第20話 《静かなる黄金公》
翌日の午後2時。
入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
リーナは棚から、いつものカップを取った。
アルトが窓際へ向かう。
昨日と同じ人だ。
当たり前なのに、リーナはその右手を見てしまった。
市場でつないだ手。
気づいて、慌ててカップへ視線を戻す。
「リーナ?」
「はい?」
「どうしたの?」
「何でもないです」
「そう?」
「コーヒー淹れますね」
豆を量っていると、背中から声がした。
「昨日、楽しかった」
手が止まった。
振り返る。
「……塩を買いに行っただけですよ?」
「うん」
「それで楽しかったんですか?」
「楽しかったよ」
アルトが普通に答える。
リーナは少しだけ頬が熱くなった。
「変な人」
「そうかも」
「否定しないんですね」
「昨日のことなら、しない」
また右手が気になった。
「コーヒー、冷めないうちに飲んでください」
「まだ来てないよ」
「あ」
カップはリーナの手元にある。
アルトが笑った。
「……今のなしです」
「うん」
「忘れてください」
「それは無理かな」
「もう」
リーナはコーヒーを運んだ。
◇
その日のアルトは長居しなかった。
「もう行くんですか?」
「3時から仕事」
「昨日は買い物に付き合わせたのに」
「付き合いたくて行ったんだから気にしなくていいよ」
アルトが立ち上がる。
「明日は?」
リーナが聞いた。
アルトの動きが止まった。
「来るよ」
「いつもの時間?」
「うん」
「分かりました」
リーナは空いたカップを下げる。
「何ですか?」
「いや」
「また嬉しそうな顔してる」
「最近、明日のこと聞いてくれるから」
「あ」
「嬉しい」
隠す気もないらしい。
「……早く仕事行ってください」
「はい」
アルトが笑いながら扉へ向かう。
「また明日」
「はい。また明日」
ベルが鳴った。
リーナは空になったカップを見てから、洗い場へ持っていった。
◇
夕方。
「リーナ、悪い」
ベルンが厨房から声をかけた。
「何?」
「注文してた珈琲豆、取りに行ってくれ。今日までだった」
「忘れてたの?」
「……忘れてた」
「もう」
中央区の外れにある馴染みの問屋だった。
まだ夕方の混雑が始まる前だ。
「行ってきます」
「頼む」
リーナはエプロンを外して店を出た。
◇
豆を受け取った帰りだった。
中央大通りへ出たところで、妙に人が多いことに気づいた。
「何だろ」
大きな馬車が何台も道端に止まっている。
荷馬車ではない。
紋章の入った立派な馬車ばかりだった。
通り沿いにある王都中央商業会館の前には、普段見ないほど多くの人が集まっている。
「今日、《黄金公》が来てるらしいぞ」
すれ違った男の声が聞こえた。
リーナも名前くらいは知っている。
《静かなる黄金公》。
大陸一の大富豪。
以前、物流の問題が起きたときにも耳にした。
雲の上のような人だ。
リーナには関係がない。
そう思って通り過ぎようとした。
「リーナさん?」
呼ばれて振り返る。
セドリックだった。
「あ、こんにちは」
「こんにちは。お買い物ですか?」
「店の珈琲豆を取りに来たんです。セドリックさんは?」
「仕事です」
「アルトさんと?」
聞いた瞬間、セドリックがわずかに間を置いた。
「……はい」
「やっぱり一緒に仕事してるんですね」
「ええ」
「アルトさん、さっきまで店にいたんですよ」
「存じております」
「知ってるんですか?」
「本日の予定に入っておりますので」
「喫茶店まで予定なんだ」
リーナが笑う。
セドリックは笑わなかった。
「では、私はこれで」
「はい。お仕事頑張ってください」
「ありがとうございます」
セドリックは早々に会館へ戻っていった。
少し急いでいるようにも見えた。
◇
リーナも帰ろうとした。
そのとき、会館の前が騒がしくなった。
「出てこられるぞ」
「道を空けろ」
人の流れに押され、リーナは通りの端へ寄った。
大きな扉が開く。
最初に出てきたのは、何人もの商人だった。
顔を知っている者もいる。
王都でも有名な大商会の主人たちだ。
その後ろから、セドリックが出てきた。
さらにもう1人。
リーナは目を疑った。
「……アルトさん?」
濃紺の上着を着たアルトだった。
店にいるときとは雰囲気が違う。
何人もの商人に囲まれている。
けれど、それ自体にはもう驚かなかった。
仕事中のアルトを見たことがある。
かなり成功している人なのだろうとも思っている。
問題は、その次だった。
年配の商人がアルトへ深く頭を下げた。
「黄金公。本日はありがとうございました」
リーナの足が止まった。
別の男も頭を下げる。
「西部港の件、アルト様のご判断に従います」
黄金公。
アルト様。
同じ人に向けられている。
「……え?」
アルトが顔を上げた。
そして、リーナを見つけた。
表情が固まった。
「リーナ」
その呼び方で、間違いではないと分かった。
周囲の商人たちがこちらを見る。
アルトはすぐに階段を下りてきた。
「どうしてここに」
「珈琲豆を……」
リーナは抱えている袋を見る。
「取りに来て」
「そっか」
「アルトさん」
「うん」
聞きたいことは分かっているらしい。
アルトが珍しく目を逸らした。
「今、黄金公って」
「……うん」
「呼ばれてましたよね?」
「呼ばれてた」
「《静かなる黄金公》?」
「うん」
「同じ名前の人とかじゃなくて?」
「俺」
リーナは黙った。
アルトも黙っている。
「大陸一の大富豪っていう」
「……そう呼ばれてる」
リーナはアルトを見る。
頭から靴まで。
何も変わっていない。
「アルトさんが?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
「……ええ?」
思わず声が出た。
少し離れたところで、セドリックが目を閉じた。
◇
「ちょっと待ってください」
「うん」
「私、前にアルトさんに言いましたよね」
「何を?」
「《黄金公》みたいな大きな仕事、いつかできるといいですねって」
「言ったね」
「知ってたんですよね?」
「……うん」
「自分のことだって?」
「うん」
リーナは額を押さえた。
「何で黙ってたんですか」
「それは――」
「しかも成功したら、一番高いお菓子2つ買ってくださいって」
「約束した」
「もう成功してるじゃないですか!」
「そうなんだけど」
「何なんですか、もう」
怒っているのか、恥ずかしいのか、自分でも分からない。
アルトは困ったような顔をしている。
その顔はいつものアルトだった。
だから余計に混乱する。
そのときだった。
「アルト様」
後ろから商人に呼ばれた。
「馬車の準備が整いました」
「ああ」
アルトが返事をする。
リーナの中で、何かが引っかかった。
アルト様。
周りを見る。
自分だけだった。
この場で彼を「アルトさん」と呼んでいるのは。
「リーナ?」
「あ……」
急に、自分がどこに立っているのか分からなくなったような気がした。
「アルト、さ……」
言葉が止まる。
周囲には、立派な服を着た商人たち。
会館の職員。
豪華な馬車。
そして、その中心にいるアルト。
「……アルト様」
口から出た。
アルトの顔が変わった。
さっきまで困ったように笑っていた表情が消える。
「それ、やめて」
すぐに言った。
「え?」
「様はいらない」
「でも」
「昨日までと同じでいい」
昨日。
その言葉で、右手が熱くなった。
人混みでつないだ手。
あの人が、大陸一の大富豪だった。
「……ちょっと、今は無理です」
リーナは小さく言った。
アルトが黙った。
「ごめんなさい。帰ります」
「送るよ」
「大丈夫です」
「荷物もあるし」
「大丈夫です」
少し強く言ってしまった。
アルトの足が止まる。
リーナはすぐに後悔した。
「すみません」
「謝らなくていい」
「でも」
「分かった。送らない」
アルトは追ってこなかった。
それがありがたかった。
同時に、少しだけ寂しかった。
「リーナ」
後ろから呼ばれた。
振り返る。
アルトがこちらを見ている。
「……明日、店に行ってもいい?」
そんなことを聞かれたのは初めてだった。
毎日のように来ていた人なのに。
リーナは答えようとした。
けれど、何と言えばいいのか分からなかった。
来ないでほしいわけではない。
それだけは分かる。
「……ごめんなさい」
結局、それしか言えなかった。
「今、ちょっと分からなくて」
アルトは少しだけ目を伏せた。
「うん」
それ以上は聞かなかった。
「気をつけて帰って」
「……はい」
リーナは歩き出した。
今度は振り返らなかった。
◇
「ただいま」
「おう。遅かったな」
ベルンが厨房から顔を出した。
「豆あったか?」
「うん」
袋を置く。
「父さん」
「何だ?」
「アルト、大陸一のお金持ちだった」
ベルンが止まった。
「は?」
「《静かなる黄金公》」
「誰が?」
「アルト」
「……あの?」
「うん」
「毎日ここでコーヒー飲んでる?」
「うん」
「人参嫌いの?」
「そう」
ベルンが黙った。
「嘘だろ」
「本当」
「……マジか」
父の顔を見て、リーナは少しだけ息を吐いた。
驚いているのが自分だけではないことに、少し救われた。
「何で分かった?」
「会館の前で見た。みんなに《黄金公》って呼ばれてた」
「本人にも聞いたのか?」
「うん」
「認めた?」
「俺だって」
「そうか……」
ベルンは腕を組んだ。
リーナは珈琲豆の袋を棚へ片づける。
「私ね」
「ん?」
「アルト様って呼んじゃった」
「何で?」
あまりにも普通に返されて、リーナは振り返った。
「何でって……《黄金公》だよ? 大陸一のお金持ちなんだよ?」
「らしいな」
「周りの人も、みんなアルト様って呼んでた」
「でも、ここじゃアルトだろ」
ベルンはそう言って、豆の袋を棚の奥へ押し込んだ。
「5年近く通ってきて、急に別人になるわけでもないだろ」
リーナは何も言えなかった。
「明日から人参食えるようになるのか?」
「……ならないと思う」
「じゃあアルトだ」
「何、その決め方」
「知らん」
ベルンは厨房へ戻っていった。
リーナはその場に残った。
少しだけ、肩の力が抜けた。
窓際を見る。
いつもの席が空いている。
大陸一の大富豪。
《静かなる黄金公》。
そう言われても、そこに座っている姿を思い浮かべれば、出てくるのはいつものアルトだった。
軽めのコーヒーを飲んで、人参を残して、自分が作ったタルトを嬉しそうに食べる人。
昨日は、人混みで手をつないだ。
リーナは右手を見た。
それでも、何もかも今まで通りにできるかと聞かれたら、まだ分からない。
明日、店に来てもいいか。
アルトはそう聞いた。
返事をしなかった。
「……来るかな」
小さく呟く。
自分で言ってから、リーナは窓際の席を見た。
来てほしくないなら、そんなことを気にするはずがなかった。
◇
中央商業会館を出た馬車の中。
アルトは窓の外を見ていた。
向かいにセドリックが座っている。
しばらく誰も話さなかった。
「……申し訳ありません」
セドリックが言った。
「セドリックのせいじゃないよ」
「しかし」
「俺が外に出たところに、たまたまリーナがいただけだ」
アルトは背もたれに体を預けた。
「いつか話さないといけなかった」
「はい」
「分かってた」
馬車が曲がる。
アルトは右手を見た。
昨日は、この手の中にリーナの手があった。
人混みを抜けても、彼女はすぐには離そうとしなかった。
それが嬉しくて仕方なかった。
今日は同じ人から「アルト様」と呼ばれた。
「……やっぱり嫌だな」
「何がでしょう」
「様」
アルトは右手を握った。
「リーナにあれで呼ばれるの、嫌だ」
セドリックは何も言わなかった。
アルトも窓の外へ目を戻した。
明日、店へ行っていいとは言ってもらえなかった。
それでも。
行かないでほしいとも、言われなかった。
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