは自分でも恥ずかしくなって、布巾を畳み直す。
「いつもの時間になっても来ないから」
「……うん」
「何回も入口見たし」
「うん」
「3時過ぎたら、今日は来ないのかなって」
「リーナ」
「だから」
もう言ったなら最後まで言ってしまおうと思った。
「来てくれて、よかったです」
アルトは完全に黙った。
「……何ですか」
「今、喋らない方がいい気がする」
「どうして?」
「たぶん、変なこと言う」
リーナは少し笑った。
「じゃあ黙っててください」
「うん」
アルトは本当に黙った。
でも、耳が赤かった。
◇
しばらくして、アルトが立ち上がった。
「今日は帰るよ」
「はい」
「コーヒー、ごちそうさま」
「ありがとうございました」
リーナは入口まで見送る。
アルトが扉に手をかける。
そこでリーナは思い出した。
「アルトさん」
「何?」
「昨日の質問」
アルトが振り返る。
「昨日?」
「今日、店に来てもいいかって聞いたでしょう」
「ああ」
リーナは少しだけ迷った。
「もう聞かなくていいです」
アルトの目がわずかに開く。
「明日も?」
「明日も」
「明後日も?」
「営業日なら」
「その先も?」
「何で確認増やすんですか」
「嬉しいから」
「もう」
リーナは笑った。
「好きに来てください」
「……うん」
アルトが扉を開ける。
「また明日」
「はい。また明日」
ベルが鳴った。
扉が閉まる。
リーナは窓際を見る。
空になったカップがある。
昨日までと同じ光景だった。
それを見て、今度はちゃんと安心できた。
◇
外へ出たアルトは、店から少し離れたところで立ち止まった。
『今日も来るの、待ってました』
頭から離れない。
『来てくれて、よかったです』
さらに離れない。
『もう聞かなくていいです』
アルトは片手で顔を覆った。
まずい。
かなり嬉しい。
昨日は、もう終わったかもしれないと思った。
5年近く通った場所に、自分の肩書きを持ち込んでしまった。
リーナまで他の人と同じように自分を見るようになったら、もう以前には戻れないと思っていた。
けれど。
『ここに来て、いつものコーヒー飲んで、人参嫌いなら……アルトさんなのかなって』
アルトは手を下ろした。
口元が勝手に緩む。
「アルト様」
声がして振り返る。
少し離れたところに、迎えの馬車とセドリックがいた。
「……何でいるの?」
「お迎えです」
「もう少し向こうで待っててくれてもよかったのに」
「十分離れております」
セドリックがアルトの顔を見る。
「何か良いことでも?」
「別に」
「そうですか」
「……明日も来ていいって」
セドリックが黙った。
「聞いてませんが」
「言いたかっただけ」
「左様でございますか」
アルトは馬車へ向かう。
数歩進んでから、もう一度《陽だまり亭》を振り返った。
窓際の席が見える。
明日も、そこへ行ける。
それだけで十分だった。
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